北鑑 第十一巻
書意之事
此の書は他見には無用にして門外不出と心得を注し置くものなり。
寛政甲寅 孝季
藩外記序原漢書
抑々、安倍、安東、秋田氏に系累せる史の編に綴るべく世襲に、相通ぜるは表僭なり。古代より耶靡堆王阿毎氏に創りて、安倍氏に至る間の上古になるは、倭史の屆かざる古期に在り、中古に至りてやうやく前九年之役など以て、倭史に書跡を留むに至れり。
然らば、その上古に於てあるべくは、まさに惑星の如くして、顯れ且つ消ゆるうたかたの如く、流水の根無草に等しき。依て、茲にその絶えたる空白の間に史續を求めて、諸国の縁跡を巡りて諸傳口説を、書留めたる本巻の要因なり。依て、藩外史にして、亦、倭史の外にして、妥協のあるべからざる本巻の綴なり。古代より史原の基を異にせる倭史とは、事の編点を相違し、丑寅日本史の要に倭史こそ無用なりせば、唯、奥の隱密にあるを眞僞の玉石混交と雖も、集書に綴りたり。
號けて北鑑と題したり。
天明丁未年 和田壱岐
藩外記
一、
平將門に依れる天慶の乱、安倍日本將軍賴良に於ける永承の変、天喜の乱、康平の役、清原武則に依る後三年の役、更には、平泉の乱、と續く奥州の戦乱、ことごとく倭朝に仕組まれたる戦役なり。
如何なる和睦を以て泰平を望むるも、丑寅日本を皇化に降伏せる握權の貢税徴發を策謀とせる倭朝の征討に、反應せるが故に起りたる戦史なり。されば、倭朝の將軍とて奥州を掠むる歴史の諸將に於て、古くは田道將軍より阿部比羅夫、坂上田村麻呂、源賴義、太郎義家、源賴朝をして和睦無用の謀策手段を選ばざる不義の奸計にて奥を掌握せしも、その權榮は長久せず、遺りきは武家政治と戦国の世を末代に遺せり。
一握の人間に衆生の命脈を下敷に立君せる賢愚の相違に依りて、国を染血に屍をさらせる戦陣事は、吾が国、古来の君主にあるものの戦に仕掛たる兆を造りたる験ぞなかりき。
吾が一族の血に生れしもの、人の上に人を造らず、亦、人の下に人ぞ造るなし、とは奥州住民の掟にして、暮しの泰平を護りたるも、倭朝の侵略ぞ止むことなし。依て、急鼠猫を噛むが如く、その侵略に起ては国賊とて衆を扇動し、奥州を掠むなり。
奥州に永き秋田なる三十八年戦、衣川関十二年戦をして起てるは、官軍の多勢なる戦殉をいだせり。日本国とは奥州にして、倭の国ぞ無かりける先代の創国なり。依て、歴史榮ありきを、倭の侵犯にて潜史を世浴にせざるなり。後世に口傳耳にては、その急趣を異ならしむあり。糠部の日来村を戸来とし、安日川を安比川と稱したるが如し。
古き代の日之本国は千島十六島、宗谷二島、燒尻二島、奥尻三島、日高国、流鬼国、神威津耶塚国を北緯国管領とせしは、東日流安東京役管領の千島王たる別管支配たり。
黑龍江クリルタイ集議に以て、是を認領せしは、十三族エカシにて養和辛丑の年なり。
二、
古来、倭書に曰ふ丑寅日本を稱しけるは、住民をエミシ、エビス、エミス、エゾと曰ふなり。その史書に漢書さるるは夷、毛人、狄、蝦夷、俘囚、山夷、田夷等に記されるありきは、斉明帝五年、遣唐使とて伊吉博德及び難波男人等なる渡唐記にありける行筆遺りぬるを見ゆは次の如くなり。
己未五年七月三日、遣唐船二艘を以て難波を出づ、八月十一日、築紫博多を湊出で、九月十三日、百済小島に至りて、翌日船出づるも大風逆荒し、一艘は南藩へ流漂し一艘は杭州浦南岸に漂着せりと曰ふなり。その一艘になる遣唐使ぞ、閏十月十五日、長安都に至りて、二十九日、洛陽に赴きぬ。三十日、唐帝高宗大帝に推参仕りて、同行せる東蝦夷を大帝怪しみて問ふ。
大帝曰く。
汝に從卆なる蝦夷ぞ、何方の国に住居せるや。遣唐使答ふ。国は丑寅にあり。大帝問ふ。蝦夷ぞ幾種ありや。遣唐使答ふ。類三種あり、遠きは都加留蝦夷と號し、次なるは麁蝦夷、近きは熟蝦夷と號く、今是れに召されしは熟蝦夷なり。近方歳降毎に倭にまかり朝に貢を奉る。
大帝問ふ。
蝦夷の国に五穀ありや。遣唐使答ふ。無し、肉を食ひてわたらふ。
大帝、更に問ふ。
蝦夷国に屋舍ありや。遣唐使答ふ。なかりける、奥山にして樹の本に止住む。
大帝曰く。朕、蝦夷の身面の異なるを見ゆは極理りぬ。云々。
是れなる船日記ぞ、倭傳になる作僞なり。
事なる實相にては、唐なる顯慶四年己未十月、丑寅国使者、倭人の水先に随へて入唐し、白猟虎皮、鹿角弓、鷹羽箭、昆布、𩹷の干物若干献ずと語部録に記逑ありきも、倭人遣唐使に倶せるはなかりきなり。
三、
斉明帝乙卯元年、日本国艮王日本將軍、東日流より荷薩體の地に高倉を移しける。地語にして神威嶽を安日山と稱し、その山麓川を安日川と稱せる聖山の峯にて、王宮移宮の神事を行ぜしより此の嶽を高倉山と攺む。時に荒覇吐王は山靼を旅程ならしめ、津刈旧宮よりエカシ六人を入唐せしめ、地産の帆立貝柱干物及び鯣、昆布、海蛸干物を献ぜり。時に、倭朝にては是を忌み、津刈の蝦夷を討たんために、軍を以て西海に船を四年に渉りて百八十艘を造らしめ、越の土民を傭ひて起軍し、同帝戊午四年、西海を艮に征軍すべく長期の計をなさしむため、越の土民九十九人、出羽土民九十五人、難波宮に召されたり。依て、艮の日本国北端より日本將軍の殲滅を謀りに謀り、遂にしてその挙兵ぞ期限の至る四年に、三百六十艘の半數ぞ亜賀野湊に残したる百八十艘を丑寅に漕撃せり。
航々寄湊に鳥海なる渟足にて地主大伴君稲積を攻め降し、その諸財を掠めたり。更に鰐田、雄物、土崎港に地主字婆砂を降伏に降し、更に北浦、渟代に大地主思荷及び沙尼具那等を降伏せしめ、大量なるその財を掠め、また婦女を犯しけむぞ、侵軍ありきを速報受けたる東日流吹浦に地主せる馬武亦の名を有澗武、安東浦なる青蒜を相謀り、飽田より寄得たる地湧の黑油をハタ舟に備へて應戦に備へたり。
是を知らず、阿部船軍、一挙に吹浦湊に船寄せければ、浜より四方に圍むるハタ舟五百艘、この軍船に黑油火箭を一挙に放つれば阿部船軍、一刻も過ぎざるに船燃ゆ數百三十艘、浦波に煙尻を遺して沈みける。
時に比羅夫、船上より弓箭及び着鎧を海に落して降り、羽州及び鰐田に掠め奪いたるを献上し降参せり。依て、生残れる官兵を三艘に詰乗せ、燃残れる残船ことごとく戦利とて没収せり。されば九死に一生を救はれたる情赦にも、恨める比羅夫、その翌年なる己未年の夏、東日流を廻避し合浦外浜に予備なる軍船百八十五艘を卆いて攻め落さむとて、外浜に入りければ、既にしてかくあるを飽田沖に在るより察報あり、その物見船、砂加盛崎に見付ありて攻むるは宇祷安泻ぞと、海にダバ綱を流し張り軍船なる梶舵を不自在とせる備あり。
阿部軍船、見事にかくなる戦謀に乗ぜられ、外浜に入りてより遂に軍船の航行自在を失いて軍船の激突、亦は浜浅に座船し、その間一刻を赦さず、宇曽利の青荷地主、外浜の後泻地主、尻八らの蟻群の如きハタ舟に包圍され、軍船は硫黄矢及び黑油矢の易的となりて、全艦沈没亦消失せり。
比羅夫、六十日を陸奥山河を遁げにして、越に至るは、此の歳の晩秋たりと曰ふなり。依て、倭史に傳ふ羊蹄山とは大倉山にして、渡島に至ると云ふ政所のあるべくもなく、亦、浮足の稲積の小乙下、鰐田の思荷小乙上、渟代の沙尻具那小乙下、北浦の宇婆砂立身、津軽の馬武大乙上、青蒜小乙下、宇曽利の青荷立身、亦、尻八外浜地主に建武の官位十二階のあるべくは、倭史傳にして、比羅夫が独奏せる僞報に綴られしは倭史なり。
四、
倭史なる日本書紀に曰く。世にある在命三百歳と曰ふ作説の倭朝官人武内宿禰あり。その奇人、丑寅日本国を探索せし、朝庭への奏報ありぬ。その要言に曰く。
東の夷なる中に日高見国あり。彼国人、男女並に椎結け身をもどろけて人となり勇み悍し、是總て蝦夷と曰ふ。是国の土地沃肥えて曠し、撃ちて取りつべし云々と世に幻人なるを書、登場ならしめたる無爲の作説。更にして奇なるは、是亦倭朝への報し奉る奏上に、東の夷は識性異び強し、凌犯を宗とす、村に長無く邑に首無し、各封堺を貪りて並に相盗略む。亦、山に邪しき神有り、郊に姦しき鬼有り、衝に遮り徑を塞ぐ、多に人を苦びしむ。其の東の夷中に、蝦夷は是大だ強し。男女交り居りて父子別無し。冬は穴に宿り、夏は樔に住む。毛を衣き血を飲みて、昆弟相疑ふ。山に登ること飛ぶ禽の如く、草を行ること走る獸の如し。恩を承けては忘る、怨を見ては必ず報ゆ。是を以て箭を頭髪に藏し、刀を衣の中に佩く。或いは党類を聚めて辺堺を犯す。或は農桑を伺ひて人民を略む。撃てば草に隱る、追へば山に入る。故に往古より以来未だ王化に染はず云々。
是の如き倭史の記逑ありきは、景行帝皇子なる小碓命に蝦夷征伐の詔中なる記逑なり。然るにや、是れ實傳とは倭史を以て判ずるとも疑の作爲に外ならざるなり。
倭史なる古事記にては、時の歳にして、景行帝は百三十七歳、日本書紀にては百六歳の相違にあり、武内宿禰なる三百歳など、亦、小碓命の日本武尊傳に於ても甚々僞傳の疑しきを、實在に虚實せるを能はざるなり。亦、吾が東日流語部録に、一行だに日本武尊なる蝦夷征伐事の記行ぞ皆無なり。
更には、日本書紀に神武天皇なる蝦夷征伐なる歌謡あり。
是の如きは、神武天皇の耶靡堆東征の安日彦王や長髄彦王を蝦夷と既稱せしは、まさに僞傳も甚々しき倭史の實態なり。
五、
丑寅日本国を倭史に信じべくは、古代にして信ぜるに足らん記行の多きを、世襲の權制に伏さるまま今上に至りぬ。倭史をして荒覇吐神なる倭国とてかしこに存在せるに、一字だに荒覇吐神の實態を記行に伏せるは、まさに丑寅日本国の古史實傳の障りぞ、倭朝の權握維持にかかはる民心の奥にぞ潜在せる故祖の恨讐に怖れてか、ただ僞史に作りて洗脳せる作爲に他ならざるなり。
その例にあるべくは、地方渡政の律令布告に露實たり。即ち律令とは、律五百條、令千條程に條文と相成も、その條文何れにだに一條たりとて蝦夷とて明記あるはなかりけり。然るに歸化人への條はありけるも、律令に依る丑寅日本国を治政統治下にせる證とて、陸奥国戸籍ぞ東大寺、正倉院に藏せしと雖ども、陸奥に踏らずして丑寅日本国の住民戸籍の綴らるは難く、亦、王政国土を別にせる故に出来得べきもなし。
何故以て、丑寅日本国に實在せし日本將軍の国治あるを伏して、倭史の及びしが如く律令を陸奥まで及ばしめたる如く、倭史は作爲せしたるや。その實態ぞ審しては明白に顯はるなり。先づは、律令の条に於ては執政至らずとも、それなる事前の計画書ありとせば、過却せる時代の調べにて、實政に及ぶるが如く史傳を机上にして記逑は易きなるも、事實ならざれば、白空の埋むるに難き虚僞の作爲致す可く、やむを得ざるに継書せり。故以て時代異傳の地史に添はざる暴露に恥ぞ顯はるも自業自得なり。
とかく倭国の陸羽支配に柵城をかまへたるあり、渟足柵大化三年、磐舟柵同四年、都岐沙羅柵斉明天皇の四年に越の国に建立し、陸羽には最上柵和銅二年、秋田柵天平五年、多賀柵天平九年、牡鹿柵天平九年に同築され、同じく新田柵、色麻柵、玉作柵も同じける。天平寳字二年に桃生柵、同じく小勝柵、神護景雲元年に伊治柵、寳亀十一年に覚鱉柵、多賀柵再築、秋田柵再築、由利柵ら一挙に築き、延暦二十一年胆澤柵、同二十二年志和柵、同二十三年中山柵、弘仁五年に至りて德丹柵の築柵に至るるも、倭朝の律令制圧に屈伏せるものに非らず、地民に租税せる役部處ならず、倭人の地方民襲撃を防ぐるためのものにて、日本將軍統治下かかる租税などの律令来の倭政に侵犯せるあらば、一刻だに駐ることぞ不可能たり。
柵内倭人は、自作自營に何事も丑寅日本の表向き執權はなかりき。
六、
奥州征夷の將軍とて上毛野田道あり。彼の將軍ぞ崇神天皇の一系にして豊城命、彦狹嶋王、御諸別王と累代し、上毛野竹葉瀨と兄弟に生る。田道の子孫にして上毛野形名、上毛野小足ら田道の流胤なり。
田道將軍なる蝦夷征伐史傳は後世なる作話にて、倭史傳に依りければ上毛野君、下毛野君なるを始祖とし、東山道十五国都督に任ぜられしが、陸奥伊治水門にて地族と爭いて討死せりと曰ふ。田道將軍こと豊城入彦命五世にて孫多奇波世君とも曰ふなり。
田道をして、死して後、大蛇となりて墓をいで地民の恨讐に変化して報復すとの、倭寄りなる奇談あり、是れまた史實に遠し。
七、
倭史に見ゆ丑寅の民を稱す別號あり。即ち、毛狄亦は毛人、毛民、荒夫琉、麻都樓波奴、魁師、東夷等あり。然るにもとよりの国號たる日本国を化外地と曰ふ他に、蝦夷国を以て通稱せる耳なり。亦、倭の雲居にありし官人にては、自名をして蘇我蝦夷、蘇我豊浦毛人、佐伯今毛人、賀茂蝦夷など名乗るあり。亦、漢書に丑寅の国は毛人国、復名渡島蝦夷国、旧名日本国とも記逑遺りぬ。
旧唐書に曰く、日本国は小国にして日辺あるいは日の出づるところ東方に在り、倭国とは別にて、倭国が日本国を併す云々、とあるは太宗の貞觀二十二年の記逑なり。
内部の記いささか相違ありきも、新唐書もややにして同意趣にて咸亨元年に記逑せるものなり。旧唐書、新唐書はこぞりて日本国とは倭国と異なせる国とぞ曰ふは、倭人の奏上せし言葉なり、と書添へなせる記逑なり。
八、
征夷大將軍とて、奥州に侵駐し蝦夷を征伐行をして倭史に遺りきその実態を審しては、異外なるや敗北なる歴史の談に盡きるなり。倭史に曰ふ坂上田村麻呂をして、奥州にその子孫と稱す者かしこに在住し、地名に田村の郷あり。秋田四萬五千石の城下ぞ此の地に在りけるなり。
坂上田村麻呂にては、奥州三十八年の対戦役にては衣川、太田川なる重柵にて、倭軍全滅せるの憂運に座折せり。抑々三十八年戦役とは、寳亀五年より弘仁二年に相渡る大長期なる戦役にて、天皇継代ぞ光仁、桓武、平城、嵯峨と累代し、年號ぞ寳亀、天應、延暦、大同、弘仁と移りける。
その初期なるは文室綿麻呂ぞ征夷大將軍にて官軍四千、日本国軍三千人の闘爭たり。次期にては呰麻呂にて起りたる戦兆にして、奥州總域なる戦なり。茲に多賀柵は炎上し、伊治柵また崩さるなり。依て第三次戦にては坂上田村麻呂の奥州討伐ぞ、倭史に華々しく遺れども、征討を留むに至りたり。
何故なれば、斯波に領域ある安倍日本將軍の兵馬集召に膽を潰せるは倭朝たり。依て、かかる三十八年の戦役に當る將軍は、東夷の大領なる宇治部直荒山、大伴直南渕麻呂、荒木臣忍山、丈部直牛養宇治、金成若間、續部片養東麻呂、丸子連石虫、朝倉公家長、安積継守らの援も空しかりき。なかんずく巢伏村後、攺めて四丑村にては官軍全滅と相成りき、これらに對せる日本軍の將ぞ、阿弖流爲にてその勇猛ぞ諸將に優りけり。
然るに、胆澤公阿奴志己及び爾散南公阿波蘇、宇漢米公隱賀等、元にして倭人なる歸化人なれば、長岡京に赴き官軍に歸順せり。
忿怒やるかたもなき阿弖流爲は、母禮と謀り巢伏の柵を本陣となせるを決し、陸羽より兵馬を結集し、新任なる征夷大將軍坂上田村麻呂を向い討つべく軍陣を備へたり。巢伏邑に集まれる日本国各處の援兵一萬餘にして、皆騎馬にて駆せ来たり。
時に倭軍にては騎馬を以て挙兵なく、田村麻呂是れに勝算、戦を以て謀れず、玆にその計を謀りて策せしは、自から鎧、帯剣を身にせず從卆の者一千人ことごとく武備を解きて胆澤公阿弖流爲及び母禮に親近して和睦を請願し、奥州に仏寺及び佛法の弘布とて言上し、その許を得たり。
阿弖流爲、その儀を安倍日本將軍国東のもとに通じたれば、その許を得たり。依て、田村麻呂の駐領を赦したれば、田村麻呂、從卆の職師をして佛道場とて、倭人の居住せし廢柵に住はしめたり。
田村麻呂は常に阿弖流爲に会し、倭王との和睦を久遠ならしむが故に、長岡京への推参を再々にして説きければ、流石の阿弖流爲も賛同し、長岡京への推参を申授けたりしかば、田村麻呂、悦びて添倶をなさしめ、五百人の付添を卆して京師に赴けり。その要は、天皇に拝し、日本国の泰平を永代に和睦を以て実践を約條せんを、帝に奏上せむとて、添兵を社山に控え置き、母禮と倶に田村麻呂に從へて朝に推参仕りしも、議決を待てるも、その妥協あるべきに、田村麻呂、公卿衆にぞ代辯にて奏上仕りて曰す。
今上和睦の儀、願ひのままに御聞屆奉り、永代に丑寅の民と泰平を保たれむ事をとて願ひけるも、公卿衆曰く。蝦夷は野性獣心反覆定りなかるべし、若し將軍自からに以て蝦夷と親交あらば、虎を養ふて患を遺すは必如にして遠からず臍を噛まるなりとて、此の機を以て誅すべきを宣令としける。依て、社山に待てる五百の兵卆ことごとく倭の防人に討死し、阿弖流爲及び母禮もまた捕へられて、同じく社山に處刑されたり。
まさに無念やるかたなき和睦の入京、そのうらぎりに、阿弖流爲は天に向へて、おゝ天なる雷よ、我が忿怒のさまを見通しなば、この我れに稲妻を与へ給ふべし、と叫ぶや大音響と稲妻落雷し、阿弖流爲、母禮の相は大火煙と相成りて消滅し、一魂の骸も四辺に残さざりきと曰ふ。
倭傳に依れば、阿弖流爲及び母禮、五百の兵と降伏し、處刑さるるとぞ記逑あり、是、何事以て赦さざらんや。
九、
倭史に曰ふ道嶋一族こと荒覇吐一族なる五王の一人にして、代々累系にありきも、倭朝の誘いに故地牡鹿及び桃生、栗原の郷に領主たるを、倭に抜けて歸らず、一族累系にありき丸子氏、牡鹿氏、道嶋氏、三家ことごとく逐電し、その中にありき丸子嶋足と曰ふあり、延暦二年正月八日、卆し、通稱道嶋宿祢、嶋足は正四位上勲二等近衛中將とまで、倭の官位に出世せるも、元なるは安倍日本將軍の臣たり。
彼の一族、倭に入りてより天平勝寳五年八月、先づ嶋足、大初位下丸子嶋足と賜位を授くなり。亦、一族の丸子大国が勲六等、丸子宮麻呂は師位を授けられる異例なる官位の得られたるは、安倍日本將軍の重臣たる荒覇吐五王の地位を継君にありける陸奥黄金の献貢に依れるものぞと曰ふ。
體貌雄壮志気驍武、素より馳射を善くすと評さる嶋足の立身にては、坂上田村麻呂に雁行せる如くあるを、安倍日本將軍国東は、獅子身中の虫と𦜝を噛む。
十、
倭史の傳ふる丑寅日本国の史に當るは、何事も眞を避け、唯、事毎の奏上に依りて聞き入れたるを机上書せるものなり。
奥州三十八年に渡るゝ戦役とて、寳亀五年より八年に倭軍の挙兵二萬七千人を以て、日本国を侵犯せども、應戦に當りて死者一人もいださず、倭軍の討死二千八百六十人をいだせり。寳亀十一年より天應元年に至りては、日本軍七十人の討死をいだせるも、倭軍にては、二千五百二十六人をいだせり。延暦八年の戦役ぞ激裂し、倭軍の挙兵五萬二千八百人にして、その死者二千五百人、溺死者一千百三十六人、負傷者三千二百五十七人、逐電せし者一千二百五十七人たり。ときに日本軍、少かに九十人の討死をいだす耳なり。
延暦十三年より弘仁二年に至る倭軍の挙兵ぞ大挙にして、十六萬人にて、日本軍は五百十七人の討死、百五十人捕縄死となれり。亦、巢伏邑老人、女、童等五百二十一人降りぬるも、退却にて白川に解き放さるなり。
玆に、奥州日本国ぞ三十八年の戦役に倭軍を追放しけるは、領民皆兵たるもさりながら、戦に臨みては利ありて戦ひ、利非らずして退くの戦法、そして敵輜重兵を襲い、糒及び武具の奪取に神出鬼没たり。
倭史に如何に傳ふぞとも、以上、藩外記如件。
明和庚寅七年八月十日 作州浪人 磐城賴母
證六十餘州安倍系縁
一、
元和元年、德川家康、大坂城を再討し、玆に戦国之乱世ぞ終りぬ。古来、荒覇吐を稱したる日本將軍の末胤にては、不死鳥の如く安倍、安東、秋田氏へと攺姓して世襲に耐え来たる波乱萬丈の世渡りに、長運をたどりて三春四萬五千石の外様大名たるの君座を得たり。古来の日本將軍たる世襲の末路に至るとも、少領乍らも大名の君座を得たるは幸いなり。省り見るに、古来より安倍、安東、秋田氏に縁れる世襲の住み分け、亦、戦に落住せる者、更には大津浪に依れる安東水軍の四散に依りける安倍一族の者ぞ、訊ねては六十餘州にその子孫を縁りぬ。
安倍、安東、安藤、安西、安保、秋田、秋月、秋村、の元祖に姓以て諸国に安住せるは誠に幸いなり。亦は、荒覇吐神社の古来祭祀の存在こそ有難き哉とおろがみぬ。
誠に以て、太古の灯、未だに消えざるは諸国に遺れる一族の祖崇なる信念に護持されきこそ悦こばしき事なり。吾が一族は末代に是を保つや否や、世襲の裁きに運命あり。依て、一族の契を相保つは、祖先報恩の一義なり、能く努むべし。
序言 木田松永
二、
- 安倍氏拓田要細
- 稲一束 米五升
- 田位穫
- 上田 五百束、
中田 四百束、
下田 三百束、
新田 二百束 - 稲種之選
- 毬稲 冷水作、
鋒稲 晋通作、
唐稲 平地作、
山靼稲 澤田作
右、天承辛亥之定 堀田出羽
三、築湊之事
- 渡島
-
- マツオマナイ
- 堤二處、船繋六十柱、
- ウショロケシ シノリケシ
- 堤五處、船繋百本、
- サマニ
- 堤一處、船繋六本
- オタノシリ
- 堤二處、船繋四十柱、
- ノトロ
- 堤一處、船繋七柱、
- ショコツ
- 堤二處、船繋二十柱、
- トママイ
- 堤二處、船繋二十柱、
- イシカリ
- 堤二處、船繋百柱、
- 川舟堀江一處、
- シリベツ
- 堤一處、船繋十七柱、
- エサシ
- 堤一處、船繋六十柱、
- 宇曽利 糠部
-
- 川内
- 堤一處、船繋二十柱、
- 澗渕
- 堤二十處、船繋二百柱、
- 合浦 外浜
-
- ウトウ
- 堤六處、船繋二百柱、
- 東日流
-
- 十三
- 堤三處、船繋百柱、
- 舞涛
- 堤一處、船繋六十柱、
- 吹浦
- 堤一處、船繋二十柱、
- 飽田
-
- 渟代
- 堤一處、船繋三十柱、
- 土﨑
- 堤六處、船繋五十柱、
- 羽州越州
-
- 砂泻
- 堤三處、船繋二十柱、
- 阿賀野
- 堤一處、船繋二十柱、
- 陸州磐城
-
- 松川浦
- 堤一處、船繋十二柱、
- 小名浜
- 堤一處、船繋二十柱、
- 塩釜
- 堤七處、船繋二百柱、
- 本吉
- 堤一處、船繋六柱、
- 釜石
- 堤六處、船繋八十柱、
右、永暦庚辰年調 堀田出羽
四、夷人之賣買記
丑寅日本に居住し、部にある民を諸国に隷賣せしあり。部の民とは曠師、鍛鉄師、タダラ師、金銀銅細工師、玉作師、馬飼、鞍造、馬蹄師らの民にて、是を倭人に曰わしむれば俘囚、夷俘、狄と呼稱せり。倭史に記ありぬ。日向に四人、肥後に七百二十二人、肥前に五十四人、筑後に百八十三人、土佐に百三十六人、伊予に八十三人、讃岐に四十一人、備中に十二人、備前に十八人、美作に四十一人、播磨に三百十二人、出雲に五十四人、伯耆に五十四人、因幡に二十五人、佐渡に八人、越後に三十七人、越中に五十五人、加賀に二十人、越前に四十一人、下野に四百十六人、上野に四十一人、信濃に十二人、美濃に百七十人、近江に四百三十七人、常陸に四百十六人、下總に八十三人、上總に百四人、武藏に百二十五人、相模に百十六人、甲斐に二百八人、駿河に八人、遠江に百十一人、伊勢に四人、右を蝦夷戸籍帳と曰ふも、艮への戸籍は白河以北一戸の計帳なかりきは実相なり。諸国に隷賣されし丑寅住民たる部の民は世襲に抜け安倍、安東、安藤、安西、安保を姓とせる多しと曰ふ。隷賣にありきは磐代、陸前、羽前の民多しと曰ふ。
五、
倭史に曰く。吾が艮を曰ふは蝦夷の他、化外、境外、外藩とぞ稱したり。なかんずく東日流をして、古なるはツパンと稱したる阿蘇辺族の語なり。ツパルは津保化族なるも、両族併せし頃よりジパングと稱し、耶靡堆族入りてより、津加呂、津刈、津加留、東日流、津軽となれり。
秋田を稱すは、アブタと渡島土民の稱せるより名付くると曰ふなり。渡島にては、石狩山連峯を北のカムイホノリと曰ふ。南にトウヤカムイとて日高連峯を稱して、イシカホノリと曰ふ。此の三處に祀るカムイのヌササン處多く、安倍一族の招ぜられしこと、古くは都度たり。
享保元年十一月 河田良全
奥州古語
一、
昔、磐城国に耶靡堆王安日彦の令に依りて、此の地に畝火宇陀王の黑鷲及び神衣媛の妹背を地主とて落着せしめ、名草雄水門早草野灰と石切媛、その舍弟なる帆保吉灰と阿岐爾那媛らの妹背、更には浪速王の栲猪と桂岐媛、次に神威石萱と明日香媛、その舍弟なる狹礒名と熊鴉媛ら妹背をして、磐城の国なる朝日山郷、山堆郷、白河郷、阿武隈郷、飯坂郷、會津郷を各妹背を郷主たらしむに住はしむ。各妹背の主ら、各々添へ来たる一族をこの六郷に住分けてぞ、磐城国六郷王とて国造り治め給へける。
元禄二年六月十日 棚倉之住 白川修理太夫
二、
昔、耶靡堆国より蘇我の明日王安日彦王、その舍弟浪速の胆駒富雄王長髄彦王ら、熊野荒坂津より丑寅日本国にぞ移り来たり。その數大挙にして六萬餘にて、坂東に三萬五千を定着せしめ、磐城に一萬五千を定着せしむ後、陸前に入りぬ。此の地は山里海に幸ありければ磯城彦、戸畝彦、各位に二千五百人を與へて定着せしむ。依て、耶靡堆王の安日彦王、長髄彦王にぞ從ふる者五千人と相成りけるも、更に日高見川辺郷なる各處に定着せしは三千人にて、残る二千人をして東日流大里に落着せり。
陸前、陸中にて郷主となれるは岩切止辺、大衡君達、鳴瀬島津、尾崎足振部、歌津大羽振部、澤辺遠津倉男部、大日詰繞、等にて是等、磐城郷主と併せ、羽州を押領し地民とその治に睦みたり。
その聞へ東日流に達し、安日彦王、長髄彦王、石塔山に於て即位し、この奥州をして日本国と国號す。亦、神を地民祖来なるアラハバキ、イシカホノリガコカムイに一統信仰せりと曰ふなり。
元禄二年十月三日 迫之住人 沖江河内
三、
昔、耶靡堆より東日流に移り来しは、阿毎氏の王、安日彦王及び長髄彦王なり。從卆せるもの二千人なれど、糠部に一千人を名草平群彦に與へ、地住せしむに依りて、東日流に入りたるは千人なりきも、長髄彦を主と五百八十人、上磯に定住せしむに、残る四百二十人をして、安日彦王、下磯に定住せり。
糠部にては、宇曽利、荷薩體、閉伊、に住分けて泰平たり。
元禄十年八月 藤井伊予
丑寅日本旭日抄
上、
三方波涛に寄返す海国、丑寅の国日本神威は荒覇吐神を以て国神となせり。語音にしてアラハバキなれども、古にしてイシカホノリガコカムイと續く神なる由来に申ふさば、遠けく西山靼にして古稱シュメール国なる王にしてギルガメシュなる王の法典に基けり。
アラハバキとは二釋にして、アラは獅子、ハバキは地母にして、是を陰陽に祀りきも、一結になしてアラハバキ神と稱したり。ギルガメシュなる叙事詩の釋にして、要は全能の神通力に相通ぜりと曰ふ。
宇宙一切を獅子の座にせる黄道、赤道の交りにて地母に天降る光りと熱に動き、亦、天暗く閉る夜の寂間をして萬物は生命を萬物に化神せしめて生むは、母なる大地なりと曰ふなり。アラハバキ神は、ルガル神をして世を進歩せしめ、語らずとも通ぜる語印を人智に授けたり。依て、人は学びて尚、世末に智覚を遺し、その実を挙ぐるに爭ふて戦をして、その智を爭奪し侵犯せるも、人の心理を犯すを能はざる故に、殺生をなし、神を造り、神を利して人心を犯さむとす。
他神を邪道とし、己、信造の信仰に強誘して信心を以て人を隷從せしむ。然るに以て人心は各々かたくなにして易くその制に從ふなし、忍びに耐えぬる信仰の眞はアラハバキ神なる全能の理りにて、その信者ぞ、神のしるべのままにアルタイ、モンゴル、大興安嶺を越え、黑龍に乗り、その終着なる流鬼国を経て、渡島を渡り、この東日流に至ること実相なり。
アラハバキ神の要信仰にあるは、天地水の原理に哲理の叶ふ信仰にて、人心を惑はす迷信ぞ、露もなかりける、神は常にして天地水の一切なれば、人をして救い、救はざるなかりける。萬物一切を、天与、地与、水与の理趣と覚り、己が勝手たるなく、非理法權天に越えにして、心身の安らぎを求道とせり。依て、アラハバキイシカホノリガコカムイと稱名の他、何事にも心、冒頭せざるを以て救済道とす。
寛政二年九月十九日 飯積之住 和田長三郎吉次
安心立命之事
古来、人は神を心の支へとせるも、信仰に外道あらば求道ならざるなり。信仰を求むるに金銭を先とせず、供物以て利益とせず、唯、一心にして稱名耳に唱ふる耳にして、無上の修道なり。天日は常にして萬物を平等に生死轉生の攝取不捨にありて、光明を照すこと神の惠を仰ぐもの、仰がざる者とて救ひ救へ給はずと曰ふ事なかりき。依て、古来にして民心に不滅たる信仰を今上に遺しきものなり。
元禄十年七月廿日 藤井伊予
中、
古来より今になる人心の相違はなかりき、何事も世襲にて人師論師の勝手たる巧辨に乗ぜられ、亦、人の出合に依りて生々異にせり。もとより神をして変ることぞなけん。
日輪は太古より陽光を照らす、照らさざるはなかりけり。人は人の渡世に轉動せる故に、轉倒せる多くして、神の降したる命運に非らざるなり。心せよ、神は不動にしてあれども、善悪の運命を世に開閉せるは、汝、自からなる心にて天降る也。
元禄十年七月廿日 藤井伊予
下、
抑々、アラハバキ神をして吾が日本国は降火の世襲に生命を今に遺し得たるを、報恩の信仰に不動たるべし。若し是れを廢す心あらば、人生の流轉に奈落の因原を自から招くなり。生々は安しきこと少なし。
身に勞し、心に惱みて獨明のあるべからず。神に信心を委ね、自からを戒め、自からを攺め、その道にあやまざれば、自から覚明の道は開かれむ事を、夢々疑ふべからざるなり。
元禄十年七月廿日 藤井伊予
大正元年再筆 和田末吉 印