北鑑 第十二巻

注言一句
此の書は他見無用、門外不出と心得ふべし。亦、一書も失巻あるべからず。

孝季

一、

此の国に太古より傳はりき歴史の事は、今に遺るゝ古事記、日本書紀とは上史の編に雲泥の相違ありぬ。彼の史に曰く神代とは世にあるまずく、まして天孫の降臨のあるべくもなし。

萬物生々の中に、人間をして世を創り、神なる子孫のあるべくはなかりき。總ての創は宇宙の創誕に依りて成れりと曰ふ。冷々とせる無辺の暗に、一点の光熱起り一瞬にして暗を燒く大爆裂ぞ、無辺に擴がり、無物質なる宇宙にその燒残に遺る物質塵ぞ漂ふたり。時久しく過ぎしかた、集縮して諸々に銀河の星雲顯はれ、星の誕生相成りて、宇宙は成れり。光熱に輝く恒星、星を集團せしむ大銀河に星の生死あり。星の死は爆裂して塵となり、その塵より新星、幾多に生ると曰ふなり。

太古より人は宇宙に神秘を求めて、その運行に日輪の赤道及び黄道を知識し、暦を造り、時を知れり。その時至りては、日輪とて死ありと推測し、既にして星の死ぬるさま、天の年間にそのさまを記し置けるなり。

安倍一族は古来より宇宙の天文に学びて、◎方鑑秘𥨶◎金鳥玉兎集◎伯道天文暦◎河洛◎經左氏春秋◎史記考源通書◎宗鏡◎五要奇書◎五種秘𥨶◎三才發秘◎協記弁法◎通德類情◎簠簋類情内傳ら他◎方迪類書暦目義解◎方位窮源らにて作暦し、宇宙の天文を今に傳ふものなり。

安倍晴明もまた入唐し、城刑山のふもと、伯道仙人に学びたる一人なりと曰ふなり。吾が丑寅日本国にては、語部暦にて、その根本は古代オリエントの暦法なり。

二、

坂東の富士山に相の似たるアララト山にノアの箱船が漂着せし傳説、モーゼがシナイ山に、アブラハム神より十戒の石版を賜りし傳説、オリュンポス山には十二神が常住したと曰ふ傳説、ゴータマが大雪仙にて羅刹より悟導を、捨身を覚悟に傳教を授かりしなどの傳説も、人は求めてその理りに信仰し、かゝる神話や傳説も求道の途行とて、信仰に放棄せず、今に猶以て傳ふなり。

人生色々生涯あり、己れを以て他をおとしむる造悪の心は限りなく潜在す、人師論師、官人、武家、農工商人に至るまで、己を大事と衆の睦を欠くこと、日常茶飯事に潜因する我慾因なり。

抑々、丑寅日本史は諸々の去事を記せしものにして、大王専暦に専念の非らざる處に、倭史と異なりぬ。その故は、古きは語部録にありて基本とせる故なり。日本大王の肇国は、倭史の及ばざる古期に在り、神代など神話を史頭にせず、唯、歴史の過却のまゝに記し置けるなり。文字をして語部五種に依れる語印なり。丑寅日本国をして大王なかりとぞ想ふるは、丑寅住人の非らざる故の言なり。

三、

安日彦大王の曰く。人は北国ほど睦を欠くなかりきに生々す。川に登る鮭、冬に渡りくる白鳥も、神より授かりし生きさまなり。冬をして雪を踏み、夏に水入りて泳ぐる。年毎の更け逝く身の老を知りつゝも、我れ未だに心に老ふを隱くし、逝くをはるけきに心打置ぬる。我が望み叶ふも叶はざるも、命運は神の定むることなればなり。

戦に老に死すは、ひとつの命なれば、天命を軽んじるべからず。人命は己れに在るも、その生死は己がまゝにならざるを知るべし。死を以て事を成らしむるほどの己れに決断あるべからず。己が身命を護るは神への報恩なり、世のものは死しては、持逝くものぞ何物もなかりきなり。また生命の逝くを怖るべからず、是ぞ新生に老骸を母なる大地に置き、人を父母とて甦える門出なりと心得よ。

人とて生を復すは、世に悪を遺して次世に得ること難し。神は人のみを造らず、萬物を造り給ふなれば、人ととしその生涯を盡せざるもの、神の裁きにて、その身命を異にせん。生々能く心得よ。眠むらざる心の臓、汝が眠りても、身體は休むなし。心の臓休みては死なり。

語部解より

四、

古来モンゴルの地にブルハン神を巡禮に赴くは、渡島クリル族の通例にして、モンゴルクリルタイ、ナーダムに参祭せる習ひなり。シキタイ、モンゴルの住民、吾が丑寅日本国をツパンまたはヅパングと稱してクリルタイの盟約国たり。是を、吾が国にては山靼往来と曰ふなり。

人祖の国山靼をして、その往来に何事の障壁なきは、盟約より人との交流に、いさゝかの不信の非らざる故に成れる古代の交易なり。何事も丑寅日本国は、倭人に想はる賤民に非らざるなり。

五、

太古より地民先民の安住は常にして侵敵に犯され来たりしも、その以前に遡りては、人の先住しける處を犯す事のなかりきは、語部の記にあるなり。

人は討物を以て集挙せし戦の事は、後世にして、丑寅の地程に件は無かりき。人は農耕しその稔り出来、秋に至りてはその保有を奪ふる輩徒の出づるも、その郷藏、高倉にして護り固ければ、衆盗討物執りて地住の民を犯しむ代となりぬ。かゝる行爲を以て成れるは、今に猶存續せし朝幕藩の政なり。

抑々、古代より丑寅日本国を史実に證す諸傳ぞありきにも、これをあえて史に留むなきは、倭史の策にして、太安萬侶の古事記、稗田阿禮の日本書紀なり。

六、

高麗の白頭山の天池に天神降臨し、朝鮮国五千年の歴史ぞ肇りぬとは、太白山の傳説にして、金剛山傳説にても八天女の降臨あるを今に傳ふ。

築紫の高千穗山にも、神の国高天原より天孫降臨せる神話あり。倭史にては是を神代事とて史頭に遺せるも、史実にぞ足るゝなかりき。古代信仰に山を海を、その絶景の秀たる處に神を鎭ませ、聖地として信仰の對神たれば、神を人間の相に造り諸々の神話を造りぬ。丑寅人祖の国とて、ブルハン神を山はブルカン岳、そしてバイカル湖そのものを神として仰ぎ奉りたり。

世界何處の民族、同様に天と地と水の神を信仰の對象たるは常の識なり。神秘なる宇宙に星や月、そして光熱の輝ける日輪を神と仰ぎ、大地と水は萬物生誕の神にて、父母とし仰ぐは信仰の哲理たり。

信行をして諸行ありけるも、人師論師に夢想幽幻に想定さる多く、人は多く此の迷信に誘わる多し。古代に於ては、病に傷に老衰に、たゞ神をして求済を賴む他非らざれば、生々は常に死と背を合せ、その生死の中に願ふるは、信仰の他非らざるゝなり。

神々を求道にして祈り願ふるの信仰は、その信仰に依りて贄を捧ぐさま、人命までも絶って祀りき非人道にもありて、人の首狩りなど今に遺るゝ遺跡の多き国ありぬ。

七、

語部録に曰く。倭の国は鬼族多し、鬼の曽族、鬼の伊族、鬼の磯族、鬼の岐族、鬼の佐怒族、鬼の多族、鬼の伯族、鬼の壹族、鬼の紀族、鬼の木族らありて、是れぞ築紫より東征にて住着せる鬼族民たり。

多くは耶靡堆に住分けし、葛城氏、大伴氏、春日氏、巨勢氏、物部氏、蘇我氏、平群氏、和珥氏、中臣氏、津守氏と相成りて、地の大王を得んとす。

大王とは倭国一統の王たる權位にて、各々その画策にぞ防人を挙して備ひたり。倭の国にてはこの他、百を越ゆる豪族あり、多くは佐怒氏に占られたれば、是れに對背せる他の諸氏は加州より耶靡堆氏、犀川の三輪山にありき豪士を入れてその一統を先んじたり。然るに耶靡堆氏、信仰一義とて爭ひを好まざるに依りて、佐怒族の扇動にて耶靡堆氏は東に一族挙げて落北せり。

此の闘爭十二年に久しく攻防せりと曰ふ。一族は胆駒嶽に敗れ、三輪山に敗れ、熊野に敗れて、遂に落たり。

八、

耶靡堆氏の北落は一族老若男女、二萬六千人と曰ふ。坂東に落着せるもの一萬五千人、羽に五千人、陸奥に六千人の大移動たり。時に坂東より東北は日本国と稱し、渡島のクリル族、東日流のアソベ族、宇曽利のツボケ族、羽のニギ族、陸奥のアラ族ら先住民ありて、この落人と爭ひなく併合し、丑寅日本国とて耶靡堆族の安日彦王、副王長髄彦王を推挙して大王とせり。

ハララヤを東日流に置き山靼民、支那の晋民らを入れて国治を修め得る諸事を習ひ、玆に即位し信仰をも統一せり。荒覇吐神とはこれなり。国號は日本国と稱す。

(注)耶靡堆氏の北落者數については別説もある。北鑑第十一巻奥州古語二では北落者數六萬餘名として居る。

九、

世襲に鎧を着し討物執りて世を泰平にせるは、必ず流血死傷あり、生々勝者に圧せられむ。世襲にかゝはらず世を泰平に渡るは、商の交り、人の往来ありて誠の泰平なり。

商は貿易の道にて物流に權政も仲介及ばず、及ばしむれば物流を留ましむ。商を討物執りてまゝならず行爲に及びては盗賊なり。

吾が丑寅日本国にては、古より山靼と商易し、民族クリルタイのナーダムに盟約しければ、元寇もその攻にも避けたる実の例ぞ是ありぬ。倭人にては、国賊たる元国の襲来にも、丑寅にては凶作に糧を流通せしめたる元国は救世主たり。その證にては、東日流岩木神社及び岩手なる報恩寺、秋田なる日積寺にフビライハンやマルコポーロ像、祀らる由因なり。奥州連峯より金産採礦を得たるも、山靼往来あっての古事なり。

とかく倭人は国の外なる往来に、民の商行往来を許さゞるに依て、元寇を招く故因を招きたり。丑寅日本国は、古来その往来自在たれば、支那揚州、黑龍下江サガリイを以て紅毛人国までも往来せるは、荒覇吐神なる信仰の意に叶ふる道とせり。

丑寅日本国にては紅毛人の歸化をも認めき故に、かく知識を得たるゝなり。知らざるは知識を山靼に求むは、何事の支障もなかりき。古にして奥州は青眼、紅毛頭髪の民、多かりしと今に傳ふなり。

人の種になれるは、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族ら多彩なり。丑寅日本国に住みては、信仰は先住のモンゴル、シュメール神なるブルハン及びアラハバキ神を以って一統さる他は自在たり。

十、

丑寅日本国を上毛野田道を以て將軍となし、奥州を征討せんとて、三千の兵を挙して、勿来を奥州に討伐行せしも、伊治水門にて奇襲され、總滅せり。その後にして、上毛野形名將軍も、坂東にて敗退し、更には倭武も敗退せり。陸路にては奇襲に遭遇して敗退やむなきに、引田臣阿部比羅夫、越にまかり軍船を以て一挙に奥州深く征討を企てたるも、東日流安東浦に敗れ、更攻にては外浜に敗れて敗退せり。是の二度に渡る海戦に失ふ軍船、二百三十六艘と曰ふ。

如何なる軍船にても、飽田地涌油に沈没さる、火箭は數多きハタ舟に武運ありて、阿部比羅夫の討伐行は敗れたるは史実なり。外浜なる奥内の討萬卑とは有澗武が戦勝を祝ひて名付たるものなり。

十一、

東日流坪荷薩體は、倭朝に於て征討の策に入れざるは、阿部比羅夫が二百三十艘の軍船を失ふ敗北に依るものなり。大野東人が出羽に按察使とて、六千人の防人を卆ひて越州より出羽に入りたるさまは、道を造り、橋を架け、糧秣のすべて地よりの徴達をせず、出羽より陸奥の多賀に至る道を開きたり。是の如きに、吾が丑寅日本の住民もまた支障せることは、なかりきと傳ふなり。

是れに兵を挙げざるは、和戦君計安疊なり。倭の北侵になる道造り、と用心せし日本將軍は、白河加美標葉に阿部忠宗、安積には安倍鶴伊、信夫に安倍虎刺、柴田には安倍加流伊、會津に安倍君津留、磐城に安倍津奴利を遣して倭人の挙動を重視せり。

安倍氏の許を得て宿舍とて建立せしは、多賀驛舍たり、此の地主に道嶋一族代々をして郡主たるは、金の採鑛に大役せる任の重きにありて、防人を備へ倭人の進駐を禁じたるは、道嶋一族の役目たり。

十二、

伊治公呰麻呂に至る倭人への重視せる地の主に遠田君雄人、道嶋島足、和賀君計安壘の日本將軍配將に、多賀の按察使は和睦の條とて官位を与ふれども、是れは日本將軍も何事の反感非らず重視の手綱をゆるめしに、道嶋一族は平城京に召され授刀將曹に任ぜられ、在京せる同族の者二百六十人、日本將軍安倍安東の息姫日高見女子、遊倭の倶に當りぬ。

時に、倭の大王と會見せるに、日高見女子を大いに望みて、養女とて議談を公にして相奉れり。然るに島足が獨りにて獨断得ること難く、使を陸奥に駆して日本將軍の許を請ふたれば、その許を得たり。

但し一條あり、日高見女子を安倍皇女となし、継次大王たるの誓約認承の一條たり。聖武大王、是を議に決して承り、安倍皇女とて縁血の勅に朝議相定りて在京せり。是の功に依りて嶋足、宿祢となり官位正四位上近衛中將兼坂東守勲二等を賜りぬ。

倭に在りし道嶋一族、倭の銅山を諸處に開鑛して、大佛建立を行基法師と倶に勤めたり。また橘奈良麻呂の乱及び藤原仲麻呂の乱にて功をなし、坂上田村麻呂と倶に倭朝の重要守護の官人となれり。

大佛建立成るや、安倍皇女は皇太子と相成り、日本將軍は是れを祝して奥州の産金を献ぜしむ。依て、大佛開眼相成りぬ。

是れ道嶋島足の日本將軍への請願に成れる處なるも、道嶋一族が、藤原仲麻呂が宮中より驛鈴と御璽を奪盗し安倍女大王を排斥せんとせしに、その犯人たる仲麻呂の子息訓儒麻呂を追討て奪回せしに、特進十階級授刀少將に任じたるも、安倍女大王たり。依て、倭と日本国の攻防は夢に消えて東西の天下は泰平たりぬ。

倭との往来もまた、日本將軍をして重視をゆるめしも、安倍女大王退位し淳仁天皇と相成りけるも、在位七年にして藤原氏の横行に見圧され、安倍女大王は再度にして位を奪回せり。

十三、

安倍女大王の重祚は道鏡の要請にて成れり。道鏡、佛門に入りて王居の諸議を卜部し、女大王、是を重く感心せり。

然るに、先帝の廢臣にあるもの、是を排斥せんとて画策す。世に悪宣せるは、女大王と道鏡との誹謗を事實の如く都々浦々に流しけるも、京畿七道に制圧され、その宣者を捕ひて白状さる因は、藤原氏の報復たり。

然るに女大王は崩じ、国記及び天皇記を失ふ。天智天皇の系にある光仁天皇の即位と相成りては、日本將軍も代を次代して、かゝる世襲の報復ありとて、奥州の関を以て倭人往来をつとめて固警せり。

是の任に當るは、宇漢迷公宇屈波宇たり。伊治公呰麻呂も然なり。是れに和睦を申請せるは、在京にある道嶋島足にて、一刻はその和条も治りけるも、寳亀五年、大伴駿河麻呂に奏上されたる蝦夷討伐の申請は蝦狄、敢えて王命を拒むとの要たり。

十四、

安倍女大王の滅後、にわかに暗雲、丑寅日本国を覆す。大伴駿河麻呂はかく乱の因を作りて、その風聞に兵を挙げたるは宇漢迷公宇屈波宇たり。架橋を落し、倭人居棟を燒き、道を閉ぎ、桃生柵を破し、倭よりの国司らその防人ら、大いに殉じたり。

平城京にては朝議相謀り、坂東の防人を一萬八千餘人をこの鎭圧に向はしむるも、ことごとく敗滅し、糠に釘を打つ如く何事の防ぎにも及ばざるなり。

ときもとき、大伴駿河麻呂は病死し、紀廣純が指揮せるも、伊治城にて謀るも、大伴眞綱・道嶋島楯らは廣純の案に乗ずるも、大領伊治公呰麻呂を蝦夷出の策は聞く耳持たざるとのゝしられ、忿怒に燃えたる呰麻呂はその場にて廣純を斬殺しけるも、眞綱・道楯らは一人とて從はぬ。防人ら皆日本住民たれば、彼の指揮に從ふものなし。

倭の策たる蝦夷を以て蝦夷を討つは、遂に終止され、身の危きに大伴眞綱、石川淨足らは、倭の陸奥本處たる多賀城を抜けて脱せり。倭人の備藏せる多量の討物、衣類、兵糧はことごとく丑寅軍に奪はれ、多賀城は荒覇吐神社の他は全燒されたり。

時に奥州に在住せる倭人ら怖れおのゝき、坂東へと着のみ着のまゝに落遁げたり。平城京にては爲す術なきを道楯より報を奏上され、玆に藤原継縄、大伴眞綱を征夷の將軍とせり。

十五、

討つに價せずとて呰麻呂は、倭軍の三萬二千人を坂東より奥州に一兵も入れざる陣營は、勿来と白河に向ひ討つや、六月にして二萬二千人を失ふ。依て朝議は大いに叱責して解任し、攺めて藤原小黑麻呂及び百済王俊哲を任命して赴かしむ。然るにこの二將軍も坂東の安倍川より東征の軍を進むること能はず、夜襲と奇襲にて、坂東の地に募りし丑寅軍は是れを撃退せしめたり。

奥州より坂東に押されし官軍の敗退に、朝議はこぞりて光仁天皇を退位に去らしめたり。時に、坂東にては無租税に、皆丑寅日本国の安倍氏を以て越州までも境域を荒覇吐王以来復領せり。

征夷の戦はたゞ長期にして、安倍日本將軍は使を倭朝に遣して和の請をせども、三回至るも答は不應にして、いよいよ以て討西に安倍川を渡らんと兵馬を集結せば、倭朝、宣戦睦むなしと使に答へありける。

十六、

代は桓武天皇となり、大伴家持を任じて討夷に赴むかしめたるも、陣中病死と相成り、更に長期に征夷の策は延期を被りぬ。

歴史に於て、丑寅日本將軍安倍の根子彦大王が討西三百五十年、五王の代に似たる戦征とならんとす。倭朝は挙げて延暦七年二月、多治比宇美を將軍とし安倍黑縄を補佐として、軍粮三萬五千石、粳二萬三千石、塩八千俵を以て、戦陣に赴かしむれど、戦陣にて軍謀の紀古佐美の副將佐伯葛城、病死して戦陣ゆるむ。時に丑寅軍の奇襲にその兵粮粳、奪はれたり。

十七、

倭史にてはこの戦陣を多賀に在る如く記せども、その頃、多賀城は燒土にして復せず、他の柵々も倭人の留むるなかりきは史実なり。安倍川の名は、安倍の陣を東北にして越の糸魚川に至る堺とせる意趣なり。

律令以来、三十八年間にも租税なき坂東の農民は、この戦陣あって安住せり。倭史はかくあるを、未だ戦場を陸奥に在らしむ如く記しけるは笑止千萬たり。依て、日本書紀は作説なり。

十八、

奥州の古代戦に忘るべからざるは、稲架の大根子彦が耶靡堆の故地奪回に、丑寅日本国を挙げ、大出陣せる大事を知らでは、倭の大王になる歴史の根本に根無したり。

倭史にて上代なるは、神代より人皇を神武天皇と創りけるを以て、東征の史を創り、その討ち平らげたるを耶靡堆の安日彦大王、長髄彦王をその賊とせるを討取りて、建国第一世と即位せしを国肇とす。

然るにや、神武天皇たるは、語部の架空に創られし夢幻の天皇なり。然るに、その頃に実在せる東征王に佐怒と言ふありき。築紫より東征しきたる十二年の古戦を以て、耶靡堆を侵領せし地の主こそ安日彦大王にして、長髄彦王とは、その舍弟にして胆駒王とも稱し、登美王とも稱せり。安日彦大王は、三輪山蘇我郷にて明日香大王または波志波賀大王とも稱したり。

此の地領に築紫の日向族王たる佐怒あり、十二年の攻防に耶靡堆族敗れ東国に敗北せるは史実なるも、勝者なる佐怒を高天原と曰ふ神の天国より築紫日向の高千穗山にその天孫が降臨し、その一系に當るは神武天皇とて佐怒王を創りあげたるは、古事記にして倭史の要たり。

その東の賊とは、長髄彦王を記逑せり。南方より渡海し来たる築紫侵領の主が、築紫全土を、諸手段に住民を迷信の降臨の神族と想はしめ、薩陽の熊襲族・隼人族を除く猿田族の多く、此の渡来族に從ひたるなり。

病める者を大麻の煙に通して、一刻の全快にせる奇蹟、日蝕を天日神の岩戸隱れに巫女をして造れる信仰誘惑は、彼の民の智識ぞ掌中にありて、地の無智なる民を思うがまゝなる天孫への忠誓と信仰を以て感化せしめたり。東征はかくして創りたる耶靡堆への進軍たるも、十二年餘を以てやうやく落しめり。

安日彦大王、長髄彦王の敗北はかくある史実にありけるなり。東北に落にし主從は、此の報復を心身に丑寅日本国を肇国宣言し、大王と即位せし處は、東日流中山石塔山なる聖地なり。三方を海に、外浜を魚来の湾とて、その大浜にハララヤを以て高倉をなせるは、古代集落の創なり、と傳ふなり。

石塔を築き荒覇吐神を信仰して、農を耕作し狩猟、漁撈の暮し安住たり。大根子彦王のとき倭の故地奪回に起りて、丑寅日本国は挙げて西南にまかり、根子彦王は大王より五王の位にその征西將軍となりて、破竹の勢にて故地耶靡堆国を奪回せり。

されば、倭史の天皇歴代に根子彦王を孝元天皇とて奉るは如何なる故ぞや。また畿内、近畿にアラハバキ神の存在あるは、如何に。此の故地奪回戦は無血の勝利たりと、東日流語部録及び国記や天皇記に明記ありぬ。

然るに、寳亀五年に起りし征夷の戦は乃至三十八年に長期たるは、倭史の如く記逑さるゝは信ずるに足らん。日本国を安日彦大王より一系とせる日本將軍を知らずして、奥州を語る勿れ。

十九、

丑寅日本国の五王に通稱アトロイと曰ふあり。その仮名多く、大公墓阿弖流伊または阿黑王、悪路王と倭史は記しぬ。

朝議相謀りて、坂上田村麻呂を征夷大將軍に任ぜり。既にして官軍は討伐行を、羽州より鬼首峠を陸越し、日高見川にて、一千三百三十六人の兵を殉じて、阿弖流伊軍は八十九人の戦殉あるのみにして、官軍は全ての兵糧を奪はれたり。依て、田村麻呂の軍謀は、和睦を先として、丑寅日本国の平征を無血の盟約を奏上せるも、倭朝は聞入れず、征夷大將軍を大伴乙麻呂に任じ、田村麻呂をその副將とせり。

征夷軍十萬にして、更には百済王俊哲、多治比浜成、巨勢野足を副使に任ぜり。延暦十四年、十萬の官軍は坂東に釘打されたる如く、坂東の手向ひせざる住民を虐殺し、民家を燒き家畜を奪ひて引揚げたり。依て、阿弖流伊軍との交戦はなかりきに、その戦報を奏上しけり。倭の記す暦史書には論功行賞ありと曰ふ。

延暦十五年正月、坂上田村麻呂が征夷の先願再度に奏上しけるに、遂にしてその旨を任すことゝなり、延暦十六年、按察使、陸奥守、鎭守府將軍、征夷大將軍とて四官職を賜はられ、延暦廿一年、初出陣より六年を経て四萬の官軍を卆ひて陸奥に向ひたり。

然るに、討行ならず、卆ひる者は何れも職人、僧侶、藝人、学士、神職、織女らにて討物携せる者一人とてなく、田村麻呂自からも剣を帯るなく、胆澤にて阿弖流爲と會談せり。田村麻呂曰く。

日本將軍五王に朝議の由を曰す。互に戦の因を造るなく、和を以て東西の睦みを護らん。依て、卆ひ来る者を宿す柵の築城を許に得たしとて、多賀城、玉造柵、伊治城、雄勝柵、胆澤柵、德丹柵、志波柵、拂田柵、秋田城跡に市場を築くを請ふたり。

時に阿弖流爲、獨り合点ならず日本將軍安倍安𫝔に申請しければ、市場なればとて濠なく柵なきに築く條を約して許を得たり。然るに阿弖流爲が一見何事の要塞と見えざる市場造りに不審をいだきて、是れぞ倭朝の議に僞りなきかとぞ田村麻呂に問ふことぞ暫々なれば、田村麻呂曰く。

吾れとて、倭の大王に曰はしむれば蝦夷なり。何事あって丑寅日本を憎みんや、と答ふは、都度の返事たり。

延暦廿一年四月、五王の阿弖流爲及びその副將たる母禮、倶に京師に赴きて、倭の大王より睦の状を得て、丑寅日本国の安倍日本將軍たるの認承を、倭の大王自からの一書あらば、後永世に戦事なけんとて、田村麻呂の口上のまゝに信じ、七月十日倶に平安京に赴き、その倶する者五百人、七月廿五日京に着きぬ。

田村麻呂は和條の請をせしに、一天のもと二君双日輪なし、彼の丑寅日本国は同国土なり。ましてや蝦夷は野性獸心、反覇定め无し。縦ひ申請に依りて是れ誓約勅ありせば、所謂、虎を養ひて患を遺すものなり、とて八月十三日河内の社山にて斬刑され、倶ふ五百人の防人らも竹柵の中に弓箭に射殺されたり。時に田村麻呂大いに悲しみ、事の由を日本將軍安倍安𫝔に傳ふれば、忿怒に燃えども、戦を以て報復せず、日本將軍をして白河より丑寅に不可侵の條を辰筆せしめ、兵挙起らざるは、安日彦大王よりの治世一義とて、人命こそ比護なりとて、玆に三十八年に至るゝ交戦に終りを告げたり。

是の如く遺るは、丑寅日本国史の実傳たり。田村麻呂は阿弖流爲及び母禮の首、及び體骸を焚葬して、是を胆澤巢伏に安土呂爲神社を建立し、大墓公陵造り葬ぜりと、今に傳ふなり。

廿、

以上の記は、地の翁に聞書せるものなり。江刺の住人にして物部但馬と曰ふ仁なり。

寛政六年九月十三日   孝季

右の如く、歴史の事は諸説雑多なるも、本書にありきは、代々に傳ふる昔物語なり。

飯積の住人 和田末吉

和田末吉 印

 

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