北鑑 第十四巻

注言
 此の書は他見に無用、門外不出と心得ふべし。

寛政七年   秋田孝季

一、

人の信仰を各々に尋ぬれば、祖累に護るもの、その古習を脱却し、新しき信仰の求道に入るの様々なり。然るに、信仰に散財して貧苦に惑ふ者もあり。道に達成するは、出家しその生涯を法に捧ぐも、安心立命の就着に得る非らず、終は無常諦にぞ空しきに、求道は天命に安ずるの他非らざると覚りぬ。

佛陀の成明とは、諸行無常是生滅法生滅滅已寂滅爲樂と曰ふありぬ。是れぞ當然にして、萬有如何なる生命とて生死の轉生に免るなく、逝きて甦るものなり。

吾が丑寅日本国の古代信仰は、かく生死の代に神を信仰せる大要に、神は天と地と水を以て神聖とせり。天より降る光と熱、風雨、寒雪、みなゝがら神の聲と相と仰ぎ、地に水に萬有の生命あるは、みなゝがら神の全能なる生死轉生の掌中に在りとて、一心不乱に天地水の一切に唱へて稱名せるは祈りと願なり。「あらはばき、いしかほのりがこかむい」かく唱ふ他に他心なかりき。世々に遺る荒覇吐神信仰とは是の如し。

古代に於ては、神の像を造るなく、天然、自然、みなゝがら神にして萬有の生命を尊重し、人との和を欠くなく睦みたり。苦しみも悲しみも、人をして吾が事の如くして、一心不乱に神を信仰して、自己をして神を多説せるものなかりきは、古代なる荒覇吐神の信仰たりと、故老は曰ふ。

享保三年   境屋清吉

二、

安東成季の遺したる古書に北鑑と題せるありぬ。安東成季とは、寛永年代の人にして、秋田鷹巢盆地の生れなり。安東と曰ふ己が姓に、祖を尋ねたる巡脚記にして全十八巻に綴られたる私本なり。その順路にては、渡島、松前より津軽、宇曽利、糠部、閉伊、火内、仙北、庄内、越口島、多賀城、坂東と渉りぬ。その目録に見ゆは次の如き書題なり。

是の如き集史たり。

安東成季の家来は、津軽藤崎安東氏の流れなり。一族の中に藤井氏、安田氏、安藤氏ありて諸国に分住す。祖は安倍照良と曰ふも、良照の事ならんと解す。

此の書は佐竹氏の彈圧に召上らるゝは、延文元年の事にて、未だ還されず、書の写さえも残るなかりきは残念なり。

三、

春、残雪山面にまだらなる芽吹きの頃、霞の梢に鳴く山鳩の聲聞けば、今は亡き父母の聲かと、うらゝの春を旅に心かきたてむ。奥州三春の瀧櫻に華の香を肴に持酒を呑むる風流も、

〽霞立つ うらゝの春に 酒をくむ

櫻を追うて渡島までの吾が旅ゆきのあとに、夏、八十八夜、南風なまぬるく幽寄りぬ。渡島白老のエカシに招かれての旅は、倶するものたゞ旅の風なり。

〽ほの見ゆる 渡島の影を 海峽に
 間近きほどに 我が胸おどる

老し身に想ふるは、かく旅も今一度びと心に決めて、何事も筆に思ひを記せむ。

吾が丑寅の地は、歴史の実を欠き、倭史の造話作説に押信に永ければ、故地の古傳を失ひり。史傳すべからく倭史に從ふを以て、心に染すは世襲の習ひ永けるが故なりきに、古事を失ひたり。吾が旅はかるが故に、尋史の旅に出でたり。

四、

定かなる史傳に遺る古跡は少なし。まして丑寅日本国にては、世襲の圧に尚更なり。太古に丑寅日本国肇国の事説雑多なり。

人祖の居住、倭をはるかに隔つれば、山靼をして古きなり。諸傳に正しきは、傳来の五千年に數ふなり。抑々、人の歴史は諸傳に定かにて、阿蘇部族、津保化族、熟族、麁族を以て人の種同じけるなり。たゞ、渡来の期に同けるなく、その地處渡来土着にて名付くるは、各族の名稱なり。

古きの頃に阿蘇部、津保化、麁、熟の如く遺りきを、荒吐族と併しぬ。

五、

天喜乙未三年、大宇宙に妖星光り、民怖れ、丑寅日本にては、安倍賴良は卜部を招きて占ひたり。卜部の曰くは、安倍一族の凶報なりと告げたり。依て賴良、末児則任を東日流十三湊に移しむ。

一族の難遇に備はしむは、双股川の柵、生保内の生保内城、遠野の猿石城を隱里とて拓地せり。天喜丙申四年、陸奥守源賴義ら安倍一族に賦貢科税の督促使とて衛に當れり。權守藤原説貞、その名代とて衣川関に對面せども、論着定まらず、物別れに説貞、歸途の阿久里川にて、説貞の嫡男光貞が待向ひ行途送り添ふ。

安倍貞任、引返りしとき、貞任の駒に投石せし曲者あり。危ふく落馬せんに、光貞の徒党大いに笑ふるに、貞任怒り「かゝれ、討てや奸者奴らを」と下知せり。安倍一族、一挙に矢楯を急陣しければ、その箭一挙に藤原勢を突けり。貞任に從ふ者屈強の者なればまさに一騎當千の勇あり、たちまちにして説貞父子は敗れ九死に一生を得て多賀城に退きぬ。

説貞、賴義に言上せるは実に非らず、安倍一族の反襲をぞ告げたり。夷賊安倍賴良朝令に反きて賦貢の科税あるを受諾せず、兵を以て反き阿久里川に官軍を襲い幾多の戦殉をいだせるは、まさに朝に反き賦貢の談議に以て和睦なし、いかでか術無く茲に征夷の勅令を請い申すなんとて、説貞の報告に賴良怒り、自から多賀城をいでて伊仕津原に軍を進めたれば、にわかに安倍賴良に軍挙あるべからずと勅令至れり。依て源賴義、詮なく官軍を退きたり。

天喜丁酉五年、夷は夷を以て討べきと謀りに謀りて、隱密を以て宇曽利の安倍富忠、出羽の清原武則らに仮宣勅状に金子を以て安倍氏への反忠を画策して、その誘謀に両氏の反忠の同意を得たり。

和睦對面とて宇曽利富忠、仁斗呂志を江刺に兵六百騎を以て来たるを、賴良自から岩谷洞に迎へにいでむれば、富忠、伏兵を以て賴良を狙撃せり。不意なる反忠の箭は賴良に集射し、狙矢三本を身に受けその一本に深手負ひ、近從河辺左衛門、急ぎ賴良を鳥海の柵に退きて傷を癒すも、賴良逝けり。

奸策に功を遂げたる富忠、安倍貞任、宗任の追討に人首山にて討死し、気仙の金爲時の援を待たず一族全滅せり。

是れに悦ぶ源氏の勢、各陣に宴を催せり。蝦夷は蝦夷を以て討つ、その的中せる画策に、征夷の朝議も相決し、茲に官軍の挙兵に達せり。

然るに、坂東の豪士、賴良の死をあわれみ、朝宣の廻状に立たず、賴良の事は明日は吾が身とて應ずるものなく、賴義は清原氏の挙兵に武運の明暗を賭けて、康平乙亥二年五月の挙兵に備ふるも、前年内裸の火災にてその挙兵成らざるなり。また安倍一族の黄海の戦に皆滅の敗北に賴義の任期なく、代りて高階経重、陸奥守に任ぜられたり。

然るに官軍諸士、その討伐行に應ずるなく、賴義再任のやむなきに嫡子義家を副將として決せり。義家の仮稱は八幡太郎とて、即座に出羽の清原一族と軍を併せむ。

先づ小松柵を血祭りに、康平五年、厨川柵まで安倍一族を追討して落しむるも、安倍氏累代の財を戦利とせるは、皆無たり。

安倍一族の民は既にして北辰の安住に散隱し、産金、産馬の積財は倶に隱藏されたる後なり。安倍一族の掟にて一族の命脈を重じ、かくあるときの算たり。

六、

十餘年に渡る世稱前九年の役とは、元より倭報になる他に史書遺らざるなり。安倍一族として古来人命尊重を一義として、都度に和睦を呈示せるも、源太郎義家、握潰して事、公に閉じたり。依て、前に阿弖流爲の例ありせば、詮なく討物にての闘爭相續きたるは、安倍一族の本意成らざる行爲たり。まして反忠を盟族に誘しその正統を惑はし、前九年の役は康平五年初秋にして、厨川柵を以て了れり。

時に、日本將軍安倍厨川太夫貞任次男、高星丸が二千人の領民ともに東日流に落着し、再興せるは永保壬戌二年にして、地の古稱安東浦を姓として安東十郎高星と稱したり。

寛治丁卯元年、東日流平川の地に白鳥舘を築きて成れり。依て旧臣、續々として東日流に集し、十三湊を開き山靼交易を以て一族の豊なる再起を得たり。渡島、千島、樺太島の地産、海産物の山靼交易の商益に地族も豊けき生々その安養を得たり。降りて保元丙子元年、平氏台頭。清盛は源氏の棟梁と抗爭の因は、院政と天皇との皇政に對立あり。平氏は、安東一族に使者を以て軍資の貸付を請ふたるに、宿念宿恨の源氏を討つは他力にして果せる天運とて、黄金若干、兵糧、討物、軍馬五百頭を献じたり。

院許を得て京船を造り、若狹の小浜に通航を得たり。都度なる軍資の流通にて、源氏滅亡へと平氏を榮ひせしむは、安東船の流通に依れるものなり。

七、

源氏亡びて世は平氏の權に掌握され、安東一族、諸国に寄湊せるに至りぬ。安東船諸国の津に商易せる本湊を十三湊、安潟、吹浦、澗渕、米代湊、土浦、松前、土崎、北浦を以て船を造り築湊せり。

保元丁丑年、十三湊福島城主安東氏季に世嗣なく、藤崎城主安東太郎貞季二女を養女とし、平泉より權守藤原秀榮を養子として迎へたり。永暦元年、氏季みまかりし後、秀榮、継君せしも姓を藤原として攺むなく、安東船の商益を諸国に利得し、平泉に模倣せる如く山王十三宗寺他十三湊の八方に佛寺を建立し、諸国より僧を招きて法灯にぎわひたり。秀榮より秀寿、秀元、秀直と續き、藤崎安東氏を滅し東日流一統せんとて、建久壬子三年、藤原秀直挙兵し藤崎城を圍めり。時の城主、安東愛季、平賀の曽我氏の加勢を得て萩野台に秀直の軍を討伐せり。世に曰ふ萩野台の合戦に、安東氏は十三湊を掌握せり。

八、

建保癸酉元年、
鎌倉にて和田の乱起る。宗家三浦氏の反忠にて、和田義盛敗北す。諸氏討死のなかより朝夷三郎義秀、由比浜より房州沖に漁舟に漂ふを、安東船に援けらる。奥州に遁れ、和田の遺孫を今に遺す祖なり。
建保丁丑五年、
金光坊、東日流行丘に寂す。
元仁甲申元年、
東日流中山石塔山に荒覇吐神社再築す。
寛喜庚寅二年、
潮方に尻八城落慶す。
天福癸巳元年、
波斯巡禮還る。
暦仁戊戌年、
支那に安東邑を開き移民二千人征く。
寛元癸卯元年、
山靼船土崎に来船す。
建長壬子年、
十三湊福島城修築さる。
康元丙辰元年、
渡島に志海苔舘、宇津化志舘、茂別舘、貴己内舘、知内舘、隱内舘、於代辺舘、松前舘、祢武陀舘、波羅貝地舘、州崎舘、華澤舘、勝山舘、江刺舘ら落慶。
正元己未元年、
宇曽利及び糠辺に牧をなし加輪内舘、安倍城を建て産金産馬に人夫大いに渡島より移り、
弘長壬戌二年、
荷薩體に淨法寺を修築す。
文永辛未八年、
安東船、對馬住民を元寇より救ふ。
弘安元年、
元船、流鬼島サガリィンに上陸せるも、安東領と知りて兵糧を安東氏に献じて軍を退きぬ。是れクリルタイの盟約にして、丑寅日本国を侵領不可侵の條にて成れるものなり。此の年、奥州凶作にて元軍の兵糧の船十二艘に献ぜらる。おかげにて飢餓せるはなく、奥州にてはフビライハーン及びマルコポーロの像を祀りて拝したると曰ふ。

九、

永仁甲午二年、
東日流に漂着せし元の兵を、安藤船にて三百人を山靼に還したり。
嘉元乙巳三年、
藤崎に平等教院再建さる。鎌倉執權宗演殿より梵鐘屆けらる。
德治丁未二年、
萩野台の合戦以来、十三湊福島城、平川藤崎城の二城一主たるを攺め、三年替住を以て二主と定めて知行す。かく城替知行に生じたるは、洪河の乱なる兆しと相成れり。
元亨壬戌二年、
安東季長、安藤季久の替城知行に替城せざる季久の不盟約に両者遂に乱を作す、世に曰ふ洪河の変は、かくして起りぬ。
嘉暦戊辰三年、
鎌倉幕府の仲裁何事の結着ならず、安東貞季両城の主に相成りて決したり。徒に長期たる東日流内乱たり。

十、

元弘癸酉三年、
皇政復古諸国に起り、北條氏鎌倉に衰ふ。時に安東氏より秋田岩見澤に和田一盛と曰ふあり。朝夷三郎義季の累孫たり。今ぞ祖恨に報復し北條氏を討伐せんとて、上野に挙兵せし新田義貞の呼應に一族兵挙して鎌倉に幕府を打討を果したり。
延元丙子元年、
安倍賴時三百年忌を石塔山に法要せり。

十一、

興国庚辰元年、辛巳二年、
都度に大津浪、西海諸湊を襲ふ。通稱、白鬚の水、黑鬚の水と曰ふ。津浪は十三湊を皆滅せり。死者十萬人と曰ふ。東日流より飽田に至る渦害は、まさに天の怒り、地の怒りの如く屍をさらしたり。依て安東船の要湊十三湊は水留りの如く流泥に埋り、湊の要をなさざるなり。水軍は皆散し、水夫は諸国の津に流住せり。
正平己丑四年、
弘智法印が千體佛を鋳造して、禍害に殉ぜし靈を供養せり。唐崎に地藏堂を造りきも、法印の發起たりぬ。世に是れを興国の大津浪と曰ふ。

十二、

十三湊廢湊となりて、安倍盛季、幾度か築港せしも、水戸口を閉ぐ程に流土砂に船の坐礁相次ぎ、諸国の商船十三湊に寄港せるなし。依て小泊、鰺ヶ澤、金井、吹浦に築堤して代湊とせり。

盛季は既にして新湊を渡島に臨みて宇津化志及び松前、江刺に築湊せしめ、東日流の民を移住せしめたり。依て、山靼往来は辛ふじにて商易せり。

破竹の勢にて建武中興成れるも、武家衆にうとまれて足利尊氏の反忠に天下は麻の乱れとなり、安東一族をして宮方、武家方と對し、十三湊、藤崎をして宮方となり、宇曽利、北之辺は武家方に一族して對したり。即ち宗家は宮方にして、庶家は武家方に援兵を送り、北畠顯家の敗北にて東日流に乱の兆起りぬ。

應永庚寅十七年、甲斐源氏の累代南部守行が陸奥の守に任ぜられ平賀郡に駐留し、安東家季ら矢澤領主と謀り、安東宗家を討伐せんと謀るも、行丘領を安東氏より委領さる北畠顯家は、南朝の落武者を集いて安東氏の楯となりせば、徒らに戦端を起すは門閥を重じる南部氏、おもわく外れ、茲に長期に虎視眈々として藤崎城主安東十郎五郎教季をゆさぶりて、遂には應永乙巳三十二年出来秋、稲架に何者か放火せし事件に南部氏との戦となりて、南部氏總力を挙げて攻むるも、安東一族の術中に敗れ、永亨己酉元年、守行に代り義政是れに戦謀して、遂には藤崎城を炎上せしめたり。

然るに、安東一族十三湊に結しあくまで交戦を對しければ、南部氏、和睦を入れて休戦し、永亨乙卯七年、南部氏、東西に軍を進め十三湊を攻めけるも、その本領にたどる出城の合戦に長期の戦と相成れり。時に安倍盛季は故地放棄を企てたり。

十三、

十三湊福島城を東西にその出城多く、東には中里城、青山城、西には森田大舘、璤瑠澗城あり。これを落しむるに南部勢、大いに殉じたり。亦、福島城四辺には中島柵、羽黑舘、鏡舘、丘新城、唐皮城、噴舘、北の柴崎城とて、南部氏の長期に亘る交戦に嘉吉壬戌二年晩秋に、安東盛季、故地放棄を決して一族を渡島及び飽田の地に移しめ、自城に火を放って落し、その新天地に移りたり。

東日流故地の知行を行丘北畠氏に委領し、京役蝦夷管令をも一切は北畠氏に委ねたり。依て、南部氏には何事の戦利もなかりき戦の結末たり。

安東一族の中に南部討伐の試みたるは、狼倉の安東義季、尻八の政季は、その不意を突かれ、亨德癸酉二年この両城とも落され、義季は飽田に、政季は渡島に逐電せりと曰ふなり。

十四、

外浜の尻八舘の時、不覚にも安東政季、南部勢に捕はれたるも、淺虫切通しにて宇曽利の蠣崎藏人に救はれ、政季は宇曽利に食客せり。蠣崎藏人とは安東船の長にして祖父の代より山靼に通商往来し、オロシアよりホテレスなどの火砲を得て一挙に南部氏討伐を果せんとて煙硝など入手し居りたり。

政季を總大將に南部氏討伐前夜、その火薬にかがり灯の火粉引火しことごとく大爆烈して、空しく遂には両者ともに渡島に渡れりと曰ふなり。

十五、

長禄丁丑元年、安東盛季次男兼季、檜山に茶臼舘を築き、兄義季を檜山城に住はしめたり。寛正辛巳二年、安東義季寂し、世嗣を政季に定めて松前より飽田に継君せるに依りて、蠣崎藏人をして松前城を継がしめり。

文正丙戌元年、飽田に義季を継ぎける政季は、長亨戊申二年、臣の長木大和守に謀殺さるゝも、嫡男忠季、後を継ぎ、永正辛未八年、忠季没し、尋季相續す。天文甲午三年、尋季入寂して、舜季相續し茶臼舘、脇本城築き、天文癸丑二十二年没し、是を愛季継ぎて土崎主安東尭季に世嗣なく、己が舍弟の春季を養子とせり。然るに早世し、次弟の茂季を入れたれば臣下逆きて茂季を殺害せんとす。依て愛季、兵を挙して茂季を救ひ九死に一生、豊島舘に隱居とせり。

依て愛季、檜山城、土崎城を知行併合し、東日流より大浦爲信に敗北せし行丘城の北畠顯村及び朝日左衛門尉藤原行安の一族を加臣とし、嫡男實季に継がしめたり。

然るに、實季を好まざる臣身辺にありて矢島一族、小野寺一族の討伐行に、東軍方の武家乍ら関ケ原合戦に参戦に不出と相成りきも、姓を攺め秋田城之介實季とて大坂の陣に出馬し、その戦功大なりせば、外様大名とて東軍大名とて、子孫に継がしめたるは不死鳥の如し。

後書

安倍氏より安東氏、秋田氏と姓を攺め世襲の風に君座を今に遺しきは、まさに不死鳥なり。太古より一系にして君座を保つは、諸大名に例なき古累なり。日本將軍とて丑寅日本国を倭に先じて肇国せしは、まさに歴史の実相にして倭史の如き僞傳に非らす、須く眞に非らざるはなし。一族の者よ能く歴史の実相を知るべし。

和田末吉 印

 

制作:F_kikaku