北鑑 第廿巻

注言
此の書は他見に無用、門外不出と心得べし。

秋田孝季

一、別巻 東日流外三郡誌

本巻は東日流外三郡誌に漏れたる事史にして、北鑑に添はしめたるものなり。既綴の三郡誌に記逑の非らざる史傳たれば、要讀をこらすべし。

寛政七年   秋田孝季
和田長三郎

二、

耶靡堆と曰ふ地は、和の地にして、神武なる傳なき古代にては、その地傳に何事の迷信のなかる聖地たり。人は石神をハララヤに祀り、天と地と水の神を崇拝し、女神と男神をだき合せに作りて、石の殿中に祀りて宵を通して、民は互に宴をせる、信仰に満たる国たり。加賀の国より此の地に三輪大神を入れ、国の大王を迎へ、国を造り、その一世大王とて、耶靡堆彦王を国主とせり。

古来、此の地に長老たるは磯城、葛城、尾能、蘇我、大伴、春日、平群、巨勢、物部、那智、高加茂、鴉、三輪、阿毎、石切の諸主たり。耶靡堆彦は、これ等長老に依りて大王と選ばれたり。此の第一世より十八代なるは安日彦王にして、その副王たるは長髄彦王なり。安日彦大王は三輪山の蘇我郡に居し、弟なる長髄彦王は北膽駒山なる富の白谷に居りたり。

此の代に筑紫より佐奴王、東征に来襲す。

三、

吾が丑寅日本国は日高見国とも稱し、古来より日輪を国の象として国號せし大王国なり。安日彦大王を一世と奉り、副王長髄彦を以て国を肇たる、その前世より幾千年前に遡れる、倭国の紀元も及ばざる古代国に存す。蝦夷とて、永きに渡り此の国も民も更には渡島をも吾等と等しく賤しみて、歴史に留むるなく現に到りぬ。是の如は、安東氏に依りて、北方の国島は永長丁丑年、安東船にて探領の国標立柱されること立設二十ヶ處と曰ふ。住民、能く海産の干物を安東船と商換し、山靼交易ぞ益々交流すとも曰ふ。

北領住民の多くは神威茶塚より古守島、幌莚島、温祢古丹島、志耶子古丹島、志旡志流島、宇流撫島、夷捉島、国後島、色丹島、波々舞島を千島と稱して、各島の海産を霧多布湊及び毛羅撫威湊に集積し、山靼に赴きたりと曰ふ。安東船の築造は十三湊及び土崎湊にて造船さるも、船型は唐土船に模造されたりと曰ふ。揚州型、青島型、除福型とあり三柱帆にして、鈄帆、前後にありと曰ふなり。船倉二段にして船上に船屋型ありて、双胴に竹束を以て浮力を加ふと曰ふなり。

四、

正平八年、飽田なる相州の獵師にて辰五郎と曰ふあり。早春、熊、冬穴より表にいでくるを仕留む名人たり。一冬にして仕留む七匹は例年の事にて、三月上旬に飽田大森山に入りて、穴出でる熊一頭を槍にて突き仕留めければ、此の熊の毛、金色に光りて異様たり。倒れなきに辰五郎、その熊穴をのぞきたれば、益々異様たる穴壁に驚きぬ。少かなる出口の光りに反光せる壁面はまさに金鑛にして、辰五郎、試みにその岩を欠き、仕留めたる熊と邑に持歸りて、山師の多吉に見てもらひければ、まぎれなく金鑛たり。依て、辰五郎、多吉と俱に此の山にタタラを築きて、その金鑛を鋳鎔しければ、見事なる金塊を得たり。以来、此の金山をマタギ金山、または熊穴金山とて、六十年の間、採鑛せりと曰ふ。

五、

宇曽利、恐山、都母、名久井山、閉伊七時雨山に續く山渓は、代々に人の往来あり。舞渕、白糠、糠塚、浜梨、東通、西通、是れに連らなる道を金の道と稱したり。

安倍富忠、承久二年に宇曽利の領主と相成りて、気仙の金爲時と通じ、天間村及び仁斗呂志に舘を築き、気仙の山師を入れて探鑛しければ、宇曽利に大金鑛ありとてその山に至るゝ道を通しぬ。閉伊に炭を造り、宇曽利に長蛇の如く荷駄をなせり。時に日本將軍安倍賴良に、その怪動を報ぜしありて、富忠に使者をいだして尋ぬれば、尋問返答無用とて歸したり。金氏一族は安倍の臣たりしも、爲時のみ多賀の源賴義と通じ、気仙に在りてしきりに兵馬を集め陸奥への道に道を開きたれば、安倍氏是を怪しみて兼てより探りければ、宇曽利金山の鑛をタダラせしの計なりと知り得たり。

宇曽利の領主とせしは安倍頻良なれど、それに補佐せしは安倍井殿たり。安倍富忠、彼れを淨法寺に封じ宇曽利、糠部の収を自在に、産馬を源氏に賣却すること千頭にも及び、貞任これを宮古にて差押たるより、富忠常にして宗家を恨み、その報復たるを源氏に爲時を通じ親睦せり。依てかゝる賣国行爲を留めんとて、都度に渡りて富忠を戒むれど、馬耳東風たり。厨川太夫貞任、是を怒り、富忠討伐を父賴良に進言せども、賴良曰く、猪突猛動は凶兆を招くに依りて忍ぶべし。それより四丑より遠野、仙人峠、釜石に至る道々に関を以て南北の道を封じ金氏との交りを断つべし、とて、宮古に八十二艘の水軍、猿石川警護の兵二千、釜石警備一千を配し、富忠の南下を完全に封じたり。

更には閉伊の炭荷駄を封じたれば、宇曽利のタダラぞその採金得られず、富忠、初めて使者をして賴良への對面を願ひたり。

天喜五年、源氏との風雲急を告げるなか、富忠總勢をくりだし、江刺岩谷洞にて賴良との對面を謀り、一挙に賴良を謀殺せんとて、謀りに謀りたり。もとより一族にしてかゝる謀策のあるとは知る由もなく、賴良、重臣の川辺左衛門以下手勢百騎にて江刺岩谷洞に仮陣せる富忠と對面し、富忠尋常にして、かっては源氏に献ずべく金塊八百六十二荷駄を賴良に献じて詫びたり。その歸路にて兼て囮兵を忍ばせ、賴良を討つべく魔手のありとは露も知らざる賴良、石坂に至る坂道にて雨の如く弓箭を射られ、その一矢に肩深く射られ、突差の出来事に傷付く主君を川辺左衛門、楯を組みて先ず近き鳥海柵に遁がしめ、江刺の控兵六百騎を添へ、富忠の陣に逆襲せり。富忠勢この反撃に爲す術なく人首に退くも、猿石川より報せに依りて来襲せる貞任勢、宗等勢にて八方を閉がれ、一兵残らず討死す。然るに、傷重く賴良も死せり。

六、

安倍氏の大祖は安日彦大王にして、長髄彦王はその弟に當るも、異母兄弟なりと曰ふ。安日彦大王は耶靡堆彦大王の正胤にして、長髄彦王は富雄振部の五鈴媛の子にして、北膽駒嶽富雄白谷の郷に生れたり。依て、安日彦大王は耶靡堆彦大王の継王と相成り、三輪山の蘇我郷に王居せりと曰ふ。

信仰は現實なる天地水の、そのまゝなる崇拝信仰を以て、是を三神一如の化に依りて萬有、世に蘇生すと曰ふ意趣を神とせる信仰、神の鎭ませる山は、奥州より白神山、太平山、鳥海山、羽黑三山、立山、白山、大山をして自然信仰たり。今に祀らる神を異なせるは後世の攺神なり。

安日彦大王に諸説ありて耶靡堆氏、阿毎氏、安倍氏、三輪氏と記す史書ありぬ。亦、神の信仰にも次の説ありぬ。三輪大神、白山大神、大物主神、大白山神、荒覇吐神、仙女神らあり。加へて客大明神などありて多し。

七、

秋田家には系図をして、上の系図、下の系図を以て世襲に渡り来たり。依て、大名として、安倍、安東、秋田氏とて世に知らるも、それは下の系図のみにして、上の系図とは雲泥の相違ありぬ。

抑々、安倍一族の家系にして、長髄彦王を上代に逆賊とし、その子孫、日本將軍安倍賴良、その子、貞任、宗任など他一族みなゝがら逆賊とて歴史に遺りぬ。然るに陸奥物語の如きは、片そばぞかしく征夷を讃美しけるも、その史實に作説ありて事實を遺さざるは、通説作爲に基きぬ。

秋田氏は世襲に受けて、上の系図を正系図とし、下の系図を見状系図として世に自座を示したり。上の系図に秘解あり。坂東より奥州に越え渡島、樺太、山靼の史を要實に綴りたる、時の領主を明細に記したるものなり。奥州に於ける一切の産金産馬の術及びその流通の商易、拓田の記録、一切に触る事の他、代々起りし戦乱など、倭史との隔りあまりにも異なる故に、全てを秘とせり。

八、

丑寅日本国の古事来歴の事は、祖来遺しける語部録と曰ふ史書の他に非らざるなり。丑寅日本国に住む古住民より、人との睦みに用ひたる語部文字にて傳はるゝ古書のありのまゝに遺したる眞實史は他にあるまずや。

奥州は代々にして爭を避けたる故に、かく侵略さるゝも、古代に於ては倭人の及ばざる大王国たるを知るべし。更に歴史の古きは、倭朝の及ばざる古期に在りて、山靼と交易し、その智得を入れて、人の暮しを安泰ならしめ来りぬ。

波斯の国とはシュメール、トルコ、シキタイ、ギリシア、エスライル、エジプト、モンゴル、支那、天竺に至る商道あり。信仰らの進みたる開化をも入れて成れるは、吾が古代国神たる荒覇吐神信仰なり。

荒野、砂漠、𡸴嶺を越えて民と往来せるは、衣食住の常に欲する人の商道たり。北方にたどる商道は常に死と背合せなれど、生々の爲に交はざればならざるをして往来す。古人を思ふるに智能のなき素野の住人と先考すべからず、古人ほどに開化の道を今に遺したる師なり。まして海を隔てたる丑寅日本は、人の流通遅れたる故にその進歩に遅れたるも、アムールの河道をして海道を開き、おくればせ乍ら山靼に追着きぬ。

九、

安日彦大王、長髄彦王の以前に丑寅日本国のオテナ及びエカシの王国ありき古事を知るべきなり。氷渡りの民アソベ族、山靼より人祖とて渡り来たるはその大祖にして、十五萬年乃至三十萬年前と曰ふは、語部録の筆頭たり。

此の国に氷海を渡り、樺太、サガリエン、渡島、オショロを経て東日流ジパンに赴き来たるは、アソベ族なるエカシにてマブ、エルマ、オキリ、ハナ、イナ、ヘラの六人と男女百七十人と曰ふ。その住分になるは、後世に漢字に當てたる馬郡、璤瑠澗郡、奥法郡、鼻輪郡、稲架郡、平川郡にして東日流外三郡、内三郡の付名と曰ふ。更に宇曽利にてはツボケ族渡来したるは、アソベ族より一千餘年の後なりと曰ふ。ツボケ族は馬をつれ、犬をつれて来たると曰ふ。オテナと曰ふ王をして卆ひ来たる人々三百七十人と傳ふなり。その王にヌカン、ツボ、ウシリ、ヌカヘ、シリの五王あり。初めて筏にて海上を渡り、今なる宇曽利大間に着陸せりと曰ふなり。總ての智能に備はり、その後續、年毎に渡来せりと曰ふなり。それぞれ五人のオテナのもとに入族し、東日流にも住分けせしありきは、アソベ森の噴火にてアソベ族の災死の跡地及び中山、外浜一帯なりと曰ふ。

代々この二族は併合し、その住分を西浜を秋田に移住せしを熟族とし、東浜を岩手に移住せしは麁族とて、代々西南に移りゆけり。

まさに吾が国の人祖、此の住分を以て發達せりと曰ふも過言のありまずや。坂東より更に今の倭国に人跡を遺せしは此の住分にて成れるものなり。古き世の由はアソベ族に創まりツボケ族にて丑寅日本に人の生殖を国土に擴げ、今に至るを知るべきなり。

十、

アソベ族、ツボケ族の相違は山住と海浜住にして、その暮し衣食住の相違なり。宇曽利の地、東日流の地は同じく卆止浜を内泻にして、東日流の上磯、下磯、宇曽利の玄武、青龍、外浜の海浜をしてその居住せし民の山住、海浜住の相違ありぬ。何れも山靼渡来の古民なれど、その住居の選ぶる地位の差定是の如くなれり。

アソベ族の住地たるはその山峰、羽州はるかに續き狩獵の豊かなる三渓に續き、ツボケ族の住地は海浜三方にその幸の多ける地位たり。東海は大鯨の海と稱し、ハタと曰ふ一本舟を漕ぎ、鯨を獵すは古代よりの習ひたり。骨にて造りき銛にて二十艘ほどにて仕とむるは、まさにツボケ族の勇なる智慧にして代々に受継がれたり。かくしてアソベ族、ツボケ族より麁族、熟族の分岐住分は急殖せり。

十一、

和田一族をして安東氏との深縁なるは、鎌倉に起こりし建保元年の乱に始りぬ。和田義盛、一族挙げて北條氏の悪謀を砕かんとて北條舘を攻むれど、同族の三浦氏の反忠にて敗れ一族ことごとく討死す。時に朝夷三郎、父義盛の遺骸を傳馬船に乗せ房州沖に漂ふを、小湊より出でし安東船に救はれ奥州に遁れ着きぬ。爾来、羽州秋田の岩見澤に知行せしも、建武南北朝をして乱れ、和田一盛の代に南面の武士とて上野の新田義貞に加勢し鎌倉に北條氏を積年の恨みに晴したり。秋田に歸還せしも、安東氏の知行に他朝臣の仕官に辞して東日流行丘に移りしより、子孫は神職として代々を過せり。

石塔山荒覇吐神社を、代々かけて安東一族の鎭魂をせしは、安東氏との秘になる密令に依れるものと曰ふも、細々の事は未だ不祥なり。

十二、

傳に秋田系図は次記に、

人皇八代孝元天皇、
九代開化天皇、
孝元第二皇子大毘古命安倍將軍、
建沼河別命安倍將軍。
兄安日王 明日香之王、
弟長髄彦 膽駒之王、

とて、天皇方、また賊方を相筆頭にせり。是を下の国系図と曰ふなり。上の系図とは次の如し。

安倍日本国大王系図

   加賀国犀川郡主 犀川郷
一、三輪山白山大王 王子五人
   倭国三輪山蘇我郡 伊加流賀
二、耶靡堆大王 王子七人
   三輪山
三、明日香糠大王 王子十二人
   箸賀
四、明日香大王 王子六人
   白谷富雄郷
五、北膽駒大王 王子四人
   難波
六、磯城山大王 王子七人
   蘇我
七、大三輪大王 王子七人
   丑寅日本国
八、安日彦大王 王子三人
   丑寅東日流
  舍弟長髄彦王 王子二人

是の如き筆頭に始りぬ。
上の国、下の国と系図を相異にせしは、寛治二年、安東高星丸が菅野左京に命じて、上の系図を秘し、下の系図を以て家系を表したり、と傳ふるも、その實は秋田實季殿の攺系図たりと曰ふ。家系を幕府に報ずるなかに、自からを蝦夷とせるは、諸国大名のなかに、秋田氏が一人たり。

十三、

東奥は古代に大王を安東浦卆止浜に王居を建立せるは、秋田系図の一項にも記逑ありぬ。然るに、下の系図には詳細定かならねども、上の系図に明細ありぬ。

安日彦大王は、安東大將軍または日本將軍とも曰ふなり。古来、奥州の国は日辺の国とて、日の本の国たるは先住民の頃より呼稱されし故に、山靼にては、此の奥州を倭とは国を異なせる處とて日本国と呼稱し、大王を安東大將軍または日本將軍と稱したるは、通稱たり。ましてや、安日彦大王君臨以来は定稱されたり。抑々、此の国は人祖の来着に遡りて歴史ありぬ。語部録にも是くぞ遺りて、榮ありき。

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凡そ語部録の説く丑寅日本国の古事なり。

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是ぞ、丑寅日本史の大要にして基きぬ。

十四、

北海の浜、安東浦、卒止の浜の国を治むる安日王と曰す者とは、下の国秋田系図にも記ある一説なれど、何故か孝元天皇、開化天皇の系に結びて、下の系図は明細を濁らしむなり。日本將軍を日下將軍と書攺むるも、尭恒と曰ふ安東太郎より五十年間を以て不祥とせし二代を抜きけるは、まさに攺系図の要たる處なり。秋田實季が攺系図に記さるは、まさに祖を濁らすを以て成れるも、是れ公提の系図とて諸書に引く故に、秋田系図を祖にして、惑星の如しと曰はれむ。

十五、

安東とは東の大海を意趣せる付稱なり。依て、日本国は安東の大王成りませる大王にして、北海丑寅に在り、荒覇吐神を国神として君臨せる大王と曰ふなり。地軸は丑寅にかたむくは、北極星の不動なるをして明らかなりせば、彼の星を軸に貮拾四時をして一回轉し、日輪の赤道、南北に離近を以て四季の移りありぬ。依て、地軸の南北は常夜、白夜の二季他非らざるなり。

赤道、黄道、に遠ければ極寒にして解氷なし。古代より北極星を荒覇吐神の象現とせるは、古にしてその哲理を知りての事なり。

人の生死、一年の四季、萬有の盛枯、みなゝがら古代人の心に生死輪廻を想はせたるは、大自然なり。信仰に對象せる神を像に造らざるは、何より大自然を神として崇めたる故因なり。語部録に曰くは、次の如き理想たりぬ。

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十六、

シャンバラとは、古代天竺の極樂世界を曰ふ言葉なり。是れに継ぐるは、西王母、東王父のシャンバラなり。是の對なるは、ラマヤーナにて破壊なり。世の末は何事も残らず、無と破壊せるの兆を説くは、因と果になる外道なるも、萬有は因に依りて起り、果に依りて成れるものなれば、常にして時は逝き、萬有は生死をくりかえして遺るも、萬代ならず、無常に歸すのみなり。依て、世の末は至りぬ。廣しと見えて、地界は限られたる惑星なり。日輪、光熱を失ふるとき、その運命ぞ倶にせる他、術なきラマヤーナの至るときなりと曰ふ。日輪は火塵と碎け、その軌道にありき地界星も微塵と碎け、宇宙の塵と了りぬと曰ふ。シャンバラは魂魄の故に、他の新星に移るも、全能たりと曰ふは西王母の信仰たり。

十七、

古来、津保化族の居住せしは、宇曽利、外浜、東通糠部浜に多し。その古住跡に今に遺りき土中物の鍬先に掘らる遺物多く、諸記に遺る事、また多きなり。語部文字にて暦を今に用ゆるも南部に多きなり。南部の住人は古事を大事として、今に遺せるは安東一族の血縁に多く、未だ荒覇吐神を深き信仰に保つが故因なりと曰ふ。

南部の地は、東日流より雪の降量少なく、山海に狩獵、漁𢭐の出でむは、越冬に速く幸を得る期を早春に叶ふ故なり。糠部より宇曽利に、そして都母より宇涛安泻に海辺の幸多く、森林また深きが故に、鳥獸の群ぐも亦多し。依て、古人は集落し、国を造りきに、人々の集合居住せしは、太古なる大王国の創りにて、山靼渡来民に習得せりと曰ふ。

十八、

ブルハーン神とは、バイカル湖の神にして、太古よりブリヤート族の神なり。シキタイより砂漠にありて、水神を祀るより神格とせる神なり。亦、モンゴルにては黑龍江の神として祀らるなり。水を神とせるは、古代旅商人の常たり。生とし生けるもの、萬有の生物は水を無くして生々は難きなり。

凡そ人體とて七割を水分にして成り、地界とて七割を水にて表面を満しぬ。水を神とせるは何處にも神と崇むあり。人の衣食住に一日とて不可欠なるものなり。エジプトのアメン神、ギリシアのポセイドン神、シュメールのルガル神、そしてブリヤートのブルハン神なり。吾が丑寅日本国の三神の一なるガコカムイも荒覇吐神の一なり。かくして神に崇む水神も、時に洪水及び津浪のありき、怖れ敬ふる神なりぬ。

十九、

紅毛人国にクロームと曰ふ神あり。古代に変化自在の神と怖れられたり。人に生れしも、その信仰に入りては、生とし生けるものに化身し、憎める者を誅すと曰ふ神なり。吾が国には渡るなきも、シキタイ及びモンゴルに渡りきと曰ふなり。

廿、

満達の狩獵民は大鹿及び熊を仕留めたるとき、その場に生えし木を伐し、即作にしてコケを鉈刻り、その膽を抜きて狩獵神にさゝぐと曰ふ。そのコケを家に持歸り、童の守護神として、次の狩までの神とパオに祀れりと曰ふ。吾が国にては、是をコケ神とて、デゴとメゴの男女に造りて祀る風、是ありけるも、今にてはコケシとて童の玩具とて今に遺りぬ。またデコとは玩具の付名と相成り、メゴとは女の子たるの意趣なり。まさに時代とはかくありぬ。

廿一、

石を圓型に並ぶる古なる遺跡かしこに在りきに、人は能く是を築居の土台とせる多く、失なはれしに、是ぞイシカホノリガコカムイを祀りき、ヌササンの跡たるを知る人もなかりき。一輪、二輪、三輪ありて、古事祭祀の異るありぬ。北のヌササンは集落の表に設し、丘の底き處に多し。また石の塔も然りなり。石神とて、刻まざるを重ね、または並べ立石せるも存す。多くは北極星に向はせて造り、圓、一重より二重、三重ありき。

廿二、

丑寅日本国と曰ふ諸意識にあるは、たゞ蝦夷と傳ふるに、その反論も評さず、たゞ倭の皇化に洗腦さるまゝ如何なる微細なる感構にも、是を弾圧しける權政は、奥州一帯の總てに渉りぬ。依て、古来よりの證となるを消滅せるは、奥州征夷の毎に強行蒙りぬ。

古くは田道將軍より都度の征夷に皇化の制に、古代なる一切の遺習を邪道とし、反く者を誅し、その攻防に三十八年及び九年の後にて、全く再起を圧したるも、もとより日本大王は闘爭を避くるに、奸計せる征夷にして、蝦夷は蝦夷を以て討つの画策たり。皇化に從ふる者は、身分平等にして、倭住も赦さると曰ふ流言に惑され、その意に從ふる者は虜とて、官人奴隷となりて生涯を果てる多し。蝦夷として、他国の王に献ぜらるもありて、その侵略を手段を選ばず、征夷の挙行を代々にくりかえしたり。

廿三、

此の一巻は東日流外三郡誌の残書なり。
依て一巻より二十一巻に至る記事は北鑑に加へたり。代の移りき程に、寛政に仕上げたる後に、追加の條多く是ありければ、北斗抄、丑寅日本紀、丑寅日本記、北鑑、東日流六郡誌、東日流内三郡誌、諸翁聞取帳、山靼誌など二千八百巻を再書仕るは、是の諸書なり。勝手乍ら明治、大正の出来事も加へたれば、その史實に完全たり。

右の如く了巻の追而とせん。  末吉

和田末吉 印

 

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