北鑑 第廿四巻

注告
 此の書一切は門外不出、他見無用とせよ。
亦、一書たりとて失ふべからず。

秋田孝季

一、

世の古きに人の闘爭はなかりきを、古代オリエントの地にても、その代を告ぐる諸傳はありぬ。抑々、人類として猿類より進化し、直立し、無尾となり、體毛も脱け、道具を造り、火を起し、住居を造り、毛皮の衣装より織物に至る過程の順次進化をして人と成れりと曰ふは、古代シュメールのルガル神の傳なり。人の祖は、海なる苔もどきより種を流泳せる虫の如きに化身し、魚の如く手足尾の鰭をなせる如きに化身し、水陸両生の叶ふ蜥蜴もどきものとなり、猿類となり、樹上に果實を食して生々せるも、暖を求め地上に降りて、草に視界を閉さる故に、直立歩行をせる人として分岐せり。

大地は擴くして川あり湖あり、日輪の赤道、黄道をして、風土對久に種を耐生に異なし、白、黄、黑、の肌に各々地候に染むる種生と相成れり。萬物もまた然りなり。同じ種に在り乍ら狐と狼、虎と猫、その累系各々進化異にして、子孫を遺しむるは、今になる萬物の相なり、是の如く説きけり。

エジプトのホルスの神、アメン神、ラー神の神話も是の如し。亦、古代ギリシャの神、カオス、ウラース、ガイア、ポントスなどの神にて傳はりき神話も然なり。吾が丑寅日本にて古代なる神、イシカ、ホノリ、ガコの神とよく似たるは人共通せる人の誕生説なり。聖書にてはアダムとイバにして人の子孫世に遺るとせるも、人は悪の限り、萬物屠殺せるに依りて、神はノアとその家族、ノアのあつめたる生物を箱舟に積ましめ、大地に洪水を起し、生とし生けるものを除く、とある。同説は、古代シュメールの法典たりと曰ふ。神話の多きは、ギリシャ、エジプト、天竺、支那にしてその由因にあるはシュメールなり。宇宙の神アラ、大地の神ハバキ、水の神ルガル、にて信仰の理りを創りたるはグデア王、ギルガメシュ王にして成れり。

古代シュメールの地にカルデア民とぞ曰ふあり。古きより宇宙の神秘にぞ靈感たる神を信仰に顯したり。天の一切、宇宙人アラ神を獅子座に拝し、大地の神ハバキ神を蛇に拝し、水なる一切をルガル神とてチグリス、ユーフラテスの河として、農を營み、古代の都を造るに到れり。

然るに国豊かになりければ、人はこぞりてその樂土を奪はむ戦起り、闘爭を好まざるシュメール民は四散し、故地を放棄してアルタイ、モンゴルを經て、はるかなる吾が国に至れる一族ありて歸化永住せり。

二、

己れを満たす爲に、人をおとしめ、善人を表に、悪を心底にせる者多きは、人の世の常なり。神佛を職とせるものさえ、信徒を迷信に惑はし、金銭に散財を被らしむありて、世に善人にして、生々せるはなかなかに忍び難し。人をして善悪を知らざるはなけれども、朱に交りては紅くなり、生々は常に安しきことなかりき。人は睦あり、相和してぞ人世なるも、その生々に富貧あり、天命は人の生死に刻を定むなし。財を蓄積せるも、一刻にして失ふあり、まゝならざるは人生なりき。昔より運勢を開運を祈りて、神佛を祀り信仰せり。吾が丑寅日本国にては、古来より国神として荒覇吐神を信仰し、安心立命を神に祈りて、五千年の過却に在りぬ。

北は流鬼国、地語にしてサガリィンとも稱せる島より、渡島、千島をクリル族、東日流をアソベ族、宇曽利をツボケ族、羽の国にニギ族、陸奥にアラ族、各々国を創りきも、人の往来自在たり。国を肇むるよりエカシと曰ふ長老に治められたるも、是をオテナと曰ふなり。太古より山靼との往来あり。トナリ舟にて産物を物交せり。依て、シキタイ、モンゴル、シュメール、ギリシャ、トルコの紅毛人らも渡り来たり。

古代にては、東日流にても紅毛、白肌、青眼の混血人を多く見られたりと曰ふ。依て、東日流には異人の住める地名あり。紅毛崎、唐崎、鬼澤などありぬ。通稱、鬼と名のあるは、紅毛人を曰ふ。

三、

秋候、寒霜相加候、朝夕日の入り速く冬期相近き候へば、既に山、巖の峯に初雪も冠し候。御老體如何過し居しかとぞ御案申上候。さて、御賴の件に付き拙者渡島に赴き候間、何事の便りも出さず、平に御赦し下され度候。白老に至りコシマエカシに對面仕候。

彼の答へ申候事はシリベシコタンには荒覇吐神の社を建立せる年代は倭年號なる永保二年との由に候。渡島十二舘の候は不祥に御座候。またおとどの名に候も、年代知るを得ること能はず候。マツオマナイなる大舘及小舘の建立に候は、文治元年既城ありとの事に御座候。エカシの築きけるチャシにての候は、かしこに御座候。オテナのポロチャシも然に候。余市なる處に候は、康平五年に多く安倍氏の徒相渡り、天内山に柵を築き、三百人の落人住めりと聞き及び候。

江刺湊にての候は、山靼船の往来久しく相交易をなせるの事實明白に御座候。地民、今に猶、相渡り候事また明白なり。上ノ国、華澤城跡は天ノ川なる河辺に御座候も、勝山城なるは夷山麓にぞ城跡を遺し居り候。

上ノ国湊を護るは州崎城にて地民の傳ふ要地にて候。渡島なる木古内にては、今は漁村のみにて海苔にては函舘人住多かる故に今も築舘遺り居り候。何れも、元なるは東日流安東一族の居城に相違の御座なく候。

四、

新春に候。日一日とぞ永く相到り候。
遅かりし渡島の山里も野華に相満て、青天相續きて心地良き此頃にて御座候。

かねて申越の件、はからずもタタルエカシに對面を叶ひ候はば、サガリィンの渡航未だならずとの返事是あり候乍ら、伏して渡りを願ひ仕り居り候へば、諦らむるは早計に御座候。今はしき露西亜と曰ふ北方侵略の紅毛人、近代兵器、軍艦を以て、大銃を根室に撃ける侵略行爲の候は赦すべからざるの行爲に御座候も、幕府をして何事の鎭圧なかるべく候は、永き海の外にある国々の文化を閉したる故に御座候。朝幕の曰ふ忠孝義烈とは通用せざる空手形に候。速く對策を決せざれば、安東一族以来、北方領土たる国權も、彼の露西亜に侵略に及び候事明白なり。露西亜は山靼国に非らざる西王の国にて御座候。

吾が領国たるの證は、安東一族の他に知るべくもなかり候事を申置き候事の由を願ひ奉り候。

長三郎記より

五、

一筆啓上仕り候。御仰せの通り宇曽利川内にまかりて、安倍城の跡を探索仕り候も、何事是れあるべくに見當らず、空しく歸郷仕り候。蠣崎藏人の舘跡は御座候も、地人畑とし、濠は稲田にて古證も残らざる様に御座候。宇曽利にては砂鉄のたゞら今も遺りて、古事より跡々ぞ書留置き候。かしこ。

吉次

六、

坂東に平氏が八氏の數に知行せしは、桓武天皇の累胤高望王が平朝臣上總介をたまはり坂東にまかり、四年の任期を了えても歸朝せず、そのまゝ上總に住つき、子の国香、良兼、良將、良正らが子を遺し上野、下野、常陸、武藏、下總、上總、房州、相模、伊豆と一族が原野を開き、田畑を開墾し地領を廣げ、東に筑波、西に富士山を仰ぎ乍ら、陸奥の安倍一族と睦み乍ら知行せり。これは、奥州の安倍氏を白河以北より坂東にて押領をとゞめんとせる朝庭の策にして、互にその勢をきそいたり。

その頃、奥州は多賀城とて、名ばかりなる国府にて、安倍の勢下に伏し、羽州もまた然りなり。坂東の八平氏はみな乍ら勢を同じからず。平国香如きは、領民より貢税を重く召上げ、依て、多くの住民、税の軽き平將門の地領に移り住む者多く、將門はきはだって富と武威も優れければ、常陸の平国香、それを援ずる源護ら、承平乙未年、遂に挙兵して、平將門を奇襲したるも、その勢、將門にかなはず、国香は討死して果たり。その翌年、平良正、平良兼、平貞盛らが兵を併せて將門を攻めたるも、事は既にして奥州の安倍氏より通達され、將門は兵を配陣し、寄せる来襲の平氏連合の軍を逆襲せり。良兼らは国府に遁げ込み大敗したるも、將門は国府まで落すほどに展開せず、軍を引揚たり。

一方、良兼らは京師に落入り、朝庭に將門を訴えければ、將門は京師に呼召されたり。攝政藤原忠平の邸に朝庭の裁きを待控ひるの間、將門は紀貫之より歌の詩方を導かれ、これが坂東や奥州に流行せりと曰ふ。

天慶己亥年、検非違使の裁きは平將門を罪とせず、何事も問はれず、下總に歸郷せしめたり。然るに、良兼、貞盛ら是をよしとせず、常にして將門と攻防をくりかえし、出来秋に將門の手うすたる舘に良兼らは奇襲せるも、將門、不断にして備ありて應戦せば、良兼ら武運なく敗北し、貞盛、共に再起不能たるまでに勢を四散し、屍を山と築きたり。時に貞盛は京師に落忍びたり。

將門は石井に舘を築き、奥州の舞草鍛治を入れて討物を備へたり。時の名刀に天国、天座の銘あるは是なり。

七、

平將門、坂東に威勢を覇しては、地の郡司が苦情を將門に陳情する者多く、その事情たるは国府への反抗たり。

武藏国郡司に武芝と曰ふあり。国府の權守興世王及び源經基が郡司の治世に役職を越し、兵を挙げて農民より租税を強制するを、將門に願ひて、国府の横暴を止むを仲裁にと賴みけり。將門は即座に以て興世王の国府に赴きたれば、源經基、既に將門を怖れ京師に逐電せり。時、同じくして常陸の国府が国司に追せた藤原玄明が平將門の舘に助けを請ふて、將門、是をかくまふるや、天慶二年十一月、国府軍参千騎を挙兵して將門に攻め寄せたり。時に將門、壹千の兵にて是れに應戦せるも、国府軍師は平貞盛と聞きて、將門大いに怒り、多勢に無勢なるも、舘を開き撃出でたり。數ばかりなる国府の軍は、その先陣を敗らるや、国府に退きて籠城となるも、遂には灾られ二千餘の討死をいだせり。より速くに貞盛はまた京師に逐電せり。

將門は国府を誅滅し、国印、倉鍵を降の證として、地方民に郷倉を下渡したり。將門、心に理由如何にあれ、常陸の国府を占略せしことは、朝庭への反逆とて、意を決し、坂東八国、上總、下總、常陸、上野、下野、相模、武藏、安房の国府を阿修羅の如く討取りて農民に郷倉を下渡したり。依て、坂東にては新皇とて號けられ、丑寅日本国の如く、石井に大舘を築くべく算段をせり。

天慶庚子の三年に將門、居城を石井に落慶せり。雷門、辰門、虎門、神門と曰ふ將門が巫女に曰はれるまゝに東西南北に門をなさしめて、侍處十二棟、倉庫二十一棟、炊處三棟、神殿一棟、成殿二棟、馬屋八棟、高樓二棟、兵舍三十三棟と曰ふ方二町四方に及ぶる宮城たり。

將門、反乱すと京師に報あり、追捕使を藤原秀郷に押領使として宣旨し、その副將とて平貞盛を任命せり。官軍併せて四千騎。將門はかゝる事態と知らず、六萬の兵を解き、各々の郷へ歸農をなしたるときなれば、石井に残る兵、少かに四百人、上野にてかく探知せる平貞盛は、秀郷に急告せり。將門を討つは今ぞ、天祐なりとの報に、四千の官軍密かに石井に迫りぬ。急ぎ坂東各地に敵襲ありと急使せども、既に間に合う者なく、四百人の兵を以て戦ふも、石井舘は火箭に灾られ、落慶より少かに六十日をして灰となり、將門はあひなく討死せり。宙に浮たる如く各處の將門残党は陸奥に遁れ、安倍一族のもとに匿はれり。依て、白河及び勿来の関は閉され、官軍の追平は引揚たり。

安倍氏が將門に援軍せざるは、日本將軍賴良が幼少にして、將門の奥州侵犯もありとて、かゝる坂東の新皇ともなりては、世に三国の王朝の兆ありて好まざるところたり。然るにその残党を相馬に地住させたるは、將門の妻辰子の請願たり。

將門を誅滅せし平貞盛、藤原秀郷は五位となりて、倭朝の重臣となれるも、生々に物の化になやみて死せりと曰ふ。

八、

平將門の弟將平及び將文は奥州相馬に逐電し、姓を相馬と名乗り、名を將平は高將と稱し、將文は良嗣と稱し、安倍頻良の下臣とて地豪となりぬ。

平將門が京師に在りし頃、伊予守藤原純友と朋友たり。朝庭の官を賜る爲の宮仕たるも、その郷なる貢の差にて、官位の上下あり。通常にして得るは難く、二人は比叡山にて山靼のモンゴル式にてアンダの誓ひをせるあり。是を想ひに將門を知る藤原純友及び藤原恒利らは、日振島に水軍舘を築き瀬戸内の海賊を併せ、天慶三年に淡路島を襲ひ、八月には築紫、南海道、山陽内海面を掌中にせり。

天慶四年、藤原恒利の裏切にて、純友は大宰府を本據として官軍に兆むも、反忠に在りし恒利にその純友が軍策を見破られ、陸海より純友軍船に兆戦し大敗せり。純友の兵挙はまさに將門との誓を果せり。

九、

代の東西をして承平、天慶の乱は起れるも、朝庭の術策なる土地の權位賜授と官位の賜授賜賞には、反忠をそゝのかせるなによりの策戦たり。奥州にては、蝦夷は蝦夷を以て討つの策は、まさに朝庭の秘密にある策謀たり。坂東にては、平氏一門の内部訌を謀りて將門を討滅し、南海道にては、藤原恒利を反忠させて誅滅せしは、まさに是の如きなり。

實相の史は正史とて遺れる史とは雲泥の相違是ありぬ。天慶の乱以来に起りきは、奥州には安倍氏の威勢あり、瀬戸内には倭寇の將、大いに振起せり。

十、奥末櫻暦集

〽日高見の 蘆刈る川辺 夕浪の
  さやかなまめる 水汲む乙女

〽たゝねにも 後髪引く 敵襲に
  修羅の大鼓は すわ鳴り起す

〽もどかしや 條なき事の こりもなく
  うたての人の まさうずるかな

〽あへなくも 明かしかねたる 死出の告
  こゝに来てだに 心ためらふ

〽水の月 手に汲むならず たゞながむ
  下とし上を 見つる今宵は

〽神さびて かつ見る月の あきなるに
  さこそ心は 程だに非らず

〽よしなくも 廻りあふべき かりがねの
  すぎ間吹く風 共にあくがれ

〽磐城浜 あたりをとへば 漁火の
  波立つ毎に 浮きや沈みて

〽散りぢりに 花の逝くへは 知らねども
  風立つ春を 物さびたるに

〽かたおろし 裳裾をはへて 剣の舞
  白神山の 神樂納むる

〽山彼方 紅葉を閉づる 陸奥の景
  同じかざしの 映す湖

〽ます鏡 大事を研ぎて 日も暮れし
  是非なく止むる 今日の夕餉に

〽白雪も 枯れ枝咲かす 冬の花
  縁りなきしも 春をまたるゝ

〽ためしなき 我れ死逝きの 夢汗そ
  寝てぞかきなむ 夜覚めなるかな

〽やごとなく 今一かえり ふるさとの
  心づくしの みやげ持添ふ

〽ゆゝしくも 萌え出でそめし こぶし花
  野良に招ける 田打の報らせ

〽つとなきは うはなり打ちの 妹背とて
  よそにぞかはる 身の置き所

〽草むしろ 旅の常なる 置き腰の
  つらきものには 秋村時雨

〽消えかへり 寂しき秋の しをりゆく
  千草の花も 咲きてかなしや

〽言の葉も つらきものには 身の露を
  しのぶる草に これとまでなり

〽見らずるに 榮華の花も まさり草
  光りをかざる あすをも無くは

〽見えねども 心の花は 枯るゝなく
  いつまで草の 人の心は

〽天つ風 うつろうふものは 若かき身に
  隙行く駒の やどかるもなし

〽みやびなる したぶし宴 花盛る
  春を心に 衣を染めにける

〽通りまで きりはたつ音 かき鳴らす
  夜更けてやまず 心憂ろふ

〽夜もすがら 袖ふれつゞく 宵の宮
  ありつる人を 鳥居に待つぬ

〽秋風に 袂は寒し まつぼうけ
  人倫いかでか 心しあらん

〽解けとこそ 千里の磯辺 山苔路
  道を求めて 身の果さらに

〽うつゝなき 世はあだ波の うたかたに
  見うずる間にも 移り逝くかな

〽雲居月 打火輝く 荒覇吐
  夜半の神樂に 神さび渡り

〽石塔山 苔に露けき 夏の道
  足もとためず 宮居拝みぬ

〽荒野行く 軍駄の列も かげろふに
  燃えにし見つる 黑革おどし

〽草摺を 音からませて 先陣を
  手にたつ敵を 射とめ討たり

〽ゆうつけは 朝に飛去り 夕べ来る
  數をそろひて 春立つ行きぬ

〽まどろまん 春の日永に 涼み寝に
  蛙うるさし 夜なこめにして

〽えめぐるは 山のかけはし ゆるゝ毎
  譬へん方も もし夢ならば

〽あはれ知れ なまめき立てる 女郎花
  うしろめたくや 行き過ぐる春

〽岩泉 山もと近き 我が庵は
  杉はしるしも 今年枯なん

〽鳴る瀧の 虎のほゆるゝ とこしなへ
  心なくれそ 我もんだはず

〽めだれ顔 一期の想ひ しのゝめに
  早立つ行きぬ 羽黑山伏

〽かゝる身を 牢よりいだし 断罪の
  なからんあとに 厨月さゆ

〽とことはに 恨みこそあり みちのくの
  天照る日々に 事を傳へむ

〽くれなゐに はたりちやうの 音高し
  陸奥の山里 日毎立てなむ

〽雪やけに 色こそ変れ 陸奥男
  刀鍛冶する 砂鉄川人

〽おぼつかな 仙岩峠 双股の
  城こそありて 人ぞ救はる

〽せきあへぬ 行人征馬 往来の
  山吹盛る 白河の関

〽二つなく 三つなき命 賭にして
  日本護る 吾れは立つなむ

〽歎くとも 霜に朽ちにし 千草花
  人にまみえず 獨り逝きなむ

〽のならひに 事もおろかや 人首の
  暫しに宿る 處だになき

〽山は裂け 海に逆巻く 津波とて
  不断の試煉 憂ひ招かず

〽蔭月を 見る人もなき 衣川
  老に隔てそ 我も目に見ず

〽うとからず 心も澄める 最上川
  よるべの水も 汲みて神さび

〽よしありて 羽黑に入りき 山伏の
  かけまく行ぞ 即身涅槃

〽さゝがにの 巢になる家の 住居には
  彼岸も到る 功德なかりき

〽末もなく たゞかきくらす 行人の
  しかるべくぞと 誰や告げなん

十一、

丑寅日本の史は、倭史に障り多く、また奥州を知らざるの賜国大名にて、古事来暦の抹消さるは數に多く消滅されたり。然るに、安倍一族の歴史耳は、是を故意に顯すもなく、消滅をもせざるなり。此の世に安倍、安東、秋田氏、を以て遺る限り無き古傳と歴跡の遺りし故なり。

安倍氏にまつはれる古事は、倭朝にては蝦夷として荒覇吐五王の大王政あるを、一行にも記せずは、奥州こそ怖れおのゝきたる故因なり。奥州討伐の歴史に敗れたるは記なく、また事件を作爲し、反忠をそゝのかし、蝦夷は蝦夷を以て討つの奸策なるは記せず、唯一向に国賊たるの蜂起に作爲す。

三十八年戦の阿弖流爲及び母禮の誘惑刑、平將門への一族内訌より天慶の乱を以て誅し、前九年の役また然なる處なり。宮居にて、民地方の貢に生々せる京師の大宮人は、その奸策のみこそ議談に明暮し、權謀術數、常にして派閥をして虎視眈々たり。僞の奏上も尚、天皇の許よく祐筆しける才ある官人あり、世の乱をその一状にて租税及び戦に防人を徴發す。若し從はざれば親族一同までも刑に断罪さるゝ非道行爲ぞ、民を憂はしめたり。民が餓死に苦しみ、または天災に死すとも、大佛を佛閣をとぞ造營に手段を選ばず、勞役を徴發して、民はその底にあえぐのみたり。律令にきめられたる役夫は都づくりにかりだすもので、兵役も然り、歸郷には何れにも、道中の食糧も與ひずに歸し、途中に餓死する者多く、役人の他に安心立命はなかった。

まして、坂東より東北は尚のことであり、朝庭への反抗は、東北ほどに從ふ者はなかりけり。起るべくして起りける奥州の長期戦、倭朝にしては化外地とて、條なき蝦夷と忌みきらはれたり。

十二、

丑寅日本国は海浜に住むる者、山中に住むる者、平野に住むる者あり。この三住民をして産物を互に交換し、生々し来たりぬ。語部録に曰はしむれば、カコ、キコ、トコ、の住分と曰ふなり。古き言葉なりと傳はり今も用ふありけるなり。浜人カコは舟をハタ、銛をヤシ、網をド、釣針をカゲと曰ふ。山人は斧をヤ、鉈をマギリ、弓をマタギ、矢をマキギ、糸をクカシと曰ふ。野人は着衣をドギ、手袋をテケシ、はきものをノッペ、土掘る器をサフロ、と曰ふ。各語は今に用ふ通用語もありぬ。丑寅日本国は古代より今に信仰と言語も生きているを知るべし。

十三、

安倍氏一切の明細を秘にせる行のありきは、祖来の掟なり。代々、荒覇吐大王を襲名し、五王の治政あるを密とせし理由に付き、茲に産金、産馬の極秘にかゝはる一大事の故なり。丑寅日本国の地産にては、早期にて金銀銅鉄のたゞらありて産す。何れも山靼よりの傳受にて得たり。次には産馬にして、山靼馬を種馬になるもの、更には東海より渡り来たる古代馬にて三陸馬なり。語部録に曰く。

・・・・・・・・ なりと曰ふなり。

十四、

凡そ吾が国なる古史の候は、東日流語部録にて傳候事に他あらざるべく御座候。太古なる一切の史傳に候は、是れに基き候こそ實傳に基き候也。多くは語部なる語印にて遺り候も、その實證ぞ明白に御座候也。

抑々、倭史なる神代に候事の夢幻想定なる史頭に候より、信に證跡相遺り候故、古より語部文字七種にて書遺し候は、語部録にて御座候。

寛政二年二月日   秋田孝季

乙之介殿

十五、

吾が郷は古にして平將門が知行せし下總に御座候。筑波の靈峰を東北に望み、鬼怒川、利根川、小貝川、御座候。平將門が平良兼と戦闘せしは、地民の傳に子飼の渡と曰ふ傳ひぞ、今に遺り居り候。將門を祀りき社(旧あらはゞき神社)も御座候。国王神社に候は、將門像ありて候も、氏子、是を世視にぞ禁じ居り候。吾が郷かしこに將門を奉る傳説多く遺り居り候。折に江戸見物に参らせる事御座候はんに立寄り下さるべく。

文化三年八月十日   間宮林藏

御老僧机下

十六、

なかなかにみちのくの古事に細なる傳記に得る事難し。各藩こぞりて日本將軍の事跡を取潰せるに依れり。惜むらくは、天皇記、国記を藏せし下總の荒覇吐神社なり。

平將門が鎭守せし神社とて廢社とせり。更には坂東かしこに今に遺れる氷川神社の如きは、世視にはばからず荒覇吐神社の祀るありぬ。武藏に荒覇吐神社多く遺りけるは、古事を大事とせる地民の信仰厚きが故なり。坂東に荒覇吐神社の多く遺れるは、平將門が創めならず、高望王が平氏の繁榮を祈りて、日高見国神とて古来より丑寅に祀らる信仰の存續を認めたる故なり。

荒覇吐神の信仰には、人の上下なくこぞりて心願を叶ふる神とて流布あり。坂東より越州、濃州へと傳はり、

〽有難や、有難や、東の国の神なれば、
  つとめて救ひ給へとこそ祈り給はん。

坂東祭文の一節なり。荒覇吐神社のことにては、倭にも在社多し。近代に神稱を門神また客神、客大明神とて攺むありき。然るに、社の名札はいづれも字を以て替たるあり、荒脛巾神社、あらはばき神社と曰ふありぬるも、その信仰はまゝなり。

十七、

坂東にては、安倍川を西に地峽あり。富士山はその東堺にありて日本の神山なり。毎年山頂に登山せる行者ありて、今に絶ゆるなし。此の峯に祀る神は荒覇吐神なるはもとなる神なり。雄大にして雲を抜き、その高嶺は諸国の山頂より望まるゝ靈山たり。

富士山にまつはる史傳も餘多遺るも、古にしてこの山を日迎山、不死山と曰ふありて遺る記傳ありぬ。

〽日迎ふる 代々に不死なる 富士の峰
  わがあらはばき 神坐すの山

是く、古歌も遺りぬ。

十八、

丑寅日本国は、別なる倭国と歴史の相違あるを知るべきなり。康平五年に大王の一系たる安倍一族の滅亡にて了りたると思ふべからず、安東氏、秋田氏と今に相續せしは三春藩主なり。秋田家は上の系図、下の系図を以て世襲を柳に風として大名の座を今に遺したり。遠祖安日彦大王より一系にして現代に遺れる王族なり。

厨川合戦の敗北以来、東日流、飽田、渡島、サガリイ、千島、各處にその遺跡を今に遺せり。抑々、秋田氏の過却を尋ぬれば、縁りの者も亦、多し。今茲に、天明の火災にて失ふ多くの史書を復せんとて、今に以て猶續くなり。主命なれば如何なる困難にもめげず、尋證に報ありては尋ぬる心算なり。

寛政より現在大正二年六月   和田長三郎末吉

和田末吉 印

 

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