北鑑 第廿六巻

注言
 此の書は他見無用、門外不出と心得べし。

秋田孝季
和田長三郎

一、十三湊十三宗寺宗旨明細之事

一、倶舍宗

抑々、倶舍宗とは、根本典籍九品に分つなり。一、界品。二、根品。三、世間品。四、業品。五、随品。六、賢聖品。七、智品。八、定品。九、破我品。なり。前八品は有漏の諸を明し、後一品は無我の理を明す事を要とせり。更には界、根、二品は總じて有漏、無漏、の諸法、即ち、迷の因果、悟り因果、而して、天竺僧婆藪槃豆は色法十一種中、四大種、即ち、地水火風のみを實在とし、他は假法とし、極微無分説を有分説に採り、三世實有法體過末無體説を採り、心所と不所と不相應行法に就ては假在採る多元論に對し、一分其實在を許すは、有部の教義より異端なり。

十三宗寺にては、是を、一切有部宗とも曰ふ。

二、大日宗

大日如来、梵名、摩訶毘盧遮那と曰ふなり。一に、除闇遍明、二に、能成衆務、三に、光無生滅の三義にて大日と曰ふ。その一義は如来の智慧の德を曰ふ。彼の光明は晝夜、方處、内外、等の区別なく常に一切處に遍満し衆生の迷闇を照破する意なり。二義は、如来の慈悲の德を示し、彼慈光は普く一切衆生を平等に照して具有せる性德、即ち、佛性を發揮せしむを曰ふ。三義は、如来本有常住の德を指し、法身如来の身は竪に三世、横に十方に遍満し、時空の間永恒に不滅なり。永恒不断に衆生救済を示し、是の三義を有し、一切世間の所依にて一切に偏在し、時空の間因果の制約を離れたる大日如来は、無始無終の佛身にて、絶對平等の佛身たり。両界曼荼羅にては、倶に中央に大日あり。五智の寶冠を戴き、金剛界にては智拳印、胎藏界にては法界定印、を結びぬ。

三、阿含宗

阿含宗とは、阿笈摩、阿伽摩、阿含暮、と書くありぬ。譯しては傳、法、教、法歸と曰ふ。蓋し、傳は展轉相承せる意趣にて、三世諸佛、教は教法、歸法は歸趣の意なり。

四、華嚴宗

華嚴宗とは、大方廣佛、華嚴經に基き旨歸、探亥、亥談、五爲、外金剛部院、二十天、智識別供、五十要問答、三聖、三昧、五時、法界、觀門、亥鏡、らを多行して宗とす。

五、三論宗

三論宗とは、天竺大乗經の中觀、瑜伽の両系中より中觀系、支那に大成し、倭国に傳へらる一宗なり。倭にては、南都六宗の一にて、中論、十二門論、百論の三部を主要の經典として成せる宗旨なり。文殊、馬鳴、龍樹、に相承し、二派となりて、一は龍樹、提婆、羅睺羅、青目、莎車王子、須利耶蘇摩、須利耶跋陀、羅什、に、二は龍樹、龍智、清辨、智光、獅子光、に傳へ、而して羅什、の門下にて、僧肇、僧叡、道融、道生、慧觀、の俊才出で、更に道生、曇済、道朗、僧詮、法朗、吉藏、と相承し、僧詮、より吉藏、までに本宗の教義ぞ大成せり。倭に三論宗をもらたしたるは慧觀か吉藏、に受学し、智藏、道慈、に傳へ大安寺、元興寺、の二派ありぬ。宗經には宗三傳、玄義、三論ありぬ。

六、法相宗

此の宗は、唯識中道宗、唯識宗、中道宗、應理圓實宗、晋爲乗教宗、とも曰ふ。解深密經を旨として、成唯識論、瑜伽師地論らに依りて立宗す。此の宗は宇宙法界より現象の相を説くに依りて法相宗とす。本宗の主旨は、唯心論にて、萬有は阿賴耶識より縁起す。初は八識七識六識とす。是を三界唯一心、心外無別法と説く。分類して五位百法とし、萬有の眞なる實在と虚妄とを明らめ、遍計所執、依他起、圓成實、と説き、識が外界を認識の過程に就て是を四分、即ち見、相、自證、證自證、に分けて説きぬ。理を證悟せる方法とて五重唯識觀、即ち、遺虚存實、捨濫留純、攝末歸本、隱劣顯勝、遺相證性、を立つる。

また衆生の解脱に就いて、五性各別を説き、久遠に解脱し得ぬ者ありとし、自宗三乗教を眞實とし、一乗教を假説とせり。故に本宗を權大乗とし、天竺にては、中權宗に對立し、瑜迦宗と稱されたり。法相宗に瑜迦師地、分別瑜伽、大荘嚴、辨中邊、金剛般若の五部と攝大乗論、顯揚聖教論、唯識三十頌、成唯議論、成唯識論逑記、唯識論樞要にて本宗の教義ぞ大成せり。

七、律宗

律宗とは、専ら律藏にて立宗せり。釈迦牟尼が一代説法のうち、弟子ら不正行爲を爲したる毎に、一々機限に應じて律を説きたるを、匡正されにしを釋尊滅後、第一結集に於て優婆離が是を八十回に分けて誦出せる八十誦律を結集せる後、迦葉、阿難、末田地、商那和修、優婆毬多、の五師ら是を傳へ、佛滅後、百年に至り曇無德部四分律、薩婆多部十誦律、迦葉遺部解脱律、弥沙寒部五分律、婆鹿富羅部僧祇律、の五部に分つ。魏の嘉平二年、天竺僧曇柯迦羅四分律を傳へ、姚秦の代に鳩摩羅什が十誦律、佛陀耶舍は四分律を譯してより諸種律書相成れり。その後、法聰、道覆、慧光、道雲、道洪、智首ら相尋ねて賜り、唐に入りて四分律宗は三分し、終南山の道宣は南山宗、法礪は相部宗、懐素は東塔宗を開き、就中、南山律、最も行なはれ律宗とは南山律を稱せり。倭にては道光が入唐し、是を傳へたり。

八、臨済宗

臨済宗とは、禪宗五家、臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼、の一にして南嶽下の第四世臨済義亥の末流なり。義亥は黄檗希運の法を嗣ぎ、唐の宣宗の頃、鎭州臨済院に住し、後、大名府興化寺の東堂に遷り、宗風を振ふ。よって、彼の後を臨済宗といふ。倭にては榮西が入宋し、黄龍八世虚菴懐敞の法を嗣いで、建久二年、歸朝して成れり。

九、法華宗

此の宗は、正しく曰ひば天台法華宗と曰ふ。根本聖典として法華經を奉り、法華七喩、即ち、火宅喩譬喩品、窮子喩信解品、薬草喩品、化城喩化城喩品、衣珠喩繫珠喩五百弟子授記品、醫子喩寿量品、髻珠喩頂珠喩安樂品。法華二妙、法華涅槃時、法華文句、法華法、法華二處三層、法華八講、法華問答、法華六瑞、法華論、ら日蓮宗とは異なりぬ。

十、眞言宗

眞言とは、漫怚羅の譯語にて密咒、陀羅尼らの同意なり。眞言宗とは詳しく曰ひば、眞言陀羅尼宗と曰ふなり。如義眞實の總持にして、一字一句中に無盡なる義趣を含む意なり。殊に眞言口、印契身、觀想意の三密相應を宗要とす。本宗が口密を以て宗名とす。本宗主要典籍は、大日經、金剛頂經、の両部大經を根本經典とすると倶に、蘇悉地經、瑜祇經、要略念誦經を加へて五部の秘經とす。他に釋摩詞行論、菩提心論、大日經疏、等の經軌に加へて顯密二教論、十住心論、秘藏寶論、即身成佛義、聲字實相義、吘字義、らを宗義成立の要典とせり。

十一、天台宗

此の宗は、台家、台宗、天台法華圓宗、天台法華宗とも曰ふは、支那隋代に浙江省の天台山に在りて智者大師の開宗なり。基く處は、法華經と龍樹の思想なり。智者の先人として、北斉に慧文、陳に慧思が存す。智者は法華を重んじ、諸法實相論を説き、三大部、法華玄義、法華文句、摩訶止觀を作り一宗を大成せり。

十二、禪宗

此の宗は、佛心宗とも曰ふなり。達磨大師が支那に傳へたる宗旨にて、教外傳、文字言語に依らず、直に佛心を以て他心に傳導するを宗格とし、坐禪をなし、内觀自省し、自己の心性を徹見し、自證三昧の妙境に體達せるを宗要とせり。本宗の傳承は天竺に釋尊より正法を遺嘱されにし迦葉より菩提達磨に至る二十八祖あり。倭より白雉四年に道昭が入唐し、禪の七傳を得て歸朝しけるも、相承者なく、是を丑寅日本の安倍安国大王に授けたりと曰ふ。是の七傳ぞ、東日流石塔山荒覇吐神社に遺り、和州元興寺道昭禪師入唐、七傳と表記ありぬ遺物なり。依て、是れぞ後僧の禪僧にかゝはらざるものなり。

十三、念佛宗

此の宗は佛の相貌を觀察し、その功德を憶想せるものにして、念佛爲宗とも曰ふもありぬ。他力本願を旨とし、念佛爲先、念佛爲本、念佛門、念佛無滅、念佛廻向、念佛往生、念佛往生願、念佛觀、念佛三昧、念佛衆生攝取不捨、念佛正信偈、らの信仰に唯一向に念じ、乃至十念の誠を心身に阿弥陀仏の名號を稱へて往生を願ふ教門、善道、曇鸞、らの主張せるものなり。

十四、成實宗

訶梨跋摩の成實論を根本聖典とせる宗旨なり。後秦の弘始十四年、羅什、僧叡、道高、僧渕、法雲、智藏、慧旻、ら弘めたり。倭国に高麗の慧灌が傳へたり。時は推古天皇の三十三年なりと曰ふ。成實論は十六巻乃至二十巻なり。天竺、訶梨跋磨姚、秦の鳩摩羅什にて成れる是を要とし、一部五篇發聚、苦諦聚、集諦聚、滅諦聚、道諦聚、三百二章より成れり。

是の如く十三湊には十三宗各々が十三宗にありき。現代になるは無けれども、嘉吉年代戦乱に山王炎上にて灰と消滅せり。この他、灾に消ゆ寺閣ありて、阿吽寺、長谷寺、禪林寺、龍興寺、三井寺、壇臨寺ありぬ。

〽苔香る 古寺跡道辺の 石くれに
  燒にし跡を 遺す山王

西海坊空也の歌、一首にも愢ぶなり。

(注)成實宗は十三、とあり、いづれか一宗は余分と思はれます。華嚴宗か。

二、

十三湊浜の明神、璤瑠澗明神、於瀬洞神社、熊野宮、荒覇吐神社、春品宮、大山祇神社ありきは、十三湊に城柵の縄張に相應せしめて造築せしものと曰ふ。本舘福島城を高舘丘に八町四方の邸をなし、青山、鏡、羽黑、中島、白鳥、新城、唐川、墳舘、柴崎の城神とて建立せしは、今に遺きもあり、また跡もなきに歴史は却り逝きぬ。神社に遺れる遺寶の總ては渡島、飽田に移しめて、今に遺るは地跡のみなり。永き月日に渡りて安東縁りの者をして秘にある埋處に掘りてぞ、是を一族再興の資とて、中山に人ぞ秘住せしめ、ほぼ掘り盡し、軍資の大費と檜山城を築くも、出費大なり。住むる處にぞ佛寺を建立し、安置の佛像、法具の費とて安東築費にての奉賀に便なるなし。世が乱れては、討物、軍馬の備ぞ、また大費なり。正正具足用達書に次の如く記ありぬ。

出費總算

渡島、流鬼、千島、船百八十六艘。苫舟三百二十六匹、皮舟五百七十匹、帆布一萬二千反、桶二萬七千本、馬具、荷駄四千、乗鞍六千、くちばみ一萬、右、マツオマナイに御屆け申候。

正平二年七月日  火内城之介 金介

蠣崎殿

覚 余市陸揚明細

米二百八十七俵、着布二千六百反、塩七十俵、油三百六十樽、刀五百八十腰、突物六百本、矢二萬六千束、干飯一千俵、

右之品屆申候。

正平二年八月日   火内金介

蠣崎殿

三、

渡島の松前に將軍山とてあり。大舘はその麓に築かれ、更にその下に小舘を築きたりと曰ふなり。東日流十三湊山王坊より本尊を移しめたる飛鳥の時代なる本尊を奉じ、阿吽寺を建立せり。安倍盛季の發願なり。盛季は勅令に依りて、子息康季を若狹の小浜に遣して羽賀寺を再建、上洛慶賀を果したるあり、日本將軍の再號を賜りたり。東日流放棄とて、天皇は京役管領を南部守行に轉賜せることはなかりきと曰ふ。守行の東日流進略は、安東一族をより豊かならしむる渡島、飽田、に安東氏の威勢を大ならしむる逆功科と相成れり。また松前に渡りき安東一族は海峽に向ふ要處に十二舘を威に築きて、北方を固めたり。

四、

古代より渡島を丑寅日本国とて、安東一族をして、その往来を自在に無許とせる海峽の渡りたり。依て、此の禁断なきに、倭人船を渡島に往来せるも、地人をだましける海産物の代價不拂にして、往来のみならず武人を同乗せしめ、難に土民を憂はしむあり。

安東貞季は倭船の来船を禁じたり。安東水軍の起りたるは、土民守護のためなりと曰ふ。倭船は船籍を密とし、西海に軍船を卆ひて来襲せること都度にして、渡島を犯せんと軍船をまかり出だせるに至りき。然るに、海戦にして古き世に阿部比羅夫を降したる程なれば、倭の海賊、海図を知らざれば速潮に誘はれて沈めたる海戦法、まさに無敵の威勢たり。倭にては、源平をして陸海に戦事あり。北海に襲ふいとまなく、彼の海賊は倭寇とて支那、韓船を襲ふになれり。

安東船の揚州往来には倭寇もなく、安東船の商易は益々隆興せり。京船とて安東船の諸国往来も、船旗に・の印をなせる三十八反の帆に、寄湊を断ずる處なく、その通航を能くせり。かくある安東船を知るべし。

五、

東日流六郡、宇曽利三郡と定めたるは、安東盛季なり。宇曽利とは、田名部、糠部、南部にして、東日流六郡とは、璤瑠澗、有澗、奥法、平川、稲架、鼻輪にして、上磯、下磯、外浜、大浜、横浜、佐井、大澗、鮫は宇曽利、東日流の区域なり。

此の地に古代よりアソベ族、ツボケ族居住し、何事の爭ひぞなく物交して睦を以て生々せる代々の泰平永代す。此の代より渡島、流鬼、千島の往来ありて、地産の物交をなせり。東日流にては既にして農耕ありて、人の市ぞありけり。凡そ、五千年前の事なりと傳はりぬ。信仰深くして、三階の高樓を築きて、上階にイシカカムイ、中階にホノリカムイ、下階にガコカムイを祀り、春夏秋冬の祭事を行ぜしは、近邑の衆集いてカムイノミを焚きて、にぎはひたり。

民は、神司ゴミソ、靈謀師オシラ、占師イタコをして安らぎとせり。古き世の頃は、天変地異の禍多く生々安き事なかるゝ多く、神を何よりなる賴の求道とせり。コタンには、イタコまたはゴミソ及びオシラの神司居りて、病や諸祈祷をせるありて信仰深きたり。

六、

北斗の星とは、七星を思ふるも、その北宇宙に不動なる一星あり。是を古人は天の軸星と拝したり。大宇宙に地界より仰ぎ見て、同じ方位にまたゝける星なれば、世界何處の国にても、これを神星とて崇まざるなし。古代オリエントの信仰に欠くるなき一星なり。

佛法にては、北辰菩薩、または妙見菩薩とて禮拝す。北斗法とて、北斗供、北斗尊星王法ともいふ。北斗七星を本尊とする息災、延命に修する祈祷法は、大原の長安僧都が賀陽院にて修したるを以て、爾来、東密台密の大秘法とせり。

されば、荒覇吐神の信仰に於ては、北斗七星にかゝはらず、北極星のみを神の眼とて、是をイシカ陰天神とて拝したり。昼は日輪、夜は北極星を以てイシカカムイとて意趣せり。語部文字に・とあるは、北極星の印なりと覚つべし。

七、

役小角、東日流中山に来りて入寂以来、此の峯に續くを東日流三千坊とて、倭僧の多く来りぬ。名にある僧にては、圓仁、西行、金光、円空、貞傳、弘智ら宗を越信して行者の聖山に求め来たりぬ。然るに、石塔山を知らず、四辺の山に脚跡を遺して却りぬ。

安倍一族の墓に詣でる者も然なる處にて、たれとて中山の石塔山に入るを果さゞる也。安倍一族が秘とせるは、永きに渡りて永眠を覚されるなく現世に至りぬ。是を護りたる和田一族とて、山なせる遺物を世に密とし来たる故因たり。和田小次郎一盛が安東宗季にこれを委ねらるまゝ石塔山を護持せる幾十代、子々孫々にこの秘を明さず、常に世襲を柳風にしつゝその密約を今に護持せり。今以て常に三春藩との連絡密とし至るは祖来の因なり。

八、

十三湊、鮎内の奥、山王坊日枝神社あり。その境内に十三宗寺存す。天台寺、眞言寺、三輪寺、臨済寺、阿含寺、大日寺、倶舍寺、成實寺、念佛寺、禪寺、法華寺、律寺、法相寺らなり。何れも方場両界曼荼羅に地會し、方丈の堂を建立せしものなり。發起せしは藤原秀榮にして、平泉より寺工を入れ、三年を工程し落慶せしものなり。

抑々、秀榮の發願にて建立されしは、阿吽寺、三井寺、禪林寺、長谷寺、龍興寺、壇臨寺らありて、その寺跡ぞ今に遺りぬ。

九、

東日流平川郡藤崎に存在せし平等教院、後なる萬藏寺の建立にては、五輪塔・板碑の他はすべて他に移されたり。多くは南部氏に石塔の類・佛像・繪図・文献に至るすべてを失ひたるは、南部守行の故意なる事態に依る多し。かねてより東日流を一統せん野心に、南部氏のゆさぶりぞ應永十五年より平賀の得宗領にありて、遂には、安東教季が居城を落して總勢を十三湊に向はしめ、嘉吉三年ようやく十三湊を落しむるも、何事の戦利なく長期の軍費ぞ空しける。もとより安東氏は廢湊に等しき十三湊に執着せじ、居領を渡島及び飽田の檜山・北浦に既領せし領民の移住了りけるときなれば、一兵の殉者も出ださず東日流を放棄せり。祖来より人命尊重の掟を破らず、敵をこらし新天地を得たり。

十、

安東一族は諸国にありて、禪宗系の寺に檀徒たるその佛門の多きは是の如し。

千光派榮西 建久二年、
道玄派道玄 安貞元年、
聖一派聖一 仁治二年、
法燈派法燈 建長六年、
大覚派蘭爰 寛元四年、
兀庵派兀庵 文應元年、
大休派大休 文永六年、
法海派無象 文永二年、
無学派無学 弘安二年、
一山派一寧 正安元年、
大應派紹明 文永四年、
西澗派子曇 文永八年、
鏡道派覚圓 弘安八年、
佛慧派道隱 元應元年、
東明派慧日 延慶二年、
清拙派正澄 嘉歷元年、
明極派楚俊 元德二年、
愚中派周及 觀應二年、
竺仙派梵仙 元德元年、
別傳派明胤 康元元年、
古先派印元 嘉歷元年、
大拙派祖能 延文三年、
中岩派圓月 正慶元年、
東陵派永𤫂 觀應二年、

是の如く多派たり。安東一族はこの何れの派にも屬したり。

鶴見之僧 空淨

十一、

山王とは、三輪大神の事なり。三輪と曰ふは天地水の理趣にして、荒覇吐神の後稱たり。叡山なる山王の付名は傳教大師にして、その以前は大山咋神といふ一社たり。傳教歸朝後、耶靡堆の三輪大神を觀請し来たり、一宗の守護神として山王なる神號を以てなせるは、法報應の三身を即一身とせる字を當たり。三身を横に山とし縦を王とせしはその意趣なり。即ち、三輪大神を釋迦の垂迹とし、大宮、大比叡神、大嶽山王と曰ひ、大山祇また大山咋神を藥師の垂迹として、小比叡宮、二宮、地主權現、波母山王と稱したり。後に七社、二十一社となり、總じて山王と稱したり。東宮、西宮とは日本と倭を神を異にせる初の二つなる国の区ありて祀りき處なり。世襲乍ら荒覇吐神は外神とし夷神と號し東宮の外に遺りぬ。現にして尊像なく小堂宮のみ遺り、地藏入来の前に在宮せるは忍び難きなり。知りたくば、山王に赴くべし。

十二、

東日流中山に遺りき大光院奥坊小角堂は、役小角の墓陵にぞ建立ありきも、今は朽崩れ再興なく荒覇吐神社に合祀され、遺物一切は今に遺りぬ。本地尊金剛不壊摩訶如来、垂迹尊金剛藏王權現、救世尊法喜大菩薩、是れを本尊として成れるは、何れも役小角が一代に感得せし尊像なり。依て現なる山伏の勤行と異りぬ。役小角を優婆塞神変大菩薩とも稱したるも後號にして、元なるは役小角仙人とぞ號され通稱役行者とて人に知れり。役行者は常にして山岳に身を置き、宇宙の神秘に修験の奥義を得たるは、四空定誓願文なり。金剛不壊摩訶の悟りに生死を明らむるは四苦諦なり。四苦即ち、生老病死の生々渡世の苦にして人の苦遇なり。まぬがれなき人の生老病死、尚苦敷ありて生々す。

佛の曰く、諸行無常是生滅法生滅滅己寂滅爲樂。是の如くは唯苦諦のみにして悟に遠し。人生れ乍らにして生老病死の至るあり、更に己れの造れる四苦ありぬ。愛別離苦・怨憎會苦・求不得苦・五陰盛苦なり。是くあるは、生々に善悪を爲す因にして、修験の道に心身一統判断の得道なくして人生の救済なし。四苦定誓願とは、心に身に天秤に計りて何れも重軽なく諸行に己れの心身を平等にせしむの行は修験なり。金剛藏王は是をつらぬく爲なる修験行なり云々とありぬ。

十三、

法華守護三十番神の中に客人權現あり。延久五年、楞嚴院の長吏良正、神社三十體を勧進し法華經を納めたる横川の如法堂を日番に守護せしものと曰ふも、是れに客人權現とあるは荒覇吐神のことなり。

一日は、熱田大明神、
二日は、諏訪大明神、
三日は、廣田大明神、
四日は、気比大明神、
五日は、気田大明神、
六日は、鹿島大明神、
七日は、北野天神、
八日は、江文大明神、
九日は、貴船大明神、
十日は、天照皇太郎、
十一日は八幡大明神、
十二日は加茂大明神、
十三日は松尾大明神、
十四日は大原大明神、
十五日は春日大明神、
十六日は平野大明神、
十七日は大比叡山王、
十八日は小比叡山王、
十九日は聖眞子山王、
廿日は客人權現、
二十一日は八王子山王、
二十二日稲荷大明神、
二十三日住吉大明神、
二十四日祇園大明神、
二十五日赤山大明神、
二十六日健部大明神、
二十七日三上大明神、
二十八日兵主大明神、
二十九日苗鹿大明神、
卅日は、吉備大明神、
らなり。

古来より膽澤の五王阿弖流爲が社山にて謀刹以来、客大明神とて祀られきは京師たり。

十四、

此の国は古代程に歴史ありて深し。日進月歩、世襲をして丑寅日本国は倭人の侵領に依りて、諸事生々の安養を害し、討物執りて起り、虫喰ふを追討す。是を国賊とて征夷の將軍を推挙に、六千の兵を挙げたる上毛野田道將軍、白河を抜き陸奥伊治水門に寄せ襲ふるも、誘滅の策に乗謀、一挙に討たれたり。

一兵とて退却を得る者なく敗る田道の軍、皆滅す。是、丑寅日本国の征夷の始なり。此の語り倭史に見ゆ一説なるも、語部録に一行の記逑なし。史實にありせば、語部録に遺りき史傳なり。依て、かゝる史實のなかりけり。

十五、奥の歌集

〽おもほえず 心憂ける 下り月
  われとは知らぬ 白髪殖つる

〽夏暮れて 庭の荻草 花まりえ
  色香に染むる 露もせに咲く

〽優曇華の 花ぞ見ぬまに 人の見ん
  話のみこそ つもりぬるかな

〽祝ひ花 散らぬさきにと たをり来て
  妹背となりし 宴盛り立つ

〽のどけきは 霞の春を 梅が枝に
  鳴くや鶯 山陰の主

〽夏の月 泉落しに 見つむれば
  跳つ鯉尾に かきゆらぐかな

〽やまもせに 松が枝月に 夜冴えて
  今宵の宴 まさりけるかな

〽春は芽の 霞立つほど ふくらみて
  山里かざる 櫻のどけき

〽東日流野の 大里擴き 葦原に
  赤き夕日の 日の本の国

〽あらはばき 神ある空の 北斗星
  宇宙動かず 夜明くるまでも

〽陸奥こそに 海に果ある 宇曽利崎
  渡島の影を 手に取る如く

〽海風の 磯香を運ぶ 外浜の
  昔のまゝに 夏は去り逝く

〽三春里 安倍のおはせる 城下には
  古枝も枯れで 瀧櫻かな

〽庄内の 砂泻の湊 最上川
  昔のまゝに 舟ぞ往き交ふ

〽仙北の おばこ恋しや 玉川の
  湯宿の宵に 聲をあやなす

〽三陸の 海幸溢る 山田浦
  小島二つの 見ゆ宿恋し

〽朝炊の 煙りのどけき 遠野里
  貞任山に 立ち登るかな

〽松島の 塩焚く浜の 朝景色
  なづともつきぬ あたり見うずる

十六、

道芝に露かゝり、東の山端白みかけ、朝早發ぬるみちのくの旅、東日流には未だはるかなり。昨夕のうちに終えたる道中聞書きぞ、鳴子にては由なかりけるも、伊治沼に得る事多し。二階堂貞繁翁の史傳に聞き、現場遺跡をめぐる事、十日を請宿せり。安倍良照の武勇六話を収したり。七月四日、相馬泰造殿を迫に訪れ、一夜を宿宴す。安倍一族の縁者集ふは四十一人にして、多賀城談議を聞くも、各々に相違是あるも、書留むるは一説より多説あるも、皆、記しきぬ。

一夜宿りがまた一夜と相成り、是の地にて盆を迎ひたり。七月十五日、衣川にたどりたるも、宿を平泉にとりて眠りぬ。

七月十六日   吉次

十七、

安倍氏の舘は礎石を用ゆことなし。掘建を以て二階に作り、天然の要害を以て築く。

同居三年乃至十年なり。川辺また湖畔に築き、柵を二重より三重、空濠、水濠、にて防ぐ。犬走り能く城境に縄張るは秘中の秘たり。からくりありて、城の八方に仕掛けたり。

夜警に狼を飼ひ、敵襲あらば領中、橋を落し道を塞ぎぬ。囮兵を以て敵誘し、迫及び楯垣、逆茂木の圍中に入れて討なむ。若し、敵、油断ありては後續なる兵糧の荷駄を襲ふて飢はしむ。草に馬毒を仕掛け、敵馬殺し、夜陣を襲ふを常とし、不眠になる敵を逐電せしむも策にして大いに惱ませたり。

十八、

安倍一族をして領中に戦起りては、事起らざるに領中の民を八方に移したり。人命、馬を大事とし、民との信を第一義とせり。敵侵に民を掠むとも、人、不在にして糧、一粒もなく、井戸に水呑みては毒に犯さるなり。

古来より征夷の軍かくあるに多く殉じたり。また攻道に落石のからくりあり、伐木の仕掛け、囮兵の奇襲ありて、不戦にして人馬の多くを失ふ多し。地民に化装せども、令言ありて探り難く、討たるゝ多し。戦となりては領民皆兵なり。

十九、民割振住之事

廿、

廿一、

綽空坊、幼名を松若、皇太后宮大進日野有範の家に承安三年に生る。四歳にして父を失ひ、八歳にして母入寂す。養和元年、青蓮院慈圓に剃髪し、範宴とぞ稱す。叡山に上り、東塔無動寺の大乗院竹林房靜嚴に天台学を修め、奈良に赴き、諸宗を究学せども救済に叶はざるを悟り、建仁元年正月以来、京師六角堂に一百日参籠し、聖覚法印の導にて吉水に法然を訪ね、念佛門に入る。時に二十九歳、名を綽空と攺む。建仁三年、藤原兼實の娘、玉日を娶り、承元年、住蓮、安樂、の事件に事、大となり、法然は土佐に綽空は越後に流罪さる。ときに東日流に在郷布教にありき、安樂坊の進めにて法然門下に在りき金光坊圓證は、阿波之介なる者より流罪の事を聞きて、先づ綽空を佐渡に訪ねたり。金光坊、聖光坊、は布教に出でたるに付き、綽空は師と會ふが如く悦びたり。綽空は金光坊に念佛談議せり。佛の救済の候は、乃至十念に救ひ給ふ事叶はざり候かと問へば、金光、曰く。念佛一向にして、他力、猶自力に本願を願ひ候も、溺るゝ者、佛を念ずるの自力なくば、救ひの手を逑ぶるもの非ず候。自力乃至他力をや。二尊に請ふて叶ひ候、とて別れたり。

金光傳より

和田末吉 印

 

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