北鑑 第卅六巻

書意
此の書は六十一巻を以て綴り諸々の史傳を六十餘州に相渉りて書写亦は聞書せしものなり。

庚戌二年七月廿日   孝季

奥州古代佛法之事

一、

天竺の釋迦牟尼が衆生に説ける佛法の要には次の如く悟道を示し給へり。

諸行無常是生滅法生滅滅己寂滅爲樂

是の如きは無上道に達せる求道の要たり。世に生る萬物をして、その生死の中に子孫を遺す營み、人間耳ならず、世にある萬物の生々に男女をしてその生命體にこもれり。

神の創り給ふ理りは、生老病死の四苦諦に成道して悟を得る求道の要たり。人はその法則にものたらず釋迦牟尼の法袖を笠にして、外道も入れて聖言を説き、大乗小乗の山なせる法典あれど、是、釋迦が成道のしるべならず、後世信仰の僧にある者の加説なり。

吾が丑寅日本国にぞ佛法の傳道せしは古くして、大寶辛丑年、役小角を以て流布ありぬ。世に役行者とも曰ひ、亦、役優婆塞とも稱されたるも、四泉の付名にして己れは常に小角仙人とて衆に告ぐ。彼の生郷は倭国葛城上郡茅原郷にて、高加茂役公を父とし、須惠と曰すを母とて生ると世稱せど、もとの父なるは田村の皇子たるは誠の事なり。役小角と名付けしは、母須惠にして、幼少より葛城宮に漢書学を得さしめたり。小角、好みて学ぶるは老子の道教にして、宇宙の構成を木火土金水になる化縁と、日月になる陰陽五行を星宿に算法し、宇宙の法則を求め、山嶽こそ神への聖處に近く靈得せんとて、倭の金剛山に修し、自から法喜大菩薩を感得せり。法喜大菩薩とは、天竺佛法法典に非らざる佛名なり。

更にして、神佛は一如とて大峯連峯に巡り、金剛藏王權現を感得し、その神通力を全能として四衆に説き、身を空に飛行し、亦、己が姿を煙消せし山嶽薬草及び山湲の薬石を粉にして、病める諸々の衆生を救済し給ひば、大衆、役小角なる法力を求めてその救済に求めたり。役小角が心して金剛藏王權現を説けるも、衆に曰くは、常にして金剛藏王權現とは垂地にして、吾れは未だ本地なる本尊の感得に至らずとて、尚、入峯して本地を求めたり。然るに、百行千行の修法に求めども、小角の辺に現れ惑はすは、佛法にありき如来、菩薩、明王、天部、の誘惑に惑ふ耳なれば、小角、百日の断食を以て大天井の窟に修す。然かるに小角が求めし金剛藏王權現の相は、うつゝにも現れず、遂に断食百日行を終へり。小角は断食苦行に求道して悟成ぞ空しとて、神道にその成道を求めたり。倭神を手近にして、その救済は衆に及ばず、その求道また神話に盡きて、秘を以て隱遁す。依て、小角、倭神を放棄し、支那に西王母、女媧、伏羲、の信仰界に求めて、唐僧にその由を尋ぬれば、小角、遂に外道の妖しき法を衆に及ぼさす妖行者とて捕はれぬ。

小角、伊豆に流さるる間、母、須惠、小角を案ぜる餘り死せり。小角、尋常に配處に本地を求め居たるも、母なる死を聞きて、遂には破獄せども捕はれて伊豆川奈浜に断罪の刑とて打首と相成りけるも、執刑の日に至りて、突如、大室山火を吐き、地震、時折り起りければ、怖れて小角の刑を免ぜり。然るに小角、再度破牢しければ、小角、田子浦にて捕はれ即坐に以てその浜辺にて斬首と決し、太刀振り降せば、天に雷あり太刀は二段に折れたり。依て、太刀を替へ振りあげたれば、前より強き雷音、稲妻走りて太刀を三段に折りたり。依て、居合せたる役人、みな役小角に伏して赦を乞いける。役小角を入牢とせず、方丈にして庵を建立し、坂東の富士山見ゆる大瀬崎に居住せしも、小角、常に近く遠く坂東の山々に登修せり。

その脚跡を尋ぬれば、先づ不二山、秩父金峰山、武甲山、浅間山、白根山、白妙山、仙倉山、降神山なり。小角、この降神山にて丑寅の方遠く磐舟に神の飛び行くを目にせり。丑寅に何をかあらんとて心に望めども、老いを身に覚り、伊豆の配處に歸りければ、流罪放免たる報あり。急ぎ倭に歸りける小角、先は母埋む葛城上郡茅原郷に歸郷す。墓前に落涙せる小角、母なる遺骨の分持て鉄鉢に乗せ倶に在り。衆に神佛は何れを崇むとも己が心なり。信仰は心の安心立命の求道にして、寂滅その當達なりと説けり。然るに、小角が心中にして未だ感得の得ざる金剛藏王權現の本地を究めずして、死もやらずとて、その求道を支那に望みて肥前松浦に至り、大寶辛丑の二月六日、船をいだせるも、玄界灘にて暴風雨に遭遇し、船舵折れ漂ふままに着にけるは、若狹国小浜たり。

浜に漁せる宇止耶奈と申す船長の家に一宿し、その夜の夢に、小角見も知らざる仙人の告を託されたり。その夢託にては、次の如く小角に明白なまでに、覚らしめたりと曰ふ。

これ浂、役小角よ、浂の求むる本地の感得に至らざるは、心に急ぐが故なり。神佛の浂を成道に叶ふ天秤に浂を計りて、その悟道に達せる針間一点に相違せば至らざるなり。その道理は近遠に非らず。亦、己が智愚にも非らず。唯一念發起の信念なり。心して本地の眞理に完詰あれ、浂とは丑寅の地にて遇はん。浂と遇ふは坂東の降神山以来なり。とて消相せり。小角、全身に油汗を溢れ、夢覚めたり。すかさず以て旅立てるは、丑寅の地に向へむ。小角、その師弟十一人を從へて前途にあるべく敦賀の三国岳、越の能郷白山、加賀神山なる白山、犀川奥なる三輪山、越の立山、白馬岳、黑姫山、信濃川に降りて黑崎より船路をとり、本楯に至りて最上川を登りて羽黑山、月山、湯殿山にえめぐりて降り、鳥海山に拝し、馬音内に至り、雄物川降りて華舘より仙北に入り生保内岳にたどりて、本地感得の護摩を修法す。然るに、その感得ならざれば、泰平山を經て阿仁川を降り、岩舘に至り白神山、大鉢山を經て船路にて国末なる東日流大里皆瀬にたどりければ、東方に小角が夢にいでこし低き皆森林の山、半圓の山ありて、石化と曰ふ邑にたどり、永き旅の勞をいこいたり。今、此の地に大光院ありて修験道場たり。

六月十七日、役小角、身心を清め、この山に登りければ、山麓に白髪の老翁山住みたり。小角、此の山なる由来を尋ぬるに、翁曰く。此の山は何人とて入峯を得ざる禁断の神山なり。浂ら倭人と見ゆかしものにして、尚通行相成らず、とて腰剣を抜きその身がまえたるや、餘人に非らず神技たり。詮なく小角、退ぞきて石化の邑長に入峯の願ひを請ふれば、西なる神威丘なる神司に赦しを請ふるべしとて告げぬれば、上磯なる浜邑に住民住みけること千戸に餘りける邑たり。

神司とは荒覇吐神を祀るる地の大古神にて耶靡堆王阿毎氏の累代安日彦王、長髄彦王なる即位の聖地にして、亦、イシカ宇宙、ホノリ山と大地、ガコ水一切、なる神祀る處なりとて、如何なる者とて入峯を禁ぜし山とて、更に赦されず、然らば入峯可能ならしむる法便を尋ぬれば、神司の曰ふは、倭人たる身装を燒拂ひて、荒覇吐族と相成りイオマンテのヌササに伏し、カムイノミなる火煙に身を清む後、入峯赦さるとの言上たり。

依って、小角ら倭より一切の持来たるを神司に献じ、神司より與へらる着衣に身装りたり。神事の禮を見習へて、いよいよ入峯の許に到る。小角、悦びて神司より教はるままのアラハバキイシカホノリガコカムイとぞ唱へ曰して、七月七日に神聖なる仙境にぞ入峯しける。されば、先なる山守の翁に再遇せども制止なく通されむ。太古にぞ築きたる巨石神、安倍氏になる日本將軍の代々になる苔むせる墓の數々、神々なる石塔ぞ、役小角が倭の山に見るを得ざる自然を神とせしは、ただ三輪山、飛鳥の里に見ゆかしむばかりなり。

尋ぬれば、この山を魔ノ岳とぞ稱しなん。亦、飛鳥山、耶靡堆山とて名をなせる倭国に同じける山あり。その東日流中山中央にあるは石塔山たり。役小角主從十一人、湲流ある平地に居住を赦されて、一宇の草堂を造り、小角は一心不乱になる行を修せる中に、アラハバキイシカホノリガコカムイの稱名を唱へたり。小角、心にあれほどに求めたる本地本願も無心と相成りしかば、此の年なる八月一日に至るや、役小角、白昼にして曰く。我れは求めきし本地の相ぞ、白昼にして現れん。夜半なれば幻なり。いでて我が後に誦し、我れ今日御迎へ奉る本地の相を見よ。とて、石塔前にて護摩を修法す。一刻二刻、眞昼なる日輪より七光の採光降り、石塔前に顯れたるは、これはなんと三頭の獅子、三頭の龍に坐し、半伽趺坐になる本地の相ぞ顯れたり。

役小角、稱名を無心に唱へたる本地尊の名稱ぞ、南無金剛不壊摩訶如来とて唱へければ、師弟の者十一人、師に習へて稱名せり。

名命されし本地尊、にはかに変貌し、金剛藏王權現の相となり、垂地のまま日輪の光仲に昇天して却りぬ。

居並ぶ弟子等は、永きに渡りて小角に從へ乍ら、或いは疑ひ、或いは却らんとし、今にして師の誠に悔を己々曰したり。奇なり、世に金剛不壊摩訶如来を示現せし小角は、日に日に身體おとろいて、大寶辛丑年十二月十一日、此の石塔山にて永眠せり。 原漢書

弘治丙辰二年五月一日   大光院覚行

二、

金剛藏王權現の垂地なる本地尊金剛不壊摩訶如来とは、何れも役小角が感得せしものなるも、金剛藏王權現こそ世に知れり。依て、本地尊のあるべきもなしとぞ、今に到りぬ。然し乍らその本地尊ぞ、密なる石塔山より宣布を閉したるが故に、世の知る事能はざるなり。金剛藏王權現とて天竺、支那の渡来に非らざれれば、役小角を知る耳の衆に耳知りけるものなり。茲に役小角が説きにし金剛不壊摩訶如来とは、天地水一切のものを曰ふ意にありぬ。

宇宙は果てもなく擴大無辺にして、三頭の獅子、三頭の龍を坐にして半伽趺坐せむいの印掌を示せるは、はるかなるシュメールのアラ父なる神、ハバキ母なる神の意にして、相を爲し、如来相は神佛混合を顯す、せむいの手印は全能を示した神通力を示せる御相也。背光は火炎にして日輪を顯し、垂地なる金剛藏王權現を以て忿怒相を顯し、左手に金剛鈝を振りあげ、右手にて腰を支え、左足を片あげ、右足にて大磐を踏むるは、救と誅にして、亦降魔降伏への相なり。金剛と本地垂地に相稱名とせるは、實に以て可能とせる攝取不捨の義なり。両尊をして金剛界、胎藏界の宇宙觀を示現し、以て神佛混合の陰陽に法界の三世を顯しぬ。

役小角の曰く。人に萬物に生とし生けるもの、みなながらに雌雄の交りありて子孫を遺すが如く、宇宙よりの神になる裁きに依りて生死は命運なり。善き哉。吾一期にして本地垂跡の両界尊を感得になるこそは、遇難き果報なり。かかる得道に至らしめたるは、丑寅なる神、アラハバキイシカホノリガコカムイの導にして他非らざるなり。茲に石塔山の土に吾が骸を埋むこそ、無上たる吾が身心の果報なり。滅後の吾れは娑婆往来百萬辺に生を甦すとも、衆生の爲に安心立命の化を爲さん。神佛として信仰異に爲すべからず、人とし生るも男女ある如く、己の好む好まざるに依るなく娑婆に會ふたるは、遇貧富にせよ、亦、世襲の泰平修羅にせよ、生死の絶ゆまなければ、吾れを不遇とぞ、神佛にぞ嘆く勿れ。人の造れる世の安しきことなし。善悪は人の知るべくもなかるる間に轉じ、人の裁きぞ、亦、神なる天秤に異なれり。依て、金剛両界の二尊を世に感得し、爾来の衆生を救済せん。とて遺したる役小角が佛法に類似たる教理を、丑寅日本国に流布せし創め也。

然るに、此の教へもあまねく民心に閉したるは、祖来なる荒覇吐神なる深々たる古習を攺めざる民心にぞ、止絶えたり。役小角とは安倍氏が宗主として是を長く庇護しければ、今に石塔山に祀られむ聖人なり。依て、世々に佛果の諸行、新興の衆に惑はず本来獨特の崇を異にせることなかりき安倍一族が一念發起せる役小角の遺せし佛道神道のさまにありけるは、津軽三千坊と曰ふ阿闍羅千坊、中山千坊、十三千坊にて遺りぬ。

安倍一族になる古きにありしは、淨法寺、佛頂寺、極樂寺、西方寺、東方寺、三世寺、阿吽寺、など五十六郡に荒覇吐神とて遺りき。茲に役小角、光格天皇より神変大菩薩と賜授されきは有難し。 原漢書

天明甲辰五月一日   大光院覚明

生保内石尊寺御縁起之事

奥の国仙北郡生保内郷に石尊寺と稱す古寺ありぬ。此の寺なる開山に記あるは、和賀山極樂寺別當たる唐僧、慈念律師になるものとて傳ふるも、定かならず。その歴史を審せば、平將門が側室辰の方に謀りし生保内荘院を寺閣とせしは、承平乙未の年なり。辰の方なる生家は、六郷の太田在間之介忠親とて豪士なり。生保内に近き六郷在に住み、その妻、蠣の方と稱し、夫を亡くせしあと佛道に入りて妙明尼とて得道して、此の寺を清凉山石尊寺とて開山一世となりて、程ぞなく平將門に在りし辰の方、みごもりて武藏氷川神社別院庫裏より、父安倍国東がつれ来たるなり。

辰の方、母なる尼僧と相寺住し、楓姫を産みける後、世襲は將門を誅し、世に同縁とて將門に縁る者、追討され、寺は灾られたり。ときに母尼僧は燒死し、辰の方は乳兒楓姫をいだき、幼友たる間陀羅森の玉虫に姫を託し、己れは瀧湖に身を投じて死せり。石尊寺の燒跡は地民及び安倍頻良が再興せしめ、玉虫及び楓姫を住はせしに、俗住石尊寺行者とて有髪の佛導者とて生保内衆及び仙北衆は参詣せり。不運にして玉虫が留守中に、平貞盛の捕手到り、年若き將門の遺姫たる楓姫、もとより武家血縁にあるに、二十六人の捕手を相手に、斧を振り八人を誅したれど力盡き、その刀刃に討死たり。

あとに玉虫歸り来りて、この阿修羅跡に嘆き悲しみ、姫を葬り、あと自から剃髪し、法名を妙法尼とて入道し、二世の住職と相成りぬ。 原漢書

寛文元年五月二日  仙北住人 浅利太郎重成

生保内怪奇

一、

奥の国生保内と曰ふ山邑あり。湯湧ける山地ありて、人、病を湯治に訪る多し。邑中森林多くして、平地の山麓、擴ければ、他より来たる人、道に入りて迷ふ多し。時に旅僧ありて、道に迷い、来る道をもどりしかど、覚いつ處に至らず困惑す。道に行合ふ人もなく、覚つる處にぞ、もどり道たると思ひき歩くをしばし、はや道絶ゆる山中に至りぬ。日暮れて四辺に暗ければ、峨々たる山岩あるところに野宿を決め、火を焚ぬれば、夜の丑満に至りて、この山岩の中より人の聲ありて、耳をかたむけるに、夜明ざる前に、石玉をくれよかし、夜明けざるに枝鍵をくれよかし、と此の旅僧に一夜を通して曰ふに、寝もやらず東の空む頃、己が休むる前に、石にては珍らしき丸玉、枝鍵たるは石に造れる棧外しの形になるものたり。さて、この品を明やらぬ前に何れにぞ屆け申すべきぞと、あたりを見つるに朽ちたる祠ありて轉倒せるあり。

旅僧、一目にしてそのあたりを見つれば、石造りなる神狐像あり、去る大雨に祠ごと倒れたるを覚つるに、強力なる旅僧、衣を脱ぎ裸となりて、この祠を建直しける。中に土にて汚れし石狐を洗ひて、口より落にし石玉を一像に、枝鍵なるを一像にくわはせて安置しけるを終りて、東方に日輪ぞ昇り、まばゆき朝日ぞ祠を照しける。旅僧また道を急いで歩めば、なんと昨日宿れる湯泉場の湯取口にて、何故の道迷ひぞや、己れの阿呆らしさに舌打つぬ。誰と話すも恥らしく獨り心に秘めて旅立てば、山の𡸴しきあいぎ坂を仙岩峠に至り、バンドリ澤道に降らんとせしにや、二人の男女なる童、来たりて曰ふ。旅なる僧よ、浂れ、はたごに忘れきものあり、急ぎ歸りて持歸るべし、とて山路を走り去る。旅僧、はてぞと荷布呂敷をあらたむるに、何を忘れたるや、覚しきものぞみなそろひたるに、その忘れし物の品を、ひとまづ歸りて見ゆかしむとて、はたごにもどりたれば、宿なる主、低頭して旅僧の前にいだせる包あり。然して、旅僧、これ身共のものならず、人違ひとて置去んとせば、主人、僧侶の宿りは浂れ一人とて聞き入らざれば、詮なく先づ中に包まれし品をあらためり。

さあれ、開て仰天、いでたるものは、金にて造りし玉寶と、銀にて造りし棧鍵たり。
一枚のたんざくありて書つるあり。

〽神心慾なき人の心倉 浂れこそ人をたすけ給へき。

とぞ讀取りて、さて昨夜なる神狐の賜りしものとて、三禮九拝を以て背負いけるに、宿の主曰く。僧殿、そなえ物、宿に置かれては迷惑ぞとて去りぬ。

さて、宿の主に見えたるは、かぶら漬、と糠大根なる漬物にぞ見えたりしが、僧の背負ひしは眞の玉寶と棧開きの銀鍵なり。

二、

生保内に大黑澤と曰ふありき。金掘山を水分けに、和賀岳分水嶺とて生保内川となりつる川の枝澤なり。古き世に金掘り澤にて金をみよし掘り、亦、狸掘りにて掘りいだしたる金の鑛を水洗なし、比重の金棚水に採りたる砂金採、亦、鑛石を砕きて竹笊に選ぶる採取法を以てなせる生保内産金法なり。この村に山師あり。塒森の安と源氏名あり。山を巡りて三十年、如何に探せど金鑛に當らざれば、今日を限りとて幾度か入りにし大黑澤に入りにけり。つるべ落しの秋日に一日を此の澤に石肌を手鎚にたたきけるに、手答ふるなく家にぞ歸らむとせしときに、澤の流れ黄金に光るを見て、それを見屆くに至れば、そこに純なる金塊の岩ありて鎚打てば金鑛の手答あり。それを採るにせんとぞ、夢中にて得んとせば澤上より白髪の翁、降りきて曰く。

安よ、如何にしてもそれぞ得らるは難し。それ古きより大黑石とて、山神の座石なれば諦めよ。とてさとしけるも、安は合点ならずとて、暮れたればひとまず家に歸りて、道具をそろひて翌日に、明けもそぞろに此の澤に来たりなば、いかに探せど黄金に光れる石ぞ無く、安は諦めければ、昨日の翁、また来たりて曰く。安よ、彼の石をただなる石にぞ替へたるは、このおれにて神の坐と奉り、金の臺にせしむれど山師にありては神坐もままならず、ゆるせよとて却りにける。山師の安、ただ唖然たり。

元禄癸酉年四月七日   神小次郎

三、

生保内に有角なる龍巖あり。地民、是を龍神とて祀りぬ。不可思議やこの巖に藤根龍の如く巻生えて辰湖の火吹あるべく年ぞ、華咲かざると曰ふ。亦、この藤、皮をはぎたるものに災いあり。依て、これを辰不二明神とて今に遺りきも、朽祠にて人詣少なし。

文政五年三月七日   生田宗太郎

和田末吉 印

 

制作:F_kikaku