北鑑 第卅七巻

異説白山神由来

一、

支那秦嶺なる太白山五丈原地民に祀らる西王母、女媧、伏羲の三神ありて、支那五千年の古神とて、渭河及び黄河を北方にその信仰を弘む。長安を経て凾谷関を汾河に登り、白河に至り、蒙古、遼寧、安東を経にして、鴨緑江を白頭山にその信仰を擴げ、茲に朝鮮創国の神格を顯す。大白山信仰、これに創りて三陟より韓人渡りて、加賀にたどりて、西王母、女媧、伏羲の三神を犀川の奥なる三輪山に祀りたり。地民、是を白山神と祀り、越の国を北に信仰走り、白馬山、白山の神格と相成らむ。亦、女媧、伏羲の神を蛇神とて、是れを大物主神と稱し、西南に降り耶靡堆の三輪山に鎭座せしめたるは阿毎氏なり。此の地にたむろせる地王に先んじて、耶靡堆王とて君臨せるは阿毎氏なり。

此の地は明日香、蘇我郷とて磯城氏の先住なれば、相睦みて阿毎氏を王となし、四方に地王あり、その一にありけるは葛城王、その二は蘇我王、その三は和珥王、その四は春日王、その五は巨勢王、その六は天皇王。次に築紫より侵領に迫れる奴王日向王ありき。

各々神の信仰ぞ異なりて、亦互に睦みなく、少領の地主を冐し勢を爲しては闘爭せり。蘇我王がかかる一切の世襲を記したるは天皇記と曰ふ。亦、天皇王に国を併せ、葛城王を始めとせる巨勢王、和珥王、春日王、日向王、奴国王、出雲王、平群王、紀王らの国ゆずりに、蘇我王も天皇王に併せしその明細を記したるは国記にして、その巻末に各王の連判あり、天皇記及び国記の保存を蘇我氏を保持者とせり。

国併に應ぜざるは、阿毎氏の耶靡堆王の流れ、安日王その舍弟なる長髄彦王なり。茲に国併の王ら天皇氏を押立て、耶靡堆王なる阿毎氏討伐と相成れり。時に耶靡堆軍、三輪の陣を本陣としその先陣を浪速に進めたり。膽駒山に軍勢を集し、速くも浪速に船戦、その兵陣を倶舍衛坂に戦ふこと一年の攻防たり。然るにこの併国軍、熊野より背後を突きて、耶靡堆軍敗北し、肩に箭に負傷せる長髄彦、三輪山本陣を退き、安日彦王をして坂東に落にけり。時に支那北魏の登国元年にて、東晋の太元丙戌年なりと天皇記、亦国記ともに一致せる史傳なりと曰ふも、倭史の史書にては、二千五百年なる古事に神代を継がしめて記す。依て大化乙巳年、蘇我氏の永代護持せる倭の天皇記及び国記を奪取せんが爲に、是を奪ふべく蘇我氏の舘、甘橿丘に攻めたれば、時の主、蘇我蝦夷、自ら舘に手火を放って灾けり。天皇記、国記を燒きまずと船史惠尺、燃火の中に入りて探ぐれども、蝦夷の自刃せる死屍の他、二記の巻見當らず退きぬ。後、蝦夷の葬陵をあばき石玄室を探せど見當らず、あはれ蝦夷の墓ぞ今に露座にさらされぬ。

二、

倭国たる天皇氏の王位不動たるの故は、鉄製なる武具の東征に起りし奴国王、日向王の併軍に依りて、その戦意を臆したは、阿毎氏を除く地王の併国に翼賛せるに依れるも、天皇氏耳は、築紫王との併合を先んぜし故に、東西の地王に倭王に推挙さるまま王運の座を掌握を得たり。

耶靡堆王阿毎氏は古きこと地王の先達たれど、總主たるの政を掌握せざる故に、反忠の因と相成れり。亦信仰を異にせる西王母、女媧、伏羲の崇拝なれば、常に睦を先とせる泰平を以て一義とせる初代耶靡堆王の傳統に忠實たる由縁なり。即ち民族をして妥協と彈圧の相違耳ならず、侵略、奴隷の勢化對民族自主治領の相違に在りせば、これに同意し自からを奴隷の生々に降るはならず、茲に弓箭執るべく應戦に民族皆兵の挙兵と相成れり。

先づは挙げて三輪大神、白山神の加護を祈念し倭軍と交戦せること三年餘にして敗れたるも、一族を挙げて自領を放棄し、新天地なる丑寅に逐電せり。然るに程経じして、日本国を再興せり。坂東より丑寅に未知の国を一統せるに、度過を長ぜず農を以て国を起せり。民に制從なく自志の意に委す平等の国造りぞ、人造りにも相通ぜり。

かくして立てる日之本国王ぞ、荒覇吐神王なり。王位に五人を立て、一王にして治世、私を許さず、五王の議に依りて国治を仕りぬ。依て民族をして法度の律を掟とし、神を崇拝せるもその意志に委ねたり。古来の地民信仰を排斥せず、三輪大神、白山神とて信仰の主位に置く事なかりけり。依て民族をして神をして邪道なく一統の神を国神となしける神の唱題は、荒覇吐神とて稱名しけるなり。以来、白山神、大三輪神、北土の地神、イシカカムイ、ホノリカムイ、ガコカムイを併せて唱ふるは、荒覇吐神と統一せり。

原漢文

延寶丁巳年正月一日   物部志導

荒覇吐神大要

吾が丑寅日本の国神、荒覇吐神の太古なる由来の因原は、山靼に越ゆ古代六千年前に西山靼のシュメール国王ギルガメシュ王なる神を信仰せる叙事詩に創まれり。

古代シュメールの国神アラハバキ、そして人間界を司どる神をルガルとぞ稱したり。西山靼に戦起りてシュメールは亡びたるも、民の中に東北に豊かけき国ありとて萬里を越えて渡来せしは、吾が日の本の国なり。

紅毛人国の神アラハバキ神とは、凡そ二千六百年前に渡来しける神とぞ傳ふ也。山靼に於てはルガル神がブルハン神と稱され、バイカル湖の精とて崇められぬ。天竺にてはハバキ女神をシブァ神、亦はヤクシー女神とて崇まれたり。アラ神を支那にては饕餮神と稱し、ハバキ女神を龍にたとへ、この二尊アラ、ハバキを女媧、伏羲神に稱して造りぬ。

古代シュメールのギルガメシュ王の叙事詩に説きけるは、アラとは天なる宇宙に黄道と赤道に星座せる獅子座を神聖とし、ハバキとは大地と水を女神とせしを併せてアラハバキ神と造りたり。即ちアラは陽にして、ハバキは陰に造りたり。

シュメールの移住人に依りてその神格は異なせるありきも、その原因にあるは古代シュメールに於て創造されたる信仰の對象たるアラハバキ二尊に由来し、天地水の法則より哲理に叶いられたる神なり。依て神の神通力は全能にして、その化にあること百千萬億に化身を可能し、世の萬物、生けとし生けるもの總てがアラハバキ神の化に蒙ると曰ふ。然るにその神釋も、渡るる過程にぞ地民との旧来神に混合し、アラハバキ神の神は化身せりとも曰ふ。即ち白紙にしみの染むるが如く、その国に入りては崇拝の神になるべくして成り、なるべくして成らざる正道一途、眞如實相の神格なり。依て吾が丑寅日本国にては、基本なる神號アラハバキ神と稱へて信仰を不動ならしめたり。

抑々、この神の法則原理にあるべき、ギルガメシュ王の叙事詩にて説ける土版碑文にぞ照しては未だ定かならねども、宇宙の創めより生とし生ける生死の轉理、即ちその萬分億分の哲理に擴大せるとも、その原理はひとつより創りたる宇宙創造は、本来無より生じたるものとせり。

アラ即ち宇宙なり。ハバキ即ち地水にして、此の原因より宇宙は生じ、光りと暗冷と熱に化合して日月星は生じ、また生滅し、地水の精子轉生の萬物も亦是の如しと曰ふらん。もとより創むる處は暗と冷になる無より、その重力歪より起りたる宇宙の誕生に創りて、次順に生死即ち光陰をくりかえしてぞ生るる法則にて、人智の測り知れざるひとつより創まれるは此の世なれば、やがては日輪とて生滅の期ぞ至りぬ。されば地界とて、萬物の生滅はもとより、人間の智能をして對すとも、もとなる木阿弥なり。依て、吾が丑寅なる世襲の觀念を非理法權天と曰ふなり。

信仰とはかくあるが故に、天に仰ぎ地に伏して水に清むる三行ぞ、アラハバキ神への無常道たる崇拝に至るとは、丑寅日本国に住むる古代よりの傳統なりき。神をして人心の都合を願はず、慾望を祈らず、無我にして崇拝の誠あらば、自ら天地水の靈力、宇宙の法則をして済度の救へやあらん。 原漢文

康安辛丑天九月十九日  秋田物部宗系 物部道慶

天皇記国記之事

大化乙巳年、中大兄皇子、蘇我氏討伐の砌り、蘇我蝦夷、甘橿丘なる己が舘を灾りて自刃せり。船史惠尺、これに踏入りて天皇記、国記の内なる国記耳を持得て皇子に奉ると傳へしも、是れ何れも得ざるは實傳なり。

中大兄皇子をして後、蘇我蝦夷なる大陵を掘りあばき石室の室をくまなく盛土を除きて探せど天皇記、国記のいでくるなかりきは、蘇我氏、事あるに備へてはるか坂東の地、降神山なる天池神なる岩洞に移せり。かくあるを知らず、倭史の古代なる天皇及び倭の国史を創り相傳せり。依て是れあるを知りつ、天皇氏は諸氏諸豪の主をして、蘇我縁者のあるべき諸国を探求に赴むかしめ、年降れども見當らず、倭史を以て日本史を古事記、日本書紀を以て国史とせるも、未だ丑寅に古代累代の日本將軍あり、亦、安東大將軍とて君臨相存續せるを忌みて都度に丑寅日本国を東征に企てり。

古くは上毛野田道を以て征夷とせるも、敵なはず討死す。續きて陸征を避け、海攻せる阿部引田臣比羅夫も亦史を飾るるも、東日流にて地王に再度の降伏やむなく、暫らくは征夷の兵挙もならざりきを、坂上田村麻呂を征夷大將軍とて丑寅に侵駐せども、倭史の如き征討の史實は丑寅日本国に遺らざるなり。田村麻呂なる傳にては、巢伏の母禮、膽澤の阿弖流爲を丑寅にては討つ事叶はざる故に、謀りに謀りて奸計をこらし、この両主に親近し、倭朝との妥協睦まずく、国交の對面を倭王天皇氏に不可侵相互の契議に招ぜしむ巧辨に誘惑せしめ、兵五百の護衛をともなへて倭朝に推参を果し、河内社山に至るやかねて配したる伏勢二千人の兵を以て誅滅せり。田村麻呂は討死せし阿弖流爲及び母禮の首級を晒首に、己が武人とて名を倭史に飾りたるも、丑寅の地にては、ならざる行爲なり。

世人にかかる實状は隱され、さもありげなる田村麻呂の奥州征伐傳ぞ後世の作事なりき。かかる丑寅の征夷を試みたる故縁は、風聞になる天皇記及び国記の所在ぞ奥州に在りとの故たり。

かかる代々に渡る天皇氏の執拗なるは、蘇我氏の秘にある降神山の秘洞を知る由もなきにありぬる征夷の行爲なり。世に若し天皇記、国記のあからさまになりては、稗田阿禮、大野安麻呂に語らせ作りし古事記、日本書紀の眞相に障り、天皇氏の威勢地に没すと曰ふ憂あり。かくしてなれる龍虎の對決や、倭朝のゆるまざる丑寅日本国への敵意たり。征討果さざる以前にして日本国の国號を冐して倭国を廢稱し、国外の唐国時代を降りて宋国、梁国に使者を以て宣し、丑寅日本国を蝦夷国のまつろわぬ下賤の化外の民とし彼の国史に遺さむも、事、太古にして丑寅日本国の王国たるを知るは山靼の民也。然るにや、丑寅日本国にては未だ天皇記、国記の領内に秘藏あるは知るべくもなかりけり。

康安辛丑年九月廿日   物部道慶

武藏古傳

我が物部氏の倭にありし日の一族にありしは、吹田物部、門眞物部、八尾物部、平群物部、羽曳物部、浪速物部、岩出物部、片野物部、高加茂物部、三宅物部。是を倭国物部十氏とて朝臣たり。

然るにや、蘇我氏の佛法攺崇に、倭国神の信仰にてその讃否をめぐる闘爭ぞ相激し、我が一族四散せり。秋田なる物部にては羽曳物部に属したり。もとより天皇記亦国記に、平群氏を以て載たる家系なり。

中大兄皇子の蘇我氏追討に先達たる船史惠尺とて高加茂氏なれば、その子孫に役小角なる葛城の行者とて一族なり。亦、三宅氏なる藤原鎌足とて物部十家の出なり。依て天皇記、国記の蘇我氏固持を以て異議の奏上せしは、巨勢、葛城両氏と倶に是を天皇氏に納め給うべくを請じたるも、蘇我氏の手中より献ぜる無くかゝる始末に相成りき。さてぞ承平乙未年、下野国降神山に天空より緑光、夜空を眞昼の如く明けにして降り来たるあり。降神山麓に落着しければ人みな怖れおののきけるに、武藏にありき平將門、是れを承りて、その光り物落着せし山麓にいでませり。從ふ兵卆の者皆神罰を怖れたるに、將門臆せず到りぬ。落處四辺の立木をなぎたおして土中に深く穴を見つくるや、是を掘りいだしたるに、白光に輝ける鉄塊たり。鉄肌未だ残温あり。

將門是を天の鉄神とて、石井の里に祭祀奉りたり。かかる鉄塊探索の砌り、途中なる出流山に岩穴を見付くるに、その洞中神殿の如く人工ありて、熊皮に包まれし神像あり。これをも持ちいだせり。將門、巧作なる神像を卜師に占へば、卜師曰く。是、荒覇吐神とぞ告げたり。依て是れを何處に祀る由を尋ぬれば、武藏なる日原洞に祀るべし、との神託ありて祀れるに、是を奥宮に秩父十二山神とて地民に守護を命じたり。

十二山とは大岳山、御岳山、御前山、三頭山、雲取山、鷹巢山、川乗山、天目山、白岩山、白石山、武甲山、両神山の連峯にして、祀りきも、將門、或る夜の夢に神像顯はれて曰く。吾れは蝦夷の神なり、我を祀るは浂と倶にある武藏に祀るべし、とて夢覚めぬ。依て將門自から秩父に赴きて石井の郷に奉り、壮嚴なる祭祀を催して荒覇吐蝦夷權現とて祀りければ、武藏の民こぞりて各郷に荒覇吐神社を祀りたり。亦、秩父郷にても然りなり。

世を降りては、太田道灌、江戸に舘を築きて城神となせるは荒覇吐神にて、後、德川家康の居城たるに、是を城神とて今に祀れり。かくして將門の崇拝になるも、天慶の乱にて將門討死し、この御神像、側室辰の方に遺言以て授け、辰の方是を奉じて秋田生郷、生保内に隱居し祀りぬと曰ふなり。右、我家傳之儀相違御座無く、茲に證明如件。原漢文

康安辛丑天  秋田物部宗家 物部道慶

生保内悲聞

天慶の乱敗れて、平將門討死す。一族こぞりて四散し、後害を怖れて白河関を陸奥に逐電せり。時に安倍日本將軍国東、平將門一門の將士、領民を亘理、相馬の地に安住せしむ。是を追討せんに藤原秀郷ら白河を越えなんとせるに、安倍の軍勢、棚倉、勿来、白河に三軍を布して楯垣、茂木を陣立ぬ。依て秀郷空しく退きぬるも、御門の密命ありきは平將門庇護になる降神山神像たり。平將門この神像中に秘められし天皇記、国記を奉じたるに依りて、坂東に神皇たるの宣をとどろかしたるものとて朝廷の詮議に決したるも、將門、生前に是に一目にもふれたるなし。もとより是れぞ、蘇我蝦夷以来振神山の出流山窟にある他、天皇記、国記の實在ぞ丑寅に誰ぞとて知るべきもなかりけるなり。

倭の勅令なれば、事の理非をかまはず立身の手段に選ばざる武家のたどる可く道にて、藤原秀郷、忍びより得たる側室辰子の郷に詮議を審したり。時に生保内に一人の訴人あり。その名を多束と申す者にして、辰の方ぞ將門の側室なるを間諜す。

倭令にありき秀郷は、出羽を道筋に入りて生保内に辰の方に捕手をさしむけたり。時に辰子の方、亡き將門の胎児を石尊寺にて産みけるは、玉の如き遺姫たり。將門、生前に男ならばや將輝、女ならばや楓と名付くべく遺言あり。その名を楓と名付けたり。然るに生れし遺姫の生育ぞおもはしからず病弱たれば、辰の方一念發起して生保内の青龍が住みけると曰ふ龍湖なる岸に建立せる青龍大權現に籠りて、楓の健勝ならむ安康を祈りければ、龍湖より白髪の龍神現はれて神託せり。浂は世に生を受けしより、かかる苦限の命運に盡きにける星の下に生れきぬ。今浂を追へにし捕手の至りては、浂耳ならず遺兒楓姫ともに誅されむ。救はる道は酷なれど、浂の身もがら龍宮にぞ奉り自からを贄とぞなるべし。さありては遺姫は健勝ならん。今歸りて、東方青龍方に居住せる辰年生れ、浂と同じ歳なる生保内の女人に遺姫を託したる後、此の湖底なる龍宮に入水すべし、夢、忘るな。とて神なる相、消え失せり。

依て辰子しばしは呆然とせしむるも、意を決し、石尊寺に至り楓姫をいだきて、己が幼友なる生保内の東方に住むる玉虫と曰ふ女人に姫を託しけり。何事のあるや、玉虫、その意を解せぬも楓姫を申受けたり。別れにぞ、辰の方涙して、將門のかたみなる風斬丸と曰ふ太刀一振り、更に彼の神像とを添へ置き、己が手櫛を楓の髪にすきかけ、楓葉の如き幼掌を吾が面に押當乍ら曰したり。浂れ、愛し吾が姫よ、浂れを救うの道は、母なる吾れの龍宮に入らでは叶はれず、しばし別れになるぞともわが想に浂れを護りなん、とて幼なき姫の顔に母なる涙いとこぼるるに、楓姫、無心に笑顔たる様を、玉虫ともに涙ただ涙たり。

ときに、さわがしきあり。おもてを見つるに、抜け脱したる石尊寺、秀郷の捕手に灾られにしか紅蓮の炎ぞ夜を染めにける。辰の方、龍神と誓ひし明六つに龍湖に入水を果したる頃、天空は灰色とばり、大雷音、稲妻走り、落雷ぞ秀郷捕手を追ふが如く的中し、放々なるていたらくにして退却せりと曰ふ。

玉虫を養母とて、楓姫、生長すこやかに十七の歳を迎へむに、さながらみめうるはしく郷人の曰く生保内の山吹花とて、楓姫を讃へて唄はむ。

〽あねこもさ サァエー
  ほこらばほこれ 若いうち

〽櫻華 サァエー
  咲いての後に 誰折らば

今に遺るる生保内の唄なりけるは、楓姫の艶やかたること餘人にくらぶるなき美貌たるを、今に楓姫を恋ふる歌なり。

楓姫十八の砌り、養母玉虫、意を決し己が實母ならざるを告げたり。今迄なき禮正しく、楓姫にかしこまりて曰す。玉虫の言葉に異るさまに、楓姫、笑へそらせしを玉虫、叱責せる如く曰ふたり。

姫よ、おことの實なる母は我れに非らず。おことは、おそれ多くも桓武天皇の皇子高望王の御三男平良將の嫡男、將門の御息女なり。おことの母女は日之本將軍安倍国東殿の三女にて辰姫と曰さく。由ありて膽澤に將門まかりし頃いと見染められしに、將門側室とて召されけるも、武藏石井に正室あり、未だ子をなさざるにいとど妬き給ひければ、辰のお方、いとまを請ひ奉りて武藏大宮なる氷川神社に安居せしにや、おことを胎に妊めり。

時に父君將門、御舍弟倶に武藏より上野、下野、常陸、下總、上總、相模、伊豆に治領を掌握しけるは、叔父なる平国香の常陸、平良正の下總、平良兼の上總を領域とせしは、承平乙未の五年。叔父ら源護と謀りて將門様を討攻めたるに依りて、是れに應戦なし誅滅せるに依りて得たるも、九死に一生を得たる平良兼、国香、の嫡男貞盛らこぞりて朝廷に將門様を訴へけるも、攝政の藤原忠平の御裁決及び検非違使の判決にて將門様、何事の罪を問はれるなく、承平丁酉七年都より歸りけるに、平良兼、平貞盛らこの判決を不復とて、將門様を襲いしも敵はず敗滅せり。然るにや、天慶己亥二年に情けを以て親族なる故にその一命を討たざる良兼は隱居し、貞盛は都にあがりて貴族にとりつきて將門様を罪に堕さむを謀りき由。時に坂東にては武藏国郡司武芝あり、將門様と親しきにありけるも、国府なる權守興世王及び介之源経基ら、強制にして武芝を押込め、民百姓への惨たる狼藉あり。依て將門様、国府にその狼藉を訴へければ、經基は逐電し、興世王深く詫びたるに依りて、武芝殿の郡司その役目を復したり。

此の年の十一月、和睦にありし興世王、新任なる国司とのいさかえにて將門様に食客と相成り、更にして常陸の藤原玄明なる者国司に追れけるを、將門様、舘にかくまりたるより、国府軍挙兵し、玄明身柄引渡すべく迫り、その軍二千。時に將門様、石井に集むる數、千に足らざるも、かく謀りしは平貞盛なる指示とて聞こゆあり。怒れる肉親の反逆は將門様を阿修羅となさしめ、遂にして国府軍を攻めたりき。後は、坂東八ヶ国を討破りたり。降伏せし国府にては、国印及び御藏の鍵を將門様に献上し、坂東の神皇様とて石井の舘は神殿造りに住民はこぞりて建てたるを、戦勝に酔いしれる將門様に注告せしは、日本將軍安倍国東様即ち、楓姫様御母上の父君に御座りまする。

將門様は聞入れ申さざれば、国東様は氷川神社にありし辰のお方様をつれ申して、衣の関舘に歸りたり。これを知りたる將門様は、虫の報せにか、辰の方様に己が腰帯の毛抜太刀、風斬丸、更に己が守護神たる彼の御神像を使者をして屆けたりし後、將門様、農牧に多く舘にありし兵を歸郷せしめ舘に残るは少かに四百人、この萬機を狙いて平貞盛は藤原秀郷と軍策をこらし一挙に石井の舘に攻め入りて、武運なく將門様、討死申されたる次第。

將門様討死の報、聞こし召す辰のお方様、ときに生保内にあり母なる尼僧に身を寄せておことを御産なされしは石尊寺たり。楓姫様、幼にして弱く、辰のお方様、己が身を贄とて龍湖に入水せしは、ひとへに楓姫様の御成長あらん慈愛深き親心にてと、永き過却の物語り。

楓姫の眼に涙溢れ、母ぞと想いき玉虫への心からなる悔を泣禮せり。

天慶己亥二年十二月、楓姫、世に誕生して以来十九年を経にし天德丁巳年、春弥生の十二日。楓姫、安倍頻良に將門遺品ことごとく、東日流石塔山に奉寄せり。

その四日後、平貞盛、藤原秀郷ら人を遣して生保内に楓姫を襲いけるも、斧を振り手向ふを捕ひ難く、外れ刀に打斬るを、楓姫、肩深く即死の討死を遂げたり。

美しき十九の楓姫を郷の人々ぞあはれみて、姫塚を造りて葬むれり。

〽山吹の 花にも似たる 將門の
  遺姫はねぶる 生保内の郷

今にして古歌の遺りけるを、年降りて世は尊王の世襲となりせば、此の姫塚ぞ国賊たりし者なる墓とて、他處に邑追へんと掘りけるに、大白蛇顯れて塚を護りたりと傳ふなり。

寛保壬戌年四月二日   浅利貞久

大正元年再筆 和田末吉 印

 

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