北鑑 第卅九巻


 此之書ハ一書タリトモ失フベカラズ、常ニシテ門外ニ不出、他見無用トスベシ。

秋田孝季

諸翁聞取帳

一、

古来より奥州は、日高見国また日本国と曰ふ大王国たり。倭史にのみ、丑寅の国はまつろわぬ化外の蝦夷の国とて、異なる国とて、治外の国とて、民族を異ならしめて賤しくあつかひたり。然るに此の丑寅の国こそ、古代に輝ける先進の国たるを知るべくはなかりけるなり。北方より角陽国、夜虹国、神威津耶塚、千島、流鬼、山靼とて民族の往来自在たる国にて国境域はなかりけり。

民とてはウデケ族、オロッコ族、オロチョン族、ギリヤーク族、クリル族、ブリヤート族、シキタイ族、モンゴル族の混成になるアソベ族、ツボケ族、アラ族、ニギ族らの多採なる民族たり。山海の幸に惠まれ永く泰平の代を保てり。

二、

父母に教へられて覚つ、北斗星にまつわる神話と神への信仰ぞ、古代より人の生死に次代を継ぐる子孫に傳はり遺りぬ。生る事の悦び、死の悲しみ、そして怒りと恨みもまた相伴ふなり。心は多歳を願ひども若くして逝くもの、健なる者とて突然の事故に逝くものあり。まして人は衆をして戦を起し、人の未知なる地を襲ふて己がままとせるものありきは、今にして国を境なし、歴史の常は戦に泰平に常時にして闘ひなり。

丑寅日本国を倭朝の鬼門方位と占ひ忌むなれば、同じく丑寅日本より彼の倭国とて鬼門なり。蝦夷征伐とてかゝる支那渡来の卜部に古代より奥州は侵駐され、是を防ぐを蝦夷反乱とて征夷の挙兵を起しに至らしむ。

古代より風土に異なれば、人またそれに順じて衣食住、民族性異なりぬ。蝦夷反乱と曰ふも、丑寅日本より挙兵し倭領に境を越して襲ふたるなく、古来より丑寅の地にて戦ありきは、まさに乱を起因せるは倭朝なり。反乱とは丑寅軍が彼の地に攻めて反きとせるは正しき理由たりきに、奥州に来たりて民の保物を掠めたるこそ人道にぞ非らざる行爲なり。

三、

陸中、閉伊の地は安倍一族の富なすかくれみのたり。陸前より宇曽利に至る鑛の資源に、金銀銅鉄のただらかしこにあり。火入れなして諸鍛治に造られきは農具、討物、馬具、諸道具を造商たる利益なり。なかんずく刀剣の金寶寿きんのともながと曰ふ鍛治になるは、銘に天国あまくに天座あまくら、の刻字ありて、世に是を舞草もくさ刀とて武士等の頂寶たり。金寶寿とはきんのともながと讀みて正しきなり。刀銘は無銘ぞ多く、銘を入れるはまれなり。寶寿、天国、天座と刻むあり、まさに天下の名刀たり。弟子多くして安倍氏の討物ぞ大いに鍛治打てり。

刃金に用ふは、砂鉄川の砂鉄及び石井鉄、流星隕鉄を用ひたり。日本將軍が大刀のみ天国の銘を刻み、小刀に天坐と刻むは安倍家代々の寶刀たり。

四、

日本將軍自から陸奥産馬の秀なる駒を産ずるための戸を造りぬ。戸とは牧なり。一戸より十戸までの牧は、糠部より遠野まで区あり。遠野とは十戸なり。馬種系に東日系、西日系、北辰系あり。羽州産馬、三春産馬、八幡駒とありけり。背高きは陸州、中背は羽州、低きは渡産とさんにて渡島の馬なり。

馬を飼ふ故に道を造り草野を拓せり。種馬の他は睾丸を切抜きたり。依て馬産の秀たるぞ遺りぬ。名馬の多きは背高なる八幡駒ぞ名馬たり。

五、

古代なる神殿を石の神殿と曰ふ。石とは石に非らず、イシカホノリガコカムイの神殿と曰ふ意なり。即ち、イシと此の神殿を號くは神の略省にして、アラハバキをアラバキと曰ふが如し。神號の略省は佛法の梵字にて大日如来をカンと曰ふが如し。

柱を六本に掘立つ高床三階に築きて、上階にイシカ、中階にホノリ、地に接する下段にガコカムイを祀りてヌササンとせるは、古代信仰の石の神殿と書きつるなり。依て石なる神殿と思ふべからず、能く覚つ置くべし。

また三股のジャラなる老木に櫓を造りてヌササンとせるは、古代のまた古代なり。是れもまた石の神殿とぞ曰ひり。太古より少數にしてヌササンをなせるは、ジャラに櫓を施さず、ジャラの根本にイナウを三本建立し、天地水の段に土盛りぬ。各神のイナウを立たるヌササン即ち祭壇とせるもありぬ。是をもイシ殿と稱し、コタンイシヌササンとも稱したり。依て石の神殿とは、二丈餘に立柱六本の大ヌササンと覚つべし。

此の他、三本の立木にマゲと曰ふ祠を枝もとに固定し、カムイツセとて祭るもあり。イナウだけを立てヌササンとせるもありけるなり。

六、

荒覇吐神靈力全能抄に曰く。
奉神爲信仰以先爲心身清淨入無識神稱念可依信仰授救済開命運得安心立命不断安心天命可抑々荒覇吐神在天地水三要破邪得息災圓満也信仰一義念宇宙天空一切之神次念大地次念水之一切爲稱題念荒覇吐神可如是稱神念天地水全能神通力深信仰者必得福運也常住居符神檀奉供唯一向稱神名可亦以病干符持得可必神妙救叶也。

  
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是の如く稱へ奉りては、不老長寿の德を得奉りぬ。荒覇吐神は信仰にある者を、平等にして攝取し、その子孫を救済す。

七、

吾が国は洋々たる海を、東西に朝夕の日の出、日の入りを遙拝し、日本国と国號せる国なり。代々、荒覇吐神を国神として信仰を深くし、太古なる祖傳を律に、人の睦みを以て泰平を護り来たるなり。

古代より文字あり、歴史に實を證し今に遺跡多し。東日流に大王一世の即位を中山に室し、宇曽利、東日流を併合せる要處、外浜なる大泻にハララヤを設しぬ。此の地は東日流中山を望み、宇曽利をも望むる合浦なれば、永く王国の座居に在りぬ。古代王とは、後世の如く、權に律に民を制ふる事なかりき、民を導に優ぐるを領域に在りきエカシの選に推挙さるものなり。エカシとは長老なり。長老の選なくば空位なり。

吾が丑寅日本国の大王政之要細は、次図の如くなり。

長は長老、部は職工也。語部記より。

八、

ハララヤとは古代になる王居なり。丑寅の大王は、死後の遺骸に執着せず墓地の状なる陵は造るなし。王たるとて民の通例の埋葬より特葬せるなし。依て、丑寅日本国の如何なるものとて、平等たる埋葬にて、死しては墓参せるものなく、またその行例を遺さざるは、モンゴルのブリヤート族と同じなり。死すは古衣を脱ぐ如く、遺骸は魂の古骸にて、魂より脱ぎたるものにて程なく子孫に甦えると曰ふ信仰の故なり。依て、死床にある者に曰ふは、速かに子に生れ来よと曰ふ。依て、死に逝く者は、心に何事の怖れとなく逝きけるなり。

  
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是の如く稱ひて葬したり。死の間は一夜にして、日輪の如く何處かに生ると曰ふなり。依て、生々の間に生命を断つは極悪とせり。

九、

人の生々、如何に老ふとも、生あることぞ神の賜へき尊命とぞ思ひ取るべし。また人の生命を救ふるも無上の善生なり。生々は安しきぞ過ぎ易く、諸苦の事ぞ耳多かりし。依て、人は神を信仰し、心の安らぎを神に求て、その救を祈願せり。神の神通力は全能なりとて、一心を不乱にして神の救済を念ずるは、人みな同じなり。

吾が国の荒覇吐神をして、古来より国神として民の一統信仰にありて、古代は無上の信仰にありけるなり。古来より地住の民は天なるイシカ、地なるホノリ、水なるガコの三神を祀り居りぬ。降りての世に、日本の王なりてより丑寅の信仰ぞ、三神即一神として荒覇吐神とて民族一統の信仰と相成れり。もとなる神、新なる神をくらぶれば次の如くなり。

是の如く語部録に書遺れり。

十、

いつの世も正道に害なせる者あり。世襲にありては、釋尊及び諸々の僧侶にても法難ありぬ。かゝる法難を越え、世に聖行を遺したる聖こそ、不滅の正法を今に以て信仰を遺すもの也。信仰に遺らざるとも、諸史不動に遺るは、その故なりき。

抑々、吾が丑寅日本史は久遠にして遺り得たるは、語部文字の故にぞ遺りたるものにて幸いたり。倭史の權は、たゞ大野安麻呂、稗田阿禮になる無證語部口作傳を神代とて遺しきものなり。抑々、世に無き古史の諸話に尋ぬれば、久しく各地に遺りける古話の傳説をつなぎ併せし作爲なり。さりとて世襲の權に永く保持さるゝまゝ久しければ、僞も實傳に深層せんやありぬ。吾が丑寅日本国、かゝる僞になるは何事もなかりけり。語部録に綴られきは、久遠に實相す。

十一、

丑寅に佛法の弘布に来たる行者、僧侶の名にある者、多し。早期にして来たるは役小角なり。彼の行者は、佛法と神道を本地垂跡とて、本地の感得を東日流に求めて、此の地にて入寂せり。彼の行者は、神佛を宇宙に求めて、北斗の星に求道し、弟子十二人と倶に、東日流中山に本地の金剛藏王權現を感得せる後、金剛不壊摩訶如来を感得せり。依て、本地垂跡の修験の本懐を成道せし聖りとなれり。役小角、倭、葛城上郡茅原郷にぞ生ぜり。

高加茂役公を父とし、橘須惠を母として生れたる小角は、幼名を金剛丸また金剛童子とも稱したり。長じて金剛山に入り、東王父と曰ふ仙人と神託に會し、諸々の仙術を極む。

名を役小角と攺め大峰諸山に神佛の一如を覚りて、渡来佛の諸行を離れ、小角が求道せしは、神佛は本地垂跡に結縁ありて、渡来せし佛道と相互し、和が国の国神を以て混合信仰に衆を度せんとて、金剛藏王權現を本地の先に垂地尊を感得せり。更に此の信仰を以て歸依せる衆生を引導せる菩薩とて、法喜大菩薩を感得し、自から仙術の奇得を感じて、人の疫病を治し、諸災を祓ふことに、衆こぞりて役小角がもとに集ひたり。

役小角がもとに集ひし小角弟子中に韓廣足と曰ふあり、不断の行に足らざるを戒むに、小角を叡山に訴へて、小角、伊豆に配流となり、大寶壬寅をして羽の国に至り、更に東日流石化崎に至りて、中山の仙峯に一光を得たり。此の山に入峯して、遂に本地金剛不壊摩訶如来を感得せり。是の如き傳説ぞ、現にして遺り、中山に役小角墓地ぞ遺跡にありぬ。

次には金光坊傳なり。金光坊とは築紫の石垣觀音寺別當たり。彼の坊、生家を長安寺氏にて、幼名を現若丸と曰ふ。地豪當道朝臣及麿に敗れ、彼の養子となさるも、志して求道に入り、叡山の惠光坊に師事、明雲僧正に仕へて法住寺殿に天台の諸学は、此の坊ありと秀才たり。法名を金光と稱し、勅願寺別當と相成り、筑紫石垣觀音寺に住職す。

此の地に緒方三郎と曰ふ地豪ありて、觀音寺境内の寺境を犯す。依て、金光坊、鎌倉に赴き事の次第を直訴せり。鎌倉在住の砌り、若宮大路にて辻説法せる安樂坊と出合ひて、源空と曰ふ念佛僧を聞きて、京師鹿ヶ谷に源空坊と會し、即坐に入門せり。法名を圓證と稱し、先弟子聖光坊と倶に念佛布教に、聖光は鎭西に、金光坊は丑寅の地に巡脚せり。

源空の使者とて阿波介と曰ふ寺男、金光坊が東日流に草堂を造りて、行丘に住せる處に来りて、源空の流罪を聞き、歸京せる途中、佐渡に赴き、綽空の流居にぞ尋ね、事の明細を聞きぬれば、淨かに綽空曰く。

佛の救ひ念佛稱名に候事を、吾れ未だ捨候はず、此度びの法難の候は二尊の試練とぞ覚つ候。金光殿、今こそに攝取不捨の念佛を以て、佛の救済を願ふべく候ぞや。南無阿弥陀佛。

金光坊、綽空の掌を掴み落涙し、金光坊東日流に唯一向念佛を布教す。建保五年、行丘に入寂し、その墓ぞ今に遺りぬ。

金光坊の師たる源空坊とは美作国、久米南條稲岡に生る。姓、漆間氏、幼名を勢至丸と曰ふ。九歳にして父、時国は逝き、母は泰氏なり。十五歳にして比叡山の源光に從ひ、更に皇圓に就き、天台、三大部を習得す。十八歳にして黑谷の叡空に圓頓戒、並に密教を学び、報恩藏にて大藏經に執讀、二十四歳にして辭し、倭の古寺に法相、三輪、華嚴、四分律宗の他、諸宗に苦界脱を求むも、得られず、承安五年、黑谷に歸り觀經疏に執す。治承五年、東大寺に入り、建久二年、藤原兼實に戒を授け、また白河法皇に授戒し、九年正月より吉水の草案に入りて、遂に念佛三昧を感得せしも、元久元年、念佛誦止となりき朝令下り、更には建永二年、土佐に配流されたり。建暦元年、赦されて洛東に、二年正月二十五日、大谷禪房に入滅す。

金光坊を常に想ひて、自作なる彌陀像を、金光坊にぞ配流時に刻みたるを屆けたり。その御像ぞ、東日流平川郡藤崎の施主堂に本尊として今に遺りぬ。

十二、

前九年の役以来東日流に居を移したる安倍一族は、宗旨を淨土宗、禪宗とに一族は信徒を分つ。更には日蓮宗即ち法華宗、眞宗に宗派への歸依を自在とせり。

建保五年に入寂せし金光坊が十三湊阿吽寺の下寺、壇臨寺を念佛宗とせしより、念佛信徒大いに振興せり。金光上人の奥州になる脚跡にては、栗原の眞似牛寺、遠野の善明寺、生保内の石尊寺、火内の金光光明堂、外浜蓬田の念佛堂は阿彌陀川より流れ来たる阿彌陀像にて建立されしも、荒覇吐神の信仰にて中山より捨つる像とて、信者なければ、金光坊、行丘に西迎堂を方丈に建立してより、近郷の信者を得たり。安東氏の許に得て建つるは施主堂なり。行丘になる西迎堂は、地主の甲野七衛門の寄進たり。

金光坊が阿弥陀川に拾いし仏像は今に遺り、行丘西迎寺の本尊たるも、行丘城主北畠氏が大浦氏に敗れ、現にして弘前城下に移されたり。大浦氏の東日流一統以来、日本書紀に記せし、津軽を正統に地名として、自からも津軽と姓を攺めたり。安東一族にて建立されし寺閣を城下に結集し、秋田氏への牽制とせるは、安東氏の遺跡崩滅策たり。

十三、

安東氏より秋田氏に姓を攺めたるは、秋田城之介實季なり。東日流より秋田及び渡島に渡りては、諸国は乱麻の如く戦国の世、久しく、東日流騒動もまた然りなり。

ときに安倍日本將軍を勅許にありき、十三湊の管領大納言盛季は若州小浜の羽賀寺再興を勅令され、長子康季を赴かせ、是を再興せり。時に禪宗永平寺、同国に在りて、尋ぬれば、宗祖道元坊と曰ふを聞く。十三湊相内に禪林寺跡あり。更には藤崎の地に平等教院萬藏寺あり。この寺號ぞ寶治元年、鎌倉にて安東船の船主安東継季が同宿と相成り、道元坊より波多野義重を通じ、平等教院萬藏寺の寺號及び、普觀坐禪儀一巻を賜りたり。依て、安東継季、金一萬匹を奉寄せり。道元坊とは京師の生れにして希亥と號し、父は内大臣久我通親にして、母は藤原基房の女たり。

正治二年、幼にして父母を失ひ、世の無常を心に出家求道し、建仁二年、十三歳、叡山に良觀を訪れて、横川首楞嚴院に般若谷千光房のもとに入学し、十四歳にして公圓僧正に就きて剃髪す。更に菩薩戒を受けて天台門を更に出で、三井寺公胤僧正の門に入りて、その指示にて建保二年、建仁寺に榮西に謁し、建保五年、攺めて法嗣明全に師事を得、貞應二年、二十四歳にして宋に渡り、明州天童山景德寺に入り、臨済下無際了派に参じ、更には阿育王山廣利寺に学び、嘉定十七年秋、景德寺を辭して杭州に入り、徑山萬藏寺浙翁如琰に謁し、更に台州に至り、小翠岩の盤山思卓に寶慶元年に至り、再度阿育王山に赴り、また天台山の不明田寺に元鼒を尋ね、天童山に歸らん途中、大梅山護聖寺に宿し、再度び景德寺に赴りては無際了派は寂し、長翁如淨が住持して曹洞の宗風を布し居りたり。五月一日、如淨に参じて三年、ようやくにして安貞元年八月、二十八歳にして歸朝し、建仁寺に入り、寛喜元年安養院に移り、天福元年、宇治に興聖寺を開き、最初なる禪堂を築き、こゝに止住せること十一年、諸弟子を得て、寛元元年、檀越、波多野義重の懇請にて越前に入り、大佛寺を建立し、寶治元年、北條時賴の請により、止むなく鎌倉に赴きて説法す。

時に、安東継季と會し、安東船にて越前への乗願を請ひたり。船中にて北海の珍味けの汁をいただける道元、これぞ精進膳なりと悦びぬ。この年の二年、大佛寺を攺め、永平寺と號し、建長五年八月二十八日、京師にて入滅せり。

十四、

菅江眞澄、同郷出生の古代なる弓削道鏡を下野の寺堂に尋ぬるも、その終焉を明らかならず、筆ぞ置きたり。法相宗の僧道鏡は河内の生れなり。父は弓削連實光、母、曳田物部阿里繁の女にして、宇津女と稱しぬ。道鏡の幼名は輯穆丸と曰ふなり。出家して義渕に師事を受け、法相宗の門僧となりて、法名を道鏡と號く。倭の葛城山に籠りて苦行し、神仙の俗間信仰を加味し、長寿養生の法を講じ、咒咀祈祷及び道教の説く道藏と曰ふ洞心、洞亥、洞神、大玄、太平、太清、正一の七部、併せて千四百部、五千巻あり。

天平寶字五年にその中なる宿曜法を修して皇宮の諸官を祈祷に、禁裏の出入り自在となれり。時に安倍天皇の病に靈験ありて、その賜賞とて同八年に大臣禪師を賜りぬ。更に神護元年に太政大臣禪師に補して、その翌年、法皇の位を授けり。法王宮を禁裏に置かれ、政教の權柄を執りぬ。依て、その横權、さながら皇統を危ふきに至り、和気清麿、是を神託と稱爲して、道鏡の横行を奏妨。寳亀元年、光仁天皇は、その大罪を朝議一結して貶し、道鏡、下野の藥師寺に幽閉さるゝも、寳亀四年、寺を脱して奥州に入遁し、吹島の小林寺にて入滅せり。時、天應元年なり。

十五、

丑寅日本国の魹ヶ崎は日本の東端たり。
此の地に、羽の清原一族の清原基忠幽居し、十二神山の山神及び荒覇吐神を祀る。山田湊の荒覇吐神社に貞觀元年三月、貫名左衛門尉重忠、参拝せり。

彼の来たるは、二月十六日に生れし吾が子に、日本一の日の出速き魹ヶ崎にて、日の一字と、その崎打つ海潮を汲むがために来たるなり。清原氏は貫名氏の妻方の縁者にて、後三年の役以来此の地に落住して子孫を遺したり。神職なれば貫名氏の子に名付け、神職たれば善日麿と命名せり。

善日麿は、安房東條郷の漁家に生る。十二歳にして清澄山に登り道善に從ひ、十六歳にして剃髪し法名を蓮長と名付けらるゝも、幼名を入れて十八歳に日蓮と攺む。仁治三年、求学を志し鎌倉に出で、更に叡山三井寺、京師、奈良、高野山に於て各宗の教義を修め、再度び叡山に歸り、遂にして法華經は諸行のなかに最勝なるものと自得せり。

建長五年、東條に歸郷し親を訪れ、四月二十八日清澄寺に登り、旭日に向って南無妙法蓮華経と高唱して十遍。郷にも日蓮に合宗せるもの多ければ、地頭の東條景信、是を良とせず日蓮を追放うたり。されば、鎌倉に庵居し、日々法華経を誦し、辻説法行し、文應元年、立正安国論を北條時賴に書上し、大怒に觸れ、伊豆伊東に配流され、同三年に赦され鎌倉に歸り、再度び諸宗の宗旨を罵りて土牢に幽され、文永八年、龍ノ口に断罪となり斬首されんとするに、天日にわかに曇り、稲妻雷音は天の怒るが如く天切りて、刑執行の武士の振りあげたる太刀に落雷して三段に折られたり。依て佐渡に流され、同十年赦されて、日朗、師を迎へて鎌倉に歸りける。門弟を集し甲斐の身延山に法城を開き、是に庵居して專ら逑経せるは三百九十餘種。弘安五年、武藏池上の宗仲邸に十月十三日、入滅す。

彼の遺したる書巻に撰時鈔及び開目鈔、觀心本尊鈔、守護国家論、立正安国論あり、教機時国鈔ありぬ。日蓮が父の大慈悲に名付けられたる、日本の日出の速き魹崎の日の字と、その海潮を汲みて湯浴せし親の願ふ如き久遠に日蓮は遺りぬ。

十六、

石塔山の傳に、役小角の正法とて、三身即一身と曰ふを諸傳に見ゆ。三身とは法身、報身、應身を曰ふ。法身とは、永劫不変なる萬有の本體を眞如の理體積聚の意趣を顯したるを法身と曰ふなり。無色無形理佛と號けたるなり。報身とは、修行に酬い顯れたる佛身にして、如来の如きを曰ふ。即ち菩薩位の困難なる修行に修業、修験に堪へて精進せる永恒性をもっての有形の佛身を曰ふなり。應身とは、上二身の見能はざる者を救ふ故に顯れたる佛身にして、釋尊の如きを曰ふ。

修験にして説くは、三身とは行者、權現、如来にて、求道發起より修験に成道せる者ぞ、三身は即一身なりと曰ふ。即ち一念發起して求道に身心をして不轉倒なれば悟りの成道に乗ずるべく、修験の大要を曰ふ。依て役小角は求道行を重じ、先づは求道の發心に法喜菩薩を感得して示現し、次には修験に耐ゆる人の煩惱を降伏せしむ破邪顯正を護持せしむために金剛藏王權現を感得せしめたり。而してかゝる修験に耐えたるものには、無上の成道に引導せる金剛不壊摩訶如来を感得せり。摩訶とは大、多、勝の三義ありて、宇宙なる天空の一切、大地なる一切そして水なる一切には、天地水と一身に連らなり、萬物は三界に生死を以て過去、現在、未来も一身に連らなる故に絶ゆるなし。

修験は道を大事とし、三身即一身とて成道を成就せんを説きぬ。

十七、

抑々、石塔山に遺る役小角の遺せるは、法報應三身即一身理趣抄にして、佛法の渡来に便らず、自から心身に修験しつゝ先づ發心に法喜菩薩を感得し、求道の本願に入道にしるべとせり。是を應身とし、成道の爲に修験せる行道に障る自からの煩惱や、降魔恨靈及び他衆の白眼と悪口、障害の被むらしむを誅滅せる全能の神通力を以て、行道を守護せる金剛藏王權現を感得して、行者を求のしるべに迷はざる垂地尊とせり。かく諸々の苦行を果し、成道に達したる者に無上の本地尊、三身即一身の金剛不壊摩訶如来を感得し、本地尊とせる役小角は、各宗佛門に比例なき小角獨明の修験道たり。而るに、かゝる感得の極みぞ、世に出でるなく、東日流中山にその成道をしるべのまゝに遺して、今も永眠せり。

三身即一身成導の無上なる修験道ぞ末法に咲かん。

十八、

役小角が衆生に懺悔をすべきと説くは、次の如くなり。小妄語、行罵、両舌、與女人宿、共未具宿、未具同誦、説麁罪、與女人説法、實得道、掘地、壊生、餘語惱觸、嫌罵知事、露敷僧物、屏敷僧物、強敷坐、牽出房、脱脚牀、用蟲水、覆屋過限、輙教尼、説法至暮、譏教尼人、與尼衣、爲尼作、與尼坐、尼期行、尼同船、尼歎食、與女期行、食過受、背請、別衆食、歸婦賈容食、定食勸足食、七非時食、殘宿食、不受食、索美食、與外道食、食前後入聚、食家強坐、屛與女坐、與女露坐、駆他出聚、過受藥、觀軍、軍中過宿、觀軍戦、飲酒、水中戲、撃櫪他、不受諫、怖比丘、半月溶、露地燃火、藏他鉢、眞實淨、著新衣、奪畜生命、飲蟲水、疑惱比丘、覆麁罪、與年不満、發諍、與賊期行、悪見違諫、随挙比丘、随擯沙弥、拒觀学、毀毘尼、恐挙洗言、同羯磨後悔、不與欲、與欲後悔、屏聽四諍、瞋打比丘、搏比丘、殘謗、突入王宮、捉寶非時人聚、過重牀足、兜羅綿褥、骨牙角銭筒、過重坐具、過重覆痕、過重雨衣、過重三衣、等なり。役小角、この悔戒のみを他行を入れたるも、弟子等に説くことなかりきと曰ふなり。

十九、 日高見歌集

〽鹽がまの 月澄み渡り 海の面
  歎きわび身を 浮舟に寝て

〽山田浦 海と浜ゆふ 浜梨の
  香に誘はれして 明日を拝する

〽ぬれてほす 漁衣のうろこ 水光り
  海に幸揚ぐ 宮古浦かな

〽いさり灯の 波に浮見ゆ 黑潮の
  流れに乗りて けさの大漁

〽わだつみの 潮鳴りさわぐ 朝燒の
  沖に龍巻く 秋風の海

〽かれんなり 山路の菊は ほころびて
  た折るもあはれ 神がけの道

〽荒けなく 嵐のたゝく 雨戸ゆれ
  古家の歳を 今更らこそに

〽もとの水 返らぬ旅の 行く方は
  淋しく見ゆむ 日高見の川

〽うつらふは 過ぎゆ季節の 山影に
  朝日夕日も 彩に移りき

〽水絶えず 雨は降れども 濁りなく
  鮭はのぼりぬ 津軽石川

〽湯煙りの 淡き湯の香に 足勇む
  山路のぼるゝ 老にし妹背

〽垂れ藤も しがらみたよる 大木の
  ありてこそなる 花の風瀧

〽けふ見ずば 櫻も散りし うちつけに
  天狗だふしの 嵐吹きけん

〽花ぞ知る 風のまにまに ひとひらと
  遠くに便よる 風花の旅

〽神無月 残るながめの 錦にも
  霜に朽ちにし 虫も鳴きやむ

〽あだし世の 空恐ろしき 地は震ひ
  岩木の峯に 火吹く今宵は

〽よりよりに 時を待たざる 日毎にも
  たゞかきくらす 陸奥に冬越す

〽鳴る瀧の 水も絶えねば やむもなく
  夏に深けき 中山の湲

〽太古なる 巖を積し 神垣の
  霞に幽む 石塔の群

〽みなゝがら 波も暮れゆく 外浜の
  太古に満る 浜御坐の跡

〽中山の 峯吹く風に さまされて
  荒行盡す 山伏の行

〽神々の 降りにしさまか 霞立つ
  梢えぞ見えて 幹ぞ白雲

〽山々の ふもとに霞む 朝景色
  譬へん方も 思ひ出だせず

〽ゆうつけに 朝はさまされ 火ともしの
  炊焚く煙り しののめを突く

〽仙行の 採果汲む水 神の間も
  秋も憂からぬ 身の果さらに

〽金剛の 神ぞあらめや 中山の
  天仙理王 光り降るらん

〽意のまゝに 世を渡りける 人あらず
  仇しき事の 人は造りき

〽うつゝなき けしたる人の 深隱れ
  世にあることの 今昔絶えず

〽おぼつかな いづち三界 所なし
  染むべき袖は 身に黑衣

〽陸奥の冬 日高見川の 舟降り
  なまりの空の 雪降りやまず

廿、

役小角、己が身に受く法難に忿怒せり。大事なる母、小角が伊豆に流罪中に入寂しけるを悲しみ、御遺骨を鉄鉢に乗せて、小角が道行きに離さず持歩きたりと曰ふ。

かゝる證なき流罪となせしは、朝宮に親しき財得の權僧にて、小角が大峰に登り、金剛藏王の咒術秘行にて誅滅されたり。神佛の道に求道を妨ぐものは、役小角が祈らむ全能の神通力に叶ふ名僧はなかりき。

常に役小角が心して金剛藏王の前に、降魔誅滅の秘法を以て咒に被る者には、是を破るゝ如何なる法術も叶ふなかりき。小角を貶しめたる宗僧は、小角が配流を赦されし後、犯気と怖れに、死境に七轉八苦の死にざまたりと曰ふなり。

廿一、

諸障誅滅法
狂死符□□秘字殺誅饕餮金剛力□□□秘字祈討滅咒・
・・・病死符□□□秘字不治病□□□秘字必殺□□□秘字
苦惱咒・・・・

右、咒法は秘なり。依て、眞似事にも行ずる勿れとぞ戒め置くものなり。役小角が是の法を感得せしは、母の死後なり。また此の符にぞ祈られたる者ぞ、人の生を世に再度び甦えしぞなく、久遠にして冥界をさまようなり。修験、とかく法力も得る。

廿二、 陸羽歌集

〽天の川 冴えつる星の 天切りて
  流るゝ如く 見えつるかな

〽陸奥こそに 荒ぶる神の 鎭ませる
  太古に續く 苔の華咲く

〽人めきて いしくも直な ゆくへをも
  目ざましぐさに つれづれもなき

〽山高く 海深けるは 知り乍ら
  見もせで終る かねこともなき

〽我が苫の 軒に巢造る つばくらの
  人に馴れこし 夏の夕ぐれ

〽むつかしく 世にあるさまを あしからじ
  浜の眞砂に 波ぞ消ゆ毎

〽あらはばき げにや祈りつ 岩手山
  四方を見下し 云ひもあへねば

〽鉄の山 仙人峠 かま石の
  たゞらの煙り たゆまなかりき

〽白百合の 夏の香高き みちのくの
  かわゆき乙女 この花なれや

〽恋しくば 秋田の邑の 蕗を刈る
  おばこの唄に 聽き見合うべし

〽櫻花 咲いての後に 誰れ折らば
  妹背と末を 睦まつくあれ

〽別れるに 糸より細く 別れます
  縁なき袖に 風も吹かねば

〽恋しさに 空飛ぶ鳥に 文をやる
  落してたもな 賴む白鳥

〽山路行く 葉の散る秋の 錦道
  一人歩くも わびしさつのる

〽かりがねの 渡るゝ空の 月冴えて
  人の落目と わらじ結ばむ

〽かげろうふの 燃ゆるが如き草いきれ
  春のみちのく さわぐよしきり

〽土を出づ 蛙に溢る 池水の
  夜な通して 猶鳴きやまず

〽ほろほろと 鳴く山鳩の 和賀山に
  橅の老木 苔を衣に

〽山の郷 春を盛りに 咲く花の
  梅に櫻に 桃の香惑ふ

〽見もやらぬ 天皇こそに 死を捧ぐ
  もののふなれば 誰ぞ恨みむ

〽久しくも 遠きに別れ 再會の
  友の来たらん 夜更けねむれず

全歌詩人知らず

廿三、

北斗星とは、貧狼星、巨文星、禄存星、文曲星、廉貞星、武曲星、破軍星、なり。是を北斗七星と合稱せり。

北極星とは子の星とて、宇宙の中軸星とて古人は星王神とせり。九曜星とは、日月火水木金土の七曜星に計都星、羅喉星、を加へて九曜星と稱したり。此の他に、ス星、ヒキツ星、ツ星、ナマメ星、アメフリ星、トロキ星、タマホメ星、ナガゴ星、アレダレ星、トカキ星、タタミ星、コキヘ星、チリコ星、タスキ星、チチリ星、ミ星、ウツキ星、トミテ星、ウミヤマ星、ハツイ星、ホトホリ星、ミツウケ星、アミ星、トモ星、スバル星、イナミ星、ヌリコ星、カラスキ星、以上が二十八宿星と曰ふ。

古代より、この星々の運行を宇宙に見つゝ、人は仰ぐ神秘の靈感に、神の想像を宇宙に求め、神託を人々に解く信仰ぞ生ぜり。古代オリエントの国々、オーデイン、ブイリ、ブエーの三神なる北方神話、シュメール神話、エジプト神話、ギリシア神話、オスマン神話、ケルマン神話、スキタイ神話、ペルシア神話、インド神話、モンゴル神話、支那神話、かぎりなく星に求めて、神々が阿僧祇に造られたり。

代々に移りては、猶もやむ事なく星々を占ひにせる論師や導師も現れ、迷信も多く遺されたり。吾が国にては、北斗の星と、曜星にて、神の神託をせり。イタコ、オシラ、ゴミソの神司をして衆に告げたり。

廿四、

抑々、石塔山にては神託の事は夜にのみ行じ、昼にして行ぜるなし。星の冴ゆる夜に神火を焚き、その炎に出づる火勢に神の神託ありと信ぜり。東日流中山は空天の暗より光れる玉ぞ天降るなり。誰れにでも見ゆる玉光りぞ、眼にせしこと、昔より今に傳りき。

中山の梵珠山は、かくの如く今年も登山せるもの多く、その不可思議なる光玉を見んと、毎年絶なき行事とて存續せり。

卅九巻了   和田末吉 印

 

制作:F_kikaku