北鑑 第四十一巻

書意

此の書巻は一重に丑寅日本の古きにありし事の實相を求めて諸史、諸話、諸傳を記したる者也。依て、異聞、異書ありとも皆記し置けるものなれば、各位、評の賛否を生ずるは免ぬがれざるも、己々にして衆聖の決なくして書選に及ぶは非常なり。依て、今は唯、集編にある耳なり。右、心得可事如件。

寛政二年十月一日   孝季

坂東丑寅之雜記

坂東の降神山、その由来を尋ぬるも知る人も無し。昔、平將門、神皇の御告を賜りてより、此の山を降神山と曰ふとは、あやまりにして、降神山の名はその以前に存在せると曰ふ。人に依りては、元禄の頃、庚申山と號くもあり、靈山の故に人の信仰厚し。

安倍国東の頃、此の山に光物落着を見る人多く、亦、代々に傳ありぬ。而して、その光り、宇宙よりのものなるかと、平將門、此の峯に登りて、天降れる鉄塊を見付け、太刀を造りたりと傳ふなり。然らば、妖光なるは流星なるか、降神なるかと心に審しければ、流星塊あるが故に、神ならずとせば、古来の信仰を欠くなり。將門はあえて流星を神とせず、太刀に鍛治打たるは、神皇たるの神告ありて、少か六十日にして討死せしは、何故の因果ぞや、とひしめきさわぐを聞き、是を天罰、神罰とぞ世に騒々たれば、倭朝とては神をして降臨の峯は、日向の高千穗山の他あらずと、能く衆に宣したり。依て、將門は国賊とぞ、流布の勢勇むも、丑寅日本国にては、古来、流星は宇宙の塵とて重く神聖とせず、山靼より傳はりし天文の一説に解きたり。蒙古にては流星を星屑とて、信仰なる的とはせざるなり。坂東にてはアラハバキ信仰ぞ今に尚、崇さるるありて、天地水の理りを、迷信に入れざる祖来の傳統にぞ忠實たり。

人の世は人の暮しに伴ふ習しにて、迷信を理り解かず、唯、怖れおののく餘り、邪道の信仰にも心奪はるあり。迷ひば奈落に逆堕ぬ。命運の吉凶は人の世に泰平たりとて伴ふものなりて、信仰とは己が命運の安らぎを祈り、その安心立命を神に祈願の他、更にぞ求めては信仰ならず、神をして冒瀆せる行爲なり。依て、古来丑寅日本国になるそもなる太古よりの信仰ぞ、何事の迷信ぞなかりけるが故に存續せり。唯、世襲におぞましきは、かく迷信の類、世にはびこり無心の人心を惑はしめ、故に戦起り、悪行の絶えざる故因なり。一を抜きては二を抜き、三を抜き、更に抜きける力盡きては、權謀術數にて手段を選ばざる悪業の、數ぞ重ぬる程に勢を翼賛すとも、造るにも限りあり、衆にはやがて反かるるの起端を暴露す。依て、迷信とは、如何なる人心にも惑易き導教の因源にありぬ。

古来、倭国にては誘致信仰多く、己れをして智得なく、他力本願の故に、一宗を尚、他宗に分派し、本願いかでか對して爭ふるさま、世々に長じ、財勢を以て人心を寄せし弘法にして、求めて外道の制多に惑ふ耳なり。

されば、丑寅日本国の荒覇吐神なる信仰にては、宣を旨とせず、求め来るを覚し、迷信を心髄に砕きて、ただ本願の一途に求道せるの他、深甚なるはなかりける。即ち、神とは人心の及ばざる大自然の法則に叶ふ攝理にして、神を偶像して崇むる非らず、唯、眞實一路にぞ、求めてやまざるこそ神の信仰に達成を得るべく道なり。

古来より吾が丑寅の唯一の信仰とはに曰せば、唯、天地水の理りに化縁せる世の眞實理に求導を不断とせるに、荒覇吐神ぞ今に不滅たり。坂東より丑寅の地に起りたる古代の故因を、今、覚る可。

文化二年六月八日  神田明神 江戸屋惣吉

馬飼帳

相凶

吉相

馬稱

馬の種別は馬稱と曰ふ。
雌をタンマ、雄をボデフリ、飼草をケグサ、馬舍をマヤ、手綱をサセナ、轡をハヂナ、𩉿をヒアデ、と稱したり。

馬技

馬を錬馬する法をコナシと曰ふ。ダグとは早蹄馳にて、オガゲとは蹴走馳なり。鞍荷ダンヅゲ、亦、車輪及び橇を引くことをダンヅツケと曰ふなり。

寛政二年三月一日   糠部辰五郎

山神處異

丑寅日本国の山神信仰は何處に於ても十二日と曰ふ日を選びたり。その祀日は十二月十二日を以て大祭ありぬ。供へしものは、餅十二をそろひて、魚はおこぜ、魚の頭付なり。山神とは、大山祇神を海神とし、山海を山神とせる多し。十二の數に専念せるは古代オリエントなるオリンポス山十二神に由来あり。

山靼渡来の信仰に混ぜり。即ちこの十二神とは、風の神、木の神、土の神、雨の神、日の神、雷の神、大龍神、星の神、金の神、氷雪神、夜の神、海の神にして、その地に必なる神を祀りぬ。像を祀るは後世なれど、人の職々に崇拝され代々に受継たり。依て祀りきは、その地異に選ばれたり。

木を以て業とせる者、マタギにて崇む神、漁士、鍛治、及び農を營む者、亦商ふ人々、武家にある者、その信仰ぞ擴し。

寛政二年十二月十二日  瓜田甚五郎

山田湾物語

大島小島を湾内に東海の昇る旭日にあかねさす優景千金の名湊を太古にして、此の地をアラハバキコタンと稱しける。昔、飯岡、山田の邑二つ在りて、此の間に荒覇吐神社ありて、両邑の氏神たり。十二神山を丑寅に拝し、北の緯度にあることギリシアなる十二神山オリンポス山に地球線を結ぶる古代史の聖域たり。此の地にアラハバキコタンのなるは、白雉丁丑年(白鳳か)の年にして糠部湊なる新江田邑氏神鮫山に建立せる荒覇吐神と歳を同じうせり。此の山田湾なるは閉伊崎湾と背合せにて、何れも山海相應なる絶景たり。閉伊川、浅岸川を東西にして安倍の巨城厨川柵に魚、貝、海草の海産物を荷駄運しこの両湾を湊たらしめたるは日本將軍安倍頻良が地之豪士茂市權太夫、魹崎勘右衛門らと相謀り、北に宮古湊、南に山田湾を築湊せしめたるは長暦戊寅年なり。

厨川湊道と曰ふ山道を浅岸澤、閉伊澤添へに通したるは長久庚辰年にして、猿石川添へなる遠野道より立丸切通しを皮江に施道しけるは日本將軍安倍貞任にして康平戊戌年なり。地民悦びて、遠野に北貞任山、南貞任山と山號に遺したる故縁なりき。此の両道を利して住民その流通に留めり。

然るに、厨川の乱に安倍一族の敗北以来、永きに渡りて道閉ぎければ、昔影今に遺らざるなり。

明暦元年十月一日   豊間根国任

一、

今は昔の物語なり。東海に日出づる丑寅の閉伊なる国、山田湊に大島、小島ありて男島、女島とも曰ふ。古く神の住むる島とて浜人に男子生れては男島、女子生れては女島の神に厄除けに供物を献ぜる習しありき。島にあがるを赦されざるは、島そのもの神體なるが故にて、此の神なる島に古傳今に遺りつるは哀れなる古話あり。

飯丘邑に歳十七になる漁士の娘あり、名をお咲と曰ふ。父は幼童の頃、浜に津浪ありて他界しければ、母一人の手に依りて育まれりと曰ふ。母の仕事になるは網造りにて、用ゆ山桐の浮造りを家業とし、ダバ造りのお仙とて、男まさりの女人にして、後妻にと降るほどの縁談にも断って、一人娘の成長に餘念なかりければ、親辨天、子辨天と近在野に評判たり。ましてその器量ぞまれにして、母子とも姉妹の如く妖艶たれば、その聞え、陸の三国になる湊に達せり。漁士等こぞりて浮木を求め、その暮し貧しからねど、何事の因果ぞ、母お仙、病に臥したるや癩病たり。不治なる病なれば他人に隱し、お咲はとたんの奈落に心惑ふたり。日を追ふて母の容貌変化せるに、たまらず父の死したる海に祈りたるも、ただ潮騒ばかり。依て、山田寄りに朽ちたる社堂あり、知らずこの社に参りて母の病の平癒あらんをばと一心不乱に祈りたり。社に暗きほどに暮までの願懸けに了りて歸る道しがら、一人の旅僧に遇ひたれば、その僧よういならざるお咲の通り過ぎたる後にふりかえりて聲かけぬ。

これよ娘、そちの容意ならざる想込ぞ尋常ならず、拙僧が何をかあらざらんと見みえしに、何事以てか申されよ。とて笠を脱ぎたるに、お咲、立止りてあたりをうかがえて曰く。妾の母ぞ病にて、それも何事の科にありや癩病なれば、誰とて賴むあてもなければ、今は唯々神の御心におすがりの他術あらず、氏の神にぞ祈りて歸る處なりと、涙に𥇥を赤くして曰ふ。旅僧曰く。それぞや不敏なる一大事なり。拙僧が聞き得たるも何ぞやな、相聞き流して却るも、是れまた邪見なり。依て拙僧が母者に遇ひ曰して、何ぞ平癒の法を奉らんとて、同道し家に入れり。臥したる母者を見つる旅僧、何事もなきかの如く、顔ぞそむくなく肌見ゆ程の襤褸法衣を襟正し、臥したる母者のお仙の頭に一巻の經を乗せ念珠ちまぐりて唱へたり。

何事の有難き經呪か知る由もなきお咲も、唯一心に拝したれば、やがて僧が誦經を終り、天地も破るが如き大音聲で、喝、と念珠を振ひければ、臥せる母者、むっくり起きなして、とりきたる邪靈の神懸りが曰ふさく。

私はこれ、女島辨天なり。浂れら母子の今日ありしは、吾が加護にありけるなり。然るにや、人間にして煩惱の衆なれば、去る程の津浪に死したる浂れらの夫なる屍を探し求めたるなく、唯、海に拝む耳なれば、浂にかかる癩病に身を科罪しけり。浂が娘、お咲、今宵に荒覇吐神の宮に詣でければ、吾れ、浂が孝行ぞ聞屆けたり。母者の病ぞ平癒は唯ひとつ行ふる儀、是ありぬ。吾が島の西方に浂ら夫の遺骸あり、急ぎて骨集め供養あるべしとて、母者は仆れたり。體中血膿ぞ染め、異臭辺に漂いて、まさに此の世なる生地獄たり。

旅僧曰く。覚いたり、かかる罪障、必ず以て拙僧が亡き骸を得て葬らん。かくしては辨天が女島を清め曰さくと、次なる朝の東空白らむ頃、小島の西に至るや、告げにし通りにて髑髏及び五體骨あり、樽に入れ邑墓に埋葬なし、再度び島に来たりて蒔塩にて地を清めたり。了りて歸りては、母なるお仙の相や如何に癩病たるのあとかたもなかりけり。娘お咲ぞ、涙して母娘悦びたるる間に、彼の旅僧なる姿見えざるに、母、娘ともに邑道を追へたれど、行き會ふ人々見ざると曰ひり、母娘は爾来、幸いたり。

正保乙酉二年七月十三日  石井虎山

二、

昔の事なり。高瀧山を分水嶺とて流るる山田川あり。古稱にして是を長流川と曰ふ。此の川にこそ怪奇なる傳説ありて今に遺りぬ。地人、高瀧山に祀るは昴神とて八人の天神たり。天火女、天秤女、天舟女、天川女、天星女、天光女、天龍女、天国女ら八天女神なり。常に天界にありしも、天界の黄道、赤道に交はる春分、秋の日至とき此の山に降臨せり。此の八天女神、天の磐舟にて降りしとき、地界にては暖寒分目の季にして、草木までも、昴の神々を春分には山海の幸を、秋分には衣を奉納せり。然るに、一切の行祭にも登山を赦されず、山頂は秘境とて太古より入峯を禁じたり。

山田邑に神司ありて、此の神達のヌササンを山田湾川口にて行祭せし。ときに占ふるは昴の星、その年をして數見ゆる事ならしめ、八は大吉、七は小吉、九は大凶とて津浪、地震、大風、日和能く當りぬ。村人こぞりて祭祀に吾が門にカムイノミを焚きて、昴の八天女を迎ふるとて、座敷に八膳に酒肴をこらして供へたり。この迎膳の添ざる家には災難免がれずと曰ふ。

延享乙丑春分   柏泰介

奥羽陸古傳 一、

抑々、全文二百三十七字になる宋書に曰くは、東に五十五国、西に六十六国の倭王に皇化せざる国ありと曰ふ。亦、山海經にては、東北の国は毛民にして穴居し、とある。是れ皆、倭人の報にて記せしものなれば、何れも實相に非らざる仮説なりき。地分に於て丑寅日本国をして、流鬼、千島、渡島の三国、宇曽利、東日流、糠部、火内、仙北、庄内、閉伊、磐井、亘、田村、白河、砂泻を以て五十六郡、丑寅北三国を併せしものなれば、支那倭史に古事をして當るなし。古き世代より支那の北に山靼国ありて、国交睦ましく往来しける。古くは山靼象の狩りにし古期にも往来あり。その古きこと二萬五千年にも古きに過却せり。

此の国、丑寅日本国は山靼より人祖の渡りあり、古き幾十萬年の先にありきとぞ、エカシらの曰く處なり。倭人の丑寅人を忌む故は、支那と同じうして怖るを先となせる故なり。未だ倭人に知られざるは馬牛の雄去精あり。山靼傳統の業なり。

文政五年六月一日   孝季

陸奥話記 二、

六箇之司有安倍賴良有是同忠良子也

父祖忠賴東夷酋長威風大振村落皆服橫行六郡劫畧人民子孫尤滋蔓漸出衣川外不輸賦貢無勤傭役代驕奢誰人敢不可能制之

永承頃太守藤原朝臣登任發數千兵攻之出羽秋田城之介平朝臣重成爲前鋒太守卆夫士爲後賴良以諸郡俘囚拒之大戰于鬼切部太守軍敗績死者甚多於是朝廷有議擇追討將軍衆議所歸獨在源朝臣賴義賴義者河内守賴信朝臣子也

性沈毅多武略最爲將師之器長元之間平忠常爲坂東姦雄暴逆爲事賴信朝臣爲追討使討平忠常并嫡子有軍旅間勇決拔羣才気被世坂東武士多樂屬者素爲小一條院判官代院好畋獵野中所赴麋鹿狐兔常爲賴義所獲好持弱弓而所發矢莫不飲羽縱雖猛獸應弦必斃其射藝巧軼人如斯上野守平直方朝臣感其騎射竊相語曰僕雖不肖苟爲名將後胤偏武藝而未曾見控絃之巧如卿能者請以一女爲箕箒妾則納彼女爲妻令生三男二女長子義家仲子義綱等也因判官代勞爲相模守俗好武勇民多歸服賴義朝臣威風大行拒捍之類皆奴僕而愛士好施會坂東以弓馬之士大半爲門客任終上洛經數年間忽應朝選專征伐之任拜爲陸奧守兼鎭守府將軍令討賴良天下素知才能服其採擇入境着任之初俄有天下大赦賴良大喜攺名稱賴時同太守名有禁之故也 委身歸服境内両清一任無事任終之年爲行府務入鎭守府數十日經廻之間賴時頓首給仕駿馬金寶之類悉獻幕下兼給士卒而歸國府之道阿久利川邊夜有人窺語權守藤原朝臣説貞之子光貞等野宿殺傷人馬將軍召光貞問嫌疑人答曰賴時長男貞任以先年欲娉光貞妹而賤其家族不許之貞任深爲耻推之貞任所爲矣此外無他仇爰將軍怒召貞任浴罪之賴時語其子姪曰人倫材世皆妻子也貞任雖愚父子之愛不能弃忘一旦伏誅我何忍哉不如閉関不聽甘来攻甘況乎吾衆亦是拒戦未以爲憂縱不利吾㑪等死不亦可哉其左右皆曰公言是也 請以一丸泥封衣川関誰敢有破者遂閉道不通將軍弥嗔大發軍兵坂東猛士雲集雨来歩騎數萬輜人戦具重疊蔽野国内震懼莫不響應于時賴時聟三位藤原臣經清平永衡等皆叛舅目以私兵從將軍引軍漸進將到衣川之関永衡被銀冑有人説將軍曰永衡爲前司登任朝臣郎從下向當國厚被養頣勢領一郡而娉賴時女以後貳于太守合戰之時與干賴時不屬舊主不忠不義者也 今雖外示歸服而内挾奸謀恐通使告示軍使士動淨謀略所出歟又所着胄與祥不同是必欲合戦時軍兵不射己也 黄巾赤眉豈不別軍之故乎不如早斬之断其内應矣將軍以爲然則勤兵收永衡及隨兵中委腹心四人責以其罪立斬之於是經清等怖不自安竊語其客曰前車覆者後車鑒也 韓彭被誅黥布寒心今十朗已歿永衡字伊具十郎吾又不知何日死爲之如何客曰善則構流言驚軍中曰賴時遣軽騎出於間道將攻国府取將軍妻子云々將軍之麾下内客皆妻子在国府取多勤將軍令歸国府將軍因衆勤自將於騎數千人日夕馳還而遣気仙郡司金爲時等攻賴時賴時以舍弟僧良昭等令拒之爲時雖頗有利而依無後援一戦退矣於經清等屬大軍擾乱之間將私兵八百餘人走于賴時矣今年朝廷雖補新司聞合戦告辭天喜五年九月進国解言上誅伐賴時之状懦臣使金爲時下毛野興重等甘説奧地俘囚興官軍於是鉋屋仁土呂志宇曾利合三郡夷人安倍富忠爲首發兵從爲時而賴時聞其計自往陳利害衆不過二千人富忠設伏兵撃之𡸴岨大戦二日賴時爲流矢所中還鳥海柵死但餘黨未服請賜官荷徴發諸国兵士兼兵粮悉誅餘類焉隨官荷召兵粮發軍兵但群卿之議不同未行勳賞之間同年十一月將軍卆兵千八百餘人以金爲行之河崎柵爲營拒鳥黄海于時風雪其勵道路難艱官軍無食人馬共疲賊類馳新羈之馬敵疲足之軍非唯客主之勢異又有寡衆之力別官軍大敗死者數百人將軍長男義家驍勇絶倫騎射如神冐白刃重圍出賊左右以大鏃箭補頻射賊師矢不空發所中心斃雷奔風飛神武命世也 夷人靡走敢無當者夷人號曰八幡太郎漢飛將軍之號不可同年語矣將軍從兵或以散走或以死傷所殘纔有六騎長男義家修理少進藤原景通大宅光任清原貞廣藤原範季同則明等也 賊衆二百余人交騎張左右翼圍攻飛矢如雨將軍馬中流矢斃景通得馬扶之義家馬又中矢死則明奪賊馬援之如此之間殆難得脱而義家頻射殺魁師又光任等數騎殊死而戦賊類爲神漸引退矣是時官軍中有散位佐伯經範者相模国人也 將軍厚遇之軍敗之時圍已解纔出不知將軍處間散卆々答曰將軍爲賊所圍從兵不遇數數騎推之難脱矣經範曰我事將軍已經三十年老僕年已及耳順將軍歯又逼懸車今當覆滅之時何不同命乎地下相從是吾志還入賊圍中隨兵両三騎又曰公既與將軍同命死節吾等豈得獨生乎雖云陪臣慕節是一也共入賊陣戦甚捷則殺十餘人而殺死如林皆没賊前藤原景秀者景通長子也 年二十餘性少言語善騎射合戦時視死如歸馳入賊陣殺梟帥出如此七八度而馬蹶爲賊所得賊徒雖惜具武勇而悪爲將軍之親兵遂斬之散位和気致輔孫爲清等皆入萬死不顧一生悉爲將軍棄命其得士力皆類也 又藤原茂賴者將軍腹心也 驍勇善戦軍敗之後數日不知將軍所住謂己沒賊泣曰吾求彼骸骨方葬㰸之但兵革所衝自非僧侶不能入求方剃髮拾遺骸可耳則忽出家爲僧指戦場行道遇將軍且悅且悲相從逃来出家雖似劇忠節猶足感又散位平国妙者出羽国人也驍勇善戦常以寡敗衆未曾敗北俗號云曰平不負字曰平大夫故加能云不負將軍招之令爲前師而馬仆爲賊所檎賊帥經清者国妙之外甥也以故得免武士猶以爲耻矣同年十二月国解曰諸国兵糧兵士雖有徴發之名無到来之實當国人民悉越他国不從兵役先移送出羽国之處守源朝臣兼長敢無乱越心非蒙裁許者何遂討撃云々於是朝家止兼長朝臣之任以源朝臣斉賴爲出羽守令共襲貞任而斉賴乍蒙不次恩賞全無伐之心諸国軍兵兵粮又以不来如此之間不能重攻貞任等益橫行諸郡劫略人民經清卆數百甲士出衣川関放使諸郡徴納官物命曰可用白符不可用赤符白符者經清私徴符也不捺印故云白符赤符者国符也有国印故云赤符也將軍不能制之而常以甘言説出羽山北俘囚主清原眞人光賴舍弟武則等令與力官軍光賴等猶預未決將軍常贈以奇珍光賴武則等漸以許諾康平五年春依賴義朝臣任終更拝高階朝臣經重爲陸奧守揚鞭進發入境着任之後歸無何洛是国内人民皆隨前司指図故也 朝議紜之間賴義朝臣頻求兵於光賴並舍弟武則等於是武則以同年秋七月卆子弟萬餘人兵越来於陸奧国將軍大喜卆三千餘人以七月二十六日發国八月九日到栗原郡營岡昔田村麻呂將軍征夷蝦之日於此支整軍士自其以来號曰營塹迹猶存武則眞人先軍此處邂逅相遇互陳心懷各以拭涙悲喜交至同十六日定諸陣押領使清原武貞爲一陣武則子也橘貞賴爲二陣武則甥也宇逆志方太郎古参秀武爲三陣武則甥又聟字荒川太郎橘賴貞爲四陣貞賴弟也字新方次郎賴義朝臣爲五陣五陣中又分三陣一陣將軍一陣武則眞人一陣国内官人等也吉美侯武忠爲六陣字斑目四郎清原武道爲七陣字貝澤三郎於是武則遙拝皇城誓天地言臣既發弟應將軍命志在立節不顧殺身若不苟死必不空生八幡三所照臣中丹若惜身命不致死力者心中神鏑死矣合軍旅壁一時激怒今有鳴翔軍上將軍以下悉祈之 則赴松山道次磐井郡中山大風澤翌日到同郡萩馬場去小松柵五町餘也件柵者是宗任叔父僧良照柵也依日次不宜並及晩景無攻撃心而武則賴貞等先爲見地勢近到之間歩兵放火燒柵外宿廬於是城内奮呼矢石乱發官軍合應爭求先登將軍命武則曰明日之儀俄乖當時之戦已發但兵待機發不必撰日時故宋武帝不避往亡而功好見兵機可隨早晩矣武則曰官軍之怒猶如水火鋒不可當用兵之機不過此時則以騎兵圍要害以歩卆攻城柵件柵東南帶深流之碧潭西北負壁立之青巖歩騎共泥然而兵士深江是則大伴員季等引卆敢死者二十餘人以剣鑿岸杖鉾登巖斬壊柵下乱入城内合刃攻撃城中擾乱賊衆潰敗宗任將八百餘騎城外攻戦前陣頗疲不能敗之因茲召五陣軍士平眞平菅原行基源眞清刑部千富大原信助清原貞廣藤原兼成橘孝忠源親季藤原朝臣時常丸子宿祢弘政藤原貞光佐伯元方平經貞紀季武安倍師方等合加攻之皆是將軍麾下坂東精兵也 入萬死忘一生遂敗宗任軍又七陣陣頭武道支要害處宗任精兵三十餘騎爲遊兵襲来武道迎戦殺傷殆盡賊衆捨城迯走則放火燒其柵了所射斃賊徒六十餘人被疵迯者不知其員官軍死者十三人被疵者百五十人也休士整干戈不追攻撃又遭霖雨徒送數日粮盡軍中飢乞磐井以南郡々依宗任之誨遮奪官軍之輜重往反之人物爲追捕件姦類分兵士餘人遣栗原郷又入磐井郡仲村地去陣四十餘里也耕作田畠民頗饒則遺兵士三千餘人令苅稻禾等被給軍糧如此之間經十八箇日留營中者六千五百餘人也貞任等風聞此由語其前曰如聞者官軍食乏四方求糧兵士四散營中不過數千云云吾以大衆襲撃必敗之則以九月五日卆兵精兵八千餘人動地襲来亥甲如雲白刃耀日於是武則眞人進賀將軍曰貞任失謀將梟首將軍曰被官軍分散孤營少兵忽將大衆来襲是必謀勝矣而子云失謀其意如何武則曰官軍爲客兵粮食常乏亘爭鋒欲決雌雄而賤衆若守𡸴不進戦者客兵常疲不能久攻或有迯散者還彼所討矣僕常以之爲恐而今貞任等進来欲戦是天福將軍也又賊気黑如樓是軍敗之兆也官軍必得勝矣將軍曰子言是也吾又知之于時將軍命武則曰昔勾踐用范蠡之謀得雪會稽之耻今老臣因武則之忠欲露朝威之嚴於今日戦莫惜身命武則曰今爲將軍棄命輕如鴻毛寧雖向賊死不得背敵生於是將軍置陣如常山地勢士卆奮呼聲動天地両陣相戦交鋒對戦自午至酉義家義綱等虎視鷹揚斬將拔旗貞任等遂以敗北官軍乗勝追北賊衆到磐井河迷或失津或墜高岸或溺深渕暴虎憑河之類襲撃殺之自戦場至河邊所射殺賊衆百餘人所奪取馬三百餘疋也將軍語武則曰深夜雖暗不慰賊気必可追攻今夜從賊者明日必振矣武則以精兵八百餘人暗夜尋追將軍還營且饗士卆且整兵甲親廻軍療疵傷者戦士感激皆言意爲恩使命依義軽今爲將軍雖死不恨彼燒鬚𪡸膿何得加之而武則運等策分敢死者五十人偸從西山入貞任軍中俄令挙火見其火光自三方揚聲攻撃貞任等出于不意營中擾乱賊衆駭騷自互撃戦死傷甚多遂棄高梨宿並石坂柵迯入衣川関歩騎迷或放巖墜谷三十餘町之程斃亡人馬宛如乱麻肝膽塗地膏□潤野同六日午時將軍到高梨宿即日欲攻衣川関件関素隘路𡸴岨過𡺐函之固一人拒𡸴萬夫不能進弥斬樹塞蹊崩岸断路加以霖雨無晴河水洪然而三人押領使攻之武貞攻関道賴貞攻上津衣河道武則攻関下道自未時迄戌時攻戦之間官軍死者九人被疵者八十餘人也武則下馬廻見岸辺召兵士清命曰両岸有曲木枝條覆河面汝軽捷好飛超傳渡彼岸偸入賊營方燒其壘賊見其營火起合軍驚走吾必破関矣久清云死生隨命則如猿猴之跳梁着彼岸之曲木索繩纏葛牽三十餘人兵士同得越渡即偸到藤原業近柵燒亡大駭遁奔逐不拒関保鳥海柵而爲久清等所殺傷者七十餘人也同七日破関到膽澤郡白鳥村攻大麻生野及瀨原二柵拔之得生虜一人申云度々合戦之場賊師死數十人所謂散位平孝忠金師道安倍時任同貞行金依方等也皆是貞任宗任之一族驍勇驃駻之精兵也云々同十日鶏鳴襲鳥海柵行程十餘里也官軍未到之前宗任經清等棄城走保厨川柵將軍入鳥海柵暫休士卆柵中一屋醇酒數十瓶士卆爭欲飲之將軍制士之恐賊類設毒酒欺疲頓軍矣而雜人中一両人飲之無害而後合軍飲之皆呼萬歳將軍語武則曰頃年聞鳥海柵名不能見其體今日因卿忠節初得入之卿見予顏色如何武則曰足下多宣爲王室立節櫛風沐雨甲胄生蛆虱苦軍旅役已十餘年天地助其忠軍士感其志以是賊衆潰走如決積□愚臣擁鞭相從有何殊功乎但見將軍形容白髮返半黑破厨川柵得貞任首者鬢髮悉黑形容肥滿矣將軍曰卿卆子姪發大軍破堅執鋭自當矢石破陣拔城宛如轉圓石因之得遂予節卿無讓巧但白髮返黑者予意然之武則拝謝即襲正任所居和我郡黑澤尻柵拔之所射殺賊徒三十二人被疵迯者不知其員又鶴脛比與鳥二柵同破之同十四日向厨川柵十五日酉尅到着圍厨川妪戸二柵相去七八町許也結陣張翼終夜守之件柵自固西北大澤二面阻河河岸三丈有餘壁立無途其内築自周柵上構樓櫓鋭卒居卆居之河與柵間亦堀隍々底倒立刃地上蒔截刃遠者發弩射之近者投石打之適到柵下者建沸湯沃之振利刃殺之官軍到着時樓上兵招官軍曰戦来焉雜女數十人登樓唱歌將軍悪之自十六日卯時攻戦終日通夜積弩乱發矢石如雨城中固守不被拔之官軍死者數百人十七日未時將軍命士卆曰各人村落壊運舍填之城隍又毎人苅萓草積之河岸於是壊運苅積須臾如山將軍下馬遙拝皇城誓言昔漢德未哀飛泉忽應校尉之節今天威惟新大風可助老臣之忠伏乞八幡三所出風吹火燒彼柵則自犯火稱神投之是時有鳩翔軍陣上將軍再拝暴風忽起煙火焔如飛先是官軍所射之矢立柵面樓頭猶如蓑毛飛焔隨風着矢羽樓櫓屋舍一時火起城中男女數千人同音悲泣賊徒潰乱或投身於碧潭或刎首於白刃官軍渡水攻戦是時賊中敢死者數百人被甲振刃突圍而出必死莫生心官軍多傷死者武則告軍士曰開圍可出賊衆軍士開圍賊徒忽赴外心不戦而走官軍模撃悉殺之於是生虜經清伏首不能言將軍召見曰汝先祖相傳爲予家僕而年来忽諸朝威蔑如舊主大逆無道也今日得用白符否經清更伏首不能言將軍深悪之故以鈍刀漸斬其首是欲經清痛苦久也貞任拔剣斬官軍以鉾刺之載於大楯六人舁之將軍之前其長六尺有餘腰圍七尺四寸容貌魁偉皮膚肌白也將軍責・貞任位置一面死又斬弟重任字北浦六郎但宗任自投深泥迯脱己了貞任子童年十三歳名曰千世童子容貌美麗被甲出柵外能戦驍勇有祖風將軍哀憐欲宥之武則進曰將軍莫思小義忘巨害將軍頷遂之貞任年三十四死去城中美女數十人皆衣綾羅悉粧金翠交烟悲泣出之各賜軍士但柵破之時則任妻獨抱三歳男語言君將没妾不得獨生請君前先死則乍抱兒自投深渕死可謂烈女矣其後不幾貞任伯父安倍爲元字赤村介貞任弟家任歸降又經數日宗任等九人歸降同十二月十七日国解曰斬獲賊徒安倍貞任同重任藤原經清散位平孝忠藤原重久散位物部維正藤原經光同正綱同正元歸降散位爲元金爲行同則行同經永藤原業近同賴久同遠久等此外貞任家族無有遺類但正一人未出来云々僧良昭亡至出羽国爲守源斉賴所擒正任初隱出羽光賴子字大鳥山大郎賴遠許後聞宗任歸降由又出来了合戦之際義家毎射甲士皆應弦死矣後日武則語義家曰僕欲試君弓勢如何義家曰善矣於是武則大驚曰是神明之変化也豈凡人之所堪乎宜爲武士所歸伏如此義綱驍勇騎射又亜其兄康平六年二月十六日獻貞任經清重任首三級京都爲壯觀車撃轂人摩肩先是献首使者貞任從者降人也稱無櫛以其可梳之擔夫則出櫛梳之垂涙嗚咽曰吾主存生之時仰之如高天豈図以垢櫛恭梳其髮乎悲哀不忍衆人皆落涙雖擔夫忠義足令感人者也同二十五日除日之間賞勲功拝賴義朝臣爲正四位下伊予守太郎義家爲五位下出羽守次郎義綱爲左衛門尉武則爲從五位下鎭守府將軍献首使者藤原季俊爲右馬允物部長賴爲陸奧大目勲賞之新天下爲榮矣戎狄強大中国不能制故漢高祖困平城之圍呂后忍不遜詞我朝上古屢發大軍雖国用多費戎無大敗坂面傳母禮麻呂請降普服六郡之諸戎獨施萬代之嘉名即是北天之化現希代之名將也其後二百餘歳或猛將立一戦之功或謀臣吐六奇之計而唯服一部一落未曾有□兵威遍誅諸戎而賴義朝臣自當矢石擢戎人鋒豈非名世之殊功乎彼斬郢支単于梟南越王首何以加之哉今抄国解之文拾衆口之話注之一卷但千里之外定紕繆之知實者正之而已。

寛文元年辛丑陽月   向陽林子

三、

代々降世とも相成りては、古き事の薄れ逝く歴史のさまを採よく塗替加筆なし、世襲に馴むる書義と一変す。吾が丑寅の世にある事の實相ぞさながら朽板の繪の如く消えにけるも眞實なるは唯一なり。丑寅に歴史の事は各處に遺れども朝幕藩の都合にぞ障りあらば、是を制へ消滅し、その遺跡亦、然なる處なり。生保内城も亦、その例にたがはざるなり。

安倍良昭が一族の末代に大事あらばやと、佛の告夢に依りて一念を發起し救生の護城とて築きしは十二舍なり。その靈夢の然ならしめたる奥州の十二戦にて、一族、大いに救済を蒙したる生保内城こそ君系子孫を今に遺せし要たる良照が法力なり。安倍、安東、秋田氏と、その累代にありては太古より一系にして代々君座を欠くことなかりけるは、丑寅日本国なる国神荒覇吐神の守護に在り。吾等、丑寅にある者、是を庇護仕り、昔灯を絶やすまず、歴史の證とて大事たれ。倭史の傳ふる如く康平の年、厨川の戦乱に於て傳ふる實相に遠く、生保内城なる城所だに知る由もなかりける。生保内城ありてこそ、一族、今に遺り、東日流より亦、一族の秋田に治領を得たるものなり。

古事に傳ふる説ぞ多く、異なせるありきは又聞きの間、經ては書文各々にぞ相違のいでくるあり。征者、敗者の傳ぞ尚相違に隔つなり。凡そ、前九年の役、その傳に生保内城を知らざるがごとし。

寛政五年七月一日   孝季

四、

星光北辰爲魁光、康平五年、晩秋をして厨川柵炎上す。貞任、千代童丸を召し、落遁をいさめども、父ともに黄泉に渡らんを泣請し、後一切を宗任に諾し給へて死出に赴きたり。二骸を矢楯にぞ乗せ奉り、臣從十二人、大手に隍を渡り、宗任を先に降りぬ。既にして妪戸柵にありき經清の遺骸對面の陣に在り、宗任、指示して是に二骸を並び置たり。

對爭十二年、戦は了りぬ。城兵、死者なく二城の家来こぞりて鎧を脱ぎ、皆、死装束に身を白衣に着し、賴義、以てその様に感じ、武則が言上も聞かず、刑を不問とせり。只、貞任及び經清の首級をとりて塩樽に保ち京洛す。時に僧良照の弟子道照が千代童丸及び貞任、及び經清の胴骸を奉じて淨法寺に仮葬しける。奥州に住民なく艮に落にし者、亦、東海に忍びし者、仙北に越えにし者、みなながら六年の間、旧地に歸る者なかりき。

諸行無常是生滅法生滅滅己寂滅爲樂の理り、日高見の野づらにあげひばりの聲また哀れなり。生保内城にありき幾千の落人、渡島、東日流に相移りて安泰たり。われはしも民ありてこそ日の本の日は明てぞのいやさかならんと、日本將軍安倍賴良の歌ありぬ。

六年の過して故地に入りては、荒地に鍬打、秋の稔りぞ求めて勞者あり。鎭守府衣川旧関を平泉とて起りぬ。まぎれなき日本將軍安倍賴良が孫藤原清衡が一族の菩提を佛頂寺に念じ、攺めて大日中尊の本願に基ける櫻川佛都を築きける。

東日流にては糠部より落道を得て、藤崎に至れる貞任が遺兒安東太郎賴貞とて成人し、十三湊に則任ありて、倶に榮へにしは幸たり。今にして往古の跡を愢ぶれば、草木の繁るがままに、歴史の跡を幽閉す。訪れてただ枝さわぐ柵跡に変らざる天上影に、孤たる月光を見つる、移るる榮枯の跡に、淨土僧法然の歌ぞ心して愢感す。

〽月影の 至らぬ里は なけれども
  眺むる人の 心にぞすむ

亦、御弟子なる親鸞の歌に人たる命運を心に深々とす。

〽明日あると 想ふ心の あださくら
  夜半に嵐の 吹かぬものかは

歴史を想ひて巡脚せる旅の永き今にして。

文政二年四月七日   孝季

五、

支那に古代信仰の創りたるは、西王母、女媧、伏羲の神にて、吾が国の西海に渡り、白山信仰を爲す。西王母の發祥せる天山に湖あり、是を天池と曰ふ。支那にては星海を創り、その水源を發する水流を黄河と曰ふ。女媧、黄土を以て人間を創るとて、大黄河岸に住む住民、ヤオトンを掘りて住居と爲す。祭りの腰鼓は天地を震はせ、饕餮を覚し悪なすものを喰い盡すと曰ふ。黄河の流れを龍とし、皇帝にある一切を龍と黄色に採どるを常とす。宇宙に日輪の黄道、赤道あるは是の故とて、タイパイ山に祀りたるより朝鮮に此の信仰渡りベクト山天池に降りたり、と傳ふ。此の信仰テーベク山信仰と相成りて、ソーベク山を加へて三輪山信仰とて、吾が国西海浜岸に渡りたるは、加賀の三輪山白山を神ならしむの創めたりと曰ふ。雪深き西海浜の信迎に擴くその祀れるは渡島に至るなり。

白山神とは水を保たしむ神なれば、地郷に依りては蛇神、酒の神、山神とて拝むるあり。耶靡堆三輪山大神ぞ、今に遺りき古社なり。この神に像を祀らず、山をして神なる相なり。丑寅日本にては、十和田の湖、辰湖、猪苗代湖、を三大神とせり。火吹の湖とて太古よりの傳を今に神と祀れる聖湖にして、るる神話多きは、丑寅日本国ほどに神々ありぬ。

寛政五年二月一日   和田長三郎

生保内秘帳

和田末吉 印

 

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