北鑑 第四十三巻

注言之事
此の書は他見無用、門外不出と心得ふべし。亦、一書たりとも失書あるべからず。

秋田孝季

一、

奥州は蝦夷の国とぞ、未開蛮人の住む處と人の通稱に定まり、丑寅日本国たるのもとなる實稱を知る者ぞ今に無し。歴史の事は權にある者の由来に飾られ、眞の史は抹消の憂きに過却す。康平五年、日本將軍安倍氏の滅亡以来、日本国たるの丑寅に非らず、まつろわぬ化外地の蝦夷とて日本国の国號をすべからく失ひり。抑々、安倍一族の大祖は阿毎氏にして耶靡堆大王なり。安日彦大王の代に築紫に起りし佐怒王の東征に敗れ、丑寅に落北し日本国を再興し代々泰平に国を治めたり。安国以来、安倍を姓し日本將軍とて代々す。

山靼と往来して金銀銅鉄の鑛山に国益し、倭国に優る国造りを成らしむるに、奥州金山を狙ひて倭人の侵略相次ぎて久しく、遂には康平五年、厨川柵落ち日本將軍の滅亡と相成りぬ。安日彦大王より一系にして、丑寅日本国王と累代せる日本將軍の終焉は、前九年の役と稱さる倭史までに遺るゝ歴史に永々たる物語を今に遺し、安倍一族は丑寅日本国の王座を敵の掌中に握されり。然るに、その崩滅の中より一羽の鷹の子が北空に飛びて、東日流の地に鷹の巢造りて、更に子孫は渡島、千島、樺太に翼を旋回し、その翼風の山靼に及ぶ大鷲となれる安東一族とて再興を果せり。

安東高星とは安倍日本將軍厨川太夫貞任の遺兒にして、一族を東日流の地に集め、その他陸中、遠野、及び魹ヶ浜一帯、糠部に至る安住をなし、更には飽田、仙北、北浦、鹿角、火内に安住を導きたり。

古代より人命の尊重を一義とせる、君民の誓ひを放棄はせざる故因たり。東日流之地は三方を海にして、安東一族は十三湊として安東船を駆し、その船路を山靼に航し、東日流、渡島の海産になる商易を大ならしめたり。依て、諸々一族のくらしを安泰ならしめ、子孫代々に隆榮せり。

二、

奥州は日本將軍の累代に榮ひたる国なるも、倭の侵略にて敗北し、往古の大王累代の治世を断たれたり。是れに依りて倭の武家の闘爭相對し源氏、平氏の天皇と院政の派閥にて平氏の世襲、源氏の世襲と相爭奪なし、遂には武家政治の起りと相成りぬ。その殿堂を鎌倉に幕府を以て諸国一統の實を挙げ、平氏は亡び、奥州平泉は亡び、華かに幕府は權政を掌握せるも、一族の内訌に依り源賴朝の滅後に尼御前政子方の北條氏が執權と相成り、源氏の曹子は暗殺されゆくに偲びがたく、和田義盛が一族挙げて北條氏を討たんとせるも、事ならずに討死し、一族の内、朝夷三郎のみが脱して油比浜より安房に漂ふを、奇蹟にや、東日流安東船に救はれ、飽田河辺郡岩見澤に知行を得て子孫を今に遺しぬ。

然るに北條執權の代も天下の泰平を破る元寇ありて、武家の賞与に不満やるかたなきを生じ、その討幕の兆を挙げたるは、東日流安東一族の内訌たり。宗家、庶家の十三湊の利權に對立し、藤崎方・十三湊方の主、季久・季長の對立は遂にして岩木川の川尻、洪河にての對戦と相成り、東日流にてはこれより先の萩野臺の合戦より再度び起りし内訌たり。萩野臺の合戦にては、藤原秀直の反乱なるも、鎌倉得宗軍曽我氏の加勢にて秀直を鎭圧せしも、此度は幕府の仲裁に来れる高階氏、工藤氏らの賄賂双方より着服して決せず、幕府の失權を輕んぜられたり。

皇政復古の口火は東日流内訌に發し、遂にして討幕の奇運を起し、上野国に新田義貞をして兵を挙げ、是れに加勢せるは安東氏の知行にありき和田一盛が一千餘騎を卆して北條氏討伐に赴きたるは、積念の遺恨たり。幕府の滅亡に依り、茲に建武の中興は成りて朝廷は復活せども、所詮は油水の武家衆に、その特權を圧ふる復古政治に反きたるは足利尊氏たり。東日流にては是れに加誘なく、たゞ商行に從事せるのみたり。

三、

新田義貞の名は、妻方の祖安倍日本將軍賴良の次將軍厨川太夫貞任の一子、その息女にて八幡太郎の室となりし義姫の一字を名とし、義貞と命名す。義貞、母者は義姫の子孫にして、坂東源氏の知行を上野に舘を置きたる故因なりと曰ふなり。

日田系譜より

四、

飽田に大泻ありぬ。男鹿とも北浦とも曰ふ。此の湖になる世に秘められたる物語あり。今も湖底に幾百の靈、浮ぶなく惨殺されし遺骸のありきを知る人もなし。

天喜三年、六月七日源賴義、兵を飽田に募り、清原武則をして是の地の地民を官軍に應ずる旨を説きぬるも、地民こぞりて應ずるものなし。權勢にある者は人を殺生する官軍を美德とせるも、古来丑寅の民は、自他倶に人命を尊重し、まして安倍一族の討伐に官軍に應ずるは荒覇吐神の信仰に反するなれば、鍬置き討物執るは、誰れ一人とて是れに應ずるものなし。

鷹巢郷豪士高畑与左右衛門曰く。丑寅秋の瑞穗の国は、農を離れては国亡ぶるの憂を招くなり。まして日本將軍を討べくの官軍に入るは祖人に矢を向けるが如し。かくも天に向ひて唾を吐く行爲は大罪悪なり。人を殺生し、それぞ官軍の美德とせる清原一族とて此の戦を安倍氏に反忠せるは、久遠にして利益を収め得るは難く、戦を以て爲せる利益は害毒を償ふに足らず、我等飽田北浦、火内、鹿角、仙北、に若し侵領あらばこぞりて義兵挙して官軍と雖ども討物執りて妨げんとて、大泻に東日流より磯舟をまかなひて、出羽への出陣にかまえたり。時に清原武則、大いに怒り不意にして水軍を以て大泻の民舟を襲ひて討殺したり。

八郎泻傳記

五、

明治七年、板垣退助、後藤象二郎、河野廣中(三春)、和田權藏(津軽)ら奥州の志士は日本国權政は、天皇及び人民に何事の權理も要せず、薩長土肥になる有司の者に獨裁される法律を造りて、人民の自由利權を圧し、その専制に牛耳られている政府成立にて續く限り国家の安泰は崩れる事を憂ひて、これを攺める方法とて、民選議院を設立せるこそ、租税を納むる人民として立法、行政、に平等自由を開く参加自在の機関なる民選院の設立なりと意見書を政府に差出し、国会を開く旨を責めたり。然るに、その建白書は拒否され、板垣氏は大坂に愛国社、土佐に立志社を設立せり。對して政府は元老院を設立し、自由民權を彈圧せんとするに、先づは新聞と曰ふ世評紙を條例を以て是を圧せり。明治八年の事なり。その要は新聞紙及び雜誌などは、人をそゝのかして罪を犯させる兆書にて、政府を倒し、国家に爭乱を兆すものとして是を罪科とせるに依り、士族の反乱、農民一撥、民權運動さかんに發生せり。

明治十三年、是に對して、集会條例を發し、許可なきは如何なる講演説も警察官にて解散されるに至りぬ。是れに對しては、大坂にては国会期成同盟を結し、国会開設を請願せども却下され、開拓使官有物不正拂下げ事件にて大隈重信ら罷免、明治十四年、彈圧大いに振ひ、新聞發行禁止、四十六年、記者の投獄百九十七件、演説の解散百三十一件となり、福島事件、高田事件、群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件、大坂事件、静岡事件、と起りたり。

六、

自由民權の東洋日本国の国憲法案は次の如き要たり。明治十四年、植木枝盛氏の記事と曰ふ。數條の中よりその主旨を抜抄せん。

是れが自由民權の一義たり。

七、

明治廿二年、伊藤博文らの起草にて大日本帝国憲法、發布されたり。

是れぞ、明治廿二年二月十一日の發布たり。

八、

明治十五年自由民權の運動は彈圧を被りぬ。白河以北は一山百文、丑寅の化外地とか、まつろわざる蝦夷、北日本はあくまで歴史も人種も異ならしめたる国として、渡島には諸国の藩士や藩民を移住せしめ、先住民を避地に押やりて、土民は多く故地を失なひて餓死せり。若し反くものなら切捨御免のまかり通るアイヌへの惨たる行爲たり。

倭人をシャモンとて古来より馴まざるも、安東氏の時は往来自在たり。何處にも小數なる民族の運命は、是の如く世襲にあひぎたり。土民保護例は名のみにして国籍もなかりけり。

九、

此度び日本の夜明けに望み、来たりし自由民權も水泡に歸し、断腸の思ひに御座候。

永き奥州の人民に年貢之租税も幕政に猶まさりて、衣食住の貧苦に負責の候事は、火を見るより明白なり。警察、軍部の權、追日に權を横行し、人民の生々に自由を奪ふべく候は諸国にまかり候事の由は誠に我らが望みをさまたげ候。世評を論ずるも、背後に在るは警察の視あり候。集りて語るも、そこには警察の同席在りて、自由なき行く末の憂ひあり候へば、何事にも舊幕政に尚加へて一生涯の自由と民權の得るべく候事は、猶相隔つ候。然るにや、是の如き世襲の候は永續百年も保ち難く候。その日まで我等はこぞりて世界の文明開化に遅れざる進歩に自由を獲得せん望みを忘却せず、努力せんを一筆参らせ候。

和田權藏

十、

裃を脱ぎ、西洋眞似なる官服に金錦を飾る政府の輩、益々職權を乱用仕り、人民を租税に苦しめたるは、文明開化と稱す機設の奴隷に人民を手枷、足枷になせる職場地獄、土木たこ部屋の強制勞働、たゞ人民を下敷にせる政府結社の許は忿怒やるかたもなかりき。徴兵告諭も然りなり。二百七拾圓を納せる者、官吏、官立学校を卒業せし者は、その兵伇に免ぜらるは、甚々民權を犯す行爲にして、百姓に在る我ら東北民に生れし者の兵務は、まさに制度の奴隷そのものなり。信仰また然りなり。義務教育の中に神代を入れて、その神を信仰の強誘し、忠君愛国を児童より洗腦せしむるは、神をも冒涜せる行爲なり。是れ、まさに信仰の自由を封ぜる心の枷なり。

心せよ、かゝる自由なき人民のくらしぞ、あといくばくもなく崩れんときに至りて、我が自由民權至り、民主政權は人民に掌握されん。

北鑑第四十三巻  附書ノ一

注戒之事
此の書は他見に無用なり。亦、門外不出と心得よ。亦、一紙一書たりとて失ふべからず。

祖訓より 末吉

一、

右は何事の書文ぞや、今に謎たり。何をかあるや、地に尋ぬるも未だ證跡なし。

二、

飽田日積寺は伍佛を主尊とし、眞密の道場たり。此の寺は西行法師の歌に遺りぬ。

〽かけまくも 寺門に入れば かきくらす
  寺住の僧は 語る古事言

日積寺の傳に於ては、安東氏が大旦那であることは眞實なり。日積寺は日本將軍代々の菩提を追善の爲に建立されたるものなり。日積とは、意趣は讀みて字の如し、安東一族の心たり。

三、

古代より安倍一族の城築縄張りに三要あり。その一にては、水塞、濠塞、柵塞の要塞たり。事に急して楯垣、張縄、逆茂木をして妨ぐも長時の防ぎ叶はず、濠にして水無く柵朽てはその要をなさざるなり。依て不断にして城域常に水辺にして濠にたゝえ、柵をして人馬を断じ、濠の泥深く、空濠を軍道とし、犬走り柵堤の内に施すべし。城橋、非常に是を除き可能に造り、くけの秘洞に兵馬城外の出入ぞ自在たるべし。城倉不断にして糧秣を保ち、水利汲處を旱にも枯るべからざる施工にあるべし。城は防ぐより攻めに轉じ易く、その利を要とし、敵視を常に一眺望叶ふべき視界を閉ぐ城外の林を伐すべし。城は死守せるものに非らず、敵に落さしめ、敵を討つに軍機の企画巧たるべし。是れ安倍一族が城築不断の心得たり。

安倍氏抄より

北鑑四十三巻 附書ノ二

注言之事
此の書は他見無用とし、門外不出とせよ。亦、一書たりとも失ふ事なかるべく用心せよ。

祖訓 末吉

(注)附書ノ二は十二項目あるが一項より六項までは秘事に附き未発表とし、七項より以下発表す。藤本光幸

七、

白神山叶澤に岩洞あり。神隱澤落合の右七曲りに至る大澤に入口あり。橅の太根に塞がれむ。此の洞は奥深く、窟中に樂の音ぞ東風の吹く日に聞こゆなり。古人の曰く。是れぞ、天然の風樂にして、此の世に唯ひとつ白神山の神の奏でる樂なりと曰ふ。

安倍氏、白神山をこよなく信仰し、白山姫の舞をこの天然の樂に巫女をはべらせて奉納し、山靼より渡来せし神々を此の洞に秘藏せり。その數、六百躯と傳はりぬ。十年に一度、此の窟を開きて祈願すと曰ふ。

八、

渡島將軍山の海望澤に洞あり。地人是を鳥洞と稱したり。此の窟は岩壁のかしこに鳥形語部文字を遺し、古代の歴史を今に傳へ給ひき。凡そ、二萬年前の遺跡なり。此の洞に、イシカカムイ、ホノリカムイ、ガコカムイ、の三神を祈りきヌササンの跡なり。

今にして地住民、八月満月の宵にカムイノミを焚きて、老若男女、神に舞を献げむと曰ふ。大巖をオテナの塔とて築き、その週を圓に石を並置きて神を招く日の陣、月の陣、とて三輪に作りぬ。石芯石針を北極星に向くは常なり。

九、

宇曽利は黄金の鑛を量す處にて、更に鉄も多く採りぬる處なり。賴良の時、安倍小太郎富忠を地主として此の地を護らしむるも、富忠、此の地の金を採してたゝら師を振興し、鎔金の炭を燒きしに、宇曽利湖噴火して人ぞ多く災死せり。地民こぞりて曰く。イタコの祟りとて蹈鞴處を破壊せば、富忠、大いに怒り、地民を誅したり。

是の事件、衣川に達しければ、富忠、気仙の金爲時と手勢を合せ、一挙に衣川を攻むる謀策をせるも、賴良、これに自から赴きて説得せんにも、富忠の奇襲にて討死す。

十、

康平五年、厨川落城の前に安倍一族挙げて祖先来の遺寶を各處の地より東日流に移しめり。東日流中山、阿闍羅山、十三湊木無岳に分けにして洞を掘りて明藏し、敵手に奪ひざるの策を密に人を要せり。依て、戦の配兵に事を欠き、源軍に清原の加勢、安倍氏への反忠ありて戦の敗北をやむを得ざるたり。

安倍厨川太夫貞任の曰く。天命我れ幾ばく非らずとも、祖遺になるもの敵手に奪はれまず、と一千の兵馬を以て是を断行す。依て、今に事無かりけり。

十一、

東日流に安倍一族の安住ありて、速やかに安倍高星丸を鍋越なる安日城より糠部を経て東日流に着住せるその數や一千人を糠部越えと、一千五百人を仙岩下二股城及び仙北生保内城より矢楯峠越えに東日流入りを果したり。十三湊、平川藤崎城を築きて再興を果し、茲に姓を安東氏と攺めて、山靼交易にて富を得たり。一族の一民たりとて人命を尊重せる祖来の一義たれば、民一人として是れに抜ける者なく、一族共榮の安東水軍、世に誕生せしめたり。今にして君座遺り、三春藩秋田家、實在す。

十二、

本篇付書は抜抄にして略せるも事の明細は秘なり。藤原氏三代は平泉に陸奥黄金を湯水の如く浪費して、京師に模倣せども、安倍一族にしてかゝる民の爲にならざる消費をせざるなり。秘寶は藤原氏の及ばざる程にあり乍ら民のためならざるを費にせるなかりき。

古来、蓄積せるは、民の危急にかゝはる他、庫に秘藏とし密とせり。是ぞ今猶眠りき、安倍一族の遺産なり。古代より秘の固きは安東一族の他に非らざるなり。依て今に猶、護られぬ。是を解くは、秘にある安東系図上の系譜に記ある耳なり。依て、日本將軍の大志は現に生きて在り、一統信仰せし荒覇吐神も今に遺りきは、歴史の深層の實在故なり。

和田末吉 印

 

制作:F_kikaku