北鑑 六十巻付書 追補之書巻


(明治写本)

注言

此の書は他見無用、門外不出とせよ。亦、一書たりとも失ふことあるべからず。

寛政五年六月一日
秋田孝季

一、

丑寅の日本國は住民自立の國肇と大王選抜の國土たり。いわれなき倭人の曰ふ夷の國とは實史に相違し、まさに化外の地まつろはぬ蝦夷とて倭史に作為せしは忿怒やるかたもなき行為なり。丑寅日本國とは、倭史に曰ふよりはるかに紀元を溯りて歴史あるを知るべし。人祖の初めて居住せしは十五萬年乃至三十萬年に溯りぬと曰ふ。

山靼の國より始祖人、永凍の海を渡り本州の北端に来たるは、語部録に是の如く記し遺りぬ。人は智を得てより凡そ百萬年にして世界に渉れりと曰ふ。歴史の要は是の如きより創むるを以て綴るこそよけれ。歴史の上を神の世にぞ造るは歴史に非ず。造話作説なり。

二、

東日流語部録は丑寅日本國を實證せる古事一切の記録なり。文字七種に依りて成れる此の記録は、諸々の弾圧を避けて遺したる手段たり。山靼より渡来せる、漢字をはるかに越えたる五千年前の文字なり。古代シュメール・ギリシア・シキタイ・モンゴルの古文字にて成れるは七種文字に集成さる語部文字なり。その古代文字にて永代に用ひらるゝは南部暦なり。古語のまゝに語るは語部史なり。古事そのまゝに歴史を遺すは語部録にして、七種にして記行せるは語部の他に非らざるなり。その目録は左の如し。

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是の如き七種なるは、語部録こそ古證なり。

三、

天然を壊侵し神を人心に造るは、神への反逆なり。神の眞たるは天然にして、萬有せる總てなりせば、その因果は無にして有なり。宇宙の創は無にして因起り、諸々の物質因を造り、それより萬有成果ならしめたる宇宙の誕生たり。因ありて果あり。依て、生と死ありぬ。天竺にアルヤ民あり。シュドラ・ラマヤーナを説きたる古代外道に遺る古典こそ萬論の叶はざる眞理たり。古代シュメールのカルデア民の宇宙の思考。叙事詩グデア王及びギルガメシュ王の遺せし神なるはアラ・ハバキ・ルガル神の哲理。ギリシアなる神傳、カオスよりゼウス神に至るオリンポス山十二神。エジプトなる代々フラオの叙事詩に遺る神々の哲理は、何れも宇宙に根源せり。吾が丑寅日本國の國神と定むる荒覇吐神も、かゝる西域山靼の渡来になる諸神の哲理に選抜ならしめて成れる神の信仰たり。

もとより丑寅日本國の人祖より天の一切、大地の一切、水の一切を神聖とせしイシカ・ホノリ・ガコのカムイに是を加味して成れるは荒覇吐神なり。宇宙の運行を知り、日輪に軌道せる黄道と赤道にかゝはるゝ暦を知るも、信仰の因と果にて知れり。無に因起り、物質を遺しぬ。その物質に果起りて、萬有の化生を成らしめて生と死を轉生せしめ、生滅を以て永代に生命を遺しぬ。依て老骸を脱皮と稱し新生に甦えるは、死に到りて新生に叶ふと曰ふなり。死とは怖れまた諦と想ふるは悟なき愚考にして、己が不死不滅なる魂のあるを知るべし。人は世に生れ育ちて諸行を學び、男女をして子孫を遺しを人生とし、やがて老いて逝く運命とす。是れ、萬有の生命にあるもの皆同じなり。

宇宙の誕生より、因と果に化科の進展に類を多生す。宇宙の誕生より星々にも生死あり。明暗をくりかえしぬ。星は暗黒より生れ、明星に輝きて誕生す。そして燃え盡きては大爆裂し塵となりて宇宙の暗に消ゆるも、また明星とて甦えしぬ。宇宙とは阿僧祇の星數にて成り一宇宙に十億とも二十億とも曰ふ數にありて一宇宙を構成すと曰ふなり。宇宙の數は幾十億と曰ふ數にて、無限の嚝きに存在し、各々星を數を増し嚝げてやまずと曰ふ。吾らは日輪と曰ふ恒星の重軌道に週施せる惑星地球と曰ふ一星の生物なり。その生物に萬有あり。これぞまた宇宙の法則に基きて生命は生死に轉生せり。死と生は再甦の新生に欠くるなく、生は死より生じ、死は生ありて死に入る甦えりなり。

古来、因と果に解く外道の哲理は、その古代に於て天竺アーリヤ族・古代シュメールなるカルデア族にて宇宙の化科に幻想せるはまさにその哲理に實たり。シュドラ、ラマヤーナ、アラハバキ、ルガルの叙事詩ぞ諸信仰に入れざるは、その哲理に解難が故なり。依て外道とは信仰の理に反するとて、因と果になる哲理を足ざまに外道とて、求道の外たるの義に放ぜられたり。然るに世の進むにつれ、外道こそ眞理にありぬ。

四、

萬有の生物は、生々保持の為めに他生の生命體を喰ふなり。依て、生命にあるものその護りに進化せり。空に飛ぶもの。水に泳ぐもの。陸に走るもの。地に潜る者。多𥟩に類を異にして子孫を遺し来たるなり。目に見えざるが如き微細なる生物。水の如き生物。みなながら進化の過程なる現代生物なり。魂なきと見ゆ生物とてその生魂なきはなく、生々護身の安しきなく生々す。人は諸生物のなかに智能を進化し、難なく他生を餌喰とせるも、日夜にして殺生食の供養心を心せでは轉生障りとならん。

能く心とすべきは、己心にして善道謀れず。信仰の不断なるに心得べきなり。抑々、神は無上シャンバラを説き亦、苦脳無限のラマヤーナのカルマを説きぬ。世に生詫し者をして權にあるものは、平等裁決を捨て己が心の自在に民を憂しめ、生命の尊重己がまゝに權据せるは甚々以て救難き惡道なり。光ちは髙きに在りてあまねく渡り、水底きにありて水平すと曰ふ。卽ち、光りも水も神のものなれば、久しく萬有のものに与へ与はざるなく平等たり。

祈りの求道は、人師・論師のものならず。神の法則にして人をして神通に達するはなかりき。生死をして巧辨に神を説き信者を掌据せども、全ては信者の施しにて己を立つる慾望たり。神は人の物質及び財の施しを以て救ひ・救ひ給はずと曰ふなし。神は人の造れる一切のものに無縁たり。神を人の形に造りき像及び変化の像に何事靈験も起さざるなり。神とは無相なり。求道して祈るは天地水の一切に祈るべし。必ずや人工像に神靈あるべくは無しと心得よ。

怖しきは人間なり。一生の生々に善道を悟りつも、魔障に犯され人を殺生し、諸々の惡業に智能をめぐらし、大いなる衆生を奈落に導くありぬ。神はかゝる偽善を赦し給ふなかりき。如何なる神殿を造りて神を祀るも、神をして何事の救済に遇するなし。人の大王たるものにても不老不死は生々に叶ふなかりきなり。吾が丑寅日本國にては天地水をして神とし、衣食住の一切を天地水よりの惠とて日日の行に祈りぬ。祈文は聲に稱へて曰く、
オーシンバラアラハバキルガルカムイ
オーオショロイシカホノリガコカムイ
オーホホーブルハンカムイ

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是の稱ふ他、行事多きなり。

五、

凡そ信仰の源は、古代より神と曰ふ人の心に求道を自から救済、天に地に水に大自然の天変地異に起る死との背合せなる驚怖に祈りたるより創りぬ。生れて生々の間に起る突如の変は、旱魃・洪水・津浪・地震・噴火・大風・火事。諸々の異変に、人は神の怒りとて鎭め祈りきより創りぬ。更に人の住殖多きに至りては、飢餓の怖れあり。幸を求め新天地に移りぬ。天なる一切神イシカ。地なる一切神ホノリ。水なる一切神ガコ。このカムイに、山靼より渡来せるアラハバキ神と併せて日本國神とせるは、古代の先住民一統の神と相成りぬ。糠部なる奈架井、卒止濱なる大濱、上磯なる神威丘に大王のハララヤありきと曰ふも八千年前乃至五千年に溯る歴史ありと曰ふ。

六、

西王母・東王父のシャンバラの世界。天竺アールヤ民のシュードラ・ラマヤーナの世界。吾が國の神なる荒覇吐神の信仰の世界の他、モンゴル・シキタイ・支那・天竺・シュメール・エジプト・エスラエル・ギリシアなど世界諸國の信仰世界。人々の幻想世界にて、心の安らぎと立命に求めたる信仰世界なり。丑寅日本國の民族に於る古代信仰に溯りてはイシカホノリガコカムイあり。天地水一切を神格し、信仰とせるありき。これをイヨマンテまたはエジョジョとも曰ふ古代語に遺りぬ。

マンテヌササンとて、六本の大柱掘立三階に神殿を作りて各階にヌササンせり。上階にイシカ、中階にホノリ、下階にガコの三神をヌササンし立位良き等髙の立木ありてはそれに施殿せるもありきと曰ふ。天に近きは山上にして、水に近きは海なり。天空の雲より地に降りなす雨は湲流となり海にそゝぐは、水はもとより平等にして大地の髙底を湿し、萬有の生物生々す。天髙く光明相渡り雨降る故に、陸地湿ほしぬ。古人は是を神なる神通力として怖れ敬ひたり。自然は總て神なる掌中に在りとてその神への信仰を發し、信仰を以て神に諸難の被らざるを祈るは信仰の創めなり。その信仰も代々に変りきは嘆かはしき。

七、

延元戊寅年。兼て山靼の宇契殿に願ひきギリシアの宇宙石。萬里の道を旅して渡り来ぬ。尺玉に造れきオリンポス山頂の石にて造られき珠神石なり。是を東日流石塔山の神として安置せり。是れを丑寅日本の魂石とて今に傳へ遺りて、石玉の表面模様にては天然に造らる大宇宙誕生の瞬間図なりと曰ふ。大空間の暗を大光熱の曠爆せる一瞬時なりと曰ふ説影に示せる模石なり。宇宙を重んずるは荒覇吐神の信仰に不可欠なる故なり。

八、

ブルハン神とはモンゴルの大湖の神、河の神なり。依てその神像は鯰に造りて乘像せり。ブリヤト民・シキタイ民の埋葬に用ゆる棺は鯰型に遺骸を納棺す。埋葬に馬をも添葬してその埋所を明さず。馬蹄に踏みなして自然とす。死しては常世國に赴くとして、永代に墓參せるはなかりけり。たとひ王たる陵とて是の如し。

馬を添葬せるは、常世の國より此の世に往来せる生死のしるべを馬にて往来すと曰ふなり。馬を添葬せるはシキタイ民、モンゴル民。ブルハン神を信仰せる諸族なり。馬より馬乳酒及び亘茶を入れなして呑むを常とせる民の信仰の故なり。ゲル・パオを住家とし大草原を草に求む民の古習たりぬ。

九、

北の渡島・千島・樺太の諸領に何事の智識なき倭國の膽を震はせるは、北方に大いなる蝦夷あり。若し征夷、東日流・閉伊の地に入らばその蝦夷大いに挙し、その數幾百萬騎。倭軍の征戦、是を防ぐこと百戦に一戦も勝算なしとて、秋田髙清水・陸奥の膽澤より北侵のなきは久しけり。安倍一族、厨川柵に敗れきも安倍厨川太夫貞任の嫡男髙星丸。東日流に再興し、安東一族とて君臨せり。爾来安東一族、宇曽利・東日流・上磯・外濱・都母・渡島・閉伊・荷薩體・火内・鹿角に至る子孫分布に至りぬ。都度なる征夷の侵略戦にても、此の地に侵領せざるは是の如き怖れの故なりと曰ふは、彼の坂上田村麻呂とて北秋田・下閉伊より北に征夷のなかるべし。

十、

佛法に解脱と曰ふあり。諸々のカルマより脱して成道せるを曰ふなり。悟りに達して佛陀となるは、諸々の苦行に依って成れるとは釋迦牟尼の他に非ずと曰ふも、その成道たるは外道の因と果に依れる哲理に當つれば、その成道は世の進歩につれては廢悟に盡きると曰ふ。如何なる人師にても眞理に達するはなく、愚論の一端と曰ふなり。佛道に在る者、外道の因と果なる化科の哲理には論に叶はず。かるが故に外道とそしりぬ。外道にありてこそ佛陀を先に因果の理りを解きたる正論あり。釋迦牟尼とて是れに被論せりと曰ふなり。

諸行無常是生滅法
生滅滅己寂滅為樂

とは、釋迦牟尼の四苦諦解脱なるも、外道に曰はしむれば、是を救済とせず。亦、解脱の要とならずとも曰ふなり。外道に曰ふ解脱とは心身を天命に安じ、生々のうちは常にして来世に今生より化科に進みて生れ来る心身の行に、神の因明・果明に求究せる眞理に尚求道して常に安心立命に至らんと解きぬ。

十一、

東日流語部録に曰く、カムイノミの事。

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十二、

神佛の信仰をして、その導師に依りて信徒に於て各々区を分つ。求道にも支派枝葉す。佛の教に用ひて、あたら信徒を散財施収をなせる導師は魔道にて、何事の救済・悟道・解脱あるべからず。信仰ぞ、邪道に堕ゆ耳なり。信仰は説き方にて、正は邪と背合すなり。あたら迷信をして衆の心を掴みて、邪鬼魔道に導く導師こそ世を乱し、人を惑しむる破戒の先達たり。依て、かくある導師を離るべし。

十三、

陸奥の古代なる灯の油は魚油多し。依て濱添にその油造り多く、鹽屋と倶に富みたり。油に秋田の地湧油、陸奥の魚油は諸邑の灯りとなりぬ。菜種油は後世にして、古代にては魚油にて灯とし、灯皿は帆立貝を用ひたり。

十四、

歴史の事を次順に記逑せんに、丑寅日本國の肇むる處は東日流に發祥せるなり。その證たるは信信の遺跡にして知るべくありぬ。石を圓に連らね、神のヌササンとせる古代に創りぬ。芯石を北極に向けて建立せるイシカを中心に、二重に烈石をホノリとし、三重になるをガコと曰ふ。この石烈をして神の信仰に用ゆるヌササンの創とし、次には石塔を建立せるをホノリとて二重の位地に在りぬ。外の輪になるをガコとして、是をホノリナイカムイとて、山の澤辺に築く多きなり。此の頃、神像なくただ天然を神とせる信仰たり。

神格になるは天になる一切・地なる一切・水なる一切なり。天には阿僧祇の星、地には萬有の生物、水には生命を生みなす萬有の流轉を神なる法則にありとせる信仰の要たり。アラハバキカムイとは此の三神を一身に修成なして、渡来の歸化民にて併せたる神格たり。依て是を次順に改め國神とし、信仰も亦一總して成れる古代シュメールの神なりと語部録に曰ふ。神々の事にては、

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と傳ふなり。吾らが人祖、何れも山靼渡来民族にして、代々久しきに相渡り来たり。都度に神格も修成し来たりぬ。なかんずくアラハバキカムイの如きは六十餘州に相渡れりと曰ふなり。今にして倭神の名に改ひたる客大明神・門神・客神・荒神・荒磯神・磯崎神など多𥟩にして呼稱あれども、元なるは荒覇吐神なり。幸にして今に猶あらはばきと稱し神社の各處に遺りきもありけるは坂東・武藏國に多し。また、大江戸城の城神たりしも太田道觀の信仰深きに依れるものなり。亦、近畿の地にも古代のまゝに祀りきあり。多賀城城神もあらはばきなり。

十五、

奥旅歌集 全

坂東を白河に越し、東山道を丑寅に歸り、旅に四方にみとれて、

〽山吹きの
  四方に盛るゝ
   逝く春を
 散るを見ずして
  櫻追ふ旅

〽あぶくまの
  丑寅流る
   舟旅は
 いつしか至る
  岩沼の宿

亘理より名取を越して多賀城に古跡をめぐり、古き神祀るあらはばき神社に詣じて、心のまゝに、

〽蝉の鳴く
  木立つの道に
   苔踏みて
 太古のねぶる
  あらはゞき社り

旅にあけくれ松島にたどりては、幽かに鼻突く磯香に、はや目にうずる海の景。島々の松に感ずるまゝ、

〽松島の
  聞きにしよりも
   なほなほと
 見とれるまゝに
  日は暮れにけり

石巻より登米に赴りて、日髙見川を添ふて平泉に至り、往古の戦場跡を巡りて聞こしめして、

〽藤原の
  上なる安倍の
   衣川
 遺るものなく
  かげろうふ燃ゆる

前九年の役、後三年の役、平泉の乱に枯れ果てたる奥州の夢跡はたゞ一棟平泉に遺る光堂のみやびも色あせて、栄枯の跡をたゞ愢ぶらん。

〽さみだれの
  降りしき音に
   平泉
 往古に秘めて
  金堂朽ぬ

寛政三年五月
孝季

十六、

同じける道に學び、その導師に依りて聖教も異に邪教なるありぬ。その道は武門にあれ、信仰にあれ、國を司る權にあれ異にせるありぬ。大勢を得て民の信を掌中にせるも、永續に叶はざれば民は反きぬ。武威なきものは、武威の袖中に入りて自保に正道を曲折せるあり。信仰も迷ひば近遠に非ず、萬離の固きを隔つなり。正法は水平の如く左右平等の天秤の如くあれども、羽毛と鐡球を平等に計るは難しきも、平等とし計るは權力にして世はまさに非理法權天の無則にまかり通らむと世襲はならんに、ただその底に苦しむは民衆なり。

身を賎に生れても、時運に乘じて人の心に偽善し自からを聖者とせしもあり。是れに反するものを破戒者とて誅せんもの偽善聖者は、神の罰にその再来に甦りなき報復を受けん。人に生じ、己が心のまゝに人の聖者となり猶以て神と自稱し、信徒の衆を身の楯となべて世の世襲に塵の如く殉ぜしむ。王の己心に幾多の人命ぞ失ふる過却の戦にも、敗しては神なる奇蹟の起りきはなく、なべて無常の甦りもなき木阿弥たり。人は神と聖者と、過却より一人たりとて世に存在なし。然るに生死は絶ゆなく存續し、進化に抜きて萬有ありぬ。やがては人の亡ぶる世の来りき天変地異に、神の断に決せばノアの箱舟もどき旧約聖書の如きもなけれども、宇宙の奇変のなきにしも非ざるなり。信仰は神への冒瀆を赦さず。

十七、

奥州に秘らる往事の事は、歴史の深層に在りて實在す。如何なる世襲にその往古を抹消せんと史證を潰滅せんに、水を斬るが如く、斬目分なかりき如くいつか世への再起に土眠せり。世にある事の實證は、如何なるを仕掛にも生滅せる事ぞなかりき。

荒覇吐神の古代よりの信仰ぞ今にして遺りきは、まさにその證なり。世襲にて佛法また倭の神道に圧せらるゝとも、吾等丑寅日本國の一統信仰の根元こそは久遠に根絶せるは難く、あくまでこれを處断に行為を續くれば國亡びぬ因となるらん。荒覇吐神は奥州耳なる神にあらず。世界神祖なり。人を睦み、爭ふる留むる人命を尊重せる聖法ぞ他教にあるまずや。

十八、

此の巻は第六十巻の追補なり。秋田孝季殿の遺せしにいさゝか近代の史證を加へたるも、原巻の基を欠くるなかりき。多くは東日流語部録の後解明なるを加へたり。依て是を筆加の仁を記し置ぬ。

和田末吉 印