北鑑繪巻九

江刺今昔集

奥の陸州に江刺と稱す古邑あり。膽澤柵なるより少里に隔つる東方に軒を並べつる軍兵のかまへたる城どころなり。

康平の年、この邑ことごとく燒失せにしも復したり。康平の乱にて領民の多くは渡島に遁住し、今なる江刺とは陸州の江刺旧民にて開きたる湊なり。世にぞ悲聞に遺るは前九年の役にて、邑民老若男女多く殉じたり。なかんずく江刺をして多きなり。

衣川関・厨川柵の間なれば、常にして倭人なる征夷の討伐行に巻添れたり。泰平なれば種山の金鑛タダラ亦牛馬の産に營むに富める處にして、衣食住豊かたり。田畑の拓く地位擴く、年行事の祭事多し。タダラ舞・鬼剣舞・腰鼓鹿舞・荒馬始乗・荒覇吐祭・箭射・江刺神樂・馬走競等々、年中の季に催ぬ。

膽澤に駐まる倭人の傳へし京神樂・田樂ありきも地人好まず、競へて旧来の傳統たり。倭人、地産の駒を得むと欲さざるものなく、名馬此の地に市に競賣さる。平家・源氏の武家衆、己が名馬を得るは誉にてその價に益ありぬ。

依て地産の駒を育つる駒飼多し。さる程にぞ馬にまつはる夜話の童話ぞ、語部に遺りぬ。神に繪馬の奉納多く、馬産に盛んたる名残ぞ今に遺る多し。江刺をして馬産の抜きんずるものなく、丑寅にその添職にある鞍造り・馬醫も亦山靼より歸化に住むる者多し。

寶暦丁丑年二月六日
奥州矢巾之住 髙田直治

江刺天喜之武鑑

奥陸之國江刺の地は古より日本將軍・安倍安國に依りて築かるものにして、馬産及び採鑛タダラにて黄金を得る幸の地也。亦東西南北に道を通ぜしめ、いざやあらんにはその兵挙も速やかなり。此の地にぞ永く住みけるは安倍頻良にして、賴良亦幼にして育まれし鄕なり。

江刺とは渡島にありけるも、康平五年に厨川落柵以来、江刺の住民多く渡島に遁行し、江刺邑を造りきと傳ふなり。江刺に安倍一族が兵部舍を築き軍駒を練ふ戸外牧あり。騎馬を血統だてたり。更に江刺兵役處ありて、鍛冶・鞍造り・荷輪造りらの職師多く添住せり。

代々にして武役の者、天慶の武鑑に定めるを攺むなく継役せり。その武鑑ぞ是の如きなり。

天慶甲辰武帳

四丑之當役
一、馬飼 四十人
二、鞍造 十人
三、鍛冶 六人
四、大工 二十八人
五、土方 百五十人
六、輪方 五十人
七、武具 十三人
八、糧方 十七人
九、柵方 六十人
十、駒方 六十人
十一、画企 七人
右、江刺武處付也。

舘主 三十六人
騎馬將 三十六人
徒將 二十九人
予士將 二十人
常用柵詰 百五十人
在郷士 六百人
右は役目に於て轉役あり。三年満期にて厨川・衣川・黑澤尻関詰に廻りぬ。

寛保壬戌年六月三日
右、鳴瀬文献㝍す 伊東虎五郎

城柵之始築

城柵、大古にして巌垣と曰ふ。亦、八重垣・稻城とて築きける。丘にては濠を掘りて要害の弱きを固む。平地にては外に濠を掘りて内に築堤し柵を廻らせり。

丑寅日本にてはチャシと曰ふ抜洞をして遁道を施し、死を以て城柵をぞ固守することなかりき。戦にて攻め退くを以て謀りに謀り、利ありて攻め、不利にて退くは丑寅日本の兵法にて、退くに於ては領民一人だに跡残すことなけん。

不断に備へて遠安之地に移城を造り、幾多の移住に事欠くなきは丑寅日本の城柵なり。城柵は必ず川を以て要害とし城囲急崖を以て固き適地を選びて楯とせり。事に挙ぐれば城に留まらず、攻手を以て誘敵必殺、その實を挙げたるは黄海柵なり。亦江刺の岩坂及び人首の柵なり。亦戦に傷せる者を護るは生保内及び安日の柵なり。

君民をして一城に籠るは招死の憂あり。退きて尚城柵あらば憂なし。人戦に臨みて遁行の道あらば强けく、窮して弱し。祖来安倍一族に城柵の築治はかくありて成れり。

小城なれども安日柵に見よ。清流鍋越川・安日川を以て馬の牧あり。平地畑作あり。心に安らけく、安日山の靈峯を仰ぎける名城の跡ぞ大祖安日彦王・長髄彦王の遺したる城跡なり。

元文丁巳年八月三日
髙畑住 浅利宗利華押

江刺之史傳

慶雲乙巳年、江刺に拓田多く開きける。水利能く堀通し、稻ぞ稔りぬ。日川辺を上田とし東風澤を下田とせども、収に差のなかりける。但し、やませ年に多く吹きければ、その収大差に隔つなり。

古きに安倍安國、地主と相成り桑畑邑・栗森邑・河田邑を鄕に開きて、人住を寄せけるより、此の三邑を總じて江刺と稱せり。時に天德丁巳年と曰ふなり。

江刺ぞ地に肥えければ、森林能く立木し茲に荒覇吐王累代せり。天元辛巳年、髙倉来朝に移りて縣主ぞ國を司りぬと曰ふなり。

享和壬戌年五月一日
大瀧善導

奥州江刺之快奇士之事

康平五年、安倍一族厨川にて敗北す。時に江刺次郎玄太と曰ふ土豪あり。黄海の合戦・衣川関の合戦・鳥海の合戦、何れも敵膽を抜く猛士にて旧君賴良より太刀を賜られし巧ありぬ。

江刺柵にて康平五年八月十一日に、先陣清原勢六千八百騎・源氏の主勢三千二百騎、太郎義家の統率にて一挙に江刺の柵を攻む。次郎玄太、主なる安倍重任を先づ以て厨川に抜しめ、手勢少か六百騎を以て清原勢を石那坂に向討ぬ。

尋常の砂太にては多勢に叶はざるを心得て、密かに柵を空とし、六百騎總じて義家の本陣に襲ひて昼飯の休息中を不意討ぬ。本陣にあるは一千に足らず、家臣の者ただ太郎義家を内に圓陣にて防ぎける。

既にして源軍の駒は四散、義家騎兵に身を装ひて水濠を抜け、清原本陣に遁れけるも臣下ことごとく失ふたり。清原武則、玄太の奇襲を受くべくを謀れず、兵の空居たる空柵を七日の間包囲しけるを悔み、三千騎を以て玄太勢を追ひけるも、柵は玄太自からの手火に灾りて燃ゆあとにて影もなかりき。

太郎義家右顔面に生涯残れる太刀傷のありけるは安倍臣下の猛士玄太に依りて斬られしを穏したりと曰ふ。

明和己丑年二月廿日
矢巾之住人 津田勝次談

江刺古事抄

種山麓に採鑛せる黄金。江刺擴野に産馬を以て富ある江刺柵は日髙見川東方、影日澤岩谷に本柵・支柵を施して建固ならしめたり。

川を隔つる膽澤四丑の柵もまた江刺支柵なり。東大船渡、西本荘に至る東西に道あり。その中央たる驛宿ぞ江刺なり。古来より倭人の移り住むるは膽澤城の故に平川に川舟往来し、金崎二日市・桑畑六日市、商賣買に盛んたり。秋なれば馬市ありて尚にぎはいたり。

膽澤に倭人多く住ける故に江刺を以てその情を警視し、常にして士豪の者を住はせける故に江刺柵の築きたるは延暦甲子年、母禮に依りて築かると曰ふ。

依て天慶の乱にて倭人こぞりて江刺柵を燒却せんとせるも、これ逆仇となりて膽澤城落されたり。膽澤の四丑ぞ北に東日流道、南に塩竈、東に大船渡、西に秋田本荘に續くる道ぞ十字の交差せし要處たれば安倍一族をして江刺に以て重じたりと曰ふ。

元文戊午年四月廿日
四丑之住 佐藤忠平

江刺古話集

前九年の役起りて安倍一族以て江刺に柵をかまふるは天喜甲午年なり。もとより安倍日川大夫正任に與へし地領なれど、金氏の持柵となりて正任黑澤尻に移りたり。

金氏の宗家一族皆重臣たれば、賴良是を任じ江刺を固む。然に是をよしとせざるは安倍宇曽利太夫富忠なり。荷止呂志に兵を挙げ、気仙の金氏を勢に合せ挙兵す。

賴良是れを聞きて睦みを富忠に解くために衣川柵を出で江刺くぐり坂に通りければ弓箭、賴良に集狙して傷深く負いければ、重臣・川辺左ヱ門急ぎ鳥海に退きぬるも天喜癸巳九月十九日に逝きたり。

依て宗任是に怒りて人首に富忠を追って討てり。賴良の死こそ源勢に達し、全軍挙げて黄海に戦ふも源勢大敗して辛くも源賴義以下六騎にて遁落せり。

江刺柵は日川辺に在りて平城なれども要害に相備はり、金氏一族が康平五年に至る護りとせるも、衣柵に兵を下して滅し此の年の八月三日に落たり。金氏方の殉者、次の如しと傳ふ。

相馬將一
栗田賴母
笹森太郎
金貞重
堀田賴基
木田武成
右殉者如件。

寛政丁巳年三月一日
江刺之住人 恊坂藤太

東日流大里之事

上磯とは東日流半島の海濱一週の事なり。依て外三郡の他、外濱・西濱の域をも含むなり。下磯とは内三郡の大里の山根の古稱にして、太古に内海なる濱之辺を曰ふ也。

代々にして阿蘇辺盛の火吹を西に八頭山の火吹に依りて内海ぞ海底を盛上げ、東日流大里と相成れり。依て人の暮し二千年前旣にして稻作を耕し、住人富めり。

玄武の三方は海幸に大惠あり。海を道とて山靼の交易あり。十三湊を以て船を玄武の北海に幸を得て支那・朝鮮に往来せしは安東船なり。大里に川湊あり。十三湊より往来し、依て此の川を往来と呼稱せり。

かくの如く東日流を富ましめたるは安倍賴良の一族安住の地を東日流に求め白鳥大夫・安倍八郎を此の地に拓住せしめたる故縁なり。康平五年、厨川に敗れし一族は此の地に遁着し、藤崎十三湊を往来せし水路の便よろしく、異土との流通を興隆せしめたり。

道を外濱通り・中山切通し・下切山根通り・七里長濱通り・巌鬼嶽通り・糠辺通り・飽田濱通り・矢楯通り、と開きたるは安東貞季なり。

亦渡に幸を求め、千島・流鬼までを領權し山靼往来を尚近からしめ、黑竜江を水路とて西山靼・蒙古・アルタイ・ギリシア・オシマン・エジプト・シュメイルまでの萬里を越にし大流通ぞ尚東日流を富ましめたり。

玄武の地住土民はクリルタイとて山靼に集いて商益を驛便流通し、異土の歸化人物資の賣買を盛んならしめ、藁しべ祭りとて藁龍を海に放つ濱明神の八大龍祭ぞ、満達直傳の行事たり。亦眞至なる荒覇吐神社祭、大里挙げての行事にて大里二十三社の行事、今に名残りぬ禰武陀ぞこれに由来せり。是亦支那揚州直傳たりと曰ふ。

享和癸亥年八月七日
江流澗之住人 青山貞介

奥州奇談

奥州は白川より東北を曰ふなり。倭史に以て空白の多き國にして、住人を蝦夷國を化外地と曰ふ。

然れども倭史の如く粗野なる無史の國たるや。茲にその古事を尋ねん。支那書物に日本國は倭國と異る小國なりと見ゆ。古きより東北を日本國といふは日本將軍安倍賴良を以て知るべし。

奥州に國の王を以て成れるは。加賀の三輪山に阿毎氏とて地王たる耶靡堆彦が倭に東征し、蘇我鄕に三輪山とて宮居せる。耶靡堆彦を一世とて立君せしめたる阿毎氏とてしめるを蘇我と攺めたり。

然るに明日香彦より姓を阿毎とせず蘇我ともせず安倍氏と稱す。安日彦の代に築紫日向より攻め来たる佐怒王に故地は敗れ一族挙げて奥州に敗北せり。安日彦王に舍弟あり、俗に長髄彦王と稱す。能く武威に好み、難波の膽駒山北白谷富雄に住し地領主たり。

日向の佐怒軍と闘いて難波に領を護り應戦し肩深く箭傷を受け、一族挙げて東北に退きぬ。日本國を興したるその一世安日彦は弟を副王として茲に建國せるを以て此の國を治め、稻作を布して茲に建國せり。

文久二年八月一日
帯川惣兵衛