秋田孝季とは

所伝によれば、父の名は「橘左近」と言い、長崎・出島の阿蘭陀通事を務めていたようです。先祖は代々橘姓を名乗っていたとのこと。また、母は久世家の女子ということです。兄弟四人の次男が「橘隆末」で、これが後の秋田孝季です。

この「橘隆末」は、父の後を継いで阿蘭陀通事となり、阿蘭陀船にてマカオに渡り、イギリス人学者から学問を得たため、その科により解任されて、秋田土崎で浪人していたようです。その後、母が三春藩(転封させられた秋田藩のこと)の秋田千季(領主)の側室に入り、秋田家の養子となった橘隆末は「秋田次郎孝季」と改名されました。オランダ語やモンゴル語に通じるなど学問優秀だった孝季は、秋田千季に愛されたのかもしれません。

天明の大火によって失われた「三春藩の古文書」を復元するため、藩主の密命により諸国を巡脚して、集史・編集に取り組んだようです。また、同じころ江戸幕府の田沼意次より山靼渡航の密命を受け、亜細亜・西欧を巡脚して帰国したということです。詳細は「北鑑」の中にも記述があります。