北鑑 第二巻

東日流中山修験之事

長三郎權七 花押

天地金剛不壊とは、宇宙の百兆の星に靈力を得て、大地の胎藏よりいだせる萬物蘇生の身命を得るも、金剛胎藏両界より己が魂魄を得ずして人とならず、茲に摩訶の本地、藏王の垂地を本願として生死の輪廻を草木苔藻虫貝魚鳥獸人、十生に生を轉生し、神佛の天秤に生死を裁かるるなり。依て、世に十の類にして、萬物種生を異にして世に生死す。

抑々、神の想ふ萬物の造らしめたるは、死を以て生を成らしめ、生を以て死を成らしむる天地の法則故也。死は生に通じ、生は死に通ずるは、此の故也。

凡そ、生々に死なくば生なく、死去に生の蘇なくば無なり。神は萬物を造り給ふに法則を以て爲せるを知るべし。如何なる生々のものにも左右に等しく、背腹を作り、目あり。目をもたざるとも明暗を感覚し、匂をも感覚す。亦、雌雄にして子孫を遺すは、弱肉強食の多産孤産の數にて相調和す。互に生々に生を存續せんが故に以て、智能を敬発し、人間の如きは死闘を賭けにして据權を欲す故に、神の与へし生命體、自からも死すものあり。他を殺生せるもありて、神をも冐潰す。

神は萬物の親にして、一物たりとも一物の爲に生命を断つを許し給ふなかりき。然るに、萬物互にその生命體を餌食とせずば生々保たれぬが故に殺生し、生々の調和とて神は餌となるを多産とし強き者を少産として、世の生命鎖を連げたるも、人間耳は知能の故に、商とし己が必要餘にて殺生の限りをなせる耳ならず、黨をなして人を襲いて豊土を得る修羅道に生命の尊重を省りむるなし。依て、修験の道理を役小角は、倭國に在りて得られざるを、東日流に来たりて本地の摩訶即ち、大宇宙を神とし崇むアラハバキ神を號けて、天地金剛不壊摩訶如来とし、両界曼陀羅をこの一尊に感得せり。

是れより先に役小角は垂地尊金剛藏王權現を感得してより本地の本願にその感得求道にして捕はれ、伊豆大島配流となり、大宝辛丑年赦されて、小角、その求道を支那に求めたるも、渡航の嵐に襲はれ若狹に漂着し、夢に神の告あり。北辰に向へて白山、立山、羽黑山、藏王山、泰平山、白神を經て東日流中山にたどり、石塔山にて本願を感ぜり。依て、倭に遺るは垂地尊耳の本尊と法喜菩薩のみ遺り、その本尊本地本願尊を未だに知らざりけり。

東日流中山連峯の石塔山とは、大古神なる石神ありてイシカカムイ即ち宇宙の一切、ホノリカムイ大地の一切、ガコカムイ水の一切を神とせる先住の民になる神を併せてアラハバキ神とて祀らるを、役小角是にて得たるは垂地尊金剛藏王權現の本地本願尊天地金剛不壊摩訶如来也。

延應己亥年七月二日  荷薩體郷淨法寺住
聖覚阿闍梨

北辰之神紀元

丑寅の神を古代に尋ぬれば、イシカホノリガコカムイ也。神と曰ふ根源を審さば、宇宙の神秘にして天然自然之不可思義に起る總奇異に、神と魔になるを幻想し必存のものたる心の受感になる多し。

古代より丑寅日本国は山靼に通じその往来を常にせしは、永く倭人の知る處に非らざる也。山靼とは黑龍江流れて、北辰の魁光に當りては白龍となりけるブルハン神の祖神を尋ね得ずして解き難し。

抑々、ブルハン神の上になるスキタイの馬神、鯰神の神にありき根源はギリシャ、オリュンポス山十二神に創りぬを、アルタイよりモンゴル、大興安嶺に渡りゆきたり。亦、ギリシア神の根源にあるはエジプト、ナイルの神々より分布せるものにて、エスラエル民の神、アダムとエバに同代神信仰たり。

然るに、以上の神格の大根源にあるは古代シュメール民の神・アラの神、ハバキの神に創まれる神なり。此の両神を併せしをルガル神と曰ふ。アラビアに渡るはアラ神のみにして、エスラム教となれる先なる神なり。依て人に起れる神と信仰の創りはアラ神、ハバキ神を一唱にしてアラハバキ神とせしをルガル神とせり。

吾等が住むる丑寅日本に渡りしは、古き世にして五千年の古期に来たるものなり。依て吾が国にては二尊一併になるアラハバキ神とて地神、イシカ神・ホノリ神・ガコ神をも併せ是をアラハバキカムイと信仰の一統とせり。

元亀庚午年十月七日   南部氏政 華押

荒覇吐神之流布

渡島より築紫に至る荒覇吐神の呼稱ぞ、當字を以て雜多なるも、異土語にしてアラハバキなれば、古代よりそのまま用いたり。然るに前九年の役より此の方攺社いちづるしく相成りて、多くは廢社たるも多し。

古代にして信仰厚きものなれば、未だにして世襲に怖れず信仰是あり。是を朝幕をして強固にて取潰すはなかりけり。故に豊州の大元神社、因州出雲大社、加州三輪山神社、比叡山山王社の末社蝦夷神社、邪靡堆の大三輪山神社、紀州の荒脛巾神社、坂東の荒羽々気神社、陸奥の多賀城邸のあらはばき神社、渡島の荒吐神社、六十餘州に七百六十八社あり。是を門客大明神とて信仰を許したるは、反乱蜂起を制ふる手段たりと曰ふ也。

元文丁巳年六月三日   藤原基久

荒覇吐神心得之事

古来、荒覇吐神御神體は二尊に祀る多し。人是を二王と思いて門神にとて二王を刻みて祀りきあるも、二王に非らざるなり。二尊を祀るは西王母・東王父にて、荒覇吐神は本来一尊也。亦、倭神とは根本より異なり、若しその一尊を神像造りては、三千三百三十三體となるべし。それを統括せるを以て一尊と略せしは、丑寅日本紀元二千三百年前の荒覇吐王即位より創りぬ。

寛政五年十月二日   秋田孝季

陸羽之執農史

二千三百年前、支那晋之群公子一族、國敗れ脱路を海にいでて向ふは北辰に新天地を求めたり。大船八艘にして六百二十三人と曰ふ。北流せる水藻を水先として東日流七里長濱に着して、東日流大里に定住、農土を稲作、水利温水の地を探求なし、東日流大里の下磯に丈なせる葦草を刈りて水利を造りて、稲作を耕したり。稲良く稔りて、此の地を稲架と稱したる邑造り、上磯に至るかしこに住分け六邑を造れり。

稲種にては二種にて、ホコネ及びイガトウと稱したり。水利は川より引水し、一度び留池に温みて稲田に布水せり。肥は草木の落葉、牛馬飼糞に一年の温床せるを施肥とす。

種の直蒔より苗殖となりしは百年の後なり。稲は日輪の照日にて豊凶の作を稔らしむに依り、イシカ神を根子日子とて稲を能く張らしむる暑天の神、水利の神ガコ神を天池の神とて祀れり。依て西王母・東王父を白山神・白神山神とて水源に祀れり。何れとも山靼傳導になるものにて、支那漂着民の行事に遺りき行祭なり。

丑寅になる稲作の擴拓は、大河の水利よき河辺に拓田多ければ、洪水に流失せる多く、澤田の丘拓になるも亦多けれど、益少なし。依て牛馬を大いに飼ひて施農の馬力を以て土手攺修をなし、稔を得たり。

寛政三年七月一日
秋田火内之住人 小野寺与右衛門

田之神・水之神・山之神之事

田の神、水の神、山の神、風切の神、雨乞の神、日直の神、虫送の神、豊作之神、家の神
田之神・水之神・山之神之事

稲作道具の事

イブリ、カギガ、キガ、ツレ、ジョンバ、ホコギ、ホゴキ、オシボ、サベシ、モギダラ
稲作道具の事

小野寺与右衛門

丑寅日本之拓田

丑寅日本之拓田

 

制作:F_kikaku