北鑑 第五巻
寛政五年六月廿日 秋田倩季 華押
丑寅日本繪巻
繪は文筆より想いは奇なり。依て文筆に得ざる多き丑寅の民に、古事を説く繪解き語部とて本巻を綴りたり。右要以如件。
東日流上磯
東日流下磯岩木川
本巻統卆著者親影、秋田孝季殿
本草學者河内浪人、菅江眞済殿
浪人、髙山彦九郎殿
海兵學者、林子平殿
測師伊能忠敬門弟、間宮林藏殿
本巻綴者、和田長三郎吉次殿
覚
本巻の要趣は眞實ひとつを求めて記逑を爲さんとせるも、多傳の諸説・雑話・文献の十對に八割の同意あるを抜きて、丑寅日本史の繪巻とせり。
もとより倭書を參考とせず、六十六餘州の巡脚、亦山靼幾萬里の旅は、はるかなる紅毛人國まで相渉りぬ。繪は實見の㝍なれば、架想一画にも非らざるを茲に誓言す。
秋田孝季
丑寅日本國の歴史に隱れたる古事を求めて、三十五年の光陰を旅に明け暮れて、六十餘州はおろか未覚なる山靼をまた越えて、紅毛人國までも巡脚し茲に完結せしは、三千巻になる坂東以北の史傳なり。
倭史に依りて遺れる丑寅の史は、何事も實態に触れ申さずただ征夷の讃美に綴る僞傳にして、史實無根の事耳ぞ記行に連られたる多し。まして古代なる事にては空白なり。
日本國と國號せしは我らが祖なり。倭人は我が國の國號までも掠め盗り、古事記・日本書紀なる國史の事を遺せしも、紫式部が言ふ如く、神代より世にある事とは片そばぞかし、と評せる如く丑寅の事は知るべきもなし。本巻はかくあるべくを訂したるものなり。
秋田孝季門弟 和田長三郎吉次
北鑑日本繪巻一、
東日流大里六郡一望
阿曽辺族長老、武耶舍久圓
津保化族長老、津判倶王
晋郡公子一族、張孔泰仁長老
日蝕とは神の業ならず。日光に月輪重なりて地上に閉光せる直下は皆既日蝕となり、その円心直下週辺は半蝕と觀測を見らるなり。亦、月蝕にては、地影ぞ月に當りてなれるものなり。皆既蝕とて、四百八十を數える間にして元復す。是ぞ、晋民の傳へし知覚なり。
稲作・暦を覚るも晋民の傳也、有難き哉。徒らにして日・月蝕を以て迷信を作爲し民心を惑はすべからず。天運と心得よ。
晋民のもたらせる知識の要は農耕なり。先づ東日流大里の葦原を刈開きて、稲田を拓し水利を通溝施して、その實稔を得たり。
晋民の中に紅毛人ありて金銀銅鐡の採鑛を鎔鋳せるありて、地民は是を鬼と稱したり。今にして鬼神社の遺れるはその故なり。亦、鬼をして行事ありき、秋田のなまはげ・陸奥の爐神他各地に多彩なり。
紅毛人らの遺せし信仰あり。古代シュメール王ギルガメシュになるアラ・ハバキ神の信仰なり。翼ある獅子は宇宙に飛び、神なる種を母なる大地に蒔きて生々萬物を遺したると曰ふ、サイキの教へぞ廣く信仰を厚くせしめたり。
稲作はホコネ・イガトウの二種にて、人を定住せしめたる要となり、その適地水利の河辺に人の住居・住分を西南に弘め、地産の衣食住、民殖に傳はりて此の國を日本國と國號せるはよけれ。時に、東日流・渡島を日髙、羽州を日髙見、陸州を日出、北上川を日川と稱したり。
陸州黑川に耶靡堆王あり。一族挙げて坂東を越えその住民麁族、越州の熟族を併せ、今になる那羅に立君せし第一世阿毎氏耶靡堆日子ぞ安倍氏の遠祖にて、安日彦王・長髄彦王の祖なり。
然るに、是の代に至りて筑紫に異土の渡り族ありて、地王・猿田族を制え勢を張り、東征を挙し耶靡堆を攻め亡しぬ。時になる王、三輪山蘇我郷の安日彦王、膽駒山登見郷の長髄彦王、一族を卆して東日に脱し東日流にたどりけるとき、支那晋民族の定着・施農の時代たり。大挙して移り来たる耶靡堆族と併合し茲に日本國王を即位ならしめ、更に地民の阿蘇辺族及び津保化族を併せ信仰を一統して、荒覇吐王國王を襲名せる日本國王を東日流中山連峯の聖地・石塔山に於て即位の式を挙行し、その一世とて安日彦王その副王とて長髄彦王ともに立君せり。是ぞ、丑寅日本國の開闢たり。
その王居は、東日流稲架より糠部・田名部・飽田・仙北・岩手・安代・矢巾・水澤・磐井・庄内・多賀・會津・坂東と移り處多く、荒覇吐神信仰諸國に遺りたる故縁たり。
抑々吾等が祖人の造り結ふ榮ある古代の礎石をくつかえしたるは、耶靡堆のあとに國造られし倭國になる仕謀にて、吾等が國も民も化外の蝦夷とて忌はしく今に尚遺れるこそ忿怒やるかたなき想いに神の萬機に待たん。
耶靡堆王安毎氏
安日彦王
長髄彦王
荒覇吐王第十八代・大根子彦王、故地耶靡堆を奪回せむと欲し、稲架根子日子を日本將軍として越州・坂東の軍を統卆せしめ、濃州・若州・甲州・紀州四方より一挙に倭國に攻め入りければ、既に倭國に内乱ありて何事の應戦無きに故宮・三輪山の磯城に荒覇吐五王居を造りて成せるも、從軍の丑寅勢此の地を忌みて駐まらず奥州に還る多し。依て根子日子、地豪の志士を募り王居を營陣せり。
是の如く至るは根子日子自から倭王とて荒覇吐神を廢し、地豪の推挙せる天神・地神八百萬神を以て國神とせる、背革に依れるものなり。世に孝元天皇とて朝皇にありきは、開化天皇父子二代に於て荒覇吐五王を欠退しけるに依りて、遠州に日本將軍とて大毘古彦を遣して根子日子の反逆に備へたり。
然るに三百年を經しとも、何事の反目非らず世は泰平たり。以上、史傳にありきは物部雄君連一族に傳はりしものにて、信じ可きに疑非らざる史傳なり。
乾元壬寅年月日 小野寺甚藏
北鑑日本繪巻二、
史實無き事に倭史に記行あるは、仁德紀に上毛野田道將軍の蝦夷征伐に敗死、更には日本武尊が東夷征伐行など眞事記の如く記行ありき。亦、敏達紀に荒覇吐五王の綾糟が倭人に復從し、斉明紀にては恩荷など倭に從屬せる如くあるも是ぞ全く史實に皆目無かりける造り事なり。
倭國は律令を以て夷國に戸籍書を作りて統卆せるも、丑寅日本に入りたるはなかりけるなり。日本將軍安倍安國は國領を玄武に求め、合浦外濱の烏涛安泻に善知鳥神社、地語にしてガコカムイを鎭座せしめたは大化丁未年、唐の貞觀二十一年の春四月七日なり。
倭國にては丑寅の幸を掌据せんとて、養老庚申年に上毛野廣人、神亀甲子年に佐伯兒屋麻呂を遣したるも、何れも荒覇吐五王らに討たれり。依て藤原宇合を征夷に赴むかしめたりとは造事なり。倭に於て謀る丑寅日本國への侵駐は尋常なる手段にては叶はざるとて、物々交換驛處とて神護景雲己酉年に桃生の驛、寳亀庚戌年に伊治驛を造りて荒覇吐族との和睦を謀りて交はふも物交の相互に價等せず、此の驛に警羅せる宇屈波宇が倭人の品を換ふを禁じたり。
倭との驛仲介に、荒覇吐五王にありき宇屈波宇を説得に赴くはもと此の地にありき道嶋嶋足が公の姓に入りて倭朝の使をつとむるも、金財を掠めて倭に逐した嶋足の及ぶ處に非らざれば、寳亀甲寅年七月嶋足が命からがら遁げ去りぬ。宇屈波宇が居城は胆澤にして、倭朝が夜行隱行を以て防人を角別の地に柵を紀廣純が施工に當るも、是の春呰麻呂に攻められ道嶋大楯らと倶に討たれたり。
以来、天應辛酉年倭朝は藤原継縄・藤原小黑麻呂を征夷討伐に當らしむも敗散せり。倭軍を一挙に船を以て月浦に運行せんとせる朝議も、過去に阿部引田臣比羅夫が二度に渉りて東日流に敗北せるに挙兵ならず。延暦壬戌年、胆澤の五王に阿弖流爲が継君しその副王に母禮が任ぜられたり。
此の年倭朝にては大伴家持を任ぜるも、此の年の八月苦死せり。依て延暦戊辰年多治比宇美が任ぜられ、續いて多治比濱成・佐伯葛城・入間廣成ら副將に補せられたり。更に兼春宮大夫・紀古佐美が追補さる。延暦己巳年、全軍挙げて胆澤に向ふる途中にありき手向いなき邑々を燒き兵糧を民家保有の糧を奪いたり。
是れに怒れし阿弖流伊は母禮とともに一挙に官軍に攻め入り、是を攻め破りたり。依て倭朝にては萬策つきて、茲に坂上田村麻呂を任じたり。屆けに應じて田村麻呂一計・特救を請じ、防人の行軍とせず多くの貢を阿弖流伊に屆け、倭朝との和睦を進め上洛を請いたり。
茲に田村麻呂の尋常なる誘いに乗りて同道せしに、倭朝にて天皇・公卿僉議に結したるは打首と結したり。八月田村麻呂にたばかられ阿弖流伊・母禮は河内社山にて斬首されたり。
文正丙戌年八月廿日 物部出雲
右全文は原漢書なり。後讀者の便を以て、略文せしを容赦願ふ。
筆者合掌
於三河國社山、阿弖流伊・母禮斬首
胆澤柵跡
再度比羅夫軍船全滅せし後方と羊蹄山 合浦外濱