北鑑 第六巻


(明治写本)

此の書は諸国の諸傳及び文献を集綴せるものなれば、正史の想惑ありて、後修を要する者也。

寛政元年一月一日   秋田孝季

渡島誌聞

渡島の国は倭權諸侵の非らざる國にて、住むる民は久利流族を以て族祖とす。國主をオテナ、長老をエカシ即ち部族の統主と爲せるは、丑寅日本の國治と相異るなし。オテナのクリルタイとて千島エカシ・渡島エカシ・流鬼エカシ等、山靼に渡りて一年一度びなる族議を謀りて、民族の睦を長久し来たりぬ。

更にして、紅毛人の住むる西山靼との交りを欠くるなく、交りを一儀とせり。依て人智の覚得を、古代に衆智を得たり。渡島の民は丑寅日本國との交りを睦みて、信仰また此の丑寅の(以下二行、欠落)なり。東日流は宇曽利と倶に能く渡島と交り、民の往来自在たり。山靼及び西山靼の異民の歸化も自在たれば、昔より馬の渡りあり。亦、北支那のアヤ族・マンチョウ族・クヤカン族らの移民多く、山靼及び西山靼に爭乱起る毎に移り来たる多し。

その智得に依りて國の政、亦改新を以て民の生々また異土の秀政に以て諸智覚を今に得たり。抑々イシカホノリガコカムイより、アラハバキカムイとて一統の信仰を得たるは、西山靼國のシュメール國なる國主の感得せる宇宙及び大地の神とて、ギルガメシュ王なる聖典より傳はりしものにて、天なる黄道・赤道の交はる暦の一途より十二星座を以て神なる(以下二行、欠落)なりせば、今にしてアラハバキ神なるその奥義の深々無量なるを心に覚るべし。此の信仰なる要は、宇宙なる十二星座に獅子座を拝して父神とせり。大地なるは蛇神を母神とし、天地の理を神なる創造の無上無疑の信仰を民心に一統たり。信仰に以て人の上下を造らず、以て天地水の陰陽(以下数文字、欠落)説たり。アルタイを更にモンゴルに入りて、渡島に渡りきは凡そ三千年前の故事なり。

寛政五年七月廿日   秋田孝季

荒覇吐王之創

丑寅王傾国を思い天地水の三神を西山靼に理りを求むるに、シュメールと曰ふ國あり。チグリス及びユウフラテシの河になる河岸に、文字以て人と契し、ギルガメシュ王を一世とて、アラハバキ神を國神とて、その大教典を今に遺せり。此の信仰をして、世に生ぜる古代オリエント諸國に神なる信仰多様に生ず。シュメールよりアナトリア及びギリシア、東にペルシア、北にアルタイと相渡りて、天山を蒙古に入り、ブリヤート、黑龍大河を北に流鬼に至り、渡島を經て東日流に至るは、吾が丑寅日本國なる荒覇吐神なる傳道なり。

即ち、此の神なる渡来なるは、馬と倶に入りたり。アルタイ及び蒙古國は馬産國にて、馬にかかはれる諸傳の多く傳はりぬ。東日流に人祖をなせるその系なるは、今になるハルハ族、ブリヤート族、ドルベト族、カザフ族らにて、西山靼なる紅毛人系ありき。

此の諸族に多様なる信仰あり。アヤ族にしては、西王母神、女媧神、伏羲神あり。クヤカン族にては、白山神あり。ブリヤート族にてはブルハン神、等々多様なりけるも、丑寅日本國に移住せし者は、アラハバキ神に一統信仰と相成れり。

人移り、代移りきに、人の種をして爭ふ事なく、平等一義にて相睦みぬ。依て、荒覇吐一族の掟として、常に心得たる誓言は、吾が一族の血累にして、人の上に人を造らず、亦、人の下に人を造らず、相互平等に睦むこそ荒覇吐族の信仰と國治の政たり。

寛政五年七月一日   物部美作

無常に信仰を保べし

世にあるものは、すべて不滅なるはなし。神ありて、天なる宇宙の日月星を創り、地なる界に萬物を創りしきも、是皆、生老病死に輪廻して逝くものは元に還らず。物の質ならざるに分解す。然るに生々絶えざるは、神の創り給ひき生死のなかに種を復活せるが故なり。何れの種なりとも生必の運命、皆生長を叶はず。生々を保つが故に他生を贄として喰ふが故に、ある種は滅び残る者とて飢ふれば滅びぬ。

泥水も、空に湯気となり雲となり、雨となりて地に降りつ輪ありてこそ、生々に清淨を保つ。夜の寂ありて、生とし生けるものは心身に生々育成す。然るにや、一生の時は甦るなくたゞ老い逝く耳なり。生々のすべては死を望むはなけれども、ただ逝くばかりの生々の道は命を削るが如く一刻も留まりたるためしなき。生命の輪廻とは水の如く、天より降るる雨の一雫ぞ相集りて流れとなり、萬物の生命を次世に遺すべく、生命體の次代に新生せる成合を創り世に絶えさざるなり。

是の如き輪廻の轉生を、天なる陰陽の下にその光熱を得生て萬物は誕生を得るなり。濁水し水は湯気となりて昇天する如く、人の終焉は相の非らざる靈と相成り、生々の善惡、神なる天秤に重軽を裁かれ、次生の生命體を異にして生ぜん。

生命の理りは生々の内に神への信仰を心身に覚りて逝く安らぎなくば地獄の底に随逝く耳なり。茲に荒覇吐神あり。天地水の理りに求むる生死安養の法あり。その教理は宇宙・大地・大海の化縁に眞理を抜きて、神なる大恵に遇ふるべく法則に叶ふる法なり。求めて難からず、行じて苦しからず。能く心身に信仰の誠を精進せる耳にて叶ふるなり。他邪に惑はず、唯唱ふるはアラハバキイシカホノリガコカムイとぞ聲にして、亦默として心身を神なる裁きに委ね奉るこそ救済に遇ふものなり。

信仰には學を要とせず、亦供物の奉施も要せず、唯一心にして神號を唱へ奉るこそ信仰の誠なり。

寛政五年八月一日   和田長三郎

平將門之家紋


將門之真筆紋

正面揚羽蝶紋。坂東平氏之八氏が通常の家紋にして、右の片は日本國記・日本天皇記に包紙せる一片なり。

平將門

坂東八平氏とて筑波山を仰ぐる下總國豊田郷に祖桓武天皇の皇子髙望王が、奥州之安倍日本將軍頻良の押領を坂東に侵させまじとて、自ら平氏を以て姓とし名を朝臣上總介とて朝令の任を四年を了て歸らず坂東に永住せり。その胤に平太郎國香・平次郎良兼・平三郎良將・平四郎良正ありて長子國香は常陸、次男良兼は上總、三男良將は武藏、四男良正は下總を各々治領せり。武藏の良將に三子あり。長子を將門、次男將平、三男將文あり。ともに兄弟相睦みぬ。將門は長じて石井將門とも稱し、亦は豊田太郎とも呼ばれたり。

武藏は新田之耕作ぞ豊けくして、他領の民ら此の地に移り来たる。叔父なる常陸領・下總領・上總領より此の地に遂電し来たる農民あり。門閥・外民を問はず、將門是を受入りたれば、常陸の平國香、源護と謀り將門討伐の軍を挙し、承平乙未五年。武藏の豊田郷を攻むるも、將門かかる急雲のあるを奥州の安倍頻良より密告ありて軍備おこたりなければ、伏兵かしこに配して國香の勢をかくらんせり。敗走せる國香を追へつ常陸を攻め、國香の舘なせる茨城の地に入りて、更に長岡舘・那珂舘の攻めに依りて國香は自刃し、源護は遂電せしもその子等は討死し、將門は、國香に兵馬を援軍せし平良正をも攻め討つぬ。

その翌年なる承平丙申年七月。平良正、平良兼、國香の子貞盛、兵を合せて將門を逆襲せども白河より援軍せる安倍日本將軍頻良の多大なる軍資と援兵に依りて、良兼らは國府に遁入りたるも、これを十重の陣に圍みければ良兼、國府の謀以て西に遁がれ出で、朝廷に平將門反乱せる旨、朝議に訴へけり。依て藤原師輔はこれを却下しけるも、藤原忠平この旨を奏上しけるも、御門もまた將門に奥州日本將軍安倍氏と睦みあり、朝賊とて官軍を挙げなばゆゆしき一大事。まして、西海に於ては藤原純友なる反乱の兆あり。將門を罪とする勿れと、將門上京に接するとも、検非違使庁の裁きぞ不門に伏されたり。

翌、承平丁酉年。將門、坂東に歸りて下總に復任せるや、良兼火の如く怒りて將門を再び攻めけるも、良兼に組せるもの少なければ、亦國府とて良兼の奇辨に耳をたむけるなく、夜襲に將門を襲へども、不断の備へ固き將門の軍勢ことごとく良兼及び貞盛は不起の敗北に地を追はれたり。依て平將門は日本將軍安倍頻良の妹・辰子を室としてめとり、楓姫の誕生に悦び、武藏の豊田より石井に舘を築きしばしの泰平に心身を安らぐも、京師に遁した平貞盛の暗策が朝廷をし目安に訴上を幾度びとなく申請にこらしも馬耳東風なれば、國府なる權守興世王及び源経基をそそのかしめて、將門の友たる武藏の郡司武芝をゆさぶり、領民なる貢税を倍収し、その取立を郡司をそこのけにして國府への納税とせり。

依て武芝は將門のもとに赴きて己が郡司たるの役職たる今況を嘆きければ、將門その仲裁に赴きて國府に兵をかまえて武芝を説伏けるも、源經基は姿をくらませり。詮なく興世王は將門や武芝に悔て事治まれるも、貞盛は次々と惡計をこらし常陸の國司藤原玄明に國府が武芝に起した二の次を演ぜり。依て藤原玄明もまた將門の門戸に走りて事の由を苦請せり。武芝と玄明を援けたるは國府に反く者とて、國府はかまえて三千騎、將門の軍は一千という、數にては三對一の勢にて、常陸の國を攻めたれば、まさに數だけなる武威の烏合衆にて國府は敗れ、國印及び公倉の鍵を献ぜられ、事治まりけるも、この画策ぞ平貞盛の計と知るや、將門は怒りて貞盛を追って、坂東八ヶ國卽ち上總・下總・常陸・上野・下野・相模・武藏・安房へと國府を攻め降し、奥州衣川舘主日本將軍安倍頻良より二千騎の援軍を得て、茲に國府を坂東よりことごとく追放し、貞盛のおもわくは外れたり。

依て貞盛、攝政藤原忠平を奉請に得て、坂東追捕使とて宣旨を貞盛は得たり。速坐にして貞盛下野にまかり押領使藤原秀郷を官軍に加勢し、茲に四千騎を挙兵せり。時に氷川神社の荒覇吐神に仕ふる巫女あり。

風を背に負いて戦ふべし。汝は祖来に蘇我夷蝦より預りし天皇記及び國記を奉じ給へて、貞盛及び秀郷を討たでは坂東の地は倭土に侵されむ。汝、今日より神皇と相成りて日高見に侵し来る賊を誅し奉るべし。亦事の大事たれば、秩父なる荒覇吐神社の御神体なる銅山堂在祀御物・日本國記及び天皇記を陸奥の秘社に移し奉ふべし。是ぞ蘇我夷蝦が甘橿に命を懸けにして坂東に秘祭さる念の空しからざらめやも。吾れは降神山に天降りし東王父なり。依て汝を神皇とて賜ふなり。

と、神懸りたり。將門かく神懸りを信じかぬるも、忍を以て秩父なる蘇我氏の御物をそのまま開かず。自ら我家紋を記して包み、是を辰子に賜り、奥州なる日本將軍安倍氏が氏神荒覇吐神社への永鎭を委ねたり。辰子身重なりせば、楓姫倶に奥州に赴きてかかる御物を安倍頻良に事ぞ賴み、安住なる生保内の石尊寺に安住し楓姫が妹・澤耶姫を産みにけり、と曰ふは仙北風土記に見ゆむ。

平將門、貞盛の軍を攻手の期未だ至らずと見計り、従兵の者なるを農耕にひまいだしむる天慶庚子年。石井舘に留守兵少かに八百人。その報に起つは平貞盛・藤原秀郷。急挙して石井を攻めかかれり。多勢に無勢なれば將門、勢を結城岩柵に退け、石井舘を自からの手火に灾けり。石井を抜けにして、將門は巫女の告を心せず風に向へて下舘に兵を進めたれば、その向風に乘りて敵なる弓箭、一族をことごとく射仆し、己れまた首根に絶命の箭ぞつらぬき、馬を落つるや息ぞ絶えたり。將門、何を以て荒覇吐神の告を背にし、戒しめらる風を背にせもやらぬは今にして謎なりける。主なき將門一族は、ことごとく奥州安倍頻良の袖下に移り住みけるも、その安住地は今なる相馬の地なり。

寛政四年九月二日
磐城之住 相馬光將

陸奥考

永祚己丑年、日本將軍安倍頻良逝き、その嫡男忠良五十一歳にして継ぎける。忠良とは襲名にして頻良とも稱し、また父頻良なる實名ぞ國東と稱するは誠なり。國東に三男一女あり。長子を忠敬、次子を頻良、一女を辰姫、三男を良治と稱せり。長子忠敬は十九歳にて天慶庚子年、平將門に客戦に葬じたれば次男、父襲名にして頻良また忠良とも書きけるありきも、諸史に國東の次子頻良と書く多し。

頻良の代にては泰平にして、長暦戊寅年、頻良逝きてその長子賴良継ぎぬ。然るに賴良の異母にして清原武則の妹に生れし富忠ありきも、正室ならざる故に賴良と相續す。依て近領にありてはいさかふるありとて、富忠を宇曽利にその領主とて離領せり。賴良の舍弟に良照あり、生保内に居住せり。亦その弟道照あり。兄ともに佛道に入りて赤淵に方丈して住居しける。仙岩峠を挾みて東西の國を背合しむ。安日岳に連峯せる駒岳・和賀岳・栗駒岳に黄金に連らなる奥州の隱金山處なり。

永承辛卯年、平忠常が藤原道長の横暴課税に怒りて荒覇吐神に呪詛したると目安せるあり。源賴信が三年に續きたる戦乱を苦策にして鎭むるや、奥の羽國や陸國の山に産金せる財寶及び十戸の産馬及び海産の幸、源賴信が坂東より奥州にその侵策を一族を挙げて望みたり。奥州の泰平を欠き、乱こそ官軍とて一族の勢を張着せる縁故とてしきりにその因原を作謀せり。世に前九年の役たる十餘年の戦乱を起兆せる源氏の画策や、安倍日本將軍賴良に白羽の箭を放てり。賴信の子賴義、その子義家の三代に相渡り古けき荒覇吐族が三千年に相渡る丑寅日本の王國傳統を水泡にせしむ、恨むべき侵魔のやからなり。

昔より武威を以て譽とせざるは安倍一族にして、一大事の起りに備はしめて秘境安住の地を常に心得たり。羽後なる仙北の生保内の地こそ、一族が生命を保つべく澤とて古稱せる處なり。依て生保内城ありて、湯治舘あり。馬養の牧を柵造り、住むる民をしてマタギ・扶鑛師・玉造り・桶造り・鞍造り・鍛治師・木挽・大工・藥師・接骨師らその舘に部の民とて常住しける。古来、仙北・火内・鹿角に於ては金銀銅の鑛あり。露天掘りより鈄穴掘りとて地語にてはマミアナと稱しけるなり。古きより山海の幸を以て山靼と商益なし、その歴史にぞ及びては倭史の知られざる故事なり。

倭侵の者は東に衣川関、西に朝日・羽黑の結界ありてその駐断を遂げたり。安倍一族は来る者は入るとも、いで去る者をば誅したり。陸羽に居住せる者は、生る者・死せる者の戸籍の審に屆くるを常として戸主の役目たり。寄合に奉労して橋を架くり道を土方して、その束を邑長の役目とせしは古き安倍一族の習たり。戦に起りては先づ女・子童・老人を安住地に隱住せしめ、亦戦に傷負者は生保内の郷に移しめたるは、前九年の役に是ぞ源氏の知られざる故事なり。渡島との往来亦多ければ、地稱とて彼の地に似たる多し。一統に信仰せるアラハバキカムイは三禮四拍一禮にして、唱ふるは唯神號の奉済なり。

文政二年五月一日
和田壱岐

奥州尋問張紙

とかく奥州の史に審しては、倭史に基を置ける故に、その人住むる郷に無史の空白を生ぜるなり。東に於ては前九年の役、西にては後三年の役。更には二十五萬の攻手を挙したる平泉の乱にてことごとく失せにしは、陸羽になれる古事無史の域に閉したり。史に曰はしむるは、倭説に叶ふる史傳耳世に遺りて、古来なる奥州の来暦にあるはその語りにも科を蒙むる事ぞ暫々なり。依て茲に北鑑全六十巻を以てその故事を永代に遺すは、秋田氏の治藩・三春の當主なり。

一つ眞實を求むるが故なる萬史の諸説。それなる砂の數より選釋せるは、私にして神ならず。誠の天秤に裁を以て断定は難し。故に玉石混合と雖ども諸説を集綴なして、その判断を衆視の聖に委ぬものなり。茲に羅列せる傳説をして、私をして除くは不為行為なり。道に支派あり。學にも専門にして修道あり。一人の頭脳をして萬能ならしむは、能はざる叶事なり。依て茲にその選抜をして私考とせざる綴りに當然なる尋史の記逑ぞ諸説を張紙のまゝに尋的にさらしなん。

寛政五年八月一日
秋田孝季

國記天皇記之事

天慶の乱にて朝廷の奥州及び坂東に秘とさる蘇我氏の想惑は、倭衆の政爭据權の私慾に作説の史談を代々にし、尚眞實を伏し己慾の讃美。丑寅日本國の國號をも奪取の自號にせるは、倭史構成の編なり。史創の記を神話に誕創し、編者地縁の無為を有縁に以て作説せるは語部の道理なり。古よりあまねく以て故地のおとぎ話も、作説相加ふれば實傳の如く遺りぬ。講釋師、實に見たるが如く自著を以て衆耳を惑す。諺の如き如眞の作話は一舌萬世を抜くが如きを曰ふなり。尚以てその語りに如實の枝葉かぎりなく加ふれば、花咲き結實の編に作爲と相成り、是を權据の史談と學に相推挙相加ふれば、世説に不動たる史談と相遺りぬ。

然るにや作説のものに蟻の一穴、その崩壊を招く事の多きは水面に顯れざる漂氷の如く、眞實は作説を突くなり。吾が丑寅日本史は倭史に目上のこぶなり。古代を知るべくは未だ諸國に遺るアラハバキ神の遺跡・遺物・遺傳の實なり。倭史は是を一記にも筆非らず。權を以て是を廢しけるも、信仰は尚今に遺りきは畿内とて滅却を得られず今に遺りぬ。尚以て鬼神と號くる丑寅の信仰にあるを忌むる倭人は是を怖れ、邪道とそしり、前九年の役なる図繪をして画くは丑寅日本の人面を鬼相にして今に遺りぬ。將門をも鬼とし膽澤の阿弖流為及び母禮をも鬼とせるは、倭史の偽説作説を支ふる衆への宣なり。もとより眞實は一つなるも、眞實は萬説を碎くる神通力に萬能たるを知るべし。

寛政五年二月一日
秋田孝季

固持不断之事

丑寅日本國に倭説の皇統を碎くる書、遺りぬ。秩父に遺せし蘇我一族の國記及び天皇記なり。作為の兆戦に以て將門を討つけるも、本命なる國記及び天皇記の奪取ならざるは倭朝なる企画の不覚なり。政事に武を以て皇政を失ひ武家政事の世にせるも、またその因にあるは皇政にして失策なり。世を戦國の巷となし、その勝者をして官位の賜ふ。ただ禮事の倭朝の絶えざるは、永世に人心を惑はしめたる神造りの信仰なり。民は常にして乱の巷に死と背合せ飢に窮し、永きに渡りて政の故に自在たるを制へらるゝさま、今にしてその崩壊を招くる兆あり。今しばしの忍に耐ふるべし。

民を政事の下敷にせるは、その報復のあるべきを知るべきなり。まして東北に住むる民の貧しきは列島の候に判断なき税収の故にして、是に請願せる者を反きとて刑の科さるる法に律に、神の天秤を冒瀆せるが故の政にして、權者が持續なる据權の故なり。もとより天光の至らざる郷はなかりきに、世々に起る一人の惡謀にて萬死の憂を蒙むるは民にして、救済叶ふる術はただ神に祀るる信仰なり。然るにや信仰また權にその祈祭を異にして、平民の及ぶる信仰ぞ神垣の外なり。茲に以て誠の救済のあらんは祖人のあまねく崇拝になるアラハバキカムイの神通力全能の神に誠心を献げ奉らめや。

寛政五年九月一日
秋田孝季

大正元年再筆
和田末吉 印