北鑑 第七巻


(明治写本)

書意

此の書は古紙に再筆の故に、甚々讀取り難き行程を免がれず。誠に以て申訳もなき綴方に相成り、是も百姓故の貧しさに紙代もままならず、茲に諸觀の労を心中よりおはびに書添へ仕り候。亦、拙者の請願に、此の古紙をば心よく程して下されたる佐々木氏に對し仕り、難有至極の念に拙者の感銘に仕る次第に御坐候。此の史書は我綴りに非ず。父及び先代の遺したる蟲喰に朽ちるを廢棄に忍びず、茲に再書を以て遺し置きたる。我が志に領念仕り、夜明けたる明治、進歩せし大正の御代に文語を易く綴りたり。

然るに此の書は世襲にはばかり、國史の視敵になる多し。依て世襲の至るまで、日浴の當らざるは無念に候へども、遺し置きては永代後に必ずや眞如實相の鍵とならむ。依て残期、門外不出を心得、亦他見無用としてわが東北の日本史とて大事たるべし。眞に二つなく、亦その上の諸論あるべからず。能く心得あるべく事を前注の意にして如件。

大正元年正月一日
和田長三郎末吉

眞如實相

人生諸諸に秘を以て生々す。眞は見聞に良けれど行い難し。依て人生に善を惡とし、惡を善とせる世襲の流轉はうたかたの如く世襲をして顯れ消ゆるなり。吾が國の古代日本國たるの國造りに創むるは倭國より古きに在りしも、いかでか今は化外のまつろわざる蝦夷の國とぞ、國も民も倭國の權に伏さるるまま、創國の古きにありし諸史實相を失なはんとせるは誠に以て忿怒やるかたなき處なり。吾が國はいにしより山靼の祖血に仰ぎ奉りて、人の交りを睦み、地に農を耕し、山に金銀銅鐡なる鑛を採鑄し、更には海幸の漁、森林に狩猟を得たる豊けくを倭侵の輩に奪取される耳に越ゆ。幾多の染血にあえぎ苦しみ、未だ以て國賊の類に白眼に異視さるは通常なるる東北への觀念なり。

されば古代吾が國なる國の創より歴史の實相を遺さざれば、久遠の祖恥をばまぬがれざるに依てその因原を此の一巻に綴り置くものなり。抑々吾が國は坂東より以北に成れる創國の史にあり。その實相ぞ明らかなり。人祖の渡りは西域にあり。地平日没の山靼より渡来せしものなり。その歴史たるや遠くして、幾萬年ぞ算に數い難き大古の事なればなり。語り部の傳にてその歴史にたどりては、風土地異に至る古きにあり。はるか祖先の類に青き眼・紅毛人の類なるもありと曰ふ。倭人は是を鬼とぞ曰いしが、吾が東北日本にては神と稱しける相違にあり。

信仰の要になる荒覇吐神への崇拝にて鬼神と記せず「𢗭」卽ち日の心と書けり。依て「𢗭神」とて今に遺れるなり。凡そ古代信仰の要たるは、天然をして死への危窮に遭遇せる突如の出来事にある地震・雷・火事・暴風。亦は津波や洪水。極寒な氷雪に死ぬるあり。不時起災の怖れに神を想定せる多し。依て死を招くわざわいを神として作らるは、その怖相に造らる多し。然るに神の相ぞ人視に見えざるが故に多様なる神像の造られきも、吾が祖先に當るる古人の崇むる神はその相を造らず。天地水一切にあるべく萬物はことごとくして無形より世に生れたる神の生ましめたる萬物にして、その生命は天授のものなればなりとぞ、宇宙に仰ぎ地に伏して水に清むる天地水一切のものぞ、神なる聲と相とぞ拝したり。代々にうつろふる世の萬物ぞ神よりのつくろいに依りて、雌雄の睦を以て世に命種を甦がえせる故に世は生物に満るものぞ。生命はその生命を餌食となして輪す。

依て餌食に生るものは多移多生にして、その生命輪廻を相調和せるものなり。生々は安しき事なし。人は智の故に相爭ふさま、いつ世さながら絶ゆるなし。吾が國の古代に於ておや。越冬あるべく國の故に人は相睦みぬ。依て神の信仰とて天然を以て崇拝し、改むるなく祖傳を久遠にぞ今に傳へ遺したり。暮しの智惠を山靼に受け、その信仰に於ける理を宇宙に仰ぎて石塔を造り、それを拝む對聖に今尚遺りきは、かしこの遺物遺跡なり。あゝ尊としや。宇宙への信仰ぞアラハバキイシカカムイにして、その窮りぞなかるべし。
わが丑寅の古歌に曰く、

是の如く器に遺しき。信仰の神を讃へて遺しきは、文字なき太古の語印なり。わが國なる神々の渡りに幾多ありて、古きよりならぶれば、次の如く數々ぞ遺りぬ。

右の如く通常なる言葉にいでくるなかに神のありぬ名に通ぜるあり。ただ無きは惡の神・善の神は無かりけり。然るに心のさまかはりを邪心の神とてこれをウダデと曰ふ。亦心の善い神とて稱したるアジマシと曰ふは、日頃なる言葉にいでくるぞ多し。人は神と近くあり。人は心に依りて善と惡との同住せるものとて、常に心をさまかわりせぬを心せり。丑寅の人々にその心に浮沈せるを言葉に、カチョペネ、イヒル、キマグ、カチクツ、キビ、トドロクサと曰ふあり。心に依って善惡の神が心中に侵入せるが故に、常にして心に魔障のすきをつくるべからずと古代より神をして唱ふるは、アラハバキイシカホノリガコカムイとぞ唱へて通常たり。眞如實相とは誠なる結果なり。

寛政五年六月一日
和田吉次

舞草刀由来

古来、丑寅日本國の刀に創まるは、川砂に採りたる砂鐡を得て鍛ふる刃物より創まれり。掴みどころをぜんまい草やわらび芽の如く造り外反り形・内反り型に、用ふる人の得手に應じて鍛えたり。掴柄の草芽に似たれば舞草と稱し、春風に舞ふ如く育つるぜんまい・わらびの如く名付けられたるは舞草の名稱になる由来なり。

刃入ぞ萬年留めなる髙山の雪解水にてなせるは古来の傳統にして、その斬るることかみそりの如く、また岩をも斬るとぞ曰ふ。厚打にして重けれど、後にては窓をあけにして輕ぜめしあり。是れ、手技太刀の創めなる鍛治打と曰ふ。鐡をしてその川砂に砂鐡川あり。水に塩分の無きが故にさびぞあがらず。いかに眞水とて川に依りては塩分あり。鐡質を異にせるが故に、天降る流星鐡にて打たる刀ぞ秀たりと曰ふなり。舞草刀の鍛治法は誠なる日本刀なり。

文政六年二月十九日
四丑之住 金實寿

丑寅日本章

吾が國は北辰に千島・渡島・流鬼國を新天地として、更に山靼に陸を續くる極北の大陸をも治領に自在なる國土に相睦む。依て倭に西域を侵犯さるとも、領民を徒らにして死抗の爭に避けて、北天を以て生命の續存に謀りぬ。代々をして北天の神なるイシカ・その大地なるホノリ・世界に岸打つ大海ガコの神をして崇拝す。年々に開きて集ふアムールのクリルタイ。そして神を祭りのナーダム。各々の國に住せるハーン・エカシ・オテナの決め事ぞ、萬里の外に尚至る人の往来そして相睦むこそ泰平なり。

代々して國を侵し民の安住を犯し財をむさぼるやからに防ぎて馬は駆け巡りぬ。こぞりて心を一にしてブルハーンの神のもとアラハバキ神を奉じ、我が安住の地をぞ久遠に護り給へとこそ、先代よりの誓なり。抑々、北天に不動なる卍の星。幾多の山河を越ゆとも道のしるべと相成るや。心して山靼とは爭ふべからず。吾が國の道を開くべし。代々をして子々孫々の末々に過療を遺さず、以て天上なる神のもと幸ありき。土を耕し人睦むる御園となさしむこそよけれ。代々にして倭人は吾が國土を侵し、貢献の權制に従はしむるの侵略ぞ、われらこぞりて泰平を護らん楯とぞなりて國護らん。

大海は道なり。その波濤に岸打異土こそ睦みて友とせば、世界の幸を交易相互の利徳あり。生々亦安かるらん。民に智を去らしむは國運の隆栄にさまたぐものにて、亦一握の殿上人の据權を砕かざれば、久遠に民の汗労ぞ無駄にして、世の光陽に浴すことなかりける。古来安倍一族をして倭の先進を以て異土と交りたれば、商益こそ吾が國なる民を豊しむる第一義とてその實践を果し来たるなり。依て吾國の産金・産馬・騎兵術は倭人を先走りぬ。抑々この故に奥州の地に於ては天慶の乱・前九年の役・後三年の役・平泉の乱とて、倭人のまかり住む處と相成るるも、安倍氏が代々にしてなる産金の一朱たりとて未だ世にいでるなく、奥州の地に眠り居るなり。

文化元年十月廿日
髙田與市

丑寅日本抄歌枕

詠人知らず

〽衣川花に移らうあげはてふ
  いづくはあれど春はのどけき

〽年ふれば神も交はる衣川
  山賤の小屋の山吹の花

〽心からうつらふ影もみなながら
  時も月日もかげろふ人ぞ

〽下り月夢かうつつか思ふち
  和光の影に老隱るやと

〽陸奥の川しばふる人のまどろめば
  衣の関に燭を背けて

〽はるけずは神の奇特ぞ露の身に
  われとは知らず関はまかりぬ

〽散らぬさき朝立ち添ふる老の身を
  風の末にもはてはありける

〽衣関とざしてかまふ安倍城の
  夕くれなゐの束稻の月

〽霞立つ舟もまどろむ櫻川
  水を羽ばたく鴨さえ見えず

〽げにや夢ありし想いの衣川
  安倍のしゝむら古枝の雪ぞ

〽枝落の雪にも吠えけん寄手をば
  かまふる弓手震いとまらず

〽人の世は隙行く駒の運命にて
  八雲を先としわれも逝くなむ

〽恨みしは寄せる源氏の駒かげに
  出羽の猿どもたばかり隱る

〽手にとれば泥をいでこし花ぞとは
  蓮華のかおる貴きかんばせ

〽さむらふに暁望み聲かけば
  山の端答ふこだまひびけん

〽生保内の郷に来てこそ救はれむ
  戦の傷も心の傷も

〽山のかひそびゆ物見のやぐらより
  板音ひびくたつか弓とる

〽われはしも梓の眞弓鷹羽矢に
  つかへて射るは神の裁と

應永五年八月六日
安倍頻任

道奥歌枕

〽露の身に祓い除けても降りかかる
  降魔の障り我れに我れにと

〽うたかたは行方も知らず絶えねども
  あらわれ消ゆる命みずかし

〽面ふらず學びて覚るいしくもに
  身はさなきだにげにも盡きせず

〽心空春を隔つる日頂へて
  思ひの露は目路もなき

〽頂白の峯に降りし天女にも
  五衰の相あればこそなる

〽われからの偽すゑ知らでは為ざりし
  いかでか知らず世を空ざまに

〽芧と藁の人形作り村門の
  魔除け祈りてのらのさなぶり

〽目に見えぬ神も惡魔もあまつさえ
  さだかに見ゆる代々の跡々

〽あしたづと白鳥あがむ丑寅の
  人は眞心餌を添へ祀る

〽月の笠渡るかりがね逝く秋を
  宵の草蟲尚鳴き通し

〽雨に着る袖笠手笠宿り松
  衣の関はまだ開けやらず

〽北上の蘆刈る妹背昼時の
  言の葉草も戦心得ふ

〽地獄とは遠きに非らず足もとの
  先端襲うすわつつがむし

〽わけ迷ふ戀路さまを夏は散る
  しばし枕も折ふしぬるる

〽かねことも繪に添ふあだし詞とて
  云ひもあらねば誰ぞうらまん

〽あからさまありしに歸る我をして
  とにもかくにもそれわが山川に

〽なきかげに土のおちこちまくり切り
  眼睛を破り集む殉骨

〽思はじと罪には深む刃なく
  生きてある身は薄氷を踏む

〽山吹の風にかぐはし白川の
  血吹く𣵠鹿の矢叫ぶ戦

〽くつばみを外して放つ馬飼の
  そばに離れず馬はいななく

〽翁さび松風さわぐ衣舘
  千代に八千代に消えつ昔を

〽あらばきの法のしるしや生保内の
  風もうつろふ宮は名のみに

〽うかりける螢の光りみだれつる
  岩もる水の玉に照らして

〽思いたつ千里も同じ旅夢の
  いづくはあれどふるさとの景

〽よるべなき身の置き處月下に
  風もくれゆくわが身もしがら

〽苔の衣を石に重ねて古墓の
  光を花と今に遺して

〽そことしも知らぬ遇ふ瀬に尋ぬれば
  とうにつらさもささめことなき

〽なかなかにさゝの一夜に更けぬれば
  よそや朝間の胡蝶舞ふらん

〽ひと差しの桃の花咲く鉢植は
  早咲きこそにたのしかりけり

〽香を焚きていほりめしとめ開けたれば
  山のかせきは峯に聲鳴く

〽折帽子かなぐりすてて月の盃
  人目を包む名隱の苫

〽夜もすがら太刀添いねむる仮寝にも
  戦の常は夜ぞ永しき

〽さりともとあめはゝこぎのあらかねに
  まだ夜をこめて忍ぶもちずり

〽影廻るなづとも盡きぬ木のとぶさ
  こともおろそか花を隱して

〽衣川跡のしるしも髪枝も
  遺す間ぞなきゆひかひぞなき

〽光陰のあへなき往事歎きおば
  心のぶかに呵責ありける

〽うろくづは幸のわだつみすなどりて
  丑寅國のはやて敷波

〽いたはりて心もとなやそなた風
  夢路も添ひて死なれざりけり

〽あらばきの教あまたにたなびきて
  神あらばこそ生てこそしれ

全歌詠人知らず
正平五年六月十九日
浅利出羽

歌枕道奥草紙

詠人知らず

〽歳ふれば匂はぬ袖も恋しとは
  うつる夢こそくれはとりこそ

〽降る憂目いつまで續く下り月
  あめはゝこぎの鷲の髙嶺に

〽玉きはる敵をのぶかにやみやと
  陸奥の野づらを火宅に打たむ

〽牛打って車のわだち深ければ
  阿津賀志山も心うらめし

〽戦場の埴生に暮すいぶせきに
  髪のゆひかひ洗衣ひまなき

〽世は常に十惡八邪の道ゆきぞ
  心なけれどさかしかひなき

〽ふりにける陸の爭ひまさき葛
  修羅畜生の道に生ひなん

〽名のみして春ぞ淺けくみちのくの
  わくらは辛き吾が道行を

〽古き舘しとみに巢だくささがにの
  巢拂ふ人もけしたるはなし

〽片しくも顯はし衣露を添へ
  我だに憂しと目こそ闇けれ

〽そぞろにも由なきとぞと思いども
  こつじき讀みてさもし覚ゆる

〽生保内のおほどか習ふまたぎ衆
  汀の氷もあふさきると

〽めづらかや將門遺姫十八の
  散りけく命尚あはれかな

〽濡れて干す鎧草摺身もがらに
  今こそ限り厨を楯に

〽生保内は賴みの舘ぞうちつけに
  知る人もなき癒湯の藥郷

〽けふ見ずば駒の嶽なる雨神の
  相は解むあらはばき神

〽名にし負うこや日の本の石神を
  天龍八部生保内に見ゆ

〽のならひに此の筆跡をこめ心
  石に立つ矢と想いこがして

〽琴腹に落る涙の曲びきは
  人にまみえで誰に聞かせん

應永三年五月六日
平藤兼

歌枕古抄

詠人知らず

〽定めなき人はあだなるかれがれの
  よしや草葉の霜に朽ちにし

〽あはれ知れ憂き戀せずとあだし世の
  由ありげなるかげろうふの道

〽しののめの山吹香ほるしとみ風
  かすみにとざす谷の鶯

〽さなきだに坂行く杖をたよりつつ
  せうとは倶に歳にわずらふ

〽おぼつかな闇夜の灯幽かにて
  霧も重なる道芝の旅

〽いふならく藁屋の住家かきくらし
  夕日の影に刀とぎつる

〽とことはに夢幻の一睡ひとり猶
  野もせおやみず関に見張りて

〽安倍氏のさしも畏きあらばきの
  なからん跡にほととぎす啼く

〽これやこのにつくい武士の八目草
  一期の思いもんだはずけむ

〽めだれ顔戦に別る門出をば
  あしくも思ひ心なくれそ

〽鳴る瀧の瀬に杖を突くたつか弓
  耳の代衣をもてあつかうて

〽みなかみの寄せにし道を閉ぎける
  衣の関の太田川楯垣

〽さまされき陸奥の山里護りなん
  こや日の本の立つ影いざや

〽かけまくもなまめき立てるかげろふの
  うしろめたくや柵落の月

〽むつかりをめのと代りて落道を
  生保内至る山路𡸴しき

應永五年十月七日
浅利出羽

生保内遂電

康平五年。厨川及び妪柵を落にし者三千百六十五人の安倍一族は、退路の足跡を川水に隠し消せんが故に川瀬を道とし仙岩を越ゆ。源勢是れに気付くるなく、炎夜空を染むるをふりかえ見ては後髪引く思哀しく、鳴々と泣きけるを制はしむ。先達の面また涙に濡れかかる。峠降りて入る生保内柵の迎人、差いだせる握り飯。幾數に喰いたるや、たちまつにして空となりけるを速炊六度にて治まれり。

傷付きし者は玉川舘より峯湯に運び、健なる者は仙北に赴かしめて各々安住に隠遁す。一族多くは東日流に旅立つぬるも、女人・童をして生保内に留めたり。生保内に人住みの舍十六處。その處舍、今にして地名耳に遺りぬ。髙原臺・長谷澤・辰湖根岸・大森平・石神境・川淵・大土岐森・生保内柵・西岐森・中仙郷・覚舘郷・神宮寺郷・角間郷・玉川境・刈輪野・大横澤等なり。

應永五年十月七日
浅井出羽

生保内神事

此の邑は古きより他處より移住せるは少なし。古代にして猛部君達と曰ふ邑長あり。此の邑に入る道を通せず、川を往来せしめたり。古き邑名を熊湯内ポロコタンとも稱せり。邑なる創りにては支那年號なる元嘉丁丑十四年。猛部君達一黨廿六人開此之地、と羽記古抄に見ゆなり。

古きより邑の神とて地辨にしてホゲ流しあり。夏なる暑き日に冬に焚く薪木を澤流しせるものにて、伐せる立木を住居せる邑岸に、邑人總出にてホゲ流しを祭りとせり。亦、秋にてはダンブリ祭り・トドコ祭りあり。その二日通しの宵祭りにて、一日目をダンブリとて童及び女人の祭りにて、二日目を老若を不問ざる男祭りなり。邑なる外れに芧を用いて人形を造り、大木に懸け置くは次なる形の造りものなり。

此の造物の丈は一丈にして、終祭にして生保内川に筏乗せ、火を放って流せりと曰ふ。古き神事なれば今に傳ふるは絶えたれども、奥古抄録に記ありぬ。

享保元年七月二日
田口傳右衛門

笑生保内冬夜話

古き昔の話なり。生保内邑と曰ふありけるに住む農夫あり。名を權作とて、その暮し貧からず。亦富たるもなかりけり。三反の田・三反の畑を耕りて一家の生々祖来に継ぐが、權作なる代に至りて生保内川洪水ありて、川辺にありき稻田ことごとく流失せり。依て彼の權作、急貧し冬越せる糧の保つなく、秋田なる新屋邑に冬の間稼ぐにいでたり。然るにや權作、山仕事ぞ知れども海に漁せるは初のこととて、舟に乘りては酔い、仕事ままならざれば常にして舟衆の陸仕事耳に残されたり。依てその賃金は半人前たり。

權作何を思ふてか休なる日に磯にいでゆき、先なる途方に考じて歩きければ、波打つ岸に漂いる木箱を拾いたり。幅三尺四面にして縦六尺の大箱なれば、長時をかけて濱に引揚げたり。中を見たさにその蓋を開きぬれば、中に入りたるもの目にもあやなせる蝦夷織なる錦にて、更には若干の青玉ぞいでたれば、これぞ山丹船の艱破物とぞ、丘の砂地に埋め、數枚を飯場に持ち来たれば、網元大いに驚きて權作にゆずるべくを請ふたり。然るに權作手放なさざれば髙價にぞ釣あげ、田畑一町歩を買ふる價となりてようやく賣渡したり。權作、先づは馬と荷車を買い求め、砂丘に埋め置ける彼の箱を積みにして、冬雪解の生保内に歸りきたり。庄屋より一町歩の田地を買ひ得たり。

然るにこの田地ぞ水引惡くして今迄買手非らざる田地なれば、權作案じて田角に突井戸を掘りたれば、吹き上がるが如く水湧けり。秋田より持歸りし彼の蝦夷錦及び青玉の價や一萬両とて海産問屋大坂屋利右衛門に商談相成り、權作遂は長者と相成りて富豪の振舞せんと思いきや、さらさらなく常に野良着にて百姓に稼ぎたり。村衆のなかに銭を借りに来たる多しとも、權作應ずるなければ、白情者とて人そしりたり。或る日に權作を訪ね来たる乞食あり。一宿を乞ふるに、權作心能く一宿をなさしめ、山海の珍味を興じたり。その乞食悦びて、朝なる別れに禮ぞとて一振りの小刀を授けて去りぬ。

權作、それ心なしにいただきけるも、戸棚に藏したるまま一年を過しかた、再び彼の乞食訪れたり。權作、久方の對面を悦びて、その夜は酒など添へて一宿を与へければ、次なる日に外戸に人のさわがしきに寝起きたれば、物々しき侍五十人、土下坐にて居直るに、權作膽を潰すが如く驚きて、彼の乞食を起したり。さればこの乞食こと北条宗演とて、さながら諸國を巡脚仕る鎌倉の將軍と聞きて、流石な權作も腰立たざるほどに驚けり。權作この乞食將軍より姓を藤原と賜はられ、名を權之介祐作と授名を頂き、六郷の長とて領主となれり。是實事也。

寛永十二年八月一日
由理右京之介

生保内城之譜

峨々𡸴々駒嶽麓
生保内城在此地
天与湯治復心身
歴史隠栄不人語
知神存奥國事詩
以何護是生泰平
髙祖継掟在不断
鳴々雲標稱郷名

是れ生保内城之譜なり。抑々生保内城は本城を表とし、攻敵に備へ山端の隠舍を内とし、幾重の見告を以て報せむこと速し。依て安倍一族の衆、安住をかしこに得たり。安倍重任、叔父良照の築城に加へて築きたる城舍の離城六ケ城に及びて、此の郷を健固ならしめたり。

寛政二年二月七日
秋田孝季

奥歌枕抄

詠人知らず

〽ささら八撥譬へん方もけしからず
  夫れみちのくは之めぐる哉

〽よどればやおどろも歩むあなうらに
  血染めし道もいづち道奥

〽夜をこめてはしたのものはまどろまん
  いふこそ程もゆうつけは鳴く

〽丑のときおっとり込めてとどろ踏
  足をもためずすはしれ者奴

〽つゝ支へ手にたつ敵を斬ればとて
  たたみ重ねて時は虎伏す

〽乘り直らんかけずたまらずわたがみの
  しどろもどろによしなやいとむ

〽朝もよい苔路の露を踏み乍ら
  神の社にかつさきそむる

〽片そぎの朽せぬままにしめゆふを
  つくもがみ引くかんなぎの感

〽あはれ知れ人を裁くる天秤の
  あやまつ計る神ならではに

〽ふんぬいでよっぴきひやうさればにや
  風に任する後の弓鳴り

〽来る年の春を心にさえかへる
  とよりかくより君君たれば

〽年やはらほの見ゆ夏の海白帆
  あすをも知らぬ追風波ゆく

〽見うずるに花になれこし鶯の
  啼くこそ程も心許なく

〽まさり草秋香に髙き天つ風
  帆をひきつれて海も香ぐはし

寛政五年四月三日
和田長三郎

秋田北譜

古きより秋田の地に山靼の國人能く移民し来たりぬ。秋田の國を連峯せる山また山のかしこには金銀銅の鑛ありて、是を採鑛せしむ溶鑄の法を傳へたるは通稱オリエントなる古代シュメールの岐法なり。表掘り・横掘り・底掘りの探鑛法は古き代の秋田・火内及び鹿角にぞそのただらをなせる山師の特岐たり。またマツオマナイの住民も川に砂金を採る岐を知り、安倍日本將軍に献ぜしは古代より相受継がれし習へたり。秋田にてはかかる山師の産金に古きより倭人入りてその財取に侵領せるも、住民の反乱しきりにて倭人多く死せり。鎔鑛爐も亦かしこに山設されたるは倭人の及ばざる處に以て施されたり。依て安倍の遺寶とて積藏されたるは、極の秘にて集藏されたりと曰ふなり。遺されしその在處にては、安倍上の系譜にぞ明細せりと曰ふ。

古来安倍一族の暮しに吾が國の産金を得たる財を散財せずとも、海産物交易にて支那・満達・蒙古よりその益を得たれば、産積の金を費せることなかりき。また鐡は閉伊よりその産を得たれば、鐡をして鍛治の工法また倭國より先たる岐錬あり。舞草刀もその先鍛法なりと曰ふ。古きより鑛産と相互たるは産馬及び漁撈の營みなり。更には海獸毛皮の商益にては北域の民と相通ぜる物交にて交易の品を欠くことなかりき。秋田にては土崎湊・北浦湊・怒代湊を以て山靼交易とせる多し。然るにや是を掌据せんとて阿部比羅夫、海湊を侵せどもその了に達せず敗れたり。爾来丑寅日本の山靼交易は益々隆興せりと曰ふ。

寛政五年六月一日
秋田孝季

奥の歌枕

詠人知らず

〽いとどしく物さびたるる藁小屋の
  しのぎを削り文のひぬまに

〽まぎれあるあたりをとへばあくがれの
  暮なばなけの降は春雨

〽よしなくも涙も色かあかざりし
  さこそ心はすぎ間吹くなん

〽すさましく月あきなるによしのうも
  あるかなきかに忍ぶもちずり

〽もどかしや秋猴鳴くるまさうずる
  こりもなく音に淨間なかりき

〽ござめれや蘆火の影に飛び舞ひて
  夏蛾も火入る陣場見うずる

〽天ざかる星のあかりに弦替へて
  明日の戦に散りぬれば

〽先だたぬ海のしがらみ風もよぎ
  よるべの水に映る月影

〽みちおくのやまざる雪を踏み行て
  なれ冬こもるとまや尋ねむ

〽なかなかに筆なす文のもどかしく
  書く紙ねずる宵の永さぞ

應永十二年十二月一日
佐々木小三郎

秋田火内抄

奥の國秋田火内の郷は、古き代々にして渡島の住民、此の地に移り住みたる處なり。安東家の治領、土崎湊・能代湊にて双君の擁立あるが故に以て都度の折合ままならず。確執ありきも宗家檜山城なるは東日流安東の嫡流にて、土崎城なるは庶家にして、安東鹿季を祖代とせるもその威力ぞ宗家日之本將軍系累に及ばざりき。安東一族、東日流六郡にて南部氏との抗爭長期にして領民の困窮に耐難く故地放棄せるは嘉吉三年にして、松前及び檜山に移りて一族長久の實を謀れり。事前にて此の地に早期着役せしは安東兼季を檜山に、安東鹿季を土崎にさきがけたり。

亦渡島にては松前大舘に盛季の舍弟なる藤崎城主たる教季をさきがけ、南渡島の十二領を掌据せり。依て東日流放棄の以前に於て領民をことごとく移住せしめたるは、東日流放棄なる六年前にて、放棄の際に於て何事の不自由は一族の支障非ざるなりと傳ふ。安東一族はしばしマツオマナイの湊・シノリ湊をして山丹との交易に益しその實を得たり。先づ千島・神威茶塚・流鬼國を固定なる國領として廻船し、東日流十三湊をして交易せし頃に等しく益を得たり。更に十三湊に替る秋田にては能代湊・土崎湊を築きて異國船を往来せしめたり。これを秋田火内衆と曰ふ。

天正十六年五月
火内家門

鹿角史抄

奥の國秋田鹿角に於て安東一族の業いは鑛山なる産金にてその實を挙げたり。世は戦國なればタダラの一切密にして、諸國の交りを断って山丹の交易を旨とせり。米代川を道とし能代湊を要とて、山丹に往来せしを鹿角船と稱し、名髙きは藤琴丸・大阿仁丸・火内丸・鹿角丸・十二所丸は山丹人の知れるところなり。

山丹よりの入れたるは馬にして、猟犬も入れ秋田犬たるを今に遺せり。山丹往来に依りて肉食を流りだせるも此の故なり。米代川にては稻田、古き代に拓田ありきも、大雨毎に洪水に依りて作失しければ住民多く山に鑛夫たるを望み、その産鑛に實を挙げ檜山城の益ぞ土崎城の威をはるかに越ゆ豊さにありて、洪水無き新田を鷹巢平野に招田し、米産また阿仁米とて實を挙げたり。

天正十六年五月
火内家門

秋田毛馬内之事

奥の國毛馬内の山郷は太古より人の住みける邑多き處なり。荒覇吐神を銚子瀧・中岳・古遠部・角塔山に祀り、カムイの湯處ありてその祭ぞにぎわふは年中行事の常たり。此のあたり金銅の鑛多くして古きよりタダラの採産ありて住民は富たり。近くして十和田の湖ありきも魚住まざるに、龍神住みけるが故ぞと湖辺に住みける人ぞなかりける。此の地は南部に近く亦東日流に近ければ、安日山に神處を祀りて巡る旅宿は毛馬内たり。秋田名物、毛馬内山・とろろ飯・味僧田樂は此の地よりいでたるものなり。

享保二年四月十日
佐田兵介

海望北辰録

吾が國は海に望みて世界に道あり。まして北辰に於て海産の海幸ぞゆるぎなく、西海は山丹に岸を對し、東はメリケンに至る波涛に續く。北は極北に國ありて古きより安東水軍のまかりし領土なり。今、國をして政相のせまき旧来を脱がれず。井中の蛙に外界を閉せるはおろかなり。擴く海を越ゆ外なる世界開化の文明に求め、我が國の進歩をおくれずと海門を開き、その水平に計を等しく為さでは末代に肩睦むるを欠くなり。茲に外藩と怖れず、その學に長ぜしむに若人を渡らせ船を易交せしめたれば、國運の隆栄まのあたりに得んや。紅毛人とぞ人道に底覚すべからず。

道は彼等に學び、その智に追復せしたれば、國家の安康見事に至りその諸知識を得ん。彼の知識たるや人の生々に醫學ぞあり、商學・算學に抜きんぜる計にて國益を増進せしも、國王進みて是をその賢者の身分を問はず償与せりと曰ふ。吾が國は士農工商の習階、旧来護りて何事の國益に増進ありや。古くは此の習を断つて海航せし安東一族に學ぶこそ發展あり。民を制ふだけなる至政ぞ今にかげりを生ぜるなりと断言仕る。國運栄達の兆は今ぞ。海望に道を果し得べき刻なり。世界の先進に赴ずばその従僕に伏す耳なり。いざこそ心して海渡の関を開くべし。

寛政二年八月一日
林子平

奥人望志

古より奥の國なる人の望むは、山丹大國に渡りて子孫を保つこそ志の一義たり。世に知られざるアラハバキ神の傳来こそ古代なる佛教に先なる、古代信仰の一統をなせる道神なり。世界の睦みは信仰にあり。そして商易に依りて不自在なるを自在に得る開化の道にして、その學道に精進あるべきなり。吾れはその道をぞ開かむとて北辰は津輕の宇鐡・安潟、宇曽利なる野辺地・糠部、閉伊なる久慈・玉川・福岡、津輕弘前、秋田なる大舘・錦水・土崎、巌手なる盛岡・平泉。羽州にては鳥海・羽黒・月山・山形・米澤、宮城にては仙臺・塩釜・陸奥の関白河とて、丑寅日本國を巡脚せり。

その旅程にありては秋田孝季・和田長三郎吉次・林子平・二階堂賴清・豊間根重任・安倍重任ら、地豪の學者に接し得たり。古来よりかたくなにも志を異土への渡航自在を志せる有志なり。吾は想ふ。何故以て奥州は化外ぞや。亦住人を蝦夷と稱すは何事たる人間平等視觀に欠けたる片見ぞと。奥州の歴史にかんがみて、島國魂性たるせましき歴史の證を審べし。

天明三年癸卯
髙山彦九郎

安東氏抄

十三湊日本將軍安倍太郎盛季は京役管領の別當として大納言を官位せり。萩野台なる十三湊の藤原秀直の暴に依りて起したる内訌が藤原秀直自からの墓穴を掘り、東日流は一統されて安東一族の掌中になりけるも、此の戦に後援せる内三郡の曽我氏ありて藤崎安東氏は救はれたり。依て内三郡を鎌倉方得宗領と認めざるを得ず。内三郡の平川郡の汗石川落合なるを奥法領に加へたる他をして内三郡をば鎌倉方に委領のやむなきとなりて、外三郡をして十三湊は安東氏の直領と相成り、藤原權守秀栄より三代をして失なひり。

十三湊の交易は年毎に益をなして富み、福島城・唐川城・羽黒城・鏡城・白鳥城をかまへて北都を想はしむ繁達をせる。佛寺も亦、阿吽寺・長谷寺・禅林寺・三井寺・壇臨寺・十三宗寺をしてその𨔽藍をにぎはしむる。他に湊町に一日市より三日市・五日市・七日市・十日市を以てにぎわいたり。築湊通りに軒を連らねたる問屋衆・唐人邸・女郎閣などをして夜を通して町灯ぞ湊を明らしめたりと曰ふ。奥州平泉の乱以来、東日流に鎌倉得宗の總主曽我氏の他に入封のなきは泰平にして、十三湊をして税の献貢もなかり。

享保二年八月二日
野村彦右衛門

陸奥古抄

一、

凡そ傳来とは實に遠かりし耳遺りぬ。靈魂を以て為す由来、奇々怪々なる出来事、物化退治。多採なる物語を寺社縁起にして遺りけるも、所詮は人の造話作説。神懸りなる者の告げにある多し。然るにや衆の眼前にて起れる諸奇蹟は、ただ迷信とは放棄できざる事なり。天空より輝光して落つくる鐡塊や石塊。そして死を招く雷音と稻妻など。不意を襲う地震・津波、山噴火と降灰・洪水や大火にては自然の災に起る多きなり。

されば神たるは何れの救済に救ひあるや。人はこぞりて神社・佛閣を建立して神佛を崇めども、生々に於て安しきこと少なく苦惱ぞ多かりき。吾が心のままなるは皆無に等しきに、心をこめにして神たる全能の神通力を仮想にして、人は都合によくぞ神佛祀りぬ。はたせる哉、起るや奇積あるその祀れる境内に奉る神通力の程たるは、何事も奇異なる事の起るや否や誠に以て神妙なり。何事非らずとも、人は信仰ぞなくして生々心の安らぎなかりければ、能く迷信に堕なむことあらん。

寛政二年五月十日
今藤業平

二、

陸奥に古代より今に尚遺れる神あり。アラバキ亦はアラハバキと稱せる神とは如何なる神ぞや。その全能なる神通力を説きたる古傳を尋ぬれば、天地水なる天然の一切なり。卽ち、宇宙と地水は萬物生死を以て時を継ぐる。一刻に生命は流轉して終るとも、その一生に子孫を遺して去るは萬物の生死流轉の轉生にて、これぞ神たる神通力にして、世は古今に相通ぜりと曰ふ。神を想定せるは人の心にして、安らぎを心に得るが故なる想々哲理にして生じたるものなり。オリエントなるシュメールの王ギルガメシュの叙事詩にいでくるアラハバキ神を審せば、天なるを陽とし地なるを陰として奉る天然の推移を神に以て安らぎとせる道理なり。卽ち陽ありて暗を知り、陰ありて明を覚つと曰ふ。究めて易しき意趣なりき。

抑々アラハバキ神なる神の説示に於ては、いと説き難きはあれどもその崇拝は一挙にしてオリエント諸國に神と信仰をもたらせり。世界に創む文字なるを土版に押印せる數ある遺物あり。チグリス・ユウフラテス川の辺に栄ひたる都は、世の最古なる國造りたるはシュメールなり。このギルガメシュなる王の叙事詩に依てエジプト・ギリシアに。ラーアメン神はエジプトに人は神を得さしむ。更にギリシアにては宇宙創造の神たり。その神の名はカオスとて、闇の他何ものもなかりきその暗黒に誕生せしはカオスの神とて、宇宙に星なる銀河を造り給ひき。ギリシアには多くの神を神話に遺せども、その神話より古代オリエントの新らしき信仰を生じたり。イホバ・アブラフムの神よりユダヤ教及びキリスト教が生じ、ギリシヤ神話のヘラクレスはシキタイ騎馬民の神となりぬ。

是の如くその基たるはギルガメシュ王が世に創めて神を顯したる信仰の創りと申して餘言を持つこと非ざるなり。アラは獅子にして、ハバキは地母神なり。是を併して成れる神をルガルと稱す。後なる神にて生じたるはゾロアスター。天竺にてはシブア。北方にてはオーデン・ゲルマン女神・プレスタージョン・アッラーなムハメット等。多採にも神々の教に枝葉をせるも、その基になれるは皆古代シュメールのアラハバキ神になる神の想定よりいでたるものなりと曰ふ。さればこのアラハバキ神なる吾が丑寅日本國に渡来せる萬里の道を越え来たる由来にては、アルタイ民のモンゴルに傳へけるブルハン神の基ぞとは是れアラハバキ神なる他非らざるなり。興安嶺より黒龍江を水戸に降りて流鬼國に至り、渡島を經にして吾が國に至ると渡島のエカシの曰ふは誠に信じて疑う勿れ。

寛政二年五月十日
今藤業平

三、

草の平原に日没を見ゆアルタイに續くはモンゴルなり。馬を放って暮しとし、羊を放って着衣となせる。古来狩猟の民族なる祖来に於てをや、山靼の六十七族の累血にて祖に通じたるはただブルハンの神なり。古来モンゴルの民に小民族の系にありてその信仰たるや己々自在たり。誰とて制ふるなく神をして對せる事とてもなし。此の地に吾が丑寅日の本の祖血は同じゆせるはブリヤート族に似たるありきはこぞりてブルハン神を崇拝せる故に共通を覚ゆなり。ブルハン神とはアラハバキ神な別稱にして、吾が國にてはイタコ・オシラ・ゴミソの如く、神の懸れる神司あり。その拝神になるはブルハン神なり。此の神の像を造るなく、その神な相をバイカル湖にして聖域とせり。

アラハバキ神は天地水の三身化縁の神なれば、支那にては西王母・女媧・伏羲の三神に崇むなり。天竺にてはブェーダ次なるブィシュヌにて、その次はシブアとて祀りぬ。何れをしても古代シュメールのアラハバキ神に累系せるものにて、アーリヤ族の改神になるものなりと曰ふなり。吾が丑寅日本國にては古代ネパールの戦乱に脱したる落人がペルシアより天山に至りモンゴルを經て、その安住地を東に求めてきたる直系の故に、地の神と混ぜるなく定着せしものと語部録に曰ふ。累代に於て吾が國の民族古信仰なるイシカホノリガコカムイと併合せしも、アラハバキ神なる名稱を失ふなく代々をして祀りきは幸いなる哉。本来なる古代シュメールのギルガメシュ王の叙事詩に忠實たりと曰ふ。かくある程に、アラハバキ神の奥州にありき傳統ぞ如件。

寛政三年五月十日
今藤業平

北斗宇宙觀抄

吾が丑寅の天空に星座をせるに北斗の七星あり。春夏秋冬に於て星座の位する天空の緯度ぞ一年の四季にぞ四緯度を記図せしむれば卍にて成れるを覚つなり。その中心たるは小七星座ありて、北極星を不動にして内卍に廻るを見ゆなり。古来より大七星・小七星の似たる星座を大熊座・小熊座と稱したり。天廻に不動なる北極星を古来より神聖なるものとて能く神話にいでくる魁なり。北斗の七星を右卐・左卍として天空に仰ぎ見たる古代人の傳稱は多くして、ゲルマン族やアーリヤ族の信仰なる象徴として用いられたる多し。

吾が丑寅日本國にては卍に神象せる三つ巴の象彰ぞ太鼓にその紋跡を遺したり。社殿の多くは荒覇吐神社・神洞入口をこの北極星に向へて施工せる多し。亦古来、金鑛の堀先を先づ北斗向きに掘り初む習しぞ傳統たり。亦、神殿入口を南向きにして建立し北斗に背を向けざる拝方に奉れり。北斗星をして暦を知り方緯度をも知りけるは、今にして海を渡る海航の術なりと曰ふ。北斗の大七星・小七星を巴に見つたるは佛教に於ても亦佛陀の象彰とせり。古代シュメールの天文に於ては宇宙の太陽を以て廻る黄道と赤道二点に交差せる一年の春秋に、これ春分・秋分とて四季の暦を計れり。一月より十二月に至るこの黄道と赤道にかかる星を連ねて星座を創りたるは古代シュメールの民こそ、宇宙を以て暦を感得せる先覚の學びに長じたる民なり。北斗七星を神と奉るは古代吾丑寅日本國の星仰祭事なる先端たり。

天明二年八月二日
天内嘉四郎

丑寅日本國抄

古事のしるべは語部を以て末代に歴史の諸事を遺したる丑寅日本國の来歴は偽言に非らざる傳稱なり。倭史を以て是を因證せるは古に非らず。少か二千年に足らざる歷跡にして、神話を入れにして史頭を古きに結ばむとせる木竹継なる作為なり。是れを否し者あらば、權据にて制へたり。抑々吾が國の創めになるは丑寅の方より人祖は来たり。その古きぞ萬年の先なる語部の語印に遺りつるなり。語部とは三種相傳あり。

その一になる語印。二になるは語り継ぎにて、三になるは暦の覚へなり。依て此の三部なる語部の一致にてその實を失ふることなかりけり。先づ語印とは何を以てなせるかは、次なる語印を以て證せるなり。代々にてその語印、改むを見らるるも先づは數の印を先とせり。
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是の如く數印せるは古き代の事なれば、後世に改む數印は、
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と改む。語印にては石置き・木印・縄結・刻印・書印の五種ありて、既記巻に讀むべし。古事を記せしは語部の極秘にて明さず。

寛文二年二月七日
砂力語部
帯川佐市

巡脚之章

春霞立つ奥の山河。人住むる邑々。くまもなく古史の證に巡り、雨雪に隠れ、荒風に仮宿し、夜宿にて綴りたる地民の口傳。亦古き文献を書写仕りたるは、年に馴れにもせしきなり。ときに𡸴岨に登り、波髙き海に舟漕ぎ、濱景を見画せるも労なり。旅は人の情けに、慈愛の感無量なり。尋史の多く寺宿にあるも、亦はたごにて長宿せるも多し。旧家・豪士の大家にては一と月も文献に机筆を長ぜしむありきも、人に障りなき心得以て茲に多くの綴りを得たり。

古き代のこと仮へ取るべくに足らざると思ふる寸話も外らさざる。筆留むなきは後なる史證に開くあり。依て、寸事の故事も除くなかりき。心のままならざるは常乍ら、旅の病ふるは心もとなかりける。何事も銭を先とせる道中にて、三春の飛脚を待ちぼうけ。宿人質になりたる事ぞあり。是れ亦旅ならではの喜憂なり。酒を好むるも馳走にありては何より心慰む樂しみにて、湯浴も亦よけれ。とかくその日の喜憂は宿にありつく事にして、史跡の書得の故に樹下の仮寝も覚悟なり。深山にては常なるも熊の襲ひ・狼の襲ひを防ぎて火を焚く労も暫々たり。山中一軒の貧しき藁家に宿借る労も、はたごに宿せるより銭の費にあるもせんかたなし。

とかく奥の國ぞ貧しきなり。山靼に長路の旅をせしありて、異土の民なる暮しにくらぶれば吾が丑寅の國ほどに貧しけるはなかりき。人情また風土にて格別なるありて、言葉ぞ相通ぜずとも手振り身振りにて相通ぜるもたのもしきあり。此の旅はあといくばくぞ續くからには我等とて先事の謀れざる處なり。何事も三春殿の御指持のままにて次處の旅行を謀るなり。六十餘州はいとも擴けれど、山靼にくらぶれば小國なり。尋史の労は、目に見つ・聞きつ・書きつるの歩行をおこたりてはならざるなり。我等の記せる史の綴り丑寅日本之古史なれば、とかく朝幕藩の障り多く、林子平の如きはことごとく召上られたるあり。不断に用心せり。

寛政四年八月一日
秋田孝季

後言

拙も歳を降り、座に立つ起きもよろぼさぞらひて、あといくばの再筆に耐ふるかや。神に願ひ、佛に賴む日頃なり。

大正元年一月五日
和田末吉

 

制作:F_kikaku