北鑑 第八巻


(明治写本)

書意

本書は東北日本國の古代なる實傳史を諸國に巡りて記せしものなり。依て私にして除抜なく皆編仕りたるもの也。

寛政五年七月二日
秋田孝季

生保内荒覇吐神

仙北郡生保内村に鎭座ましませる神。太郎權現と通稱す。古記に曰はしむれば、靈亀丙辰年、秋田髙清水に来たる倭人あり。駒岳の雪解に神の相あらはると聞きて、その靈峯を此の地に求めきたりぬ。倭人の名を大伴日臣とて、元正帝の勅命にて秋田髙清水に縣主を尋歸路の立寄りなり。日臣、仙北より生保内に至りてぞ、晴天にはかにかき曇り天地を避かんばかりの雷音に塒森と曰ふ林中にしばしの雨の宿りをなしければ、此の森なる山頂より白雲天降り、その雲に一人の神乘じて曰す、

浂、却るべし。強いて嶽に神を慰み見ては、百厄のたたりを蒙むりぬ。我は地の神・荒覇吐太郎なり。

とて雲山の彼方に去りぬ。依て日臣、都に歸りて是くあるを帝に奏上しければ、帝は膽駒の石切神の符を賜りて曰す。

浂、速ぎその地に赴きて、天つ神・國つ神四柱を髙茄茂に造り給へてその神四柱を祀り為し、速やかに鎭座仕るべし、

と勅し給へき。依て日臣かしこまって奉し、玉造にその神像を造らしめたり。先づ天つ神伊冊那岐尊男神・伊冊那美尊女神を造り、地の神素戔男命・咲耶子姫命を造りぬ。その神を奉じて日臣、生保内に赴き、白雲に乘りて降りたる神の塒森の頂きに白木に木皮葺なる社殿を造りて安置しければ、その落慶の日に亦、晴天曇り白雲天降りて、彼の神顯はれて曰うさく、

嫁入行事に非らざれば、倭人の神ぞ安置に及ばず、

とて掌より紫光を放ってこの四神像に當つれば、あれやその像相七変なし、虎に乘ぜし荒覇吐神の女神たり。女神なる使者多く蛇を従いてその亦使者たる白鼠を従へ居り。衣をまとひたる女神たり。不可思儀や、その女神なる神像にわかに實大となり、生気をこもらしめて曰く、

吾れは遠き國にてはハバキ神、亦は西王母。更には白山神。佛の國にてはヤクシー女神。此の國にてはアラ卽天なるイシカ・地なるホノリ・水なるガコを司る神の室神なり。

と曰し、元なる像と相成りきや、こりや亦奇異なり、木造なりきは銅像と相成りたり。更に雲上の神は掌より緑色の光りを當つれば、倭より奉ぜし神ことごとく雲上の神に寄せられ消えたり。去りゆく雲乘の神は却り際に曰さく、

善哉。此の社を荒覇吐太郎權現社と號くべし。

と聲遺し、駒嶽に飛雲は却りける。大伴日臣ただ阿然たり。丑寅には丑寅の神あり、倭神の立入る可に非ず、と大いに悔いたりと曰ふ。是れぞ地の古語なれど、生保内に祀らる神像たるや銅像たるも、前九年之役より後これを外に捨つるあり。中畑利成と曰す安倍一族の武家、これを拾へて東日流中山荒覇吐神社に納め給ひきと曰ふなり。今にして此の宮は四桂神社とて生保内に在りきも、元なる處に非らず。降りて山辺に宮居せり。

寛政五年七月一日
秋田孝季

衣川合戦之談議

陸前迫に築きし長沼柵をして多賀城より北上せる賴義の軍を、軍謀に制せる安倍貞任の先陣に配したるは五百騎にして、もとより本腰の戦に備へたるに非ず。築舘に一千騎そして志波柵に一千二百騎を配したる軍は、源氏の進軍をおくれなやましめたる策謀にして、柵にこもりて戦うなく、武軍は利非らざれば引き、戦に勝算ありては攻めなさしむる進退自在を兵に委したる先陣たり。その先陣にありきは金氏一族にして、源軍は常にその不意を襲はれたり。

安倍軍はのぶせりの群盗に化身し、本陣の多賀城をも源軍留守に襲ふこと暫々にして兵を常に配し置かざるを餘議なくさしたるに、軍列常にして山間なる視界を閉ざすを進まざるを目算にせる安倍軍は、その視界の開けたる迫道・長沼柵に遁垣し、夜半に源軍の夜営陣を襲ふる神出鬼没の奇襲を得手とせる戦法にて、常に軍馬を殺され亦は盗引し更には車輌を荷ごとに盗むるありて、攻めるに當りてはその警戒難儀ことの他大なりと曰ふ。康平五年春、雪解を追へて出陣を謀れるに、反忠せし清原軍との併合ならず。徒らに初夏の五月、鳴子道を清原軍二萬騎を以て古川へと進軍し、その先駆の報せに賴義は天に仰ぐほどに安気をせり。

清原勢は安倍の軍策を手取りに覚りて徒軍を花山に赴かしめ、一迫にて志波柵の安倍軍なる背に忍ばせる徒兵二千人。築舘に一千人を配したり。然るに伊豆沼より来たるは白旗をかかげし源軍耳にて、安倍の軍は紫波柵に築舘に一兵も不在にして、その軍策は既にして清原反忠とて報せは衣川本陣に知れ渡りてもぬけの空たり。よって安倍軍は小松柵に集まり、遂にしてその戦は安倍軍と源軍の激げしき攻防と相成りぬ。此の地は石坂柵とあり何れも難攻不落たり。安倍良照、小松柵にあり。家臣の金氏一族が石坂に防ぐ戦に源氏・清原氏の軍三萬騎はたづろぐばかりにて、その日夜をして戦殉多く屍山を野辺送りにせり。

時に一合戦の間切とて、當時なる戦の習へには休戦の刻ぞ決まりてあり。屍を集むる間、双方ともに戦ふは禁ぜられたり。衣川にありては批把柵に安倍一族な一同將士集りて軍策を激論に達し、その策謀に双論せしは関戦か陣場戦かとの論にして、関戦は退路に窮し陣場戦は長期に保たれざるの二論たり。ともあれ、安倍軍は道のせまきに岩石にて閉ぎ、逆茂木を置え矢杙を以てかしこに固め、川橋を落し源軍の進軍を防ぎける備かしこに施されたり。六月に保たれず小松柵・石坂柵を放棄せし安倍軍は、こぞりて磐井太田川の衣の関を十重の濠・二十重の柵や楯垣に陣を固めけるにや、源軍なにゆいぞ小松の柵なる焼跡に仮陣を動かざりき。衣川にては軍謀未だその決に達せざる處に良照、激怒して曰く、

抑々戦を明日にも迫まりきに、徒らに論に日時を經しはおろかなり。既にして六十人を殉じ奉りしも、吾は敵に當り六百騎を討たり。浂等、去年なる黄海柵・薄衣の柵だけの清原氏が反かざるときになる軍策は今の源軍には通用をしない失策なり。

とて良照が貞任に今迄になる源軍の攻め方謀を教へたり。貞任曰く、

清原が我等に反忠しては冬期にても戦には源軍のやまざる攻手にかまへざるを得ず。さあれ我らの軍謀、清原氏ぞ知られざる軍策に非らざれば、吾らの勝算ありまづく。吾が一族の生死を賭けたる決戦にありきは厨川と決するも、それに至る間の白鳥柵・大麻生柵・四丑柵・背腹柵・鳥海柵あり。更にして黒澤尻柵・鶴脛柵・比与鳥柵・矢巾柵ありては、いづ方も寒入りに至る期に至まで厨川柵に敵を寄せまず。それなる間に於て江刺なる久井餘柵は建固なれば心して敵にかかるべし。

とて貞任が心に襲ふるは、清原一族が源氏に加軍せるの軍謀崩れにその苦慮ぞ、隱せざる惱苦を今にせり。衣川関に迫る源軍がしばらく出陣をためらうは、太田川落合なる衣川関それに迫るるとも束稻山の見告あり。磐井山なる見告に報られては如何なる失態あるやも知らぜる苦慮のありける對策に軍謀を永らいたり。清原氏を先鋒に小松柵を出陣せる源軍は、清原武則の軍案に決して衣川関に總勢八萬騎寄せ行きたり。

寛政二年七月三日
岡村勘十郎

地史抄 一、

安倍氏家衆綴りと曰ふ題なる古文書ありしかど所持せる秋田なる河田己之介、昨年の火事にて焼失せりと曰ふも是を抄書せし亀像山補陀の住僧にて再書の許を得たり。

宗家御家来衆前九年之役殉没供養芳名

日之本將軍安倍貞任御従卆御家来衆

騎將討死
藤原經清
平孝忠
藤原重久
物部維正
藤原經光
藤原正綱
藤原正元
依君命遺言生存者
髙畑越中忠継
菅野左京之介
成瀬正五郎
大髙新之介
田口傳藏
髙橋左京
近野四郎太
稗口直光
千葉祐任
古川鐡之進
徒士討死
佐藤帯刀
小野寺重内
岩田德兵衛
大髙出羽
御以下御従士
落東日流
二千八百七十二人

安倍宗任之従卆家来衆芳名

討死將士
金為行
金則行
金經永
騎將
本田龍之介
藤原業近
藤原賴久
藤原遠久
男鹿實盛
薄衣勝賴
徒士討死
寺田綱家
杉本正造
平將友
木田十郎一光
佐藤家綱
小野清藏
大伴萬太夫
亘理景時
片山彦次
大村専吉

安倍入道良照家来衆

騎將討死
太田川睦介
小松次郎胤長
石坂小次郎
迫三平太
批把守安
津田三郎是賴
麻生清長
白取又十郎
鳥海京之進
徒士討死
金定友
伊藤吉國
江刺忠重
背原虎常
柴波武光
鳥海貞重
鷹巢賴信
東股德永
佐々木賴母
萩野家正

安倍正任御家来衆

將士討死
白川次郎景一
江坂賴重
武田兵庫
矢巾宗則
柴田勇之介
奈良賴母
鳥居与吉
林田友綱
植田彦作
徒士討死
磐井基清
佐々木重信
火内小五郎
津田喜内
瓜田賴母
伊藤大膳
増田兵部
景山信勝
進道早苗
岡村鐡斉
永井佐渡

安倍重任御家来衆

將士討死
田中玄馬
櫻木傳八
飯田玄之丞
菅原賴平
菅原与四郎
菊地重長
渡辺勘九郎
千田光賴
熊谷藤之介
徒士討死
白石數馬
大邑土岐
及川八郎太
鈴木ヶ原討死
千田正直
木村要介
尾形髙景
石川實友
清水正清
吉田多次郎
鎌田光信

安倍家任従卆家来衆

騎士討死
髙倉平内
荒澤一信
西川藤直
小畑利則
吉野兵太
茂木忠重
小林伊織
斉藤小六
兒玉嘉之介
松本忠重
上野吉賴
遠野討死
平野直次
柴畑貞介
中村伊賴
石井友綱
熊谷武尚
金野兵馬
矢巾討死
瀧村榮勝
狩野光清
川端宗重

衣川関安倍氏家来衆

徒士討死
吉野信賴
及川正祐
梅澤基重
鳴海勘藏
桝澤秀實
佐久間廣道
浜清信
遠藤忠重
平野左兵衛
相馬孫四郎
木村泰藏
近藤啓七
米田甚悟
新野留也
髙橋勝家
藁森金次
金田一貞信
大和青覚
竹田玄藏
田澤悟道
精野覚元
批把柵討死
木立佐介
箕井治郎太
進藤宗兵衛
和井内治三郎
久保賴尚
内絹總亥
伊勢三郎
本田作太郎
伊東武尚
秋邑精太
加川与市
梶山光重
河田富雄
金宗五郎
金鐡玄
佐藤小五郎
小枝留吉
千松男
東孫八
田村米作
田景勝
髙森周造
白鳥柵討死
葉山傳右ヱ門
太田馬之介
光村玄太
金与兵衛
平基直
名川武作
大野金右ヱ門
階上幾光
老田多作
山形啓四郎
野田兵吉
坂東物見討死
淺岸忠一
神山龍達
大迫玄太
間兵右衛門
清原太兵衛
木立兵右衛門
金實任
金貞重
松田利介
熊谷尚藏
東茂藤
大麻生柵討死
岡田宗祐
近野弥吉
石川典膳
和賀輝雄
黒川年一
由利景虎
大崎正成
志田春岳
宇野三郎
武藤勇三郎
伊具熊四郎
結城家宗
楢葉龍心
柴山藤太
刈田左衛門
宇田米吉
井沼勘兵衛
國吉作太郎
豊間甚吉
石船松太郎
安積卯之介
蒲原太一
背腹柵討死
加藤祐光
飯坂忠長
松本鐡心
前田覚善
岩瀬藤男
正田尚作
植田豊光
斉藤忠一
木村兵造
小川和郎
鈴木啓藏
花田傳藏
重田稻次郎
金田一佐太郎
佐々木与一
迫周伍郎
塚本虎眼
石原喜一
大髙三郎太
米内山悟道
金磯吉
鳥海柵討死
日本將軍安倍賴良
川辺鐡太郎
伊藤貞宗
音川作兵衛
米倉弥太郎
木田兵助
神居勝九郎
金満介
栗田惣吉
楳原徳尚
矢倉政義
大鳥太次郎
飯塚幸次
浜猿之介
濱舘髙松
川村玄之進
長友兵三郎
阿河藤兵衛
昆野正五郎
宍戸弥吉
元城猛虎
黒澤尻柵討死
爪田武重
樫田兵道
戸澤誠次
仙北勝尚
伊井武藏
岩倉賴茂
菅井辰之進
上原貞藏
三塚鯱武
髙峰三郎
矢川常光
蒔田專藏
前澤与介
飯田豊吉
斉藤幾造
増川眞介
大舘典造
會津藤太
長景數馬
二井源造
飛鳥平内
鶴脛柵討死
近野藤太
田口誠四郎
金澤与三郎
長沼勘兵衛
牛田出雲
清原利介
藤原兼長
今岡次郎吉
久米太左門
伊取早苗
後宮爪女
髙坂賴直
戸来信重
神田矢之介
袋井佐吉
濱田喜兵衛
小澤勘九郎
加川賴光
小澤兵太
小澤虎吉
久井余討死
金川与七
笠井多作
中田兵庫
伊藤忠介
小澤則尚
飯田友美
花岡平太
長井是清
北川兵道
小澤左衛門
本田亥斉
服部重昭
髙遠貞宗
舞草重八
髙梨嘉次郎
安田長政
笹川國政
柿崎正清
天藤三郎
大瀧多次郎
本郷常正
比与鳥柵討死
持田清次郎
和久田元吉
佐井光尚
藤道武宗
川北六兵衛
馬場家一
佐久間元藏
笹川典藏
京塚佐吉
大舘一平
髙嶋丹次郎
加藤吉政
原虎之助
杉田六兵衛
東日流八中
沖田傳藏
伊能光仲
間庭与介
山内兵内
妪柵討死
須郷太郎
生保内玄之介
時田弥九郎
清野孫四郎
猿森福之丞
牛間貞造
大川傳十郎
佐川志昭
細川佐渡
天藤龍達
伊達宗八
来朝政賴
木田清造
増田要助
伊藤佐吉
神田正五郎
前田兵藏
長尾四郎
飯山勝八
栗山甚内
八雲丹次郎
本木兵學
厨川柵討死及自刃
日本將軍安倍厨川太夫貞任
自刃
安倍千代童丸
川崎太郎
安倍小三郎
安倍髙親
討死
相馬源悟
海道實政
宇曽利正清
糠部小平太
景山信義
岩淵藤直
眞門太兵
柴田与吉
金田一政武
与郷佐吉
達田己之吉
神勝太郎
大林良任
瀧川与介
大田直作
飯村豊治
田中宗吉
佐々木松直
杉田彦作
中鴨玄内
本田賴光
由利満祐
加川賴正
宇田辰之進
中畑三郎太
佐久間虎次郎
本西兵太
糠部三郎
糠部武一
糠部与七
糠部次郎太
糠部兵四郎
宇曽利兼政
宇曽利政親
津刈小太郎
生保内次郎
瀧澤玄太
飯沼兼清
新川乙次郎
松尾貞吉
鹿野傳覚
角田清八郎
佐比岐尚武
加川尚吉
西根友國
舞草建藏
佐々木賴親
畠山太郎
三島玄治
平山与吉
中田常五郎
松尾長吉郎
八代寅次郎
安上賴長
行丘四郎
土崎政与
志田友一
山王治右衛門
生田正八
中畑藤吉
飯田瑞昌
三浦兵人
大熊多吉
西川賢作
菊地長賴
中田貞作
長谷丹治
沼井三郎
四丑直政
大川良秀
神政藏
相馬重代
及川友治
千葉兵四郎
田口義清
近野重政
八重垣源藏
東條賴重
宮澤六郎
須賀政吉
伊藤英明
正田金介
元木玄斉
佐藤利介
奥瀬与市
田川利介
出雲賴直
伊藤惣吉
火内悟石
黒川左衛門
中林玄馬
津田源三郎
角舘利衛門
相場善九郎
唐牛四郎太
瓜畑甚作
江田清勝
田川栄吉
和嶋誠四郎
火内直次郎

右芳名之通如件。
補陀寺賽帳

寶暦二年 瑞念記

地史抄 二、

前記前九年役に殉没せる女人武殉者を、茲に補陀寺藏過去帳に以て書写仕り、深くその菩提を念じ奉る也。

前九年之役於安倍軍営、志戦陣中炊事弓箭弦造傷兵看護當役、亦戦場運屆等、其武勇丑寅日本女人之勇猛果断、以若討死奉、茲永世其名書留其供養菩提為以。

衣川邑
ちよ、さき、まさ、きみ、ひさ、たね、とき、ちさ、そと、なよ、かめ、しの、そめ、よし、なか、さよ、たみ、よね、なみ、こよ、かし、とみ、きみえ、しよ、いわ、もよ、つる、こと、かほり、ねこ、さと、こよ、うめ、さくら、たけ、とみ、つね、ゆみ
前澤邑
まき、きさ、たき、みよ、そめ、みどり、さや、やさ、こよ、とよ、ゆり、かや、まつ、そね、あき、くめ、つる、こよ
金ヶ崎邑
ため、たよ、てさ、みね、みさ、つね、そよ、ゆき、さち、ちさ、まさ、とめ、きよ、たか、もよ、りよ
小松邑
かね、いと、さと、かよ、りさ、いと、としえ、まさよ、ちり、みえ、ちさ、すえ、こよ、ねね、もよ、てる、かめ、めご
黒澤尻邑
しよ、はな、まつ、とも、さと、つな、そめ、きぬ、いそ、とき、なみ、とし、いそ、よしえ、たよ、みさ、かや、みね
鳥谷崎村
つた、うた、はぎ、こよ、さよ、くみ、なよ、さわ、りつ、きよ、さくら、いよ、かよ、ちさ
江刺邑
さち、まゆ、そな、きよ、とよ、いま、きな、さわ、とね、きわ、たけ、かき、みさ、たよ、たき、みさ
柴波邑
おこよ、まさみ、きよの、さとみ、もみ、かよ、たみ、しず、としえ、そとめ、まきえ、まさよ、とめ、おこと、さん、かよ、よしえ、いと
四丑邑
こよ、いしの、きくえ、きよの、さき、ふじ、すみ、ふさ、こさ、うめ
武家妻娘於厨川柵
小夜、絹江、津賀、廣枝、鈴江、清美、楓、留理、松虫、玉枝、染奈、美加

右通前九年役殉戦女人如件。

寶暦二年
瑞念記

地史抄 三、

羽後秋田旭川邑に亀像山補陀寺あり。此の寺院は禅道にして、開山二世に萬里小路中納言藤原藤房卿の法名無等良雄大和尚を二世に頂き、御公の墓處を存在なしける。代々安東氏の庇護を授け、秋田城之介國替前なる菩提寺也。亦土崎湊なる湊福寺改め蒼龍寺も然なる處なり。抑々安倍一族をして前九年の役年代にてはこの寺は存在せざれども、安倍氏が代々になる古寺は閉伊なる淨法寺・西法寺あり。亦和賀なる極樂寺そして衣川関なる佛頂寺ありてその菩提をなさしめたりとも、代々安倍氏の墓は存在を秘したり。

その秘處にある菩提を念ぜる處は津輕にして、石塔山荒覇吐神社なり。この聖地に於ては、安倍氏代々に於る實に存在せる墓地あるも、人の足踏む路を造らず。その在所を知る者は奥州津輕飯積邑和田壱岐守の相續人耳に知れるところなり。依て諸々の安倍氏にかかはる一切は和田家耳が知り得て、未だその所在ぞ衆に知曰す者は未だに和田家の以外以て知るべくもなし。依てこの以外に墓あるとせば拝墓なり。御遺體の埋葬あるは石塔山耳なり。秋田なるこの菩提寺に於ても安東氏の墓地はなかりき。皆、秋田城之介實季以前になる墓。是の靈山に密として今に尚永眠せり。

亦秋田家系図に於ても上の系図はこの秘處に藏せりと傳ふ。抑々前九年の役なる十二年の戦に於て破れし一族の秘は固く、今に尚以て人の知處にぞ非らずと茲に断言を仕る也。然るに代々をして吾等が丑寅日本國實史に一点の染むる偽惑はなけれども、世視に謎多く解難なれば茲に吾が安倍一族の秘に證す數多き遺物・遺寶の鍵ぞ固秘に在りとも、そを護るとこそよけれ。世襲の至らば必ず甦りなん。

寶歴戊寅年九月十九日
大光院法印 松野坊

地史抄 四、

抑々世襲の風逆吹く限り丑寅日本は久遠にも甦る陽光の至るまでぞ目覚むる事あらん。康平五年に散り染めし安倍一族の血潮を如何でか誰ぞ悔ゆありや。今にして尚地史さえ藩政讃美の作説に於てをや。ゆるがせならん。三春に辛くも君座を保つたるも、その座はせまくとも、歴史の上に立たずむは、はるかなる山靼のその上の西に極り尚巡る人の脚跡。世はその知られざる未知の國に、吾等の望みぞ叶はしむ世の至らんも迫けり。

人の智は商道に幸いをもたらせむを安東船を以て知らしめたり。商の道は世界に智を求めて得らる何事の手段にも速むる道なり。然るに世襲はその夜明なる一端にも暁を覚へず。未だその道の遠きにあるをくゆがしきなり。安倍一族にして生々流轉の輪廻に逆ふる朝幕の政や民草に何事の益なく、茲に改新蜂起の日の餘感に覚つて茲に筆留むなり。

寛政五年七月
林子平

地史抄 五、

安倍一族の遺跡に求めて尋ぬるとも、その秘にあるは衣川邑なり。今にして草木に埋もれし寒村なれど、密むる遺跡を地に閉ざしめて眠れるを覚す事勿れ。三春藩にては由ありて此の邑を藩許を得て古史の證を地検せんとせるも為らず。以来事隠密に草入れを松本左兵衛に探らせしむも、その探索七年にぞ及びて綴りたる松本手帳ありきも、惜むらくは天明の火事にて焼失しもとの木阿彌となりけるなり。

以来此の地に草入るなく、秋田孝季の聞書にてもさだかなる安倍一族の解に至らざるなり。されば茲に若州羽賀寺に求むる磐井衣川地検書になきか尋ねて調ぶるも、何事の得る事なけんに、秋田なる鑛山採鑛覚書に六行あり、松本記に依る注釋あり。次の如くなる記逑ありき。

衣川に二流ありき。二俣川流の併すを櫻川に落合ふ間を衣川と稱す。右股を登りては木隠舘に至り、左二股を登りては金

とまで書きて断てり。

文化二年五月
川越清也

付記 北鑑第八

要注

此の付記は秘を為せる者也。依て他見無用。世視に及ほし勿れ。

寛政二年六月十八日
孝季

賴良口上 原漢書

吾が一族をして舘な水辺近きに築かしむは、古代に山靼に馬駆くる志旗臺の民に傳へ給ふ兵法の直傳也。要を害とせる山崖の城築きて、是建固と見ゆれども、圍みて長期を保たすは難儀也。依て平地に築くとも柵濠を手抜きては一刻の護りも尚保難し。古き世に稻城とて掘建柱に木戸懸けやむはさ柵を初とせしにや、攻手に弓箭を害して重なる乱に施たるを城と曰し、歳降りては濠を掘り木を伐して掘立柱に木戸張り築くは柵と曰すなんも、攻むる敵ありて是を長期に保たんは難し。

人の智はめくり留るなけん。末世に翼を身に飛行自在、水に潜りて自在。怖しきは雷に優る爆裂の火煙火彈に一刻を以て千兵萬兵を滅するも必ず至る。武の器を得るも人の智能の致し處也。夢は夢ならず、幻ならず。人は月に住み昴の星までも飛行せる世の到る實成の望み叶ふるは必ず當来す。

長暦戊寅歳
賴良

護持玉書 原漢書

國記・天皇記、蝦夷に依て奉り是を護持あらば天權の禍い被ふる事なけんや。石井之王平將門、何をか思いて吾に賜り奉る、至極の惑ふ也。子々孫々是を永代に保つ事の由を奉り、荒覇吐神の御掌に委置給ふこそ。泰平何をか以て破らむ事勿れ。能ぞ御護持給へて日本國の治め末豊けく神なる御裁に神の天秤に安ぜよ。

萬寿甲子歳
賴良

賴良遺言 原漢書

貞任よ悲しむ事ぞ勿れ。今日生、明日に逝くは釋尊とてまぬかれず。浂、我後を継るべし。
宗任。涙いたし事、おことらしくもなかりき。兄者を援け日本國を侵魔に犯さる勿れ。學に長じ智豊なりけるは、おことの天授なる大慶也。
五郎よ。宇曽利の鑛ぞ能く得たり。一族の豊貧、浂の双肩にかかり居候ぞ。山靼漫遊に得たるその智覚を忘るな。
六郎よ。聲いだし泣くべからず。生保内の舘ぞ住きか。人をその病を癒すは誠に神与の事ぞ。叔父良照を親とも想い候てはげめよ。
弥三郎よ。浂は宗任に習へ給へし。此の戦も止むあらば、浂れは白鳥の故郷山靼に參られよ。東日流十三湊におことの弟八郎がやがて成人致し候はば、彼の國彼の智覚を得よ。案じるなきが。
寄れ近く。海にいでよ。皆、海に越え異土に國を擴めよ。我死しても、魂以て浂らを迷を導くによって悲しむ勿れ。相申置く事如件。

天喜丁酉九月十九日
賴良

衣川哀古

滔々と流れる丑寅日本國の大河を北上川と言ふは、作今に非ず。泉の湧水の如く清む處ありて、人はその川面あたりを櫻川と曰ふ。衣川の清流、北上川に花を添へて落合ふ水戸口を稱したる言葉なり。その河岸に平泉と曰ふ古き北都の史跡あり。金色まばゆき大日中尊の寺閣ぞ、今に遺れり。歴史栄あるこのあたり、誰ぞとて旅に立止らざるなし。古にして前九年の役・衣の舘なる合戦ぞ知らざる者のなかりきは、

〽衣の舘は
  ほころびにけり
 年を經し
  糸の乱れの
   苦しさに

康平五年の衣川に源氏・安倍氏の今世に忘れ得ぬ物語。倭人にてこれを遺せしは、茲奥州耳なりき。時流れ人ぞ移り逝きける習へとて、常に絶えざるは、うつつなる現世のいまはしき哉。二十五萬騎が此れなる北都を灰と消したるは忿怒やるかたもなき。草木また繁げれども、元なるは北上川・衣川の落合にも留まらず、歴史の彼方にぞ逝きて歸らず。ただ顯れ消ゆるうたかたに愢び見ゆ耳。

寛政二年五月一日
和田長三郎吉次

再筆之言葉

寄れる歳にぞ益々老眼に惱む。古紙なれば改染に区分を迷い、能く推察に讀むべし。赦し給へとこそ。

末吉

大正元年再筆
和田末吉 印