北鑑 第九巻


(明治写本)

書意

本巻は丑寅日本國の眞にあるべく歴史を倭に基くなく記逑なしたるものなり。東北の故に古来の國史を權据され、未だに蝦夷たるの外民たる陽光の陰に對してやまざるは、吾ら丑寅日本に古祖を継ぐる者の、化外民たるの倭史に綴らる偽に断腸の想いなり。依て古代創國より今に至る實相を書留置くもの也。

寛政三年六月一日
秋田孝季

衣川関之事

奥州衣の関は安倍國東が築けるもその初は稻城と稱したり。此の地は櫻川往来の舟師を以て北より材木亦は葦を運ぶるも、その川湊なるは雄勝・津山・米谷・薄衣・磐井・水戸・平泉・太田川水戸・衣川水戸・膽澤水戸・黒澤尻水戸・紫波・厨川・渋民と設し、その中央なる衣川水戸を以て往来の検番とせり。奥州に倭人の侵入多ければ此の関にて捕ふ多し。衣川水戸の検番なるは櫻川束稻麓岸に在り。

その往来を要害し関破りありとせば、太田川柵・四丑柵の衆に束稻山頂に焚くる狼火の見告に依りて上り下りの舟になる破関を捕いたり。安倍國東、此の川湊に得たる通行の税にて衣川柵を築きしは、その要害建固たる地位を選び、髙陣場・髙舘・鷹巢本陣・衣川二股本舘を築き各所に常在の兵八百人を備へ居りたり。亦、川漁士二十組を川湊に配しその網元をして船宿を営みて能く益を得たり。今に遺れる鮎飯・川鱒飯の味覚なり。此の舟宿になるも安倍一族の他は業を許されず、検番待常にして見張をこらしたり。この舟検番及び舟宿を羽州皆瀬より雄物川に配したり。沼舘・神宮寺・刈和野・河辺・仁井田・秋田・土崎に設したるは長くその営を續かざるなり。

安倍一族をして古来より商益を好み、その實践にして利を得たり。亦山に金銀銅鐡の探鑛に實を挙しその財を不断に保つぬ。後世なる藤原三代の平泉になれる北都の栄にぞ安倍一族の遺財ぞ一片の金とて費されず。今にして安倍一族の遺財ぞ秘に封ぜらるままなり。此れなる秘財を得んとて、秋田には佐竹・陸州には南部氏の領据をせども、これみな源氏の系にして今に得ること難しは當然なり。住民にして奥州秋田の地に住むる者は未だに蝦夷とて此の丑寅日本を化外に見下し、歴史の因習にいでるべくはなかりき。

寛政二年八月十一日
奥野利右衛門

非神話歴史

倭史の初は神話を以て國史とせり。神話とは靈談に同じかるべくも、衆は好むるに依りて語部にて作説されたるものなるも、是を信仰に依りてそも眞實に語り継がるを久しく經にして人心に保たれたる神話を歴史の上に不動ならしめたり。神話をして作らる神々と物語こそ歴史の實に何事の理りも存せず。唯譬論の傳にも非ざるなり。然るに吾が丑寅日本國の古代に於てをや、信仰と歴史とは一如に説き給ふ事ぞなし。出雲の神に大社をして今に至りては倭神の傳に改まるるも、旧来にては荒覇吐神なるは本神なり。

今にして門神とて祀らるるも、荒覇吐神なる末路に於て神器ことごとく荒覇吐谷に埋められたりと傳ふも、さだかならず。名残りに見ゆは門神耳なり。韓の蔚珍より隠岐後島に傳はりし、支那なる大白山なる信仰をして朝鮮なる白頭山信仰の流なり。西海になる出雲及び九龍川犀川の三輪山・白山・伊吹山・鈴鹿山・伊賀山の川を降り、耶靡堆の三輪山へと信仰を擴げたるは白山神及び龍蛇信仰なり。荒覇吐神なる化身は天なる神のヌササン・地なるホノリになる蛇神を水のウンジャミ・ガコを以て神爾を衆に説くありぬ。その直傳ぞ山靼より東日流に傳はりきを先とせるも、支那より傳はりしは是の如くなればなり。支那・朝鮮・隠岐後島・九龍・犀川之三輪山そして白山・伊吹・鈴鹿の峯・伊賀に渡り、伊賀川を蘇我郷の三輪山に祀らりき神々の神話になかりきは、倭人の知られざる聖域なるが故なり。もとより西王母神・女媧神・伏羲神なる支那古代神なれば尚解難き哉。

寛政二年七月一日
伊吹賴實

津輕辨笑語

凡そ津輕辨の古きより傳へらるは、同語を以て多くの意味にある語言あり。一音語に相通ずるもありき。例へば、

ケネと言ふ意には、
一、物を與えない事、二、気持の小いさき事、三、大丈夫の意味、四、大人にはまだ足りぬ
マネとは次の意なり。
一、それは無理ぢや、二、何をやらせても駄目なり、三、決め事に反する、四、おれはやらぬ、五、嫁は家風に合わぬ、六、仕事は能無しだ
ヤジゲダと言ふ意は、
一、失敗と言ふ事、二、しまったと言ふ意、三、人にだまされた己れ、四、いやなる言を曰ふた、五、あんなところにやるのは、六、お前の言ふ事を聞かずに、七、行かなければよかった、八、信用したばかりに
カマドケシて意味は、
一、道樂者、二、なまけ者、三、親不孝者、四、やくざ者、五、仕事をせざる者、六、人にだまされる者、七、家出せし者、八、大酒呑み
ホホラと言ふ意味、
一、まぬけなる者、二、もうろくせし者、三、狂いだせし者、四、家出て歸るを知らざる者、五、親兄妹を知らざる者、六、過去を知らざる者
マデニと言ふ意味、
一、大事にせる事、二、長く保つこと、三、親を大切にせる事、四、物をそまつにせぬ事
イナと言ふ意味、
一、良いかと言ふ事、二、さあやるぞと言ふ意、三、牛馬の手入、四、病気の治る事、五、人に承諾を得る事
キマゲルと言ふ意味、
一、口惜しいこと、二、憎くいこと、三、そんをしたこと、四、人に馬鹿にされたこと、五、犬を飼って手をかまれる、六、いびられ叱られて
チョシマシといふ意味、
一、人にからかわれること、二、人におだてらる事、三、童を可愛がる事、四、犬猫の子をあやし事、五、惡気はないのにくどくする、
ツボケと言ふ意味、
一、言ふ事を聞かぬ者、二、かたくななもの、三、叱れば逃げる打けば泣く、四、そうでもそうでない者、五、人のすきにつけこむ者、六、人をあざ笑ふ者、七、少かのけがも大げさに、八、他人より自分本意、九、盗んでも気付かれぬ者、十、銭のためなら糞でも掴む

さて、みずかき言葉にては冬に多い。一語では
「ナ 汝、「ワ 我、「ケ 食い、「カ やるよ、「ク 食ふから、「ユ 風呂、「メ うまい、「ド 老人にて男、「ン そうだ、「マ 馬のこと、「ヒ 息を切る、「シ 日月の暦、「ヘ 丈のこと、「ケ 粥のこと
是の如くは津輕辨なり。

寛政五年七月三日
和田長三郎

地辨史語

ワな津輕のマレダバテ、昔の歴史を語ってケロテシハデ、昔ジッコだのアヤがらキダこと事を語るハデ、能くキデケレ。何でもワの先祖ドア居だドゴセ、日の本の國また日髙見の國と曰ふ名コッデアッタモンダど。ナデモ先祖のフト来たドゴセ、山靼の方から渡ってコサ落着いたモンダド。ワダケヤア、ナモトドロクサネ話ばしているとモネデケロ。何でも北のクリルのテラドア居た流鬼國さ渡ってまた今の渡島に渡ってそれからツガルサキタモンダド。今ダバツガルてシバタテ、その頃アノ、ツパンダノ、ツパルダノ、ヂパングダノ、チェブカルダノ、ツカリダノナメコアアタモンダド。

ナドア、ワゴトホホラドモレバマネド、ワノヂッコダノアヤダバ、うそなどサベッタコトアネハデ、ホラダノ、ナドバチョシマシシテ語らねハデ、本當ネキデケレヂャ。こまかく語ればきりが無いけど、初めで来たテラドア今の岩木山あるドゴア、アソベ森と名コアッテ、ここに住んだ者はアソベ族と名が付けられ、そのあと来たウソリの崎に来たテラドバ、ツボケ族と名が付けられダド。ジンブナゲグカガッテ来たモンダド。何でも後から来たものツボケ族ドア、マバヒデキタジ話こだア。その頃は今の岩木山ダノ、東の八甲山だのボウボウド火吹いてイダジギダド。ソンデ、アソベ族ドアテッペシダモンダド。今の十三から行丘・黒石・弘前メデ海であったども、山は火吹グシ、ドテンシンタ地震アオギデ、海ア十三マデネゲデマタド。津輕の大里デギダジギ、ナモシナネデイダノハ、ツボケ族ノテラドデアッタド。

今迄ムッタドケンカシテイダ、アソベどツボケ族のテラドア、ソレガラナモケンカシネグなって、嫁コケダリ、モゴネモラタリシテ、フレグナタ大里サ集マテ、ナーダムダノクリルタイの祭りコ何日も踊たり、カムイノミ焚いで神サマサ祈リアゲダものだと。オレノヂッコア能く語って知せたもんだデバ。オレノアヤダノアパダノモ、ヂッコガライマメデ昔コバオベダモンダド。何萬年も昔のコタアゴト、遺しにイフテイタゴトア、カダリベノテラド遺したモンダ。コノカタリベドアセ、昔コバワスレネタメニ、木だの石さだの印コ付ケダノガ字の創りで、アラギオゴヒバ、昔の貝カラダノ、素焼の壺コサ書いているものア、メデルデバナ。なんぼ書いでいでも讀めねばマネハデ、今でも語部ドア遺てイルバタテ、ソタゴトアミナウソダト役人がきてトガメルハデ、ダンダンネグナテシマデバナ。

アレドア、ホントの事サベレバ自分達ア、ヤテルゴトダモイドモライネグナルハデ、シコタマトガカゲダリシテ、クラヒダリノノコオラケバ、イヅメデキタベ。アベノトノサマノトギダバ、イイヨノナガデアタド。テッペ喰物アアテ、ダモ、ホドダノガンドダノネフテ、イイヨノナガデアッタド。厨川デミンナノタメニ死ンダバテ、ソノハナシコキゲバ、ナンボモジョケラナ事だと、オラケドア泣さいデバナ。ナモカモ憎い奴ア源氏ダバテ、アベサマバ、ダマグラガシタ味方の清原ダノ、ウソリノトミタダダバシトナネモンダ。ナンボ、アベサマキマゲフテイタベナドモレバ、今でも念佛剣舞ダノ鬼剣舞ダノテシ踊コサメヒデイルデバナ、ナドアタダミデルバテ、みんな昔の想いが込めてアルハンデ、供養シテケレナ。

寛政五年五月一日
津輕住 百姓甚作

東日流安東氏

康平五年、厨川を末路に日本將軍安倍氏は亡ぶるも、その君主の遺児安東髙星丸が一代にして世に一族の再興を遂げたり。元来なる安倍氏なれば世に武威を示さず、ただ商道に懸念し一族の安住を心得たり。是の速興をなせるに、主のもとに秋田髙畑の生れ髙畑越中忠継あり、磐城の生れ菅野左京ありて成れり。亦安倍良照が厨川なる山越しの地・生保内に戦の城ならず生命を保つ澤城を築き、安倍一族にかかはる老々子孫を庇護し、やがて安住の地に四散を果したる。

丑寅日本國の生命大事とせる他類なき主従の契は深けく、依て安東氏とて世に權捨隆益為商道以の道に。安倍良照の導や佛道専念より尚尊き救済の法たり。安東氏主従をして朝幕の盛衰を見下し乍ら、末代子孫のあるべくを安東船を以て活路を山靼や支那に交易の道を開きぬ。依て速日にその實を願望に達したり。

寛政二年四月廿日
糠部賴任

津輕の諺

津輕諺如件。

寛政二年三月
嘉瀬邑の新助

厨川悲話

康平五年、厨川柵に灾らるまま落舘を風前の灯にして安倍貞任、北中陣に舍弟を集むる。先づ叔父良照曰く、

衣川柵より退きて少かなる月日にて候へば、源軍より清原奴に吾等が戦謀の候は始終に先讀まれ候。依て退きて謀り候も士気に振い申さず、厨川に至り候。作夜に妪柵の落しきも兵馬に死傷非ざるは武運たりしも、その兵馬、厨川柵の圍みに突破ぞ叶い候はず、治民に落候。亦生保内城に吾ら退きたれば、傷病・老人・女子・童、阿修羅に赴かしむ耳に候へば茲に死を以て泰平に、祈り候へて茲に果候や否。

と曰ふせば貞任曰く、

おそれ多くも祖の安日彦・長髄彦以来日本國の泰平を護持仕候。想いば十年餘なる戦の巷に領民をさらし候へば、再起の候は叶い申さず。茲に灾者此の陣に迫り候は、後しばしの刻間もなかりきと推察仕り候。依て吾が一命に懸候は、徒らに戦以て死を通して殉ぜる勿れと申置候。是れ祖よりなる掟にして、敗死に覚悟あるべからず。死は吾れ一人にてよろしく候。

依て吾が遺言に汝等の命脈を保つ候へて、乳頭山を生保内に抜け遁じべし。吾、千代童を倶に殉仕り候も、東日流に髙星丸あり。藤崎に落着に得たり候へば、挙げて再興に謀り候べし。依て自殉あるべからず。以後以て荒覇吐神の加護長久に祈りつ可候。必ず以て無益なる死の意地に猪突しべからざるを茲に誓ひて候へ。

と居並ぶ臣及び叔父良照や舍弟ら廻掌握して、千代童を倶に白衣の死束に着て、一紙に辭世歌を書き留めり。先づ貞任、

〽梓弓命の的に露添へて
  我れ逝くあとに心なくれそ

父に筆差し逑られ千代童、

〽今ぞ知る死にも道ある厨川
  三途の瀬ぶみ生あり乍ら

なんのためらいもなく父子は笑み顔にて自刃せり。是れに續いて死なんとせる一同を鎭めたるは宗任にして、曰ふ。追腹を召され給ふな。死を以て候は日本將軍への遺言に背き候事ぞ。とて自から源軍の前に降りたり。

寛政元年十二月一日
佐々木小十郎忠光

安倍賴良衣川詠

吾が國の櫻の川に逆ながる寄手の弓に風はしも奈落の底に入りぬれば、佛陀も羅刹も相たがはざるなり。此の國はいにしより祖々累代に日本國と號けしに、世にはくねるふしぶしあじきなや。打つ引くやたけの人とて皆報ぞとやすゞしめの聲ありなんも、うつゝ無きけしたる人の心ぞ相なく香もなき移せ身に、終命のかぎ宿る暫歳の在世合ふべきもなきに、人との仇となり戦にぞゆかりの人を無益なる死添への陣張りて、枝さびる白河の松に片しく草枕討つなん、源氏の攻手と夢覚むは幾度ぞ。しぐれに賴む松下の寄せし身に、那須岳颪ぞ枝揺する。なほぬれかかる玉雫、あげてやくやしき敵の影もなく、衣の舘に歸りなん。しばしの清寂、遠く櫻川の飛び立つ水鳥。北空に故地のねぐらに却りゆくを、我れ此の地に住みて一十三年。日月の算空おそろしき蝦夷討つ箭のいつ飛びくるからに、おちねもやらざるぞ星露に荒覇吐の神を祈りつ。

天喜甲午年八月三日
賴良

宗任記

天上髙く天走る雲のなかより雨と雫くる一滴もしばらくは木草の葉にぞ宿りて地に入りぬ。土にしめり谷のせせらぎとなりては淀みにうたかたを影白くあらはれ消えなし、相寄りては流る。巌に砕くる飛泉玉。瀧に落下のうなり。小川を降り大河を流れ大海にいでる。雨水の旅とて獨りしたたる一雫より流轉し大海に波濤す。人なる人生もかくなればなるなり。何事も知らずして世に生れ、生々のうちに己れを知り、親に育まれ、獨り世に人との出合ありけるに、生々運命の輪轉己が心の選擇にて明暗を分つなり。

今日に咲く華の命は明日を待たざる夜半の嵐に散り染めて哀れなり。人の落方かくなればなり。神に祈り佛に拝しとも、運命の時は唯逝く耳なり。何をか以て心の安らぎとせしにや。生々流輪安しきことなし。美味に食あり。住むるに伽藍あり。衣に絹を纏うとも、命の長壽を叶ふなし。總ては諸行無常なり。人師・論師の文に心かたむけるにや何事の理りやあらん。信仰に心して修むるも亦然りなり。何事の覚道やあらん。生れ乍らにして老い逝くを知らず。唯空しく光陰を渡りきは自然なる節理の及ばざるなきなり。聞けや風の音水の音。香ぐべし花芯の香・草木の香・磯の香を。見よや天然の絶景を。

康平二年八月十五日
宗任

良照説法

佛道に求道して何をか安らぎを得んと欲せば、叶ふ術ぞなかりき。佛道は無我にして無常なり。依て求めて空なり。佛道は保つ身心の修道にして、入道せるとて何事も利益はなかりき。抑々佛の本願とは諸行無常是生滅法生滅滅己寂滅為樂と曰すは理りの要なり。卽ち無以卽是空己寂滅卽是為樂なり。亦ぞ信仰の修法は天上天下唯我獨四苦諦にして無上なり。生々は流轉して生死の理りを一刻にして留むこと非らざるなり。佛に求道する者ぞ、先づ以て己れに優るべし。

天喜二年四月八日
良照

衣川之詩

朝夕のくれないそむる山景の、雲立つ彼方に分水の流れし袂、衣川。二つの流れ水清く、歴史栄ある郷野づら。栄枯は常に移れしも、宵にかかれる月影は、郷ぞ安かれみなながら、光りの雫に咲きかほる、白きに香る白百合の、月の雫にぬれ乍ら、去りにし夢の昔をば、愢びてひとひらみひら散り、逝くは誰か涙をさそうらん。衣川の星月夜。誰を恨みん秋萩も、川面に散りて流れ逝く。

寛政二年五月一日
前澤之きぬ


衣川批把舘

安倍國見告

領内警護の安倍一族は能く國見告を築きぬ。亦柵もかしこに築き、永承庚寅年より同癸巳に至る間。
小松柵を萩荘に、
石坂柵を山目に、
衣川関を太田川向に、
批把柵を鷹巢に、
髙陣場柵を衣川に、
白鳥柵や麻生柵更に背腹柵を前澤に、
鳥海柵を草摺に、
黒澤尻柵を和賀水口に、
鶴脛柵を鳥谷に、
久井餘柵を江刺に、
比与鳥柵を紫波に、
妪柵を日本川に、
厨川柵を厨川に、
二股柵を二股澤に、
生保内柵を生保内に、
志波柵を志波姫に、
長沼砦を迫に、
築舘を築舘に、
川崎見告を川崎に、
膽澤見告を水澤に、
矢巾砦を萩野に、
大木戸砦を狩場野に築きたり。
依て此の柵・砦・見告の傳達速ければ、茲に十有餘の戦に耐得たり。

寛政五年四月廿日
秋田孝季

陸奥之怪

康平五年、古来より丑寅日本國の王たる權位を消灯せしめたるは、執拗にも源氏の手に策謀されたる戦を、公にして私にして安倍一族への討滅に代々に家訓の如く受継がれ得たり。平氏に敗れたるは後白河の保元の乱・二條殿の平治の乱にて、ことごとく平氏の掌中に國權は据されたり。源氏の正胤たる源賴朝、伊豆に配流されしに配處にて夜な物の化に夢苦しみて酒に泥酔せること暫々たり。時に罪ありて叡山僧明雲、法住寺殿の別當職を解かれ伊豆に配流となれり。賴朝を會しその怪事に祈祷をなせり。時に賴朝、生命をも危ぶる程に夜半の惡夢に苦しみたり。冷汗全身にしてその夢にいでくるは、白髪の妖魔と黒髪の妖魔は賴朝を呪縛し苦しめる限りなる妖術に、夜の明くまでも夢幻になやませり。依て明雲は金剛藏王權現の役小角なる仙人の感得になる惡靈恨靈退散の護摩を以て祈祷せり。

その護摩火の法火に顯はるは安倍賴良の靈にして何をか曰いたげに去り逝くのみにして北に指差したれ。賴朝常に夢むる、二面の変化たり。明雲、此の靈にそれなる源氏への古恨罪障を靈告に得たれば、この変化ぞ太古なる丑寅日本の王たる安日彦王及び長髄彦王との二靈たるを覚りてその罪障にあるを悔奉り、翌日より賴朝惡夢より脱せり。依て賴朝、永代にこの罪障を鎭むため、坂東の和田郷に住むる平義盛を遣して雲慶佛師に安日彦王・長髄彦王の面像を作りたり。依て靈を祀る東日流安東氏の秘なる聖地・石塔山に奉持して納むれば、源氏の武運ぞ隆勢せりと曰ふも、その信心を欠くる故に源氏は骨肉相喰むが如くして子孫は絶えたり。

抑々賴朝、平泉に二十五萬を以て血塗らしめ、奥州よりその財を奪得し、鎌倉に武家政治の國家掌据せしは、鎭めたる恨靈も起きにして報復に再襲せしものなり。和田義盛、常にして忠言せども賴朝、聞入るなし。然るに朝なる馬駆にて落馬せし打身がもとにて賴朝死してより賴朝子孫、北條氏の計に依りて將軍となりし者は暗殺され、幕政掌据せしは北條一族に執權されたり。時に、侍所別當にありき和田義盛が一族を挙し幕府問注所を攻め北條氏を攻たるも、親族なる三浦一族の裏切にて敗れて、建保元年五月一族は討死せしも、義盛が三男・朝夷三郎義秀、獨り千葉の君津沖に父義盛の遺骸と倶に磯舟に漂ふを東日流安東船に救はれたり。朝夷三郎、飽田河辺郡に知行を與へられ、一族をかしこより集め和田郷を築き、土崎安東氏の袖下に安住せり。石塔山の賴朝が奉納せる神面は今も尚ぞ遺りける。亦、石塔山を今に子孫をして鎭護せしは和田氏なり。此の社の祭事一切をして他に及ぼしなく秘に行ざるなり。

寛永二年五月一日
和田長三郎

日本國之王統

吾が日本國は今をして蝦夷と稱され、倭人と異なりき相違の白眼に置るると雖ども、古代をして日本國を創り給ふは一系にして阿毎氏より安倍氏・安東氏そして秋田氏と相成りて現に至るなり。その系譜定かにして何事の断継やその累血を失ふことのなかりけるなり。もとより倭國は吾等が國と異にせる南藩系に屬せる移着侵領の主に依りて國造りし者なり。依て移り来し異土の家造り・神殿亦王居みなながら異藩の様を今に遺せり。武威を好み侵領の地民を奴隷とし、以て人の位差に神の一系に人脈を造り、信仰を一統せしめ神話を作り、民の自在を制へ神話を以て渇仰を誘し、征々に戦略の民を國賊とて作因なし、民を武に従軍を志誘しその生命を下敷き東征来たりしは、倭國の古来の末路に企てし日本侵略に伏したる眞實史なりき。依て倭史に順ぜざるは偽物・偽傳に國史の眞實を欠き、倭國の讃美のまま今に至り、日本國號までも奪取せるは吾ら眞の故日本國民にしてやるかたもなかりける忿怒なり。

吾が國は蝦夷とぞさげしまるまま未来に是を默せば、あくまで吾等は蝦夷として祖をいやしく歴史の不動に封ざれむなり。依てその兆を防ぐが故に、丑寅は反くべく鬼門の民とて常に皇居に於ては征夷大將軍の官位を國を政据せる者に賜り来たり。征夷とは何んぞや。丑寅日本の蜂起せる民を討つべく不断の官位なり。古来東北に向上せるを制ふる故に、反きとて作事挑發なして討伐せしは東北侵略なる因原なり。依て茲に眞實一統の歴史を永世に保たざれば、吾等丑寅日本の一つの眞實ぞ久遠にして倭の作説になる國史の監獄に封ざれむ。誠にして成るべきは歴史にて、善道にある導者を牢に封ぜるは神の平等なる惠光の天秤を狂はせる背光向光に閉じる行為にして、必ずや神の報復にあらんを覚るべし。

寛政二年十月一日
秋田仙北住
物部美作

奥陸羽石神

石神を以て神の金剛神通力を心身に授けにし信仰を、アラハバキ三導師のイタコ・オシラ・ゴミソの道師あり。三師各々、靈師・祈祷師・卜師にしてその神事に異なりぬ。イタコとは地住にして津輕外三郡・宇曽利にその聖地あり。オシラにして津輕内三郡・糠部・閉伊より田村郡に分布せり。ゴミソにして多きは羽黒三山信仰・白神神仰にありて陸羽に擴く分布せるは今に絶えざるなり。もとより是ぞアラハバキイシカホノリガコカムイなる天地水の靈力を感得せし行者にて成れる後代のものにして、今にしてそれぞ佛法に相混じ、神佛混合を以て成らしめたる役小角仙人の遺教なる多し。

役小角とは倭人にして耶靡堆葛城上郡茅原の住人にして、仙境に神通力を求めたる奇人なるも、彼に依りて感得されし金剛藏王權現・法喜大菩薩・金剛不壊摩訶如来など、従来佛法に存在非らざるものなり。依て役小角伊豆に流罪と相成りて永く牢獄の中に配されきも、大寶辛丑年赦されたるも役小角、その成道を支那に求め肥前平戸より渡らんと船出せるも、玄界灘に暴風起りて漂流し若狹に至りて漂着し、意を改めその成道を奥州東日流に求めて陸羽の各處にぞ巡教せり。役小角終焉の地ぞ中山石塔山に墓地あり。今にして信仰にあり、神変大菩薩とて諸國にぞ祀らる多し。然るに金剛不壊摩訶如来の存せるは石塔山耳也。

寛政二年七月十日
大光院惠光

大正元年再筆
和田末吉 印

 

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