北鑑 第十巻


(明治写本)

序意

此の書は諸國巡脚を以て地の古老に聞きて古事来歴を綴りたる記逑なり。依て倭史に欠くる史談多く存在せるとも眞實の史談を求めての集史なれば、徒らにして是を疑感を私にして疑に除くべからず。能く史證に究して讀得しべきなり。要に丑寅日本史の根元は倭書に得る事難ければ、我等遺跡巡見の記逑労々も亦後世に報はれむを以て如件。

寛政三年正月
秋田孝季

史原之山靼

古来より倭人交りなき山靼をして吾が東北なる丑寅日本國に於てその得ること多様なり。山を西に紅毛人の山靼國ありて、是をオリエントの國と曰ふなり。抑々吾が丑寅日本國の人祖をして山靼に故をなせる大事あり。知らず今にして傳統にあるべく諸事の習風にその實を遺せり。人の智的分布の渡りは山靼をして、丑寅日本之故事を得る事難く一日の行事萬端にして施労の様々に遺るを、言葉に信仰に亦その暮しになる諸事にこそ古代の遺る残映ありき。先は馬を飼ふる人々の名付けたる一切の語言の基は山靼にして、唄も亦然る處なり。世の移り年越ゆこと千年二千年の古事に過ぐるとも、吾が祖累の血脈は子孫生命を今に継がしめ来りぬ。南北に日本之國は天の候に異りその住地にて生々風土に適生し衣食住の差異にあれども、信仰に於てはその異りに欠くるなし。

吾等丑寅日本に在りては古事にして歴史の深々無量なり。その古事を求めにして茲に老中田沼殿の公用を以て山靼を旅に記逑を得たるは甚々にして史證に光明を得たれり。渡島を流鬼に渡り、黒龍水戸の海峽を渡りては遠々たる陸にて續くる幾萬里の大陸なり。卽ち山靼なり。蛟を避て黒龍を逆漕ぐる舟族のウデゲ族の案内にてチタにたどり、人ぞ住まざる地名に吾が故地の名にある地稱ありけるに驚きぬ。古事にしてアルタイの騎馬民、至る民族の往来ぞ易く叶ふは陸に續くる故なり。今は明國なれども此の地に住むるモンゴル族は元國を起したる大史に遺るあり。

その遺風ぞ馬飼に、またアルタイ騎馬術、諸族の集まれるクリルタイありてその契を結ぶるさま、時代を越えにして今に尚遺れり。ブルハンとてブリヤート族の神あり。水神にして亦龍神なり。バイカルの湖水を神體と奉り東にヤブロノイ山、西にサヤン山、北にヤクート族の國をして倶にブルハン神を拝しぬ。西南に天山なるイシク湖にたどりて西王母の故事傳説を地老キルギス族に聞く。カザック族なる國はアラル内海・裏海をして黒海に古事シキタイの歴史あり。ギリシア神ヘラクレス神を祖先と崇むる國なり。ヘレスホントス海峽をエーゲ海に船を抜くるや、此の海に岸を波打たむ國々あり。トラキア・リュデイア・イオニア・マケドニア・テッサリア・ペロポネソスありてその古戦場に物語多し。

サラミス戦・ブラタイア戦・マラトン戦・テルモピュライ戦・ヒサリック戦・ノテイオン戦・アルキノサイ戦・キュノセマ戦・アイゴスポモタイ戦跡ありきも、求むるはギリシアなるオリンポスの山及びアテネなる神殿・エジプトなる石神神殿にて、その旅人なる路程ぞシュメール國のチグリス及びユーフラテス沿岸なる廢都なり。それなるをジグラットと稱し、今にして風砂の埋む往古の跡なり。世に農耕を遺し文字を遺し、住むマデフーを遺し、遠く吾が國に至るアラ・ハバキ神の國なり。國神とてギルガメシュ王の感得になる神にて、旅に半年の歳月に及べり。

今にして古代なるは移り、古代シュメールの遺風ぞペルシア・トルコ・ギリシア・エジプト・ローマに至る古代オリエントの祖縁に遺しける耳にて、六千年の古事ぞ瀝聖の丘に望むるも代々のおぞましく、歸路に天竺・支那の西域を巡りて歸郷の途に巡誌の帳を書留たり。

寛政七年
秋田孝季

萬世クリルタイ

如何なる小數にあるとも山靼に於てクリルタイの參議を以て民族相互なる交りあり。賊に侵害あらば是を地の果までに探討の契ありぬ。渡島之住民ぞクリル族に屬しければ、流鬼・千島に分住者皆一族の契をなせり。アムル大河を對岸にして南北の住民相集ふるもクリルタイと曰ふなり。

太古にして毎年夏に集ふるクリルタイの祭りに興ぜるは唄・踊・神祈及び占をして七日七夜をウスリー・ヘイロン・カルケン・シルカ・セレンゲ・バイカル・セレゲコツン・ザイザン・バルハシ・インタの各所遠くひだつれば、事情にて行かざるもその議に定まるを各處なるクリルタイに報ざらるなり。渡島民族にてはアムールクリルタイに參上せり。集ふ民族コリヤーク族・ヤクート族・オロチョン族・ウデゲ族・クリル族なり。持寄なる市ありて物交し、祭期のうちにて他族との縁婚もありけるに、語に通ぜるはクリール・モンゴル語ぞ多し。

寛政三年十月廿日
エカシオテマ

ムハンマドの事

イスラムの教祖たるマホメットをムハンマドと稱す。彼の預言に一神教たるイスラムを説き、アラビアに廣く流布されたり。メッカにカーバ神殿の三百六十躯の神像を壊し、此の地を聖地とし、彼の説ける聖典コーランに綴らる大要は、眞理がきたり虚偽は亡びぬと宣し、アッラーは一神にして他非ざるなりと曰ふ。

寛政三年七月一日
和田長三郎

荒覇吐神抄

陽は落ぬる夜の大空。宇宙を走る天の川。秋夏冬春にめぐる星座の十二連。北斗の卍にめぐる宇宙の軸星。蒼き昴の光り。壮大なる宇宙の相、古来より求めてやまざるは神秘の宇宙たり。西山靼の古代シュメールの人々は、究むる日輪の軌道に黄道と赤道に年二回の接点に立秋・立春と太陽暦を覚り、一年を十二星座に年の運行を覚りたるは古代シュメール民族なり。

初代王ギルガメシュ王が宇宙に天駆る獅子座を天なる神イシカと號け、宇宙の陰陽にめぐる光りと熱と冷暗は母なる大地の胎に萬物の生命を水を以て蘇生なさしめ人の誕生しけるをアラ・ハバキ卽ち父母神とて感得し、その神子なるルガル神ぞ人の生命を司る神とて信仰の基を創れり。言語を末代に遺すがために土版に押印せる語り文字をして子孫への導きとせる學道の創むる國、また農耕を創むる國たり。卽ち我等が祖なる古人は、未に狩猟・漁撈にありき六千年前の事なり。人に信仰なく、ただ日々の糧に耳喜憂し、狩猟に窮せば餓死ある耳たり。アラハバキ神とは天を父とし大地を母として、水を父母なる賜命の寶とせり。

かくも古けき信仰をば授け入れきは丑寅日本國なる祖人なり。天なるイシカ・地なるホノリ・水なるガコを以て全能なる神とせり。抑々、吾國は西に倭國ありて。西南に熊襲住み東北に蝦夷の住むる永代の賊あり是を討てしやまむと、先住の民を人とて交りを欠きただ殺伐の侵領に血命をさらし、自讃他暴なる討伐の他、人の道・人の命を輕んずるの他ただ侵略を以て略奪せる、西山靼の古事にも似たる征者にて倭國は成れり。ときに吾等が丑寅日本國にては、北に開化の道あり安住の地ありとて、永く氷雪の神に護られき。人との睦大事とし、人の生々に神は平等なり。神をして人の上に人を造らず、亦人の下に人を造り給ふなし。とてこれを掟として今に授継がるなり。山靼に世襲の智覚を求め、その智者達の歸化に習ふる西山靼の古代信仰はかくして渡りきぬ。

寛政三年八月一日
マツオマナイエカシ口説
オショロケン

黒龍之流氷

渡島の北方に流鬼國より流れ寄る流氷あり。是を倶に渡り来る尾白鷲・白狐・白梟あり氷底に群ぐ魚ありて、古代より白神としてエカシは海濱にイチャルバを設けぬ。これなるヌササンにイナウを献げ給ふてウンジャミを行じ一年の運勢を祈り、神贄にを供へ奉りカムイノミを焚けり。オテナ、海氷の呼鳴を聞きて此の一年を神告とす。尾白鷲・白狐・白梟・白鳥を神なる使者として供餌を施しぬ。女人の唄ばやしになる意味にては、天然の出来事にして卽稀なり。是を行じたる後にては海開の氷ぞ海流にぞ去りなん。

寛政五年四月
秋田孝季

解紅毛人智覚

ギルガメシュ王なる神の聖典に曰はしむる世の創は、時なく唯暗黒と冷に何事の物質もこれなく、暗と暗との重なりなる一点に一光の無限界に光誕密度を起爆せる大炎熱魂起りぬ。これを名付けてアラと曰ふ神ぞ宇宙に誕生せる光熱の一瞬なり。光熱あまねく宇宙の暗を固めヘイデイーズに無為より有為の動化を以て宇宙に百千萬億の星界を創りぬ。その量質にては空間の宇宙を暗なる重力にてその暗を抜き、星々を造りたりと曰う。

宇宙は果しなく暗黒に連なりその暗黒に光あたふれば恒星・惑星の他、宇宙塵より尚星の誕生ありて相満たり。星間に結びて星坐を號し神々の相を想應し、神星のもとに生るるをジョウブと曰いり。古代シュメールに創りたる天文の學よりギリシアに至りて傳ふる天文の智覚にては、更に多様なる傳説・神話ぞ世に遺りぬ。宇宙に太陽主神とせるもの。亦、北斗の星座及び昴の如き星々の神に譬喩せるものぞ神話に満たり。

寛政三年五月三日
秋田孝季

荒覇吐神抄

古来より人の暮しに信仰を以て安らぐは、今に於ぞ尚續くるさまなり。丑寅に日本國たる國造り起りその一統に治め得たるは信仰に依りて成りたる多し。人心は常にして富満れば權据を更に欲し、貧しければ横暴に乱る。故にその心を鎭むるは信仰なり。古来より荒覇吐神なる信仰に於ては神への誓あり。

是の如き十二條に以て不断の心得とせり。然るにや佛道・倭神の入りてより、旧来なる神司にあるイタコ・オシラ・ゴミソの神行にその障りありて徒らに迷信の及ぶあり。

寛政三年六月廿日
秋田孝季

轉流改新

流轉の世は人智のままに信仰とて崇拝の改新に至るべく、時の至るるを想ふべし。吾が國は古来傳統の祖拝になる信仰を世襲の權据に制せらるまま、荒覇吐神は客神・門神・客大明神・門客神などに本宮をいだされ、社遇の一端に押さるあり。また門の左右にぞ祠らるあり。くしくも未だ本宮に鎭せる社處ぞ在りけるも、荒覇吐神なる本旨の元来なるを知るべくもなし。

社殿・佛寺の人の盡くせる壮厳なる境内にかまふる、金銭を先とせる信仰に説かれるまゝに己れの散財を以て求道に専念せるは誠に以て神佛への求道たるや否疑しきものなり。人心に密むる見栄慾に人師論師のたくみなる説法あらば智愚の衆、身心にその護持を得んと欲す。神社・佛閣の壮大にその權を不動とせるは信仰に何事の益ありや。衆は智に及びては、貧草生ゆる廢處とならむなり。佛説・神話にある總ては後作ぞ多く、祖師の想はざる處なり。信仰は、衆を平等に攝取せざるものなれば求道の誠に何事の益や非ざるなり。

寛政三年五月一日
秋田孝季

衣川愢史

平良將膽澤在國府、四衆為鉾起制、茲築衣川櫻川落合柵関防人之、指揮固健護。時元慶辛丑年六月廿日、是為落慶、良將父君髙望王之三男、其幕下地方豪族四丑左玄太・岩耶直胤・磐井貞光・金永壽・猿澤景時等、自奥州日本將軍安倍國東之依許駐此地。時安倍國東、在磐城矢吹舘遠本舘黒澤尻。平良將招自領、倭朝交國益以常地豪者配倭官之、四辺其一切挙動隠密。依良將其任仁和戊申年二期果重任、歸坂東武藏石井郷。

延長甲申年、再度膽澤任官受朝命。是不赴事叶無詮赴多賀城、是卽日本將軍安倍國東故許諾不為也。時奥州之世襲駐徒税貢之砂太、皇化防人兆羽州、是從其倭官人遂飽田檜山郷駐領。由茲安倍國東、自磐城歸衣川大舘、火内仙北中仙厨川紫羽稗貫和賀江刺膽澤衣川磐井薄衣黄海鳴瀬配家、臣各々築柵、是為日本十三驛城。此域在倭人追放、自渡島大勢地民募入警護、加之主城為衣川卽衣川柵創也。

天永庚寅歳年日
物部兼長

衣川築柵縄張

衣川本舘は衣川落合双股に本陣せり。柵八重にして空濠・水濠方四面に三重となし、その犬走り十間各々間を隔つぬ。一面六丁の外四方にして逆茂木・逆杭を施し健固たり。四方に見告あり髙陣場・束稻山・舞澤台・長坂台に築き、関柵を太田川・磐井川に二重張りぬ。本城に道を迷路に施しその支城八方に築きぬ。衣川落合柵・櫻川舟場・佛頂山髙舘・束稻坂・磐井川口・松川口・西磐井川口・黄海川口らを楯垣としその布陣密にして探り難し。

安倍一族の軍策とてその域を廣きたるも、味方に戦殉あるべからじとぞ攻退く両得なる計に依れるものなり。日本將軍安倍國東が創むる城策縄張りぞ、山靼なる武術より地形・地物を以て要害とせり。犬を飼ふは各戸にて、馬を各戸に二頭乃至十頭を飼ふは一族の各戸事情に割當されたり。箭工師・藥師・軸輪師・鞍造・鍛治・弓張師・飲炊造・杣夫及び大工、各々古来よりの岐ありて配せりと曰ふ。

天和壬戌年月日
衣川邑之住
小野寺与吉

日本將軍安倍安國

大祖邪靡堆國蘇我郷安日彦王、舍弟膽駒郷白谷長髄彦王を以て流胤す。亦、大根子彦王の系安倍大毘古之胤安倍継人を累血し、奥州日和田に君座を置きける後、坂東武藏に移り江戸金井に住みて坂東八州を治領す。依て彼の名を坂東國治亦武藏安國、更に通稱されしは日本將軍日髙見王とも稱されぬ。自からは丑寅安國と稱し亦は越王安國とも稱したり。卽ち安國の遠祖は阿毎氏と稱し、邪靡堆に移り犀川の三輪山を神とせる故に明日香山を三輪と改めその地の磯城及び蘇我箸香を据領し、その子孫にして倭の葛城氏・巨勢氏・和珥氏・平群氏・天皇氏・紀氏らなる地豪の一に入りて、安日彦王の北落に從はざる一系に於ては蘇我氏とて遺りぬ。

安國は丑寅を日本國と祖稱せるその堺を坂東の天龍川より諏訪を中境とし、糸魚川に至る以北を日髙見の境とてその實勢を挙げたり。ときに二股落合に藁科稻城を築き是を安倍川舘とて君座しける。更に日本奥舘とて築きしは衣川にして是を日髙見川舘とて往来す。安國に子々多ければその孫々今にして坂東及び越・濃・遠各州に遺ぬ。福田氏・豊田氏・磐田氏・木田氏・水窪氏・新野氏・秋葉氏・平岡氏・松川氏・生田氏・喬木氏・川路氏・中川氏・飯島氏・宮田氏・池田氏・豊科氏・大町氏・小谷氏・八坂氏らをして直系の子孫と曰ふなり。國を擴めたる安國の世は實に遠き世の古きにあり。今は語部の言に曰はしむる便りに他ならず。凡そ支那年號にして泰始庚戌年なりと曰ふ。

安永甲午年月日
稻葉忠祐

安倍六郎之事

通稱北浦六郎が事なり。日本將軍安倍賴良之六男。幼名石尊丸。成人して仙北生保内に叔父良照が築きし生保内城を後継す。六郎、十六歳のみぎり山靼に渡り本草の藥學を修得し、その藥草を飽田生保内に採りて一族の病疫を救いたり。依て地湧ける玉川なる湯泉に相加へける不老長壽之身體強健たる生保内仙草藥を感得せり。その秘藥ぞ鹿・熊・地生草に土蜂の適合せし丸藥にて、一粒を以て萬病を退散せし効能あり。生保内城はその製藥に多忙たり。人は是を萬能丸と稱し生命を保つ秘藥とてその製法を密とし、亦是に用ゆべく採草の類を秘とせり。今に傳ふるはなけれども、是を秘傳とせるは糠部にありと曰ふ風聞あり。

寛政三年十月二日
秋田孝季

鳶尾之琴

大古の話傳なり。仙北生保内之郷になりませる山神あり。常に山の峰に住在し、峰を渡りて琴を彈きける神にして、この音を聞ける者は百歳餘の命脈を保つと曰ふ。依てこの地を生保内と號けたりと曰ふ。卽ち生は生命にして、保は長壽の意にて、内とは地の様なり。是れ卽ち生命を保つ澤と曰ふ意なり。此の神能く唄を好みて郷に降り、その地に聲よしき老若男女を問はず山峯の己が住殿に神隠しとして連れ来り、鳶尾の琴を造らしめ神唄を傳へけむ。然るに神なる住殿に一日を宿ると思いきは十年の歳月にして、郷に歸り来ては己が知るべの者は白髪の老人たり。然れども己れ耳は神隠時のままなる若きにありて、郷人これを仙人と稱したり。駒岳の雪解に残る山湲の雪ぞこの琴弾きの神姿顯ると曰ふも、旧月十三月なるうる年耳なりと曰ふ。此の神の名は荒羽吐神にて、鳶尾之琴神と稱し、藝の神にて諸國藝人能く生保内に參詣せる人ぞ多し。

寛政三年七月三日
秋田孝季

大山神之事

陸州五葉山に天降れる唐舟に飛来せし大山神あり。仙人峠を經にして早池峯山・姫神山・七時雨山・中岳・十和田湖より櫛峰山・東日流石塔山・大倉山・四瀧山を越えにして飛龍より海を越え、渡島なる大千軒岳より遊樂部岳を經て狩場山より海を越えにして山靼に飛行せる神々凡そ十二柱なりと曰ふ。この飛行になる在山山峯にては南東より西北に一線なり。大古なる石神ぞこの線に添ふて巨なる石神を遺し、これを荒覇吐天道と稱せり。この天道下にある石神に石門・續石・笠石・石塔ら數々に存在し、古来安倍一族の信仰を得たり。今にして尚地民の信仰ありて盛んなりきも、古来なる信仰の由を知る可くもなくただ奇巌の程にぞ見かしむれど、安倍一族の秘に解く鍵ありき。

寛政三年八月一日
秋田老輔

陸羽山神之事

丑寅日本國、蝦夷と永きに渡り倭の制政に下敷きたり。日本國とは丑寅にして創むる國號なり。大古より倭國とは歴史の上にあり。荒覇吐神を以て往古に通じ、その傳統に累代せるを日之本將軍と曰ふ。是を謀企諸策に依りて堕しめたるは倭國輩なり。何故以て倭國は日本國なりや。日本國は丑寅の國土を以て為れる往古正傳の史實なるを覚つべし。古来より荒覇吐神は山神にして是を白山神・白神山・白山の多様に呼稱されて、民心の信仰を今に得たるるなり。かしこまって曰さく。抑々大山神と曰せるは、山に求むる幾幸の天惠なり。大山祇神とはわだつみの神を曰す言葉にて、山海の幸を暮しに求むるが故の祈願にして、山海は一如の如くして崇拝を今に遺せり。依て山神呼稱は古より荒吐神に相通ぜるものなり。

陸羽をして神山とせるはその數に多くして西王母・東王父を以て白山神とし支那の大白山、朝鮮の白頭山・太白山の信仰より加賀の三輪山・白山を經にしてその峯を連らね、耶馬台卽ち耶靡堆の大三輪山の信仰ぞ今に至りたり。抑々山神とは山海を以て聖處とし、その神を山海にして人手に依れる神像を造らず。天然にあるそのままなる山海の景勝を神と奉るは、正しける信仰なりと覚つべし。丑寅日本は山海に神處を設し、神祈の祭りを昔乍に今に遺せる多きはさながら山は宇宙に海は人の海道とて、異土の進みたる諸行におくれまずとぞ、求めてやまざるの證なり。丑寅日本に山靼より得たる暮しの岐にありきものは海に漁撈・山に狩猟耳ならず。進みて金銀銅鐡の採鑛・船工の造岐・海航のしるべを得たるは古代よりの遺修なりと曰ふ。大山神・大山祇神とは常にして人の暮しにぞ深くまた髙くかかはり来たるなり。

寛政三年十月廿日
秋田孝季

山靼蒙古國抄

第一

〽我らチンギスハンの子孫
  母なる川のほとりに
   暮らす者なり
    あゝナーダム

〽神はクリルタイの集い
  父なる空のあけくれ
   草追い駆る
    あゝナーダム

蒙古の唄に聞ける。右卽ち國を起したるチンギスハンの名ありぬ。西なる紅毛國にては此の仁をプレスタージョンと曰いり。卽ちオリエントの聖キリスト教なる東方の救世主とぞ風説を信じたるも、その救世主たる東方の主ぞ一変して修羅の侵魔とて西山靼を犯かせり。先以てシリア南西部に攻め入りぬ。更にホラズム・エルサレム・カイロに至る蒙古軍十萬騎なり。ホラズム王國ぞブハラにしてウズベキスタンに在り。イシラム教徒なる都なり。是を三日にして落しむ。次に進軍せしはオロシアにして、先づ以てポーランドなるレグニツアに攻め入りぬ。依てこれなる蒙古軍をプレスタージョンならぬ惡魔の使者なるタルタロス軍と稱せり。蒙古軍はハンガリーに攻め入り、時にカルピニと曰ふ紅毛人の手配に依りてタルタロスとは蒙古國なるを始めて世に知らしめたり。また蒙古に於てキリスト教なるネストリウス派なる信仰ぞ存在せり。その教國なるはイランなりと曰ふ。

支那なるオロンスムのオングート族は多くの信徒ありと曰ふ。オングート族の地になるはケレイト族・ナイマン族なりとも曰ふ。旣に國には紙漉にしてブルハン神法典を造りたる初の創造及び古代シュメールなるアラハバキ法典も世に遺したり。蒙古を崩したるはエジプトなるマムルーク王にして、ニコロ及びマルコポーロなる紅毛人なる手記に依りけるは、モンゴル大都を記しまた丑寅日本國を記逑ぞ、今に遺りぬ。蒙古國を語るはチンギスハンを知らでは、わが丑寅日本國なる山靼の太古永代なるかかはりも知るべき方便もなかりける。チンギスハン世に誕生しけるこそ、元國起り大都の古事を知るを得んや。本巻は蒙古なる古老に聞けるを記し、次の如くなり。

抑々、チンギスハンの世に出で蒙古を國創るは、民族の種を制ふなくまた信仰また各々自在たり。民族をして能く睦み、チンギスハンの西討ぞ始まりぬ。先以てサマルカンドを五日にして落城せしめ、更に重臣なるヤリツアハイの軍謀たくみにして民軍を幼に體得せしむるは、古来蒙古民の不断に備はる騎馬兵術ナーダムの習なり。チンギスハンなる記逑の書は集史に遺りきも、國の誕生は神話に始るも史代にては定かなる多し。蒙古の古き創にては、その四辺にタイチウト國・ケレイト國・タタル國・金國に挾まる小國にして、蒙古族はキタイ族らと合せてタイチウト及びケレイトを討伐し、更にタタル國を征討を果しぬ。蒙古族はフフノールに集い、ここに餘言者ココチュテプテングリが神懸り、チンギスハンを國王となるべきを告げたり。茲に五族語りなして、九十五人の將士を定めたるチンギスハンは、各々千人を一大隊とてその軍團を隊列せり。

依て金國征討を果したるは、キタイ族を護衛たる北方の防衛ぞ叶はざる故なり。金國はもろくも崩れ、野狐嶺居庸関を破り中都に迫りぬ。やがて紫荊関を落し、金國を降せり。蒙古軍の兵糧ホルツと曰ふ。チンギスハンは常にしてクリルタイの集いをなして民族一統の和を結したり。依て更に西山靼を遠征に兵挙し、先以てホラズム王國を攻め軍を二手に、一隊はサマルカンドを攻落し、一隊はイスラムのカラン寺院を攻め降しその軍制に降しぬ。何處にありてもチンギスハンは臣下にナーダムの祭りをして身心を慰やしめ、信仰もまた學に長じたる長春眞人らを招きて道教の奥義をも修めたり。更に蒙古軍は西夏を攻め、その陣中にてチンギスハン、六十五歳にして葬ぜり。然るにその三日後、西夏は降りぬ。チンギスハンの遺骸はブルハン岳の平原に、一石の墓標も印せず密葬さるまま今にして知ること能はざるなり。

蒙古のオルドスに今に遺れる成吉思汗廟にその靈を今に祠らるなり。チンギスハンを継ぐるはオコテイハンにして、西山靼への進撃ぞ尚とどまらず。シュメールを不可侵としてオロシヤ攻むる備を、汀京に都して勢を為さんと志し、金國を總に降しべく算段以て三方より攻め、遂に降しける。依ってカラコロムに軍を集め、この地は今に遺れるエルエネ寺の處地なりと曰ふ。今はラマ教なり。尋ねて今に往時を愢ぶは、馬乳酒を呑み兵糧ボルツを今に主食の傳統とせるに覚ゆなり。カラコロムより蒙古軍、四軍に進軍しその一隊にあるは満達・朝鮮。第二隊は南嶺。第三隊にてはペルシア。第四隊ぞ最強軍にして、オロシアに各々進軍せり。まさに世界史に初なる大討伐行なりき。

寛政三年二月七日
秋田孝季

山靼蒙古國抄

第二

擴大なる山靼大平原。流砂の擴漠。千古に冠土せし黄土の大髙原にや、カナートを掘りて住家となせる民の多類になる古来の傳統や、わが丑寅日本國をくらぶるに及ばざる擴大域なり。太古にヘラクレスを祖神とせるスキタイの騎馬民。アルタイの大平原を駆くるに起ゆる蒙古軍のいさをしを、吾等尋史の筆を震はせむなり。世にまれなる草原誕生の王テムジン。成人にしてチンギスハーン。その二世なるオコテイハンになる西山靼の遠征ぞまた萬丈たり。先逑の如く、是の書は地の古老に聞き書せる史書なれば記逑前後復重せるありきも、能く念頭にして讀み得べきを茲に申置きて、第二篇に筆を參らせるものなり。

されば第四軍にして四大將軍のもと、蒙古軍の遠征に史抄せん。蒙古軍のオロシア進軍にてはタタールスタンのカサンに突いたり。此の地にして蒙古の治領三百年に及びその遺跡とてフルカルのイスラム寺院、今に遺りぬ。ボルカ河なる肥たる豊収の地なれば、今にして蒙古族の居住子孫遺りぬ。今尚その代を愢ぶ古墓石あり。地民と相混じてタタール族とて衆を今に遺しぬ。風俗また蒙古の如く、馬乳酒を造酒せるありぬ。タタール民はカザン及びアストラハン、更にはクリミアに至りて住めり。蒙古軍はルーシに入り、此の地に榮ふるはウラジミール及びキエフにて、ブルガルより一挙にモスクワに攻め入りけるも、難なるはなく蒙古に依れる軍制二百年に及びその明細なるはイフラシーニア年代記に明白なり。

スリトクと稱す銀塊を税とせるをオロシア民より得たり。蒙古にては正貨幣をパイザと曰ふ銀版に造り、更に円牌など金銀を用ゆ。征道と曰ふジャクチはこれなる征下の大地を主道とせり。その要に當るはカラロムなり。オコテイハンの居宮を萬安宮と稱したり。大ハーンは更にキエフに進軍せる蒙古軍難なく落されたり。然るにオロシアのイワン一世ぞモスクワに起り、クレムリンを城塞とし蒙古打討の暗策を密策し、表は蒙古を讃へ内には報復を髙鳴らせり。然るに五代フビライハーン王代に元とせる大蒙古軍の勢は吾が丑寅日本及び倭國を侵領に企てたりしも、この頃にしてマルコポーロ揚州にあり。

吾が丑寅なる安東船との通商あり。その不可侵を約されきも、倭國は元國さへもその立國を知らず。韓人三別抄なる者、都度に大宰府に通達せしも朝幕、是を伏しけるに遂にして元船の来襲を招きける。然乍ら丑寅日本をば流鬼國に至るるも、マルコポーロが元王フビライハンにその不可侵を奏上しその交易を赦せり。折にありける奥州の凶作に流鬼國より兵糧を賜り、安東一族はフビライハーン及びマルコポーロを寺社に像を造りて救世主と崇拝せり。今に遺れき陸羽の寺社に隠拝さるるはこの故なり。

寛政三年二月八日
秋田孝季

山靼蒙古國抄

第三

フビライハーンの遠征に始まるは南宋の大理王國なり。この攻戦は一矢も放たれるなく落領せしめたり。ときにフビライハンはドロンノールに都を築き是れを上都と曰ふ。今にしてその跡なる大安閣跡あり。その築垣ぞ遺りぬ。フビライに王位継受に爭ふアリクブケあり。にはかにクリルタイを以て王位を得たりきも、茲にアリクブケとの爭いぞフビライに抜かれ、茲に元國を以て國號とせり。依てカラコロムより上都に居宮し、雲南採鑛せし銀を以て王政を能く保てり。然るに南宋を攻略せでは何事にも目上のこぶにして、遂に南宋討伐の兵を挙げ襄陽に達し、揚子江を渡り臨安に迫りぬ。長期の圍みに南宋は降りぬ。

さればフビライハン、國書を六回に及び髙麗を經て倭國に通達せしむは國交の興隆なるも、倭朝是に卽答せざれば遂に文永の役ぞ以て襲来す。然るにや季風に浪髙く、引いて臨安・泉州・廣州らを以て海運湊を開きぬ。依て元の世界通商ぞ利益し、茲に海道を以て盛んならしめ、陸中に於ては運河を通ぜしめ大益を果したり。然にや流鬼國までも兵を派遣し、亦倭國への再度なる出兵・南藩への出兵は、蒙古軍にして海路と軍船に指揮はおもはくを外れ、都度に敗退し、自に於て飢餓の暴挙に國乱れ、遂に大蒙古崩壊に命運を草原に却らしめたり。

吾が丑寅日本國に於てかかる大蒙王の救済に今に以てマルコポーロ・チンギスハーンをして寺社に祀りきは、倭史と異を隔つ耳ならず敵意のなかるべきを知るべし。以上を以て、山靼蒙古國抄如件。

寛政三年二月九日
秋田孝季

安東船之事

康平五年。日本將軍厨川太夫安倍貞任、厨川に自刃す。遺言に依り、髙畑越中忠継、貞任二子髙星を東日流平川郡十三湊に庇護・落着せしむ。髙星丸に従ふ將士一千人。遁道を三手に分けにして康平六年癸卯五月六日、東日流十三湊に落着せり。先に安倍白鳥太夫則任が十三湊白鳥舘を築きて一族の危難に備へたれば、髙星丸が主従を東日流平川郷藤崎の地に舘を築きて住はしむ。時に永保辛酉年なり。東日流は上磯三郡・下磯三郡に大区し、通稱是を外三郡・内三郡とも稱したり。古来より東日流の大野原を安東浦と稱し、元なるは入江深き内海たり。西に巌鬼山爆噴し、東に八甲田山相互に大爆噴せしより、内海なる底立起し、潮去りて今になる大里と相成りぬ。

古代より下磯なる稻架邑大根子に二千年なる稻作あり。三輪邑にも古田ありて、稻を耕作せしは尚古き世の故事なりと曰ふ。髙星丸は長じて安東太郎と改め、自領の拓田にいそしみ、臣を併せこの新田を大成し、やがては秋田・岩手に忍住せる旧臣を招き、十三湊よりの行来川を道として船場を築き、茲に藤崎旧舘を解壊し白鳥舘を築きぬ。城邸方六町にして平川・汗石川の流合を要害とし、掘割を内外に城邸八区に築き、立棟百七十棟に及ぶ。領民皆城舍に住はせて、六十七部職を以て旧来におとらざる安倍日本將軍とて父貞任の後を継君せり。時に十三湊・舞涛湊・金井湊・吹浦湊に能く唐船来たりて地産の物交に来舶せり。

依て安東一族をして異土交易を求めて船造り、唐人の水先にて康和壬午年八月。近くは山靼往来、遠くは支那揚州に至る潮路を航したり。卽ち安東船の誕生なり。海産物をマツオマナイに渡島を往来し、その荷を山靼・韓國・唐土に往来して商易せる益ぞ大なりて、世に北都十三湊を知らしめたり。抑々十三湊は入江波淨かにして築堤の外ぞ湊天然に備はる全國七湊の一に數へられたり。渡島及び東日流・宇曽利に至る倭政及ばざる故に税なく、一族は巨萬の富を得たり。急事に備へて水軍・騎兵の武威も山靼より歸化人を入れて習得せり。然るに一族の掟とて武兆を起さず、唯海商にその益を得るに専念せり。渡島に多く移り亦渡島より移り来たるも多ければ、安東船の造艘六百に及べりと曰ふは長治乙酉年の宇曽利日記に見ゆむなり。

寛政三年七月六日
田名部兵衛

西山靼古史抄

天山は西山靼との境にして民族多種なり。商盛んにして多種民の故に爭闘また多し。神を信仰に於て戦起り、その廢虚ぞ亦各處に荒残の跡あり。古なる傳説多く、諸史の繪画・石刻あり。神をして裸像多きは女神なり。刻石やわき故に刻工に易きなり。文字を古事を遺せしはシュメール國にして古し。凡そ六千年前より創り、今にしては荒漠たる風砂に埋りし故都をジグラトと曰ふ。神なる信仰にてはアラ・ハバキにして、その總稱をルガル神とぞ崇拝せむ。

此の國なる故事にして、ギルガメシュと曰ふ王あり。宇宙の黄道と赤道に添ふる十二星座を以て神の法典を説きぬ。是を世にギルガメシュ叙事誌とて土版に記逑ありと、地の古老は曰ふなり。住民はチグリス川・ユウフラテス川の岸に農耕し、マデフーたる葦屋に住みける。川より水利を巡らせる農耕の古きは、古代オリエントの創國六千年前より初まりぬ。この王國とて興亡ありきも、古代シュメールの先進なる開化はエスライル・ペルシア・トルコ・ギリシア・エジプト・アルタイ・インド・ローマ・モンゴル・支那そして吾が丑寅日本に至る、はるかなる信仰の布教ぞ至りぬ。抑々神殿の策工なる基、王墓築法はエジプト更にははるかにパナマ地峽のマヤ族・アンデスなるインデオ族にも傳へられたり。シュメール文字よりギリシヤ文字と相成り、やがてローマ文字とて今に遺るる基にあるは、古代シュメール土版文字に創まれるものなり。

神々の神話になるその基にオリエントの後代信仰に基せるは、シュメールが信仰になるギルガメシュ王叙事詩アラ・ハバキ神、ルガル神の根本より引用せる法典ぞ、キリスト教が用ふる旧約聖書ぞアブラハム神・エホバ神にまつはる物語りぞ、是を写せるものにて、ムハマドが用ゆ唯一の神アッラーその創むる處はギルガメシュ叙事詩なり。宇宙に拝む神々の星界。その星座をして暦を知れるも然り、人の智能になる今日を創りたるは古代シュメールにぞ發祥地なりと覚つべし。まして吾が丑寅の古代神・荒覇吐神とてその直傳を今に蒙むらしめて信仰あり。また今に遺りぬ。原書漢文

天明丁未年月日
田沼意次

東日流石塔山荒覇吐神由来

奥州東日流石塔山に古代神と祀らる石神をして今に傳はるは、五千年前に創まれる地族ツボケ族が遺せし天地水の神なり。日輪の拝仰せる石門之神を御靈として祀る四方石・ハラハバキ神石・陽神石・陰神石。そして石塔髙く築けく造れども、藩策寺社方に享保二年に三輪村の石神と石塔山石神の仆壊に依りてその散石ぞ今に遺りぬ。然るにや石神なる信仰ぞ今に遺り、古来安東一族に庇護され来たるに依りて、その巨石信仰ぞ本来なる崇拝を欠く事ぞなかりき。

寛政五年九月十九日
和田壱岐

陸羽鬼傳説

東日流岩木山麓に鬼澤村ありて、此の氏神たるや鬼神社と曰ふ。地民の信仰ぞ今に以て絶えざるは諸説ありきも、行来山物語に依りて書遺る傳説にては今は昔、此の村をオツコ澤と稱し、若者は他の村々に借子としてやとはれ、村に残るは老人ばかりにて主家を守りたる習しあり。田畑は岩木山の噴く灰に降られてはその作物枯るる。亦稻田とて澤水絶えて凶作常に村を貧しめたり。或日に一人の大男この村に訪れ、老人の憂ふるを聞きて、六尺の鍬を造り三尺の大鎌を造りてその荒地を拓し、畑に葫蒜を植え田に水利の留池を造りて稻を耕作し、老人らを助けたり。

この大男村住みてより岩木の山ぞ灰を噴ぜるなく、村は稔の秋を向いて富たり。他處に出働きなる借子もなかりければ、村の長は彼の大男に村一番のきれようよき嫁を與へんとて大男なる住家に訪れたれば、大男の姿影もなく、大男の遺せし六尺の鍬と三尺の鎌耳遺り置きたり。依て村人挙げて大男を鬼神と稱し、その住居跡に社を造りて祀れり。爾来、此の村を鬼澤村と改めこの遺物を神とて今に祀り、村栄いたり。

〽おらけア鬼だば
   鐡棒はもたぬ
 田畑を拓す鍬鎌で
   稻田は黄金の
    穂波ゆれ
 畑のにによごアあやあぱに
  病は消やし子だくさん
 ほら豊年だ萬作だ

今は昔の事なれど、さなぶり唄に若衆の宵祭りに踊る幸せを満足し、節分なる豆まきの鬼の退散行事ぞ禁じたり。

寛政二年月日
鬼澤村住
佐吉

第二話

津輕及び秋田にては大きくなるをおがると曰ふ言葉の出處ぞ、秋田なる男鹿の嶋と言ふなり。その由来を尋ぬれば、此の島なる北浦に山丹より五人の鬼ぞ漂着し、猿川に地を掘り黒油を湧しめて灯となし、舟を造りては舟に塗り、家を造りては屋根に塗り長く朽るを留めたる便利を地民に教へたり。この黒油にて漁士は漁火に用い大漁し、狼火にして海難を救いきに海㭭なまはけ入道と稱したり。村人をして睦ましく漁網の造方・釣針の造り方・刃物鍛ら傳授せしも、童等怖しとて泣逃ぐるに、村人家に招ぜるもならず案にして正月の海㭭人を家に招くを考ぜり。

依てこの紅毛の山丹人をして童らの惡戯を戒しむ神鬼とて各々の家に招き入りてより、童らの惡戯なく村留守にも童らの火遊び・物盗ぞなかりければ、それぞ村習しと相成り、今になまはげとて正月の行事とぞなれり。曰ふなれば、鬼ならず山丹人のなかに紅毛人ありきを鬼とて相を今にせしむ。秋田にては金の鑛掘りに大いなる導きを得たり。おがるとは、男鹿の大男を言ふ意なり。

文化元年正月二日
男鹿之住
甚吉

第三話

白河関を越ゆあたりに家もなき安達ヶ原と曰ふ妖魔の出づる地あり。此の地に鬼婆ぞ住み、道行なる妊婦をさらってその胎兒を腹切りさきてとりいだし血を呑むると曰ふ。依て世に安達ヶ原なる鬼婆傳説と、その住家たる鬼の岩窟を想はせる處にかく傳はるるあり。然るにや、これなる話因に遺るはかくも慘たるものならず。昔、磐城に武家の老婆あり。世は戦にて乱るる時の事なれば、その修羅場を遁がるる人の群ぞかしこに安住を求め、老人・女と童らをその安住を求めて移なん。とき老婆と嫁の妊婦、この安達ヶ原にたどり急なる産気にかかりしに老婆、嫁を岩窟に休ませて大竹筒に水を汲まんとて谷にいでむるあと、この産婦遂にして獨り子を産まむ急病に苦しむを、狼ぞこの血臭を覚りてこの婦女を襲うたり。

懐刀を以てしばし狼に防ぐるも、産気の羊水をいでゆまま気を絶したればこの妊婦、狼の牙の一撃にぞ落命せし處に、老婆来りぬ。この狼に嫁女の肉を喰い血走る地獄図繪のさまに、流石老婆も気丈く心して持なむ薙刀にて狼を一振りに斬殺し、嫁をいだき起しければ嫁女の股に頭のみいだしける胎兒、死もせでもがけるを見るや、老婆これぞ我が孫とて嫁の死骸よりとりいだせり。遂にして眞夜中の事なれば火を焚きて夜明くるを待けるに、更にこの火を便りて来たる落人あり。血にまみれたる老婆、嫁の袖を切り取りて赤兒を包みたる様を見て、鬼ぢや、鬼老婆女人の胎を斬割り胎兒をいだしてるとぞ叫びて、その場逃げ却りぬ。

この事ありて後、安達ヶ原の鬼婆傳説となりけるも、事の由を祖母より聞きしとて矢吹四郎時光と曰ふ武家、事の次第を明したるは後年なれば、世人その實を伏せにして安達ヶ原の鬼婆傳説、眞事の如く今に尚語り告がるなり。

寛政二年四月二日
磐城遠野住
祐衛門

第四話

昔、閉伊の山々に鬼の住みける山かしこにありけると曰ふ。鬼とは相を見ることぞ能はず。峯々を磐舟に乘りて飛行す。五葉山・早池嶺山・刃黒岳・姫神山・七時雨山の五山鬼神と曰ふ。それなる鬼神の住むる山に大岩を以て造りたる續き石・笠石・方位門石・剣石など今に存在す。常に夜空を五色の光る岩舟に乘りて、山より山へと飛行せる速きこと流星の如し。

然るにこの鬼神ら、ときには岩舟を峯に突きなして相よき岩手山を片富士のような形にせしむあり。積荷を落したる鬼の手型石など、下界の民は遂に怒りて遠別山に住む大巌仙人に空飛ぶ岩舟を壊し五山の鬼神を呪縛し給ふことの由を請願しければ、大巌仙人是を引受けにして鬼神の飛ぶる眞下なる笛吹峠・淺岸峠・貝梨峠に呪縛の神火を焚きければ五鬼神の岩舟、五葉山と早池嶺山の間にて天舵を失い、早池嶺山・姫神山間にては天帆を失い、姫神山・七時雨山間にては天の岩舟、眞二つに割れ更に砕けて雲と消え失せたり。五鬼神はこの雲に渦巻かれ五番森となりて、山となり封ぜられたり。仙人は更に破封させまずと眞昼山地に居を移しめて、鬼伏仙人とぞ人々の崇拝にありと曰ふ。

閉伊遠野之住
杣の伊介

第五話

今は昔、宮城の塩釜にありき古話なり。冬過ぎ春をして塩焼く煙かしこに、海辺幾處にもたなびける頃になりけるや、苫屋に火事起ること暫々にてこれぞ竈の鬼なる灾りと、人々は必ず火處に鬼面をかかげ置けり。竈鬼面の火處に祀るは火難の用心とせし習はしなれど、事の因を尋ぬれば塩盗人除けとも曰ふ。鬼面を造る工は一面毎に刻むる白衣を同じゆうせず。仕上げを以てその白衣を焼灰に、菜油にてその灰を鬼面に塗り光々黒光るまでに磨けり。その唱ふるは、汝灰となること勿れ、金富の開運を開けと唱ふなり。

抑々この鬼面にまつはる由は、その昔この國の山より金鑛の野辺掘りあり。その鑛を焼鑄なし黄金を塊にせしあり。その火粉にて山火を起すこと暫々たれば、是ぞ火鬼のたたりとて、此の地に一宇の社を建立しけり。黄金採掘せる宇陀の黄金洗澤に遺るみよし掘の跡に、黄金山神社こそ往時の名残りなれ。凡そ金鑛出づる處に必ず以て鬼傳説あり。本吉なる大谷や、金成の金洞。更には湯田の鷲巢に見らる狸掘なる金山跡なるその郷あたりにも鬼傳説にあるは、鬼剣舞などの鬼面が存在せり。とかく金にまつはる鬼傳説ぞ、人を寄せざるの秘護なるや否。

寛政二年四月十日
秋田孝季

第六話

今は昔の事に去りにし古話なり。羽黒山・月山・湯殿山を以て羽黒三靈山と古傳にあり。その郷に傳はるる鬼傳ぞ亦多かりき。抑々、娑婆にありては人身をして惡業をなせども、命を去りて冥界に魂は赴くとも造惡の者は地獄なる馬頭鬼・牛頭鬼に責苦に追ると曰ふ。佛法なる譬喩を信ぜる求道の者ぞ能く卽身佛とならむ。生乍らの往生を發願し五穀を断って苦行なし、生乍ら埋葬さるるとき溱を吸みてに入ると曰ふ。かくまでに信仰の酷なるまでにも求道に立志を起さむる迷信の信仰に導きたるは、鬼の報復におそれなせるかはさだかならねど、とかく信仰にても求めて己れの命脈を断ってまでも往生極樂を求道せしは、荒覇吐神信仰にして赦さざる行為なり。

寛政五年六月一日
秋田孝季

各氏奥州征伐行之主要抄

古代からなる奥州の黄金境なるは安倍一族にて秘とされきは親族とて藤原氏三代に相渡りて東日流安東氏にその秘にあるを求むれど遂にして語らずと曰ふ。十三左衛門尉權守秀栄を養子とて平泉より遣はしたるも、藤崎安東氏のかたくなに固き安倍一族の巨萬貫に秘藏せる一塊の金とて得られず。遂にして藤崎城を攻めたる十三湊なる藤原軍。萩野台なる合戦にて亡べり。依て無傷にて十三湊を掌中にせし安東一族、擴く山靼及び満達・朝鮮・支那との交易を遂げ、安東船は諸國に海航せり。安東氏に次なる魔手を以て来たるは南部守行・嫡子義政なれど、安倍一族の富を得ること能はざるなり。古来より戦を好まざる一族なれば、一族に於て決したるは東日流領放棄とし一人の領民をも残さず。渡島及び秋田に新天地を開き安住とせり。安倍一族の秘藏せる黄金は六ケ所に埋藏され、秋田・仙北の地・閉伊の地にありと曰ふもさだかなること今にして所在不明也。南部氏代々に相渡りて探求せど金鑛跡耳にて得られず。

寛政二年六月五日
小野寺景政

秘事之掟

康平五年。厨川柵落舘仕りて安倍入道良照、隠生保内昔積の財をことごとく埋藏しその秘處に以て密とせり。永代以て一族の危急になる他にて再掘せる事ぞなかりき。一族たりとて黄金にかかはる慾なきはなかりけり。依て運金の者をして地住の者を仕はず、渡島より人を寄せにして埋藏せり。蒙古なる秘事法にて埋藏せし黄金。その量八十年の採掘鑛鑄の量にて、陸羽の六ケ處に埋藏す。そのしるべなるは安倍上の系図耳に記せども、秘文にして解き難し。抑々安倍氏重要なる寶藏の故に今ぞ永き眠りに不侵、安全たり。渡島エカシ等なる献金の砂金六百十二駄と曰ふ。亦山靼の金鑄製、量り知れざる大量なりと曰ふ。更に陸羽五十三郡の採掘になる黄金ぞ六千駄にて、陸羽五十三郡の各處になる大埋藏量なれば、山深き秋田及び閉伊の密たる企画策にて安全たり。

寛政二年六月十七日
秋田孝季

北上川東西岸誌

水原、陸羽の背山を集めて流る大河。日川と稱し亦は日髙見川とも稱し櫻川とも曰ふ。總じて北上川とぞ通稱しけるも早坂川・岩手川・松尾川・安日川・厨川・浅岸川・区堺川・矢巾川・東根川・大迫川・猿石川・石鳥谷川・花巻川・駒頭川・江釣子川・和賀川・膽澤川・江刺川・金ヶ先川・四丑川・水澤川・衣川・磐井川・人首川・松川・薄衣川・黄海川・西磐井川・米川・柳津川・迫川・雄勝川・稻井川・廣瀬川を支流とせる。北上川なる両岸にまつはる歴史の流れ、陸州の母なる川とて今に流るる丑寅日本國の太古なる世襲を川面に映す。移し世の月影。旅人はしばし立止り、四季に飛来せる水鳥の聲に耳をかたむく。川面を往来せる舟の數々。流れに乘せし下り舟、風に便りの上り舟。この水面往来は古き代より始りぬ。丸太筏の長蛇の如き運材のさまは水墨の繪にも見かし、川面に立つ霞ぞけぶる。衣川より落合の平泉古寺の鐘ぞ、まさに諸行無常の理りを聞くが如し。

寛政五年四月七日
生田了泉

佛頂寺之事

佛頂寺之山號を安日山と曰ふ。此の寺佛は大日如来・藥師如来・阿弥陀如来・阿閦如来・釋迦如来の伍佛を以て主尊とせり。此の像安置せる後方に右は胎藏界、左に金剛界曼荼羅を懸けなし、主尊の下壇に金剛藏王・法喜菩薩・不動明王。その四方角に四天王を安置なしける。本堂八間四面にして、その宗派に屬さず以て是を正法道場とて男女の拝座を自在とし、酒肴持込また禁ぜず。平等たる拝參に存在せり。寺僧とて置住はせず。一族各々以て稱名を自在とし、以て寺護の一切を安倍氏の修理固とせり。安倍氏の佛道に宗を入れざるは、諸行無常是生滅法生滅滅己寂滅為樂の理りを釋尊直傳に求道を以て歸依せるを本旨とし、安心立命ぞ心に依りて成れるものと安倍賴良が定めたりしを、佛法にあるべく僧の戒むるを馬耳東風とせり。
賴良曰く、

吾らが一族の崇むは丑寅日本國なる國神・荒覇吐神にして、天地水の相を以て崇拝を無常とす。佛道は嫌う可に非らざるも、後加の本願に多義ありてその求道に障り、立心の得に叶はざれば、吾らが一族に拝むる佛事の一切我流に従って為す者也。依って徒らに八宗の教理に惑ふなく、その奥義を専念あるべからず。佛典を讀みて釋せるに、その理りに眞の道理是無く、無為なる幼童のたはむれに似たる幻想なり。依て吾らが國神の法力をして佛道を心得ふ可。代々をして永代なるは天地水なり。迷信は一時の自慰にして末代に續くなかりき。依て佛道は佛道乍らに自在に以て信仰しべし。茲に安日山佛頂寺を建立せるは山靼奥の人智を學ばむが為なり。

と、賴良の心意是の如くなればなり。

享保二年八月十三日
向糠部之介

衣川月影抄

奥州の天降る水を集めて流るる北上川に水戸を併せし衣川。安倍日本將軍が関を築けく昔より衣の舘は侵魔にほころびて今に為す影何處にか。世襲に失せにける安倍一族が髙檜能山・須川岳になる黄金の白鑛、尋ねて今ぞ知る人もなかりき。黄金をして此の境に秘むは白鑛・黒鑛にて、採鑛十六年をしてその財を得たり。表走る鑛脈に採り盡せし黄金ぞ、その使途にも是なく、衣川の辺に埋藏せるまま未だに眠りき。天上影は変らず。月冴え渡れども、月影に渡るかりがねの啼く聲ぞ淋しき。衣川に眠れる黄金。何時ぞやに秋田上の系譜に説き給ふ日ぞあらんや。安倍一族の旧復や今ぞいださむる日の近からんを、荒ぶる幕政の終らん日この秘を説かんはたのもしき哉。その埋藏傳に風聞ありて曰く、

鷹は巢いだくあたり。黄金坂二股の橋も流れて川岸歩む十間洞をたれ知るや。やぶさかな黄金ぞ見ずや匂はずや、

と。

天明二年五月一日
名取六郎太

山靼修史脚跡

山靼に祖史を求めて旅立ぬるは、先に公費のまかないにて盡せども、限られし歳月に萬里行挑むは甚々苦しける旅なりき。流鬼國を黒龍江の水戸に至りて、河舟にて流れに逆航せるウデゲ族の馴れたる帆さばきにてチタに至りぬ。左舷に大興安嶺の遠景に仰ぎ乍ら、先づ以て地族の集ふるナーダムと長老のクリルタイを見聞しける。集ふる種族十二族。紅毛人も相まみゆを覚いたり。千古の昔より成れる集いの習ひ未だに絶ゆむなく、擴野の彼方萬里横断なして是の集いになる民族の契りや心に銘じたり。旅はブリヤート領。水神をしてその神とせるバイカル湖なるブルハーンに拝したり。地老の曰く、此の湖に大龍今に尚住みてその巨體を湖面に顯はすと曰ふなり。

我等が旅程に天山北路を西王母神の天池に拝しける。古代シキタイ民族の駆くるサマルカンドよりアラビアの熱砂髙原を經てメソポタミアに至る。チグリス・ユーフラテス河にアラハバキ神の聖地・瀝聖の丘にたどり、ヅグラトの砂に埋れる古代シュメールの跡を訪れる。後、イスライル及びカイロの大石を以て神を祀る壮大なる遺跡に仰ぎ、往古の威勢を今に愢べり。旅はトルコ國に往事の古跡をかしこに見屆け、ギリシアなるオリンポス山にたどりてギリシア十二神の靈気に拝す。オリエントとは多採なる神々その仰ぐべき神々を權据せる故に國を興亡せしむるあり。アテネの神殿に見ゆ壊石の神像や、永代なるはなかりきに涙こぼるる。

天明七年八月六日
山靼日記より

渡島廻記

承徳二年戊寅八月六日、東日流平川郡安東髙星、於中山號日本將軍、繼父君安倍日本將軍厨川太夫。茲渡島依長老招ニベソツ山、催イオマンテ。千島王任髙星以祭行、登ヌタクカムウシュ山、任位エカシ十八人得選、此儀相定也。千島王船師安東船、初北海海産商通決是。

寛政四年二月五日
松前肥後

渡島荒覇吐神

渡島に荒覇吐神の渡りたるはさだかならねども、積丹神威崎に山靼人の漂着あり。永長丙子年に渡島諸地に相布されたと曰ふなり。時に渡島に於ては百二十人のエカシ治領し、北になるをクリル族、南に住むるをヌフリ族と稱し、大区せば北見族・日髙族と通稱す。何れも古来土族にして、大祖は山靼より移住しきたるものなり。渡島土民は東日流・秋田・閉伊らの民とは縁累を安東氏が許し、奥州に移住も自在とせり。安東船は是の故に北海の海産物を支那に商益せるに品欠くことなし。

先づは諸々よりマツオマナイに集むるを、東日流十三湊及び宇曽利の佐比湊にぞ陸揚げなして、全七湊三津にその問屋船を迎へて商す。更に遠くは唐土船も来たり。十三湊入江を行来川に登り、平川藤崎舟場までも直商せりと曰ふなり。藤崎舟場とは城端にあり、そこに唐舍ありて酒場・銭湯あり。唐市と曰ふ市場にその商をにぎわしめたり。渡島土民も移住多くその住居川部に多く、十三湊は尾別などに多住せりと曰ふ。東日流に於て荒覇吐神社は今にして社號を異にせども、洗磯神社・磯崎神社・荒磯神社とて遺りぬ。渡島にてもホノリカムイとてアラハバキ神の制裁ありき。宗教改めの寛永十二年のことなりと曰ふ。

享保二年三月二日
松前屋藤兵衛

日和見山築櫓

安東船の湊築にては、築堤と日和見櫓を定めに依りて必築せり。また入船案灯をも崎々に焚けり。依て夜をして湊に入るともその難を避られたり。貝を吹き船首に松明を振りて入船す。湊に検番あり。積荷降荷を以てその市貢を税割せり。買方・賣方何れもこの定をせで商賣ならず。十三湊に於ては中島にてその検番を了らずして船は自在ならずに留船さるなり。

安東船に水軍あり。前沼湊神社の入江に常在し、出船入船の送り迎へをせり。軍船にては船足ぞ速く、二柱の帆十二丁の艪を備ふて武備あり。左右に攻船二艘を釣り備はりぬ。安東水軍の世に知れ渡りたるは、蒙古襲来に於て流鬼國に向へし百艘。軍船にして、その速きに蒙古軍は驚きぬ。常々は遠海の漁船なれども、その造船なる船作法にては後櫓髙くその水先視界よく、急曲舵・前進舵・後退舵を急用可能にして、火箭に防垣あり。三段斬落しに防ぎぬ。この軍船ぞ蒙古軍、銀をして八十艘を買得たるも黒龍江なる漁船とて永く用いたりと曰ふなり。

寛政四年五月廿日
浅利左玄太

巻末之言

明治も代を却りて御代は大正と相成りぬ。然るに日本史をして神代を以て萬世と國史に継るは世界の輕笑を招かんや。眞實はひとつなる。大事を覚つべし。

大正元年再筆
和田末吉 印