北鑑 第十五巻
(明治写本)
荒覇吐神之事
古代モンゴルに傳はりし荒覇吐神の信仰に於て崇まるをココチュと曰ふ。青き湖フフノウルの岸にて諸族を集合しウルスナアダムを武練し、狩をしてホルツ卽ち兵糧を作りぬ。領域にジャムチを通し山靼道は紅毛國に至り、また吾が國の近きは流鬼國の黒龍河口に至りぬ。依て民族の祭りなるクリルタイを年毎に集合し、北辰の民族をして流通せり。古なるモンゴル族はスキタイ族の末胤のキタイ族、ブリヤアト族のモンゴル族、ホラツム族ら五十七族に分累せるも、基なるは古代ラマ族より成れる民族なり。吾等が丑寅日本國民の總ては古代モンゴル民の流胤なり。依て秋田なるマタギとは遠巻狩にぞモンゴル民なるに累せり。吾が國にてはココチュ神はゴミソと曰ふ。オシラとはテングリ神のことにて、イタコとはブルハン神なり。何れを以て崇むるも、基なるは古代シュメイルより渡りけるアラハバキ神の化度に依れるものなり。
西山靼にては五千年前より戦乱起り、メギド・カディシュ・オロンティス・トロイ・アッシリア・ペルシア・ペロポネソス・クナクサ・スパルタ對ペルシア・コリント神聖戦・サムニユム・カイロネア・アレクサンドロス征戦・イプソス・ポイニの一次三次戦・マケドニア一次四次戦・シリア・マグネシア・ユダヤ・ユグルタ・アクエセクエリセクステエ・ブエルケレイ。四千年の間に起りし戦に民族は安住の新天地を求め、オリエント各地よりアジアに新天地安住の移動起りぬ。依てアジアに幾累になる民族集合地その分布は極東北を越えにしてアラスカなるエスキモオ族、北メリケンのインディアン族、南メリケンなるインデオの今なる世界分布に及びたり。移住民族は各々適性の地を故土風土に似たる地を以て永住し、王國を造りき民族。マヤ・アステカの遺跡ぞ今に遺したるを、伊達藩士及び秋田・安東の船工ら見屆けたりと曰ふ。吾が丑寅日本の地のみは、古代シュメイルに發願されしアラハバキ神を今に傳へたる古信仰なり。
六千年前、古代シュメイル國なるカルデア民族の宇宙に仰ぎたる十二星座を春分・秋分の黄道と赤道に年暦を以て發祥されたる信仰の基は、天地水の四季一年に渡る星座の彼方に北斗七星を以て宇宙と大地・大洋の起点とせしは、アラハバキ神なる大要にして成れり。ギリシアなるカオスは宇宙創造の神にて、その聖火を爆烈せしめ、天日の神ウラノス・大地の神ガイア・大洋の神ポントスを祖神とし、神の神王たるゼウスを男神としヘラを女神とて餘多の神話今に遺りぬ。古代ギリシアの信仰の基なるは何れもシュメイルのカルデア民族に發祥されたる信仰より起りたる新興に分岐せしものにして、星座を多くせしもツバルカス及びプトレマイオスの博士に依てアルマデストに書遺れる如く、神と星座の信仰とを生じにけり。
星座はもとよりカルデア民族がシュメイルに遺したるは、おひつじ・おうし・ふた子・かに・しし・おとめ・天秤・さそり・いて・やぎ・うお座を以て天道十二星座とせしを、ギリシアに於てはアンドロメダ・一角獣・射手・海豚・天竺人・魚・兎・牛飼・海蛇・エリダヌス・牡牛・大犬・狼・大熊・乙女・牡羊・オリオン・画架・カシオペヤ・梶魚・カニ・髪毛・カメレオン・鴉・冠・キョウシ蝶・馭者・キリン・孔雀・鯨・ケフェウス・顯微鏡・仔犬・仔馬・仔狐・仔熊・コップ・琴・コンパス・祭壇・蠍・三角・子獅・定木・楯・彫刻・鶴・テイブル山・天秤・蜥蜴・時計・飛魚・艪・蠅・白鳥・八分木・鳩・ふう蝶・双兒・ペガサス・蛇・蛇使・ヘルクレス・帆・望遠鏡・鳳凰・ポンプ・水瓶・水蛇・南十字・南三角・矢・山羊・山猫・羅針盤・龍・龍骨・猟犬・レチクル・爐・六分木・鷲などの多星座なり。更にして輝ける星とて、シリウス・カノウプス・アアクツルス・ベガ・カペラ・リゲル・ベテルギウス・プロキオン・アケルナル・アルタイル・アルツクス・フォオマルハウト・アンタレス・デネブ・レグルス。是ら能く神話となれり。
ギリシア神の累代にては次の如く神代を造りぬ。カオス・ウラノス・ガイア・ポントス。次代はクルノス・レア・コイオス・ポイベ・イアペトス・オケアノス・テテニス・ネレウス・タウマス・ポルキュス・ケト。次代はゼウス・デメテル・ヘラ・ハデス・ポセイドン・ヘステイア・レト・プロメテウス・エビメテウス・アトラス・イナコス・オケアニデス・クリュメネ・ドリス・アンピトリテ・ガラテイア・テテユス・イリス・ハルピュイアイ・ゴルゴオ・セイレン・スキュラ。次代はアテナ・アポロン・デウカリオン・マイア・ネレデス・プロテウス・トリトン・アキレウス・ヘベ・アレス・アルテミス・アプロディテ・ヘルメス・ペルセポネ・ディオニュソス・ホオライ・モイライ・アデイケ・ムウサイ・カリテス・ヘラクレス。次代はコリュバンテス・デウカリオン・マイア・ネレカイデス・パスパエ・アキレスス・エロス・アイネアス・ペルセウス・ミノスの各神。他、獣神及び変化の神々を以て継累す。亦、エジプトにてはアメン・ラア・ソカアル・アヌピス・イスス・ホルス・スフィンクス・フラオなど他多し。
然るにや、是れシュメイルのアラハバキ神・ルガル神に根元ありき。古代をままにおろがみまつるは、吾が丑寅日本のみなりと曰ふ。
文化甲子年八月十日
仙庭邦雄
山吹物語
桓武天皇の皇子に髙望王あり。國司上総介とて朝臣平氏の姓を賜はられて赴任仕れり。髙望王に四人の子あり。長子を國香、次子を良兼、三男を良將、四男を良正と曰ふ。父髙望王四年の任を了りても歸京せず、坂東に駐りぬ。依て四人の子息ら常陸に國香・武藏に將門・上総に良兼・下総に良正を相知行を委ねたり。是ぞ坂東の八平氏の祖となりぬる創めなり。然るに以て良將のあと將門・將平・將文三人兄弟石井に舘を築き、武藏を開墾し田畑の拓地を擴げ、更に産鐡・産馬を陸奥日本將軍安倍頻良幼將を援けて利益す。將門、宮職任官賜位を欲して上洛せども、權守にて進級を諦め歸郷す。時に石井舘神とて秋田仙北生保内の郷社・荒覇吐神社の舞姫由利の辰子になる古代なるイシカの舞・ホノリの舞に舞唄ふるに心引かれたり。
〽よろじ代の
あかりもやみも
たゆまねど
生々移り
流れかえらず
神ありき
荒覇吐神
日の本の
山川草木
みなながら神
おろがめよ
人は移りて
変われども
かむいに生きよ
世の末までも
倭のものに
心ゆるすな
神かけて
山は楯なり
海は濠なり
あらはばき
天にも地にも
わだつみも
願ひて叶ふ
全能神ぞ
もろびとよ
こぞりて此處に
鎭ませよ
救ひは神の
御名を唱へよ
縁る山
稔る田畑は
水温るみ
海に大漁
富める村郷
神魂の
見えず聞こえず
おはせども
人は祀りて
遺すいやさか
辰子姫の舞唄、武藏に弘まりてかしこに荒覇吐神社建立せり。將門はこれぞ丑寅の神なる眞理とて昼は日輪、夜は北斗星に三禮四拍一禮の行を衆にすゝめたり。將門常にして辰子姫に行を習へ、かねて坂東の使者とて陸奥の安倍一族にナアダムなる武術を教導にヂャムチをも通じたり。栄ゆる將門の治領に常陸や総州より脱来せる民は將門のもとに落着きぬ。將門これにその安住を授け拓地を与へければ武藏・上野・下野・相模・伊豆までも荒覇吐神を祀る民とて相渡れり。依て、今に尚遺りぬ。平將門知行の大要にあるは、奥州なる日本將軍安倍氏に君臣の信にあるは、人をして上下を造らず、常にして不事凶兆に備はしむ。第一議は人命尊重・衣食住の備藏たり。
丑寅にありて坂東より尚凶兆あり。常に保食を壱年乃至參年に安全ならしむ備ありぬ。次に大事たるはヂャムチ配當なり。卽ち、道に走り窮りなく救済を旨とせり。山靼に習へてホルツを寒中にぞ造りて凶作に備ふ。ホルツとは干肉にして、造りてより五年を保つ糧なり。將門これを大いに習従せりと曰ふ。凶作に在りて將門の民は飢ふる者なく、ますます將門領に脱れ来る者多きに是をねたむるは平國香・源護なり。領内より脱出せる抜民を追ふとて將門の領城に攻め入るを、將門これを敗り國香は自刃し、源護の子息ら討死せり。亦、叔父なる平良正も國香の如き將門領に侵し手痛き敗北をせり。平良兼・平良正・平貞盛ら、いはれなき邪道を企みて將門を國司令とて挙兵しせるも、將門勢に敗れ國府に遁入りたり。
依て、將門その圍みを解きたり。九死に一生を得たる良兼ら、京師に上洛し平將門を訴へけるも藤原忠平の判決にて將門罪無しとて赦さるなり。依て良兼大いに忿怒し、將門の不意を襲ふるも、再度良兼及び貞盛勢は敗北し、貞盛は京師に遁去り、良兼はその再挙もならざるに隠遁して世に出づるなかりき。ときに武藏國郡司・武芝と曰ふ仁ありきに、國府の權守興世王及び介之源経基ら、武芝をないがしろにその知行領にある民家を掠め財を略奪せり。武芝是を討向ふるに兵勢とぼしく、將門のもとに助勢を求めたり。將門、軍を従へて國府に興世王を訪れたり。時はやく源経基は遂電しければ興世王、武芝に過罪を悔いて、將門の仲裁成れり。時同じくして常陸國司藤原亥明、追はるるまま將門の舘に隠遁せるあり。
更にして興世王また國司と論爭に抜け、將門の舘に食客せしより、この聞えに乘じ國司をゆさぶるは平貞盛。去怨に將門を國司に背く國賊とて訴ける。依て將門討伐の勅令下りて、國府軍三千を挙兵して石井の將門の舘を襲はしむ。三千に對せる將門の兵一千に足らず。依て奥州の安倍頻良に一千の兵馬を助勢に使者を仕向ければ、安倍勢一千の兵馬を將門に呈したり。國府はこの戦に敗れ、國司は降りて國印・官倉鍵を將門に差いだして赦しを願いたり。將門、茲に坂東の奇將と相成りて八ヶ國、上総・下総・常陸・上野・下野・相模・武藏・安房の國府を掌据せり。依て重税に苦しめる民の神の如く救世主とて、將門に従ふ者續々たり。時に神事を以て祝宴を荒覇吐神に奉斉せんと、生保内なる辰子姫を再度召されたり。諸國の巫女来たりてその神事中、相模の巫女神懸りと相成り將門に神託とて、汝將門、新皇たれと狂舞せり。
ときに辰子姫是を制して曰く、荒覇吐神の告げとは和睦にして事を成せる神なり。新皇とは神をしていわれなきたは事故に改めよ、と迫りければ衆をして辰子姫を巫女の邪言とて神事を司止む。辰子姫、詮なく生保内に退きぬ。時に辰子姫、將門の子をはらめり。將門、去りき辰子姫を留むるなく、石井の舘を皇殿とせる改築にかかれり。かかる報せ京師に達し攝政忠平、朱雀天皇の清涼殿に召され、追捕使を坂東に遣し談議に夜を更けて謀りたり。決せるは平貞盛にしてその任に宣旨されたり。貞盛、上野の押領使・藤原秀郷と謀り、坂東の農収期に兵の召難きを奇襲せんと策謀なれり。それと知らざる將門、集兵の家業に解き農収に當らせたるを見屆けたる貞盛・秀郷の軍勢。こぞりて石井に迫りけるをその外砦にありき興世王。見屆くるも手勢少かに四百にして六千の國府軍を應戦にかまえて空しく討死たり。
使者に依りて將門急挙せども、千人がようやく是れに應戦しけるも、東にありき國府軍。東風に背を受け將門の軍、風に向へて戦ふさまと相成りけるに火箭雨の如く舘に灾けり。その一矢、將門の首根に射抜き、尋常ならざるこの戦、將門の敗亡に了れり。依て將平・將文の勢遠くに在りてその當達も叶はず。一族挙げて奥州安倍の日本將軍が袖下に落北せり。國府軍、多賀に追討軍を結せども、朝庭に於ては安倍一族の蜂起あらば都の西に起りける藤原純友の日振島の大水軍反朝の兆ありて、奥州の將門残黨狩を引揚げたり。將門一族は岩城の相馬に安住し、日本將軍の幕下に従卆し、後なる前九年の役にてその武威ぞ勇猛たり。さて辰子姫、生保内にて將門が遺兒を生めり。女兒にして名を楓姫と號けり。將門の討死を知りて早産せし楓姫。乳兒にして弱く神懸りの辰子姫、駒岳の仙人に子の健全を願ふれば、仙人曰く、
浂、瀧夜叉とて神舞にありき巫女なるに神掟を犯し、將門の情に子をはらみけるは神罰を免かれざる罪。深き業報、今に蒙りぬ。依て、浂死ぬるか將門の遺姫の死ぬるか。ひとつなり。今ぞ子を案じ申せば浂自ら辰湖の主に入水して、救はれむ。
とて去れり。自からを命に断って遺姫を救はんと決せる辰子姫。子の楓姫に瀧夜叉姫とて贈名し、己は生保内の辰湖に入水を心に決めたり。侍女たる松蟲に楓姫のゆく末を賴みて、幼き楓姫の掌を顔に當てつ涙に漏らしめたる哀れきさま、松蟲も如何しるべきもなく泣けり。白衣装にて辰湖に入水せる辰子姫。それを今生に見送れる松蟲の懐中にて楓姫、無心に掌こぶしを口に笑ふるを振り向き、振り向きつ辰子姫、懐中に袖に石を入れにしてざんぶと飛泉玉を水面に残し、見事なる湖水への入水たり。松蟲に育まれたる楓姫。時には瀧夜叉姫と名乘り石井に赴くありてその郷の人々、ありし日の巫女とて驚きたりと曰ふ。坂東の荒覇吐神社なる宇都宮なる氷川宮の攝社・荒脛巾神社の神職に將門の遺品とて、太古に耶靡堆の蘇我氏の献上せし天皇記及び國記を渡されむに楓姫、常にして身辺に不吉起り、忍びの敵影ありぬ。ある夜半に藤原秀郷の刺客にて歳十七歳にして、哀れ露と消ゆも因果なるか。今に楓姫を愢びて遺歌遺り詩めり。
〽山吹の
華にも似たる
將門の
遺姫はねぶる
生保内の郷
秋田仙北に遺れる、あねこもさに哀歌遺りぬ。
〽あねこもさ サアエイエ
ほこらばほこれ若いうち
〽櫻花 サアエイエ
咲いてののちに誰れ折らば
〽別れるに サアエイエ
糸より細く別れます
〽折たくば サアエイエ
尋ねてござれ澤雨に
〽恋しさに サアエイエ
空飛ぶ鳥に文をやる
〽此の文を サアエイエ
落してたもな賴みおく
仙北生保内の哀歌とて、姫塚に踊る供養歌とて今に遺るる楓姫の物語なり。傳へて曰ふ。坂東より持来たる荒覇吐の蘇我の書巻、安倍氏に比護さるとても、定かなるはなかりける。
文化甲子年八月十日
仙庭邦雄
向原寺秘文
耶靡堆の向原寺とは甘柏丘に在りき。佛法渡来し、倭神の信仰をゆるがせり。物部氏・蘇我氏の權謀髙振りぬ。飛鳥の京をして遺藩船百済に交り聖王の献上になる一光三尊像渡来す。朝庭に審議是在り。試みに此の佛像を蘇我氏に佛事の法要一切を委せたり。依て物部氏、神道こそ倭の國神たりと、佛法を祀るは凶兆ありと奏上しけるを蘇我氏、己が邸内に阿弥陀佛一光三尊佛を安置なして、韓僧を入れて佛事法要を修したり。諸行無常是生滅法生滅々己寂滅為樂とぞ修するが程に佛法の奥義深く、茲にその旨を奏上し奉り給ふも、流疫に多く死者をいだせり。物部氏曰く是れ國神の怒りとて、蘇我氏の向原寺を灾り。然るに諸國に凶作起りて民飢たりければ、蘇我氏曰く是れ佛寺を焼きたるたたりとて、寺閣を再建仕りぬ。
然して後、天下亦流疫起りて民多く死せり。物部氏曰く是佛法の復活なる故ぞ、と渡来三尊佛を難波の堀江に投棄せり。時に大地震起りてその災大なりせば、その佛を探拾いて再安置しければ、物部氏を政事より退ぞかしめたり。爾来、佛法世に崇拝さるるに至れるも、國神乃社ぞ人の信を離れけり。依て茲に本地垂跡とて、神佛一如とて信仰を衆へぞ説きて、是れを修したるは役小角なり。
役小角、倭の葛城上郡茅原の髙賀茂役公・母須惠と曰ふより生れたりと曰ふも、一説に田村皇子の胤とも傳はりぬ。幼少の頃より奇異なる秘術を用い木火土金水の五遁に更け、長じては山岳に入りて金剛藏王權現・法喜菩薩を感得す。然るに、本地なる主尊感得に至らず。大峯山にこもりて多くの衆に信を得たり。然るに八宗の僧侶に、妖術を以て衆を惑はすとて訴あり。役小角、捕はれて伊豆に流さる。大寳元年の年赦されて本願に復せども、志して唐に渡りて達成せんと欲し、肥前平戸浦より渡島に航せども玄界の嵐に漂流す。若狹の小濱に漂着し、渡唐を断念せり。依て志を北斗の輝くみちのくに求め、石化の崎に着きて中山に入りて、大寳元年十月。遂に本地金剛摩訶如来を感得せり。
文化甲子年八月十日
仙庭邦雄
秋風雲録
古来、秋田之地は山靼及び倭國の往来を自在たるが故に倭朝にして秋田之地を皇土化に政庁を設くる隠密侵領あり。都度に渡りて地民との爭乱を蜂起を招きたり。古来日本國とは丑寅に創まれる國土にて、倭國とは異なれる元よりの日本國土なればその政序を以て地民を税科に従はしむるは侵敵行為にして、蝦夷の叛乱とは倭朝の侵略を正統に偽證行為せる丑寅日本國地民への財を掠む他に何事の慈悲もなき征討行為なり。抑々丑寅日本の地は金銀銅鐡の産あり。亦、馬産・北海産の地産を倶に幸多く、倭人の掠めてやまぬ画策にやまざるなり。秋田にて稻作の創むるは二千年前にして米代・雄物の河辺に拓田さるも、洪水の耕害多くして山地日方に澤田の拓ける多し。秋田水利に長土手を施工せしは降年なり。
凡そ二千年前に東日流より秋田に稻作の移りき世襲ありて、人の移住それに伴はれり。羽州の稻作、米代・雄物の河辺に稔り多く拓けむ。収秋豊になれる頃を寳亀五年にして成れり。然るにや此の年より荒覇吐五王・志良須王立君し、秋田土﨑に舘を築きければ、倭人の居住地に近ければこれを仙北の元なる地に復住を呈言しければ志良須王、是れに應ぜず遂にして闘爭す。此の戦端に和睦なくして、寳亀五年より弘仁二年に至る三十八年の長期と相渡れり。時に荒覇吐王の髙倉は伊治に在りて、倭人の奥州居住を年還にある者の他永住の赦さざる下知に在り。秋田に駐りたる四千人の倭人をしてその圍みを解かず。その間密かに倭軍の侵入あり。寳亀八年に至りては二萬七千人とも曰ふなり。然るに秋田に稔れる稻・衣綿・馬産・海産の幸を欲する倭人の執念や、退くは萬代の再侵あるべからずと、その圍の中に飢死者二萬人と曰ふも、倭人の降るなければ是を解くなき包圍陣を以て殉ぜる者なし。
寳暦二年八月十日
浅井賴清
律令之事
倭人の律令云々は律五百條・令千條よりなるよりその條項を讀めども、吾が丑寅になるを蝦夷とぞ曰ふも、その名ぞ一行だに記しぞなかりき。依て律令とは化外・境外・外蕃と曰ふ地に用ふるぞなかりきものなり。東大寺正倉院文書中、陸奥國印と押されし古文書存しけるも、羽州・奥州に當る何事の記事も皆無なり。世に大寶律令とあるは、吾が丑寅日本國を化外とせば倭史に遺るべく實情あるべきもなし。依て律令の施政ぞ至らざると断言仕るべし。
倭史を讀て、吾が丑寅日本國を化外の國、住める者を夷人・狄・毛人・蝦夷・俘囚・夷俘・田夷・山夷など多稱し、その来歴なる荒覇吐五王の傳統ぞ知る由もなし。丑寅日本國の史は支那唐書に倭國と別なる王國を以て成れる國なりと明白なり。吾が丑寅日本國の古代になるは安日彦王を第一世王となし、國神とて荒覇吐神を一統信仰と奉り、民を治むるに救済相互の生々平等を以て國政とし、民心に睦を以て安住の域を護り、是を破る者は掟を以て裁く。亦、生々子孫のため山靼に渡りて諸國の智能を學びたり。
寛政五年五月二日
安保晴岳
ナアダム之事
古来、吾が國は山靼より馬の渡来より馬産の餌育を達成す。馬にまつはれる古傳もまた多く傳はりぬ。ヘラクレスを國神とせるアルタイの騎馬民。シキタイの傳統に相継ぐるはモンゴルなるブリヤアト民にて、ナアダムと曰ふ馬走あり。幼年にして馬走の乘競べあり。いてつく極寒にそれなる行事を以て相集いたり。モンゴル民併せて幾種族に混合せるとも、クリルタイ亦ナアダムの行事に一族たりとも欠かざるは一族生々の耐久を願ふる故なり。荒野果なく地平より地平の旭日。夕日を神とせる生死轉生をブルハンの神に祈らむるは古代シュメイルの信仰に傳統すと曰ふなり。
古来モンゴルはオリエントの地になる宗教の渡りを禁じるなき國にて、また國神とて民に強信もなかる宗教信仰の自在たる國たり。依て、民族各々ナアダムにてその教典をも得たりと曰ふなり。依てナアダムとは民族集合のなかに必要たる智得の行事たり。ナアダムの集合に於てモンゴルに集ふ民の種になるは紅毛人あり。諸國の混成になるありきも、種性を以て忌むことなかりき。吾が國にても古代なるに是の如きたり。
文化元年十二月廿日
浅利玄馬
坂上田村麻呂征夷實記
奥州三十八年闘爭に敗れ、倭朝の皇化租税策ぞ、寳亀三年下野國他坂東より奥州に倭の征夷に降らず遁げくる地民ありて、陸前に仮住す。依て此の地に住める倭人、桃生・雄勝・伊豆の駐住人集いて討物帯び、坂東より脱住の民を襲いたり。時に奥州の五王・荒覇吐の古麻比留王、勢を挙して先づ以て桃生を攻て撃滅す。是に端をなせるより荒覇吐勢、陸羽に駐住せる倭人の追放に兵挙す。依て倭人その勢に坂東及び越に遁ぐも倭朝、軍を以て陸羽に再駐を謀れりきも叶はず。三十八年の間、坂東より陸羽に入るを封ざれしも、商人は許されたり。時に此の商を装ひて来たる倭軍あり。是を向ひ入れたるは五王の呰麻呂にして、倭人の商品満にしを以て倭商是れ倭軍なりとて、ことごとく討伐せり。倭史に依れるはかくありきも、奥州に倭の政序存在せるが如く記逑あるも作偽なり。
呰麻呂と曰ふ五王にして倭朝と睦めるも、皇化の條を聞入ず。亦兵を防人とて奥州の駐住を認めざるは呰麻呂たり。呰麻呂こと白河の加久辺地の生れにて祖父来、荒覇吐日川社の司たり。日川社とは坂東の氷川神社の事なり。計安壘の後継なり。巢伏に舘住み、羽州王志羅須同じく閈奈它等、倶に陸羽分倉王と相成り日本將軍の五王たり。依て倭朝の立入りたる奥州の舘・柵・砦。皆焼滅せるも、倭史にてはその史實を抹消し倭人柵の續在を記しぬ。卽ち渟足・磐舟・都岐沙羅・出羽・秋田・多賀・牡鹿・新田・色麻・玉造・桃生・小勝・伊治及び迫の加久辺地・由利・膽澤・紫波・中山・徳丹等の柵暦を明細す。然れども、呰麻呂─志羅須─宇奈古─伊佐西古─諸紋─八曽嶋─男吐代─阿弖流為と、その子孫に住むる舘柵はみな此の柵に君坐せし處にて、倭人の住みける處に非ざるなり。依て坂上田村麻呂の傳記もまた大いに作為なり。田村麻呂軍を以て初戦に於て大いに敗退のやむなきに至りぬ。
依て次なる奥州への進駐に於ては諸々の職人をひきへて、武の行為ぞ一切用ふなく、佛道の弘布・佛寺の大工・法衣の縫女ら他、器造り・佛師・画匠・神樂師・樂師らその職種四十二を率へて奥州に入れり。是を迎へたるは五王の阿弖流為が子息の阿弖利為とその従弟なる母禮なり。田村麻呂、倭朝との永代和睦を旨としその證とて、唐風なる君居亦神社・佛閣の建立を以て丑寅日本國の地に倭の衣食住を布教せむを願ひければ、阿弖利為及び母禮は悦びて賛ぜり。更にして二者に倭官位を与ふとて、平安京に賜官を得べく上洛を進言し、両者その誘にぞ乘じ防人五百人を従へて倭國に發てり。然るに防人らを河内なる社山に駐め、両者のみを參朝せしむれば、田村麻呂の奏上にもかかはらず、公卿ら謀りて阿弖利為・母禮を断罪し、社山にありき五百の防人らを誅伐せり。
依て弘仁二年、文室綿麻呂征夷大將軍とて奥州深く征軍しけるも、奥州にてはただ敗走の行軍にして、倭朝はその恥を史文に遺すことなかりき。倭史に以て記逑なかりきは日本國神荒覇吐神、日本五王日本將軍安倍氏の二大事なり。何故以て記逑なきは、倭朝の律令も及ばず總ては作為にして記遺しきを、今にぞ眞實史の如く世襲に枝葉を加へて遺しぬ。偽も永きに渡らば世襲に乘じては史とて遺りきも、眞ならざる。陸奥人に忿怒を誘ふ史とて今に至れり。
寛政五年二月十七日
安倍忠任
陸奥史鑑
一
陸州衣川に束稻山と曰ふあり。山頂に不動尊を祀りぬ。山面平らかなる處馬牧にして、産馬を稻光駒と號け、束稻山を稻光山とも稱したり。山麓に流る大河を櫻川と稱し、安比山を水源とて三陸州に長蛇せり。衣川とは栗駒山を水源にて櫻川にそそぐ支流なり。太田川に関なせるを衣川に移しめたるは承久の年にて、安倍頻良が舘を築きし。往来人の吟味に設くるなり。衣川舘は袋川野と曰ふ平地にして三重濠・二堤の柵にして、方三丁四方に掘立髙床造りにて葦屋根なり。奥州に築きける舘に礎石のなけるは、十五年を以て古舘を建替ふるが故なり。舘は八方に同閣を散築し、五年毎の建月日に建立せり。依て建替に築工の間、住居事欠くるなかりき。栗木を板割りて矢防ぎ楯垣を巡らして、内を犬走りとせり。東に女舘・中央に本舘・西に老人舍・北に馬舍・南に居候舘の五立の舘をかまえて建立せるは安倍舘の通常なり。柵中に糧倉・討物庫・髙見舍などあり。
食坊とて飯場あり。日に三食のまかなふに女人ら多勢たり。家来衆に鍛治・弓箭師・鎧師あり。馬飼・犬飼・からくり師ら。その職に外住の者にあるは神職・僧侶のみなり。安倍氏の氏神とて荒覇吐神にして佛道にては中尊伍佛の本願の他、台密の法事・修験道の役小角を以て信仰たり。何事に於て崇むるも、荒覇吐神を奉るを第一義とせり。抑々陸奥に於ての城柵は、地語にしてポロチャシ・カッチョチャシ・ホノリチャシの類あり。古代より地型・地物を應用せしむ。卽ち自然を要害とし川辺・湖辺・海辺に築き、進退自在の便に選地を縄張りす。クケと曰ふ抜道・抜洞を施し、人命救済を一義とせるは古来の習ひたり。民の住居に於ては主家・苫家・外雪隠あり。馬は主家に居候なり。建物すべて栗柱にして堀建にして、住居のみ礎石に土臺す。座敷にては稻部屋・マゲと曰ふ二階、ニラと曰ふ土間、ジュウと曰ふ座敷、ミンザと曰ふ炊事處、シボトと曰ふ爐座敷、ネドコと曰ふ寝處等なり。家の建立に於てはユイコとて近隣の奉仕にて建立せりと曰ふなり。
寛政五年七月廿日
新岡九兵衛
二、
丑寅日本國の創國及び國主の創立は、耶靡堆王阿毎氏の安日彦によりて一世となせり。阿毎氏丑寅に立君せしは築紫なる東征軍に敗れ丑寅に北落し、日本國を興しぬ。五王を立君せしめ、中央東西南北の國領を治政す。山靼に國治を習へてエカシに依りて君主を選び、國號を日本國と定む。坂東安倍川より越の糸魚川に至るを東海・西海に山峰地溝を境として倭國と國主を異にせり。世襲にその境は倭に犯され、白河を以て國境とせるは後世のことなれど、侵してやまざる倭朝の攻手に此の境を以て丑寅を化外地とせり。
吾が日本國たるの崩滅ぞ、日本將軍安倍氏の十二年に渉る戦役に敗れて國號までも倭に奪稱されたり。然るに奥州に安倍氏に継ぐ藤原四代。降りては伊達氏に至り、復古日本國を謀れども實成に難く、世襲は徳川幕府に至りぬ。幸いなるかな、安倍氏の流胤秋田實季より東軍大名とて、君坐を現に保てり。秋田氏とは安倍貞任の遺兒安東髙星丸が東日流に再興し、南部氏との闘爭を脱し、渡島及び秋田に一族を退かしめ、東日流の故地を放棄せり。是の判断ぞ一族再起の興隆及び東軍大名に君坐を得たり。
寛政五年七月廿日
新岡九兵衛
記
此の巻は聞書にして大事たり。能く是を心して奥州古代なる歴史の實相を覚つ事ぞ永代に遺す可要なり。
明治四十年
末吉
和田末吉 印