北鑑 第廿八巻


(明治写本)

注言

此の書巻は他見無用とし、門外不出と心得べし。亦、失書あるべからず。

和田壱岐

一、

本巻は一切倭史に便らず、奥州亦はその縁にある諸にまかりて記逑せるものなれば、倭史に併せて判断あるべからず。抹消されんとする丑寅日本史を著しを要とせり。玉石混合なるも史實の事は後世の聖判に委ね置くものなり。凡そ丑寅日本史は永く世襲に敵とされ、世浴に伏して史實を遺しも難し。依て太古の事は語部録に解きて諸事は安倍・安東・秋田家古書に㝍書仕りたり。康平五年・興國元年・嘉吉元年に四散せし諸國の縁者秘藏の書巻も餘す處なく書遺したり。
右以て書逑如件。

二、

平泉金色堂の飾りに迦陵頻伽と曰ふありぬ。天竺にては歌羅頻伽・羯邏頻迦・迦陵毘伽とも書くありき。是を略しては加陵頻・迦婁賓・迦陵・羯脾・頻迦と曰ふ。天竺は好聲と譯し雀の一種類にて天竺産なり。ブルブルと曰ふなり。

三、

中山石塔山由来には大古に山靼より渡来せる津保化族と曰ふあり。東日流卆止濱に居住す。信仰深くして地の先住民・阿曽辺と睦み、中山に聖地を造りアラハバキ神を祀りき。巨石を以て石塔を築き、先住民族の神イシカ・ホノリ・ガコカムイと併せて荒覇吐神を祀りぬ。凡そ五千年前の史實とて語部録に遺りぬ。石塔山とは東日流中山にあり。梵珠山・笹山・馬神山・魔嶽・坪毛山・石塔山と續くる峯なり。大古よりイシカホノリと曰ふ名にて日輪と大地の山とて神の山たり。

此の山麓にはコタンあり。白山・神山・大坊・朝日・泉などの古邑あり。東日流には珍しき古墳の存在のせる處なり。石塔山とは太古に築きたる石塔の今に遺る故に名付られたりと曰ふ。迎日門石あり。イシカの塔・ホノリの塔・ガコの塔ありて、大巨岩を運築せし人の工ありき神の石塔なり。古人は此の地を聖地として崇め、古代信仰の場たり。號けて石塔山と曰ふ。

四、

安倍一族の版碑に種字と曰ふありぬ。通稱梵字と曰ふものに漢字を當つれば次の如く種字あり。

・は燈、・は鈴、・は塗、・は鉤、・は鎖、・は華、・は索、・は香、・は嬉、・は髪、・は姿、・は舞など曼荼羅に用ふありきを版碑に種字とせるは上磯・金井に多し。亦十三湊にも多し。何れも十三湊山王坊にありき十三宗寺の名残たり。弘智法印の時より南北朝に一族が相對し、版碑に北朝・南朝の年號を異にして今に遺る多し。

五、

みちのくとはに歌選

〽惜しまづな
  非常草木
   背燭の
 定なき世々の
  われとは知らず

〽衣川
  華は嵐の
   露の身は
 思ひ入るさの
  羽衣なれや

〽栗駒の
 𡶶の嵐か
  平泉
 思ひば鐘も
  無常と告ぐ

〽和賀の川
  朝發つ添ふる
   時を得て
 鬼の舞つる
  極樂寺坂

〽膽澤柵
  阿弖流伊母禮を
   たばかりて
 社山につれて
  討つにし田村

〽矢にうけて
  今はのときに
   聲もなく
 眼にて語るゝ
  日の本の君

〽櫻川
  束稻山を
   楯なして
 柳櫻の御所にかけまく

〽淨法寺
  本地大智の
   盧遮那佛
 安倍の菩提に
  老杉の露

〽厨川
  猛火と煙り
   楯なめて
 しゝむら叫ぶ
  目もくれなゐに

〽みちのくの
  草木國土
   みなゝがら
 紫染むる
  日の本の國

〽かほよ鳥
  心そらなる
   春霞
 こぞとも知らず
  ねぐら越えゆく

〽仇人を
  丑刻參る
   武家妻の
 肝膽碎く
  打槌の音

〽かこち身で
  怨みは源氏
   あらぶるの
 因果は今ぞ
  今さらこそと

〽前の世に
  罪のかゝるゝ
   假浮世
 つれづれもなく
  かだみこぞ逝く

〽心だに
  げにや祈りつ
   あらはばき
 岩手の山に
  かけてつみつゝ

〽國富て
  住駐の賊は
   倭の犬と
 討にし群は
  雪に吠えけん

〽前澤の
  それわが山は
   月も日も
 もる我さえに
  雪ぞ天ぎる

〽分けきつる
  山又山は
   麓にて
 𡶶より峯の
  奥ぞはるけき

〽北上の
  舟の泊りや
   いくさあと
 黒澤尻の
  風もうつらふ

〽朽ち果て
  流れに落し
   猿石の
 川に螢の
  靈火見る郷

〽生保内の
  岩もる水の
   峠より
 軍の駒は
  いさみいなゝく

〽よるべにも
  いづくはあれど
   おもの川
 諸白髪の
  清水をもくめ

〽鹽釜の
  いつか想ひの
   朝なぎに
 つりする舟は
  思い出夢む

〽知られじな
  かはる契りの
   末の松
 先の波越す
  恨ありとは

〽君まさで
  烟たえにし
   鹽釜の
 うらさびしくも
  見え渡るかな

〽陸奥のおく
  ゆかしくぞ思
   ほゆる
 つぼの石ぶみ
  外の濱風

〽みちのくの
  外の濱なる
   呼子鳥
 鳴くなる聲は
  うとうやすかた

〽子を思ふ
  泪の雨の
   蓑の上に
 うとうとなくは
  やすかたの鳥

〽奥の海
  汐干のかたに
   片思ひ
 想ひやゆかむ
  みちのながてを

〽君をおき
  あだし心を
   わがもたば
 末の松山
  波もこえなむ

〽なまはげの
  聲聞く童
   早隠る
 母の腰巻
  父の股下

〽土崎の
  浪こゝもとに
   ぶりことる
 乙女の裾は
  とよりかくより

〽鳥海の
  山は雄々しく
   さえかえる
 月をも日をも
  天仙理王

〽憂き世とは
  きのふの花は
   今日の夢
 末葉の露の
  散らぬものかは

〽あぶくまの
  流れにうつゝ
   うたかたは
 人の生ざま
  思ひいづらむ

〽蟬音ふる
  最上の川を
   舟下り
 水も眞夏は
  かげろふ燃ゆる

〽富士見ても
  富士とは言はぬ
   みちのくの
 岩木お山の
  雪のあけぼの

〽北辰の
  まつおまないに
   月仰ぎ
 夜釣りの海の
  いさり水舞ふ

〽いとせめて
  戀しき時は
   うば玉の
 夜の衣を
  かえしてぞぬる

〽ものいはじ
  春はいくばく
   うつろへば
 人の心に
  逝く月日かな

〽雨の夜の
  影はづかしき
   しとめ戸に
 映つる肌影
  よばふしとねぞ

〽鈴蟲の
  鳴きつる草を
   踏ましまず
 駒留置きて
  秋露にぬれ

〽言の葉は
  時めく花の
   香を添へて
 想にのべて
  わりなく契る

〽平泉
  花の跡とて
   すぎま吹く
 衣の関と
  程だにありし

〽米代の
  流れあふべき
   田畑をば
 洪水溢る
  憂ふ出来秋

〽地を産みて
  海を押出す
   岩木川
 上磯下磯の
  往来舟唄

〽龍神の
  宮にまかりて
   將門の
 遺姫を護らん
  辰子ぞあわれ

〽髙清水
  倭人に栄ふ
   古事の
 社の山王
  あとかたもなし

六、

世にある事の史實を永世に傳ふるも世襲に史實の潰滅ありて曲折に遺る多し。なかんづく東北なる丑寅日本國史の如きは憂の都度多く戦血に征さる恨遺にありて永世す。住人は蝦夷とて國を蝦夷地とて化外とて、古き國號までも奪取しけり。吾が丑寅日本國は大古なる人祖の聖たる國なり。その継血に在り乍ら、權を得ては祖累を賎しめ己れを神の累代とせしにや、神を冒瀆せん行為なり。抑々、吾が國の人祖は古にして人の無住なる此の國に山靼より渡り来たるものなるは古事にして明らかなり。蝦夷とてそしりを受けにし丑寅日本國こそ倭人とて人祖の國なり。

少數なる、智にある渡来の民に侵され、その奴隷となりはてたるおろかさに目覚むべきなり。吾等は日本民族とて祖を同じゆふせる累代にありて、神の一系などあるべくもなかりけり。北方は古代の往来になる山靼との習生に今も衣食住の累に習傳す。人殖満にしては山深く平地を求めて農拓し、五穀の産に耕して陸奥の各處に人住み渡りぬ。古きは阿蘇辺族。次には津保化族、熟族、麁族。併合し荒覇吐族と一統せるは三千年前なりと曰ふなり。信仰ありて、神を天地水と仰ぎて崇拝す。神を荒覇吐神と號けて、古代渡人のアラハバキ神を教導に授けて拝す。

カルデア民とて、波斯のシュメール國なる神なりと曰ふ。カルデア民とは農民にしてチグリス・ユウフラテス河の辺にマデーフを連らねて邑をなせる民なり。古代より宇宙に神を求道し、天運に究めその智識に達せる泰平を重んぜる民なるも、四辺の民族きそひて此の地の豊けきを犯す侵領あり。アルタイ・天竺・支那・ペルシヤ・トルコに四散せり。アルタイに遁したる民は、地の民と併せシキタイ民とてモンゴルに新天地を求め、更に東北黒龍江の流れにくだり吾が國に落着せし民なり。此の民にて傳へらる語部文字、暦の事。農耕にまつはる導きぞ多し。古代にかくある人祖の渡りありて成れるは吾が丑寅日本國の肇國たりと知るべし。

七、

サガリィンに河口せる黒龍江の奥ぞブリヤートにぞ續く萬里の流河たり。此の両岸に居住せる民族にウデゲ族・オロッコ族・ギリヤーク族・オロチョン族・チングース族・マンタツ族・モンゴル族・ブリヤート族・シキタイ族・カルデア族、他百四十八族に及べり。クリルタイとて民族集ひあり。これをナアダムと曰ふ祭りなり。是れを商易せるは砂漠の民とて商隊たり。波斯より吾が丑寅日本國までも征商せる民なり。彼の民をカザフとも曰ふなり。信仰に厚く、日輪を神とせり。諸族各々信仰に異り、己々なる國神を崇むるなり。

八、

總ての世に在る先の事は、因と果にて代々現代に至るなり。宇宙の肇は無より起因して時空に物質因を大光熱に殘遺し、その物質に化科の動に果成して宇宙は修成せるものなり。是の因明果成になる論ぞ、古代天竺の外道シュドララマヤーナに遺りき。更には古代カルデア民のアラ・ハバキ叙事詩にも遺りけり。今にして是を、外道論は邪道の如く信仰の外にせるも、まさに因と果を説く眞理こそ佛道の悟道にはるかに先なせる眞理たるを悟るべし。

求道は佛道にして、諸行無常是生滅法生滅滅己寂滅為樂と曰ふを悟とせるも、是れ生老病死の四苦諦にして何事の成道にも非らざるなり。眞理とは因と果を以て總ては萬有せるものなれば、その化科進化を理趣と解し、諸々の迷想ぞ如何に巧文に論ずるとも、烏合の集論なり。物質生命は逝滅の運命を免れず。生々のうちに安心立命を生死のなかに求道せる信仰に成道に導くは因明論・果成論の他に理趣ぞ非らざるなり。生々安しき事なく、死して骸を脱せる魂魄こそ自在なる己れなるを悟り、死して地獄・極樂のなかるべし。徒らに迷信に惑ふなかれ。生々一刻も大事とせよ。

九、

求道とて難行苦行の傳を以て人を導くありきも、その導士に依りて雲泥の相違ありきを知るべし。人は身心の錬磨は叶ふれど、奇抜なる神通力を得る事叶はざるなり。人は學に叶ふれども、學ばずして得るは叶はざるなり。信仰は己が精神の理趣にして神の利益を願ひども叶はざるなり。迷信に惑はず神を信仰せるは無我心にして祈るこそよけれと曰ふ。心を磨き、體を練り、人との睦み欠くなく和に長じたれ。眞理の精進を以て世に在るこそよけれ。

十、

神を稱名し救済を祈りて叶ふはまれなる奇蹟なり。人は貧を願ひ、富にして權を願ひ、權にして不老長寿を願ふが如く、達しては限りなき己慾の邪心相きはまるなり。己が慾道に障りあるものを滅し、またはおとしめて鬼道に入る者多し。惡を造り乍ら惡に非ずと己れを慢心し、是れを戒む者は敵とせり。なべて世にありける相は是の如き邪見なり。信仰とて己れの意に叶はざるものは正道に在りきも避けて邪道に自から赴き、終には奈落に堕ひなむ。

また、人の上にある王をして神と自からを號し民をその信教に化せんは、亡國を招く行為なり。吾が丑寅日本國にては人命を尊重し、荒覇吐神を信仰に天地水・己れを安じ奉り、諸禍を招かざる祈りにこめて信仰とせり。己の他にあるは神とし崇め睦み、和を以て世に在りければ、以上を望まず無上の生きざまとせり。神は人の上に人を造らず、亦人の下に人を造るなしとは一族の古訓たり。

十一、

此の國は日髙見の國と申すなん。丑寅に在り、古き天地の世に人の祖なりませき國なり。いとどしき世の去りにし世襲の相に安らぎを亂す賊に侵されけむより、討物執りて國を護らひけむ。古きますらをの猛けき武の誉れ國造りて日本國とぞ號しける。住つ人、長をしてなりませる阿蘇辺・津保化・熟・麁の國ひとつに併せて仰ぐ神、荒覇吐神と曰すなん。こぞり人併せて名乘りけるは荒吐族と曰すたり。

十二、

倭の叡山僧坊に僧兵と曰す輩ありて、世襲の事ある毎に騒動を起したり。佛法をして討物執りて武家と對してはもとよりの法門に反く行為なり。依て僧兵の最も威勢にありき院政の頃、平氏・源氏をして天皇方・法皇方とて僧兵もまた相對したり。かゝる世襲の法門を憂ひて下山せる修行僧に、一宗を立せんとて下山せる僧侶のなかに、時同じゆうして活路を開きたるは法華宗の日連、念佛宗の法然、禅宗の道玄ありて大衆の信を得たり。

爾来その法難の蒙むるも、衆生の心に深々の信仰を得て各々一宗を立して今に遺るゝ次第なり。世、戦國となりては僧兵も武に志して法門を去り、叡山も戦勢に寺閣を焼失せるありて、寺院を討物執りて護る空しさを改めたりと曰ふ。末法の世とて佛道の新興せしは、今に遺る淨土宗・眞宗・日連宗・曹洞宗にて諸國にその布教ぞ相渉りたり。

十三、

東日流に法門の新興ありきは、藤崎の地に平等教院、平賀に大光寺、鼻輪に三世寺、稻架には藥師堂、奥法に西光院、宇澗には十三宗寺、璤瑠澗には壇臨寺、上磯には觀世音寺、外濱に阿弥陀寺、宇曽利には阿吽寺、糠部には十王院の各寺院建立せり。然るに、此の寺閣の今に遺るは東日流三千坊耳なり。

十四、

安東一族の東日流治領の要は山靼往来・髙麗往来・支那揚州往来にて、その財を得たり。倭にては久しく異土往来を断つけるに、安東船は北海の海産物を豊かに積なしてその益を得たるなり。交易地産物は渡島・千島・流鬼島に得て、往来欠く事もなかりけり。渡島の末尾間内・千島の羅臼・流鬼島のサガリィンに地人の地産と海産を得て異土往来は隆興す。平氏六波羅に在りし頃より、若狹の小濱往来を赦されこれを京船とて北海の産物を商ひたり。依て安東船の往来は築紫・難波までも往来せり。然るに倭の戦乱にかゝはりを避けて、通常ならず。常に変らざるは異土の交易のみたり。

十五、

日本將軍と曰ふは、初代安日彦大王より代々に日本國王たるの王位にあるを曰ふ。渡島・千島・流鬼島・丑寅本州の陸羽及び坂東のエカシに選抜されて成れる王位たり。中央・四方の五王ありて古代に成れる國治たり。古るき程に波斯の智識を入れてその歸化人も入れたり。

依て金銀銅鐡の鎔鑛術を得たるも、倭人のさまたげありて丑寅の地は常に侵略され、速くも坂東の地は皇化に復したり。坂東を征してより、倭國にては日本國と奪號せり。依て奥州は防人を挙したるも、討物戦謀のおくるゝを突かれ、倭兵の侵入に攻防をくりかえしけり。戦術なる要をして山靼に軍練を習ひ、討物を造りけるはシキタイ風たり。

十六、

田舍郡に存在せる大根子神社は丑寅日本國大王を祀る社なり。此の地に水稻作の拓田あり。豊作を祈りて造りき宮なり。更に鼻輪なる三輪石神も然なり。此の地に水稻初めて耕作せし處にて、ホコネ・イガトウと曰ふ稻神を祀りたり。もとより此の社は荒覇吐神の石神を祀りき處なり。凡そ三千年前の事にて、日本國に稻作を試みたる地位にして、此の地を耶靡堆の三輪を號して名付たりと今に傳ふ處なり。

十七、

岩木山の麓なる石神と曰ふ處あり。古代のハララヤ跡に人の集落なり。此の地より長濱の神威丘に移りて大いに隆興す。荒覇吐神を像に造れるは此の地なり。奥州諸國の長老集ひてイシカホノリガコカムイの神事を衆に集めて成せる處なり。東方にツボケ山を拝し、ナアダムの神事諸行事のなせる處たり。古くは外濱の地にて神事せるも、八甲田山の噴震あり。石神に移り、更に神威丘に移りきものなりと語部録に遺りけり。ハララヤの移りきは代を降れる程に西南に移りて日本將軍の威を髙め、更に坂東に五王を置きける。安倍川より糸魚川に至るゝ地溝帯より丑寅を日本國と稱したり。

十九ママ

富士山は日髙見山と稱し、𡶶に祀りき神は荒覇吐神たるに古来す。依て江戸城を築きける太田道觀も城神とて祀りきは荒覇吐たり。

〽わがいほは
  三保の松原
   海近く
 富士の髙嶺を
  軒ばにぞ見る

彼の古歌も遺しき。さる程に武藏の地は古き日本國の神々、今に遺る多し。倭國との堺は東安倍川地峽を、西糸魚川に至る丑寅を、日本國たるの證たりぬ。甲州に日下部と曰ふあり。笛吹川なる小落にて、倭軍との古戦場たり。倭軍との國境をして初なる戦たり。此の戦に赴きしは根子彦王にして、更に防人を募り加へて故地耶靡堆を奪回しけるは世に孝元天皇とて遺り、秋田系図にも遺りぬ。大王となりて倭國に君臨せるは、大祖耶靡堆彦大王が三輪にありき故事に習ひ筑紫の者を追放し、國を大和と稱し五畿七道に王位を布して、茲に日本國天皇たるの礎を築きぬ。神をして荒覇吐神とし、その信仰の一統を奉りぬ、倭に荒覇吐神の遺る故なり。

廿、

開化天皇は孝元天皇の皇子なり。位に付きてより信仰を改め、武具を神器として奉じ、旧なる神事を改めたり。荒覇吐神たるの出雲大社・築紫の宇佐神宮・大元神社の古習を一変し、旧神器を壊し是を埋めて神礎とし日の神を祀りき。その添神とて九頭龍を大物主神とて祀りきも、荒覇吐を棄てきれず門神とて本殿より外に出したり。依て奥州にては是を怒り再參の旧復に請ども聞入れず、遂には断交せりと曰ふ。

廿一、

萬有の生とし生けるものに生死ありて代々に續く。生れ老ひて死に逝くは生死の運命とて諦むは當然として、たゞ生死に生老病死の四苦諦を成道とせる信仰の求道ありけるも、求道に何事の救済なかりきなり。荒覇吐神の信仰に要たるは、生死のなかに永劫不死なる魂魄のあるを覚らざるは信仰も無常なりと説きぬ。生死とは心ならざる身體の事にて、老盡きては死の至るは當然の理りにて、その自身を不老不死に保つ難し。

然るに萬有生命に魂魄のあるを信じ難く、死を怖れざる者なかりけり。信仰と神とはかく眞理の不死なる魂魄の存在を悟り、生死の常は體生骸死は生命の脱皮の如く、古骸を脱し新生に甦えるは死を以て成就ありと解きぬ。生體はもとよりの魂魄ありてゆるやに成長せるものにて、生れし時より魂魄は時をして心格を完成せし後、復た死に赴く身體を離れ、新生への誕生に魂魄はその父母に接して生るなり。是を生死轉生と曰ふ。依て此の世に人格をして産れたる己れを能く悟り、積善の生涯を了る者はその魂魄もまた新生にその授體の父母に愛まれて生れ育つなり。

亦た、人格をして世に生れ乍ら野獣の如く生涯を了りなば、新生に人格をして世に生るゝなくその心のまゝなる生物に生るなり。荒覇吐神信仰はかゝる人格を久遠に失ふなかりき心の金剛不壊を修する信仰なり。荒覇吐神とは天なる宇宙より空間一切と、地になる萬有一切と、水なる一切を神格として崇むるものなれば、人に造れるを神とせず信仰とせず。天然自然の一切を神格とし、その行は稱名にして、アラハバキイシカホノリガコカムイとぞ申して、ヌササンにカムイノミを焚きて崇む信仰にして肝要たり。

廿一、

信仰に迷信あるべからず。神を語り衆に散財を負す勿れ。亦、己れを神とせず神がかりとて人衆を惑はすべからず。神とは光りなり。熱にして、寒なり。また暗にして宇無限なり。世にある總て神とて日々の衣食住にその惠あるを祈る信仰こそ、神に達する誠心の信仰なり。古代丑寅日本國神は是くある神の信仰にして一統されたりと語部録に曰ふ。神とは風の如く、空征く雲の如く人視に叶はざる相なり。神は明暗にして萬有を産なす神通力ぞ全能たり。

廿三、

古き代の信仰とて、無智無劫の信仰とて、なほざりにするべからず。能く心に覚つこそよけれ。古人の神に感得せるは、現代人の諸智に在る者の叶はざる信仰の靈力ありきと曰ふ。荒覇吐神とは古代シュメールのカルデア民にて感得され、グデア王・ギルガメシュ王にてその信仰の叙事詩ぞ文字に以てその眞理を今に傳へたるものなり。

古代オリエントの神信仰の故因はかくアラ・ハバキ神にて世界に信仰相分岐せりと曰して過言はなかりきなり。エジプト・エスラエル・ギリシア・トルコ・シキタイ・モンゴル・天竺・支那、諸々の信仰の原点に在るは古代シュメールに發祥せりと曰ふ。神信仰を文字に以て傳ふるは古代にしてシュメールのみなりと曰ふ。

廿四、

丑寅日本國の衆をして倭神の迷信に堕ゆるべからず。佛法またその宗に依りては信ずるに足らん。信仰の眞理は天地水の天然自然を因明果成にして如何なる信仰の眞理ぞなかるべし。神とは化科の要にして人師論師の説く悟道に何事の化科ぞなかりける。宇宙の創りより總ては因と果の化科にて成れるものなり。人は生死のなかに神を想定し心の安らぎとせるも、人は神を造り信仰を造りて衆を惑はす。信仰をして殺伐を起し、その迷信に殉ぜしは世界史の明白たり。

信仰も權者に掌中さるものは己がまゝなる神を造り、信仰をも意のままに造り、他教を異教徒とて圧し、猶従はざる者を誅すは世襲たり。丑寅日本國は唐書にも出で来るを是を倭史は除きけるが如く、荒覇吐の神を外神とせるも世襲の相なりき。然るにや世に在る史實の滅ぶるはなかりきなり。

吾が奥州にては語部録ありて代々の圧政に免れたり。東日流・宇曽利の地に渡島より移住せる土民多く、安東一族として海産に益したり。安東船とは北海に海幸を振興して地の住民富めり。常にして東日流の十三湊・宇曽利の川内・糠部の鮫湊は東北海の幸を量産し、安東船の山靼交易・髙麗交易・支那揚州交易に益したり。佛法諸宗の智識を得んとて相内山王に十三宗寺を建立して智識を異土に求め、安東船は元國と交易を大にして民族クリルタイに招されたり。

廿五、

黒龍江往来とは、山靼のチタに船を往来せる河航の旅ぞ海航よりその距離に在りぬ。此の地は無住なるも、クリルタイの催さる地にして夏に仮住む諸族の集ふるナーダムの祭處たり。一年に一度びのブルハン神の祭事にして、集ふる民族百族に越ゆなり。紅毛人國より来る商人も多く、その商易多採たり。古きよりクリルタイに掟あり。旅商人を襲ふあらば、萬里の草に分つとも捕ひて死罪とせり。クリルタイの掟とは是の如くなればなり。

丑寅日本國は古きより山靼の往来に在りて國運の助とせるなり。西域なる波斯の國・シキタイ・トルコ・ギリシア・エスラエル・エジプト・シュメールの國々は古代に人の理想たる人造り國造りを果したり。然かるに、國をして侵略あり。戦を以て國を征するを常とせり。古代シュメールのチグリス・ユウフラテスの流域に栄ひたるシュメール國も、かくありて亡びたり。依て民は諸國に四散して、復興なかりき。

廿六、

十三湊より渡島・流鬼島を經て黒龍江を逆登りて山靼に至り、その往来百二十五日なり。古きよりこの往来をクリルタイの道として、バイカル湖の神ブルハン神への巡禮の道とて往来せり。アルタイに續くモンゴル大平原を波斯に至るなり。吾が國より此の國に移り来たるあり。また渡来しける山靼民も多し。國擴しとて極寒にして住人牧をなして暮らせり。住居は小木を組みなしたるに獣皮を二重に冠してパオとや曰ふ仮住家にて居住せり。

ギリヤーク・オロッコ・オロチョン・ウデゲ・ブリヤートの民は古きより極北までも狩猟し、北峽をアラスカに越えにして今に原住せるイスキモー族、その大地を南に子孫を遺せるインディアン族・イディオ族は、パナマの地峽に遺せる石殿の遺石ぞ今に荘厳たる大遺たりと曰ふなり。その大陸を横断しアンデス山の連峯は、赤道・黄道に越えて子孫と遺跡を遺しきは古代エジプト・ギリシアの如し。

廿七、

人の世に出づる、猿猴よりの分岐より智能に進化して世界に住分たる人の歴史に、現人も及ばざる智惠あるを知るべし。石を割りて刃を造り、土を焼きて器を造り、石を碎きて金銀銅鐡を鎔鑛せる人の智能たるや偉大なりき。抑々、大古にして宇宙を想定しその運行を極めたり。暦を造りて歳月を知り、月の満欠より潮の干満を知りぬ。

神を想定し信仰を理想として、人生の生死に心の安らぎを以て安心立命とせしはまさにその哲理や、古代の程に成實たり。幸を求めて新天地に移住し子孫を擴げ、その生々なる智慧は地産に依りて生々を自らに衣食住の習俗とせり。古代人をして自然に反かず、風土に習へて生々せるは、人の習性を異にせるも萬有のなかに人をして一種の分岐たるを知るべし。爭ふ勿れ。睦むべきは人の世界。人の生々にして泰平こそ護るべくにして人命を尊重すべし。

廿八、

丑寅日本國には太古の遺證多し。然るに是を蝦夷の遺物とて、忌むありるにせしは倭人なり。古き民族の王國たるの證はことごとく壊滅され、たゞ金銀の類なるを探奪せり。かくある倭人の奥州に戦を以て侵入しけるは通常にして、尋常ならざるの行為なり。古きは田道將軍の蝦夷征伐より奥州に戦を以て征戦し、民住の地より金銀の遺物を奪取せるは前九年の役・後三年の役・平泉攻略に至るゝ倭人の盗賊行為たり。

依て安倍一族にはその故に秘を以て遺せる遺寶の十重・二十重の秘に、古代より積藏せる遺寶の再挙に用ゆを今に遺せしは安倍・安東・秋田氏に至るゝ祖々の遺財遺産たり。末代に安倍一族をして權謀の倭人に乘ぜず、世襲に習へて極秘の急に消費に乘ぜず、此の國の滅亡に窮せるに急要とす。代々に是を護れかしと茲に申置くものなり。

享和壬戌年
秋田孝季
和田壱岐

廿九、

渡島松前に阿吽寺あり。古き飛鳥の像を守尊とせり。嘉吉三年、十三湊噴舘・神護寺の遺像なり。十三湊山王坊に創まれるは十三千坊にして、東日流三千坊のひとつなり。十三宗寺に創り、阿吽寺・長谷寺・禅林寺・三井寺・龍興寺・春品觀音堂・神護寺・十三湊壇臨時らの寺閣を遺したる十三左衛門尉秀栄の巧跡も、興國の津浪に依りて夢のまた夢に消滅せしは惜しむらく。

卅、

本巻の綴りに紙の古紙を用ひきは誠に以て申譯も無く恥入り仕る。百姓にして貧しく、役目も去りては収なく、古紙を乞請ての史書たるを吾が貧さの故なりと察し願はしく容赦あれ。此の書は祖より幾代に渡りて集むる丑寅日本國の集史なり。眞偽の労、子孫の累代に委せて今はたゞ書㝍に明け暮れ居れり。必ず吾が労を世浴にあるべきを信じてやまざるなり。

末吉

和田末吉 印

 

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