北鑑 第卅巻
(明治写本)
戒言一句
此の書は門外に不出、他見を無用とすべし。亦、一書とて失ふべからず。
壱岐
一、
宇曽利・東日流の地に見付くる石にて造れる刃物あり。古き世の住人にて石を割り造れる古代人跡を證すなり。地の開拓に依りて鍬にかゝれる古き石刃の類は鉾型皮剥型・矢鏃型・片刃型・両刃型にて荒割造り程に古き代のものなり。石にて造らるは身を飾る玉造りより打樂器なる石鐘及び石笛などありぬ。更には赤青緑黄白黒紫金銀などに採なせるを神として祀る習、是ありぬ。
二、
大古に住むる住み人の跡や、丑寅日本かしこに遺りぬ。人多く集住せる處をポロコタンと稱し、大なる建物をポロチセと曰ふなり。戦起りて築く城柵の大なるをポロカッチョチャシ、小さきはチャシと曰ふ。また城柵に濠を掘り廻らすをクケチャシと曰ふなり。神を祀る聖地をヌササンと稱し清水あり、四方の眺望の見渡せる處に選びたり。聖地にては一木一草たりとも抜伐を禁じ、鳥獣の狩猟をも禁ずる掟ありぬ。例へ虫魚一匹たりとて生殺を禁じたり。
されば聖地に道を造らず、橋を架渡さずと曰ふなり。神の常住の處は天つ處にて、その聖地に天降るは紫雲に八雲を立たせ給ひて天降りぬと曰ふ程に人の造りき道を要せずと曰ふなり。依て聖地とは人の宿れる屋棟を造らず、人の用ふる不淨處なるも然なり。聖地に築きけるは石の巻石・石塔の他造るなかりき。此の地に入るは、丑寅日本國大王の卽位より、年一度なる九月十九日の他入るなく常にして人のポロコタンに大髙樓を築きて望拝せる耳なりき。コタンに是在るはその故なりき。
寛政六年二月一日
是㝍記 東日流語部録解
秋田孝季
三、
北極星をイシカ、日輪をタンネ、月をタンネハと曰ふは太古なる神稱語なり。イシカは宇宙の芯にして大七星・小七星の軸なればその芯たるは不動たり。右卐卍のめぐる春夏秋冬の中芯なり。宇宙の億兆の星座・銀河みな是を廻りぬ。宇宙は神の治しめせる常世の聖天なれば、此の軸星たる北極星の全能なる神通力の故に宇宙は廻りぬ。
語部録解より
四、
大古に耶靡堆大王あり。箸香の蘇我郷に君臨す。祖は阿毎氏とて加賀の犀川三輪山郷の出たりと曰ふなり。箸香に移りきは、春日氏・大伴氏・和珥氏・土師氏・物部氏・羽田氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・中臣氏らこぞりて和泉・河内・耶馬臺の地に大王を以て一統の國司を治む。明日香河・木野河・泉河にたむろせる豪族の一統を耶馬臺大王とて、耶靡堆大王を合議に決して迎へたるものなり。耶馬臺國とは攝津より明石、更に岸和田、更には山城・奈良の域に大王を以て一統せむは各々地豪を以て治統の叶はざる故以ての耶靡堆大王の迎入れたり。
大王宮を箸香山に置きてより此の山を三輪山と稱したり。先づ大伴氏・物部氏・和珥氏・蘇我氏の大王併合と相成り、續きて羽田氏・巨勢氏・土師氏・平群氏の併合となるや、葛城氏・中臣氏の併合相成りて是を耶馬臺國と盟約したり。是を綴りたるは國記・天皇記にして、更に稲葉氏・髙石氏・羽曳氏・百舌氏・髙取氏・門眞氏・吹田氏・大山氏・伏見氏・木津氏・香芝氏・生室氏・名護氏等相加はりて大王を卽位せしめ國を倭國と號したり。凡そ支那年号の泰始己酉年にして北魏の皇興三年の事なり。
國記より
五、
丑寅日本國にては建國五千年の暦を盡せり。吾が國は人祖を山靼より國の住人に渡りの創祖とし、爾来子孫に満つ。國を肇むことに歴史の久しきを渡る阿蘇部族・津保化族・麁族・熟族の分布にあるは、それなる渡来の時差に依れるものなり。その少數にもたぐれば五十七族に及ぶと曰ふなり。凡そ此の國に人の渡りに歴史を遡りては十五萬年乃至三十萬年前と曰ふは、語部録の記逑に證す。
語部とは幾千年前よりツルシとて昔より世にある事の故事を後世に傳へ遺す語り印にて事の由を綴りたるものにて、文字と同意たるものなり。五千年前に山靼渡来の歸化人にシュメールのカルデア人ありて、シェムデトナスル語印、更にバビロニア語印・アッシリア語印に傳はりて更にはフェニキア及びヘブライ人の語印にて混合して遺れるは語部の語印にして、地語にてはツルシとぞ曰ふなり。七種ありて今に遺り、その種印にて時代を知れり。語部録とは是を記したるものなり。今に尚用ひらるは暦なり。昔より傳はりたるものなれば今に通用し、手紙にも用ひらることありぬ。
六、
世にある年の印しに年號ありき。
倭國にて大化と名付けるを創めとして五年。白雉は二十二年。白鳳は十四年。朱鳥は十五年。大寶は三年。慶雲は四年。和銅は七年。靈亀は二年。養老は七年。神亀は五年。天平は二十年。天平勝寶及び天平寶字は倶に八年。更に天平神護は二年。神護景雲は三年なるも同代なり。寶亀は十一年。天應は一年。延暦は二十四年。大同は四年。弘仁は十四年。天長は十年。承和は十四年。嘉祥は三年。仁壽は三年。斉衡は三年。天安は二年。貞觀は十八年。元慶は八年。仁和は四年。寛平は九年。昌泰は三年。延喜は二十二年。延長は八年。承平七年。天慶は九年。天暦は十年。天徳は四年。應和は三年。康保は四年。安和は二年。天禄は三年。天延は三年。貞元は二年。天元は五年。永觀は二年。寛和は二年。永延は二年。永祚は一年。正暦は五年。長徳は四年。長保は五年。寛弘は八年。長和は五年。寛仁は四年。治安三年。萬寿は四年。長元は九年。長暦は三年。長久は四年。寛徳は二年。永承七年。天喜は五年。康平は七年。治暦四年。延久は五年。承保は三年。承暦は四年。永保三年。應徳は三年。寛治は七年。嘉保は二年。永長は一年。承徳は二年。康和五年。長治は二年。嘉承は二年。天仁は二年。天永は三年。永久は五年。元永は二年。保安は四年。天治は二年。大治は五年。天永は一年。長承は三年。保延は六年。永治は一年。康治は二年。天養は一年。久安は六年。仁平は三年。久寿は二年。保元は三年。平治は一年。永暦は一年。應保は二年。長寛は二年。永萬は一年。仁安は三年。嘉應は二年。承安は四年。安元は二年。治承は四年。養和は一年。寿永は二年。元暦は一年。
文治は五年。建久は九年。正治は三年。建仁は三年。元久は二年。建永は一年。承元は四年。建暦は二年。建保は六年。承久は三年。貞應は二年。元仁は一年。嘉禄は二年。安貞は二年。寛喜は三年。貞永は一年。天福は一年。文暦は一年。嘉禎は三年。暦仁は一年。延應は一年。仁治は三年。寛元は四年。寶治は二年。建長は七年。康元は一年。正嘉は二年。正元は一年。文應は一年。弘長は三年。文永は十一年。建治は三年。弘安は十年。正應は五年。永仁は六年。正安は三年。乾元は一年。嘉元は三年。徳治は二年。延慶は三年。應長は一年。正和は五年。文保は二年。元應は二年。元亨は三年。正中は二年。嘉暦は三年。元徳は二年。元弘は一年。正慶は二年。
建武は二年。延元は二年。暦應は二年。興國は二年。康永は三年。貞和は一年。正平は四年。觀應は二年。文和は四年。延文は五年。康安は一年。貞治は六年。應安は二年。建徳は二年。文中は三年。天授は永和と倶に四年。康暦は二年。弘和は永徳と倶に三年。元中は至徳と倶に三年。嘉慶は二年。康應は一年。明徳は四年。應永は三十四年。正長は一年。永享は十二年。嘉吉は三年。文安は五年。寶徳は三年。享徳は三年。康正は二年。長禄は三年。寛正は六年。文正は一年。應仁二年。文明十八年。長享は二年。延徳は三年。明應は九年。文亀は三年。永正は十七年。大永は七年。享禄は四年。天文は二十三年。弘治は三年。永禄は十二年。元亀は三年。天正は十九年。文禄は四年。慶長は十九年。
元和は九年。寛永は二十年。正保は四年。慶安は四年。承應は三年。明暦は三年。萬治は三年。寛文は十二年。延寶は八年。天和は三年。貞享は四年。元禄は十六年。寶永は七年。正徳は五年。享保は二十年。元文は五年。寛保は三年。延享は四年。寛延は三年。寶暦は十三年。明和は八年。安永九年。天明は八年。寛政は十二年。享和は三年。文化十四年。文政は十二年。
以上になる暦代年表と相成りけるは倭史になる年表なり。
天保十年八月一日
奥州津輕飯詰村下派立
和田長三郎
七、
此の國は大古の程に歴史の層深し。住民の祖をして、山靼の大陸に故地を抜け此の丑寅日本國を住國としける髙祖より大王を選びて國主とし、その累代に泰平を護り人命一義の尊重。第二義に民の安住、第三義には睦みたり。神を信仰せるは、その和に欠かざる故の集いたり。神秘限りなき宇宙への究め。大地の生産。海涛に生産になる神の惠みに信仰ありてこそ幸に叶ふ安心立命を得んとて、住民は挙げての信仰たり。天と地と水の神は荒覇吐神とて、一統信仰にして諸國の人住む山里に渡りぬ。是れ三千年前の事なり。
八、
荒覇吐神信仰に、イシカカムイと曰ふは宇宙を神とせる信仰にして、荒覇吐神の神事の大事たり。北極星を祀るはイシカカムイの神事。最も重條なる祭事にして、そのヌササンは山頂にて謹行す。
九、
渡島の地は風蓮湖・能取湖・サロマ湖・網走湖・温沼・摩周湖・屈斜路湖・阿寒湖・塘路湖・厚岸湖・朱鞠内湖・湧洞沼・生花苗沼・然別湖・厚摩湖・勇拂湖・支笏湖・洞爺湖ら各々ガコカムイのヌササン處なり。またホノリカムイを祀るヌササンとは、知床山・雄雌阿寒岳・日髙ベテガリ岳・大雪山・ニベソツ山・惠庭岳らなり。もとより渡島全土に於て、地住民のなせる神イヨマンテと曰ふ神祭りありけるも、古になるは荒覇吐神を祀る行事とは異なりぬ。
祭に熊を華矢に射留めその魂を使者として北極星に遣はすと曰ふ、地民が祖来の神事なり。渡島に住むるは後世移住民にて、オロチョン・ギリヤアク・ウデゲ・クリル・モンゴルらの混血に成れるも、先住なる民の子孫また北見・日髙に二萬年乃至七萬年前の史跡を今に遺しぬ。連圓立石のヌササン跡。鳥形文字。マギリなどの石刃。秀なる石鉾・石鏃。全千島に、樺太に見付くるあり。その流通に船を早世より用ひたり。トナリと曰ふ皮舟ありきも、今に遺るはなかりき。
十、
夜を明かす日輪タンネカムイ。昼を暮なす月光。億兆の星明かり。天界を蛇曲せる銀河。みなながら宇宙は神々の聖域なり。日輪は時を造り光明寒暖を造り、月は海潮を干満し、星は神の法則にありて生とし生ける萬物の生死を命運せるものとて古代神は人の心に成れり。荒覇吐神を宇宙に見つめて感得せし古代カルデア人。それを民一統の信に導きたるグデア大王・ギルガメシュ大王の哲理は、民族の新天地に人を移しめ吾が丑寅の地までに至りぬ。人は文字を造りて、千年萬年の後人に語る術は古代シュメールの地にて成れり。われら是を奉りて丑寅日本の古代に遺習を尊とき導きとし護りなん。能く覚つ置くこそ歴史の正傳たり。
寛政六年七月
爪田清三郎
北鑑 第卅巻 附書一
戒言之事
此の書は他見無用にして、門外不出と心得べし。一書たりとも失書あるべからず。
秋田孝季
一、
奥州の出羽に越ゆる双股邑に築きける城柵あり。地名のまゝに是を双股之柵と曰ふ。築城せるは淨法寺法印安倍道昭なり。道昭、俗名を良昭と稱し日本將軍安倍頻良の次男にして、幼少の頃より佛道に志し天台坐主之度蠂を受け剃髪す。叡山に在ること十年。二十六歳にして歸郷して淨法寺に入り寺住し、中興開山と相成れり。永承丙戌年、兄賴良の長子・井殿を弟子と為す。諸國を巡脚し諸學に修す。永承辛卯年、奥州衣川に在りて平泉に佛頂寺を建立しその落慶の砌り、阿久里川にて貞任、藤原説貞と事の恨因起し討物交ふる件、多賀城兵挙に騒動す。その因仲々に和睦の議奉らず。道昭是れに仲裁せど説貞入れず。遂に應じて六郡の兵挙と相成りぬ。
時に賴良、自から多賀城に赴き源賴義と對面し、道昭これに警固す。同道せる奥州武士八百六十騎、多賀城を外包す。和の議物別れに睦みなく遂にその二番隊清原武則、一萬二千騎を以て賴良に進軍を援じ、羽より鳴子に越ゆとき、京師より安倍氏への和條ありて事なかりけり。時に道昭、一族の危急なる兆を覚り、僧を辭し名を良昭と旧名に名乘り、先づ生保内に柵を築き更に双股邑に双股柵を築き是を北浦六郎に委柵し、己が鹿島臺に楯垣し、湧耶に舘を築き多賀城の見付に當りたり。時に京師にて都度に議し、事治めんとせるに賛否甚しく對して決せず。武家源賴義を召して事の次第を謀りけるは古に坂上田村麻呂の故事に習ひ、蝦夷は蝦夷を以て討つの議に定まり、その的中になるは宇曽利富忠・清原武則に多者誘賄をなし遂に安倍一族への反忠の盟約をなせり。
良昭是を察知し事の由を賴良に告ぐるも、頻良の死去に依りて一族の對敵に避けたり。然るに宇曽利の富忠、時至りとて兵を總挙し気仙沼の金為時に通じて江刺に迫りける軍勢二千餘騎、岩谷洞に布陣せり。報を得て天喜五年、賴良、富忠に對面せんとて江刺に赴き岩谷洞に少かの臣を倶に来たるを、待ち狙ふ弓手に射られ一の箭・二の箭を拂ひども三の矢に首筋を射られ、引返して傷を掌當せども生に叶はず死せり、と曰ふも定かなる事の明細を傳ふなし。しかさず安倍良昭、軍勢を指揮なし人首に退く富忠を追討し捕ひて、逆釣に大本に縛られて刑死せり。宇曽利の富忠とは安倍一族にして、道昭の入道以来、道昭が頻良より下されし地領なれど、出家にて富忠に委領されたる所領たり。かゝる源氏の画策に、富忠乘じて己れもまた奈落に堕りぬ。道昭こと良昭は黄海に源氏を敗りしも、次なる奸者・清原武則の反忠にて、康平五年に厨川柵落舘にて道昭と僧に復し、双股邑に方丈を結び、その地に入滅せり。荒三瀧澤に聞く水音、岩に絶ゆる日輪を拝し眠るが如く往生すと傳ふ。方丈跡ぞ今に愢ぶる道昭の生涯たり。
二、
流るゝ水の源は雲突く嶽の天降る雪や、八雲雨しばし岩根を下潜り湲の流れとなりて澤結び、瀬音瀧音山降り淨なる大河となりて海に出づ。流れの絶間あらねども、水はもるなる水はなかりけり。浮世の常のみなゝがら、海出づ水は涛々と波にしぶきて湯気となり大気となりて昇天し、雲に流れて嶺に雫の岩根に復た甦る。清水の絶えざる流れとなりぬる事ぞ、生々萬物の生死輪の理りに同じなり。人の生死もかくなれば世に人の絶ゆまなけれども、もとなる人のなかりけるは水の流れと亦同じける。一生の生々も過ぐる光陰矢の如し。世にぞ顯れ消ゆるその相は流れに浮ぶうたかたの如し。
〽なからんに
顯はれ消ゆる
うたかたは
人の生死と
能く似たりけり
安倍入道良昭の遺歌なり。さればにや、今日には他人の葬に明日は吾が身の逝く理り、なべて輪廻の定なきに非らざるはなかりけり。
慶長二年正月元旦
秋田城之介實季
三、
倭史ほどに北方を忌むはなかりき。是れぞ輪廻の昔継罪障の因縁断たざるの故なり。世襲に惡なす事の盡きざれば、己れまた惡の因果に滅び逝きぬ。栄華は劫り易く、惡また久しからざるなり。安倍一族を征夷の非理屈にて源氏を挙げて日本將軍を世に滅亡とせしにや、安倍一族は不死鳥なり。荒覇吐神は久遠にして安倍一族を世に見捨て給ふなし。一族の中より北の一星。安倍貞任が遺兒・髙星丸が東日流に落着し、茲に一族再興を速やかに果したり。姓を安東と改め、さまよう旧臣を集め、十三湊をして安東船を起して異土交易に商を以て大益を利せり。東日流の地は山靼流通に依りてその富を得たるは天運たり。渡島地産・海産の干物を得て、益々商易に速進して安東船の船造大いに振起せり。
三 、
此の國の歴史の事は何事にも蝦夷たるの一語に盡きる他に、古史傳来の實も年毎に忘却に滅す。古史の證になる遺物・遺跡も亦然る處にして、遺物にては倭商に買はれて大事たる歴史のまつはりを失なふあり。更には、遺跡たる神社・佛閣もまた歴史の由来に古きものは改神亦は取潰しに抹消さる多し。なかんずく荒覇吐神社・修験寺に傳稱せる古跡を壊し、再興を禁ぜる多し。かくあるを安倍一族に在りきは、是を防がむために表を倭人の神なるに改へ、荒覇吐神社を荒磯神社・洗磯神社・荒神神社・荒脛巾神社・藁脛巾神社・客大明神堂・門神堂と多採に名目せり。然るに、仮名字にてあらはばき・アラハバキとて社名せるもあり古社を護りなんとす。今に尚以て神圧の解けるなし。然るに必ずや解氷ありぬ。
四、
秋田生保内に辰湖あり。余多の傳説、今に遺りぬ。辰子をめぐる傳説に瀧夜叉姫なる神話俗話の混合ありけるも、平將門の遺姫・楓と曰ふ姫の母たるを辰子と曰ひり。辰子にまつはる多説の傳ありきも、藤原秀郷の追手に脱して生郷生保内に赴き、幼なき楓姫を乳母・松蟲にたくし己れは生保内湖にさして遁ぐるを、追手に寄詰らるまゝ湖に入りて死すを、敵を前にその様を見せ付けぬ。依て追手は去るゝも、遺されし楓十八の春を迎ひし頃、坂東より父將門の遺品とて屆くる一包あり。古き巻物たり。その聞え秀郷に達し、家来を生保内に遣したり。その報ありて楓姫、石尊寺に隠るゝも、訴人ありて知られその討手に、とありき斧を討物に對して闘ふも所詮女人の手向ひは果なしな、長刀に討死せり。
〽山吹の花にも似たる
將門の
遺姫は眠る生保内の里
さてこそ物語る楓姫の墓ぞ今に遺りき。
五、
支那に天文の學を修むる處は、城刑山の山麓に伯道仙人をして金烏玉兎集の奥義ありと曰ふ。安倍晴明、是れに學ぶと曰ふ。その授傳に依りて陰陽學・漏刻を司る陰陽師・天文師・暦博士ら方鑑秘竅・考源通書・宗鏡・三歳發秘・河洛協迪類書・暦目義解・五要奇書・經左氏春秋史記・五種木火土金水通徳類・情簠簋内傳・方位窮源らの書ありぬ。是れ偕、安倍晴明の子孫土御門暦とて用ひられたり。然るに、吾が丑寅日本國にてはシュメイル暦にて應用す。日輪の赤道を左右にその黄道に春分・秋分と四季に割日し一年を三百六十五日とし、その季に北極星を廻る七星の星座を運行の方位に計りて成せる暦なり。日輪の入日と月出を計り算術せるはその暦に何事のあやまりなく定かたり。是を語部暦とぞ曰ふなり。
六、
丑寅日本國の史を明解せるは唯一向に語部録とは限らざるなり。神をして作造されき荒覇吐神にてその新古を知らるなり。古きの順に型あり、質に異りその作造工程に能く顯れり。
・・型、・・型、・型の順なりき。地名になるもその證にして、ナイ・ホロ・シリ・ベツ・コマ・フツ・ショロ・ウシ・タン・シルらの付名ある處、古人の集住せし處なり。渡島・東日流・宇曽利・飽田・火内・鹿角・仙北・庄内・閉伊・越・岩・磐に古跡ありけるも北程に歴史の古きに在りぬ。依て老人に聞くは、人祖北より至ると曰ふ。人祖の創住を語部録に記しきは、人ぞ猿類より人と成りにきは一千萬年に遡りて、更に人と成りにけるは十五萬年乃至三十五萬年の經に在りと曰ふなり。吾が丑寅の地人祖の渡来しきたるは是なる歴史の上に在り。その部族を大区せば七十八種族に在りと語部録に記をなせり。
七、
古代人の器に依りて人祖の衣食住を知れり。・型、・型、・型、・型、・型に類せるは新・古の故なり。
土を砂と混合し砕粉となさしめ水を加へトロロを加へて練り、型手作りし干して野火焚きなして素焼にして固むるは女人等の作なり。男等は石を採りて割作せる石刃の類にて、石を求めて山海越えて求め得たり。また色石に穴をあけなして玉造るも然なり。玉のあるは財にして重く、一族の先達と相成れり。更に毛皮のなめしなり。縫ひ仕上げるは女人なり。食生は鳥・獣・魚・貝の生と干とのものにぞ作り保食を先とす。ホルツと稱すは肉の干物。シグサとは干菜。シジョジョとは干魚。ケグサとは海草。セモツとは鹽にして、シダとは干穀物なり。更に鹽にて漬たる魚・菜物ありぬ。シボシとて煙りにて干せるもあり、その類多し。とかく古人は食生豊たり。着用せる毛皮とて黒てん及びラッコの身に染みぬを下着とし、表着は犬皮たり。
八、
丑寅の北海は海幸に溢る處にして、住人の多くは海濱・川口に住める多し。濱に寄せ来る鰊。川に登る鮭。巣だく海鳥の群、何もかも美味なるもの多し。狩猟にも餘る海獣。ときには鯨を濱に追ひあぐあり。コタンにはその物見髙樓を海濱に建つる。漁舟はハタと曰ふ丸太刻りの舟なり。長さ三間半・胴中三尺を抜き波楯を保垣と建つるものにて皮帆にて加速す。釣針に骨製・石製あり。更には打銛を骨製に石製に作れり。
トナリとて皮網を作りて縫糸とも為す。トハリハタとて皮舟あり。氷海に兆むなり。網はシナマンタの木皮を用ふなり。ダバとて浮木を用ひ網を海に立てなむは古代よりの風勢たり。弓を作り矢を射る鳥獸も總てコタン總出の狩猟たり。海は丑寅の生命にて、必要を越して狩漁せることなかりき。常にして山に舟となるべく大木を冬に伐して濱に山降しも運材の千惠たりと曰ふなり。雪こそ運材の便たり。
九、
代々を經てみちのくは無史の國たるに、人は見返りせざる國たり。然るに證なるを示しては奪取されて消滅され、隠しては責め科を以て罰とせしにや。世に歴史の史實もたゞ水泡に消ゆ耳なり。古になる信仰も邪道として排斥して、是また忍拝にまたは改稱にして隠れ信仰と相成らしめたり。古傳になる一切はたゞ世襲に翻弄さるゝまゝ今上に至りぬ。然るに地住の民は、古なる荒覇吐神を心に祀り心に秘めて信仰の一義とせり。
此の國はもとよりの住民少なく、世の乱れ毎に北落に赴りて安住の地に定着す。聖地なるも、その遺物にあさる者に荒さるなき深山幽谷の地に在りせば、世襲に失ふることなきは幸ひなり。石塔山は能く保たれたり。かゝる世襲の久遠ならざるは必らずや至るなり。心して往古を護るべし。
十、
安東一族の津輕を所領放棄して以来、津輕に南部の縁族に定着さるゝも、その史跡にては何れも抹消ならざるなり。安東一族は厨川落以来、一族の再興に利ありて住むるも、徒らに世襲の贄とならざるなり。民多くを死傷せしめてまでも、住地を死守せることなかりき。祖安日彦大王以来、人命尊重一義の主義を先とし、更に安住の地に求めたり。
渡島・秋田、六十餘州何處にも安倍・安東・秋田氏の子孫ぞ今に住めり。倭の地に於てもその子孫の多きは今に知れる處多し。古より唯一向に荒覇吐神を信仰しその神事に変るなし。諸國に今尚遺れる荒覇吐神をして祀らるはその故なり。能く知るべし。荒覇吐神信仰に於ては平等信仰にして、その信仰に民の睦みと爭ひを避く。唯一向に救済一義の親睦をなさしむるは、倭人の他は山靼にその實を挙げたり。
十一、
佛法は、萬部の經と金剛界・胎藏界の佛像信仰に、本来の佛法には非ざるなり。釋迦牟尼佛の世に遺したるは次の如く悟道の求道に導きたる耳なり。
諸行無常是生滅法
生滅滅己寂滅為樂
是の如くだけなる教導たり。荒覇吐神信仰も是の如くなればなり。信仰に迷信を除き、神のなかに我を知り、我れのなかに神を知り、生死のなかに我が生涯を知るべくは、心に誠の眞理そして神に信仰になる己が一切を天命にぞ安ぜるの悟りに、安心立命を己が心に固ければ荒覇吐神信仰の本命たり。古代カルデア民のなかにグデア王、宇宙の神秘に仰ぎ日輪の運行に信仰を求め、宇宙の肇より神ありと、アラハバキと曰ふ神の感得に達したり。宇宙に信仰の源を發し、地に萬物生命の蘇生とその進化になるを、神の全能なる神通力とせる信仰の要を、外道に迷はざるを信仰の旨とす。
十二、
論は如何に盡しても行はざれば唯の論なり。その實益に得ざれば空なり。人生に、その生々風土に依りて異り、生々に平等たるは住むる民によりけり。信仰に於ても住民各々異なりぬ。依て山靼に於ては、人種多種混血にあり各々信仰の自在たり。モンゴルに例を見つるに、一族にしても各々その信仰ぞ自在たり。唯一族の掟に反くなく民族の睦みに欠くなし。
かゝる泰平の地に犯す者ありせば一族挙げて防人となりて是れに應戦せるは丑寅日本國の民なり。然るに、徒らに死に殉じて護るはなかりき。退くとも人命ありせば、山河幾嶺に越ゆる脱難にも、勢を復してはその奪回を得る在りきの一義は、人命の尊重にして命脈ありてぞ復せるを可能とせるを速復に叶ふるも、滅亡に在りせば復し難し。生命ありて何事も事に復し易きとて丑寅の民は常に心得たりと曰ふ。
大正六年八月
和田末吉
和田末吉 印