北鑑 第卅三巻
(明治写本)
戒言之事
此の書は他見に無用、門外不出なり。一書たりとも失ふことあるべからず。
秋田孝季
一、
昔より老いては子に従がえと曰ふ諺ありきも、老いては己にはげめと曰ふは、丑寅日本國の心得たり。吾ら若きうちは末をはるかに想ひども、老ふ程身體不自在となりせば心は憂きて、いかに身装若造りせども身に湧く老の追日に苦しきは脱け難く、たゞ逝くべくの日を心に怖れ乍らかきくらすは淋しきなり。信仰にぞ、にわかに發願せども、老いては安心立命の心に得難し。
古代なる吾等が祖人はかくある老いの機に至る先きに、荒覇吐神の法則として心得たるは、心身を天命に安ずる理りのなかに邪念を断つ己れを越ゆる心の迷を正して、新生せる己が魂魄を人として生る心の強き精進に心身の調和を以て成せる老いの余生を心得たり。老ひては自からの病にめげず、治るとぞ生々常に身の程を健體行におこたるべからず。人委せあるべからず。自からの身體を老ふ程に食生と身装の程を究むこそよけれ。老いぼけは不断にして心のゆるみにて起るべく障りなり。病は食生に住居の程に招くなれば、老ふ程に日光に去らず隠くれず、適度の労を去らず學び、死期の至るまでぞ勤むべし。
寛政五年二月一日
和田壱岐守吉次
二、
荒覇吐神の信仰に天道・地道・海道と曰ふ哲理あり。太古より民心多く是を信じたり。天道とは四季に巡る日輪の地平に赤道をして春分・秋分の黄道の交る点に月日の入没・日の出を測りて暦の陰陽暦をなせる法にして成せる觀測たり。地海道とは潮干満及び地平に日月の東西に入日及び日の出を測るものにして、一年を三百六十五日とし春夏秋冬の天動・地海にその位地を地平や水平の方位に測りてなせる暦法なり。代降りては土御門式なる暦法に寄せたるも、丑寅語部暦にはその先なる大古暦に一年の計を定めたり。何れも差程の相違御坐なくも、圓列石跡今に遺りきはその故なりき。
三、
春宵月やあらぬに、天にも突くや和光の影。櫻かざし一刻の緑に先なす花の紅に、𡶶の嵐や湲の瀬音。雪のうちより解け、まして楊梅桃李色香に染め、今ぞ春の盛りぞ。中山はかしこに花開けて山みな染むる時を得て、散らぬさきにと目かれせず人は見とれり。
〽咲く花の
中山いかに
あれはとも
山吹染むる
八雲を添へて
石塔澤の草堂に落書の古歌を見ゆ。古き古跡のあらむ此の山を敬って申す。古墓のさながらに名は人めきて日乃本將軍の故事になるより先々の、かごとそことも知らで今に遺りきね。
三 、
東日流中山に大倉山ありて外濱に向ひて石垣積むる城柵やあらむ。地民是を號けて耶靡城・耶靡堆石垣とも號くあり。幾千年の古きにありて、今にもとなる星型の跡や判じ難く、たゞ昼尚暗きあすなろの大森林たり。この史跡に近く石塔山、坪毛山、飛鳥山、魔神山、三内圓山、奥内山と倭語・丑寅日本語になれる混稱せる地名多しと曰ふ。
古にして外濱を合浦大濱と稱し、此の地濱辺は古なる人の大集落たり。大聖地を石塔山に仰ぎ、それに向ひて石神の髙樓にヌササンを焚きにける神事ありけるは海湾遠く丑寅の川内・奥内に見屆けられたりと曰ふ。東日流中山は大里・外濱の背峯にて、太古よりカムイ山とて梵珠山より龍飛の岬まで神を祀れる峯多し。何れも荒覇吐神の信仰にして、ヌササンの聖境たり。
四、
虹氷の吹き巻く極寒の地に冬ごもりして地の見渡し限りの銀世界。灰色とばる空の雪雲。地に横なぐる風。見うずる冬景色の眼を閉ぐる地吹雪に丑寅の冬は護られり。秋来たる鮭、冬来たる鱈の群。季節忘れず濱に寄せ来る鰊や鰰の群。古き代より冬の幸は極寒を倶に来たるなり。漁と曰ふより拾ふが如し。大鷲・尾白鷲・熊鷹の群ぞ濱岩の翼休むるを、鴉ぞ唖々と群襲せるも、ときには逆襲され餌食とならんあり。
潮の淀みに白鳥群泳すなかに混りて善知鳥の聲ぞ騒がし。かゝる冬風物。東日流上磯・合浦大濱に見ゆ冬景色たり。奥州より羽越になる住民に冬なくして生々ならず。冬のもたらせる白神は山の神・海の神、そして郷の神たり。是れまた荒覇吐神なり。諸行のなかに神をして祭る總てを荒覇吐神なれば、白神信仰を異なせるはなきなり。白山神、白神山神。何れも意趣に同じけり。
五、
とことはに夢幻の一睡ありありていふならく。道芝の露けきをかなぐりて古事に旅をかきくらし、髪はおどろ人間目前の境界。いつを限りにさなきだに史跡を尋ぬるかた、京の有りつる所に赴りては、洩るゝ草木の昔を今に返すかげろふの道を今降るも宿は昔の、時雨由ありげなる古老に訪ぬる地。古の史や聞きにし綴るを重ねたる文に號けて東日流外三郡誌・東日流内三郡誌・東日流六郡誌の巻冊。旣に七百六十五巻の數を積みなせり。
文の事のならひに浅ければ、五體もつゞかず、當字くやしき學道の異差。我が此筆の跡ぞ恥かしく、いろいろに秋田孝季殿のそと學うで會稽に雪がん毎日の望みたり。尋史の旅はいつぞ終りの果てもみゝ得ず、宿にて今日を一日の古跡由来の事ぞ綴りてぞ、夜更けて終り寝にぞ入りなむ。闇き外より月光紙窓に樹枝映し、かりがねの聲ぞうつろに。
長三郎日記より
六、
一筆啓上仕り候。久しく御殿の御書状を承はりて、恙が無く御健勝にあらせられ候由、誠に御安堵仕り候。兼て御申付の事田沼様に言上仕り、由無く許に賜り候へば御殿の御申添ひあらん事の吉慶に感じ恐悦至極に御坐候。蝦夷地罷りの事に御坐候は一切に老中にて費の賄ふ御用金の拂賜に相成りて候へば、三春藩勘定の御配處便達ありまずく候。出時御用船の土崎湊に寄るべく事の由、未不祥に御坐候に付き追て御飛脚仕り候。
孝季文控より
七、
夕くれなゐの木隠れに鳴く蟬の聲ぞ絶ゆれば、夜もすがら池水に騒ぐ鴨の聲聞く伊治沼の舟宿に寝もやらず、安倍氏の故事ぞ綴りぬ。日本將軍天地を動かし唵阿毘羅吘欠の祈りに、十二因縁のひだ、九會曼荼羅胎藏黒色の脚絆、八目の草鞋脱ぎ納めたる伊治權現の遺物を堂主安倍山城守より賜り、明日は三春に赴き御殿に献ぜん悦びに尚以て寝もやらざるなり。久しく會ふは江戸下りの在郷にて對面の叶ふるはまれなり。
巡脚尋史の書巻、旣にして一千巻を越え、安倍一族の諸事を旧書に倍し、今執りし筆は安倍氏上系譜二十年にして筆を了りぬ。依て上は耶馬臺の耶靡堆大王より、下は今上の三春殿に至る一切に綴り了りたり。山靼記十六巻・繪画帳相成り、かねて乙之介の申付通り東日流石塔山に納め了りぬ。
孝季日記より
八、
凡そ三世の契は身のなる果の無為に入らばや。仮へに昔在靈山に薩埵の印明内身三昧空も重なる程に受くるとも、心の一点に疑ひのあだ心中に隠しては大乘外れて奈落に堕ん。五逆の本性金胎界曼荼羅の龍鱗一片にも及ぶなかりき。依て、瞋恚の敵は自我心に決起ありて崩るなり。千日の行・立身の萬願も一刻にして空無常に返しまず。露もたまらん愚考に惑ふ勿れ。吾等が求めにし丑寅日本國史は實史なれば、いささかも怖れなく世の末に遺りなん。
寛政六年正月元日
秋田孝季日記より
九、
今めかしき心なき夷の國と九牛が一毛だに身もがな二つなきにありけるを、眞實を去り偽造にして衆布にせしは倭史なる神代史なり。史實にありけるは權握に障り、民心を擁するに反感を強のり、かくある程に偽史以て迷信の神事を以て眞理の達文に賛造せり。従がはざるを断罪し信ぜざるを不敬者とし、是れに反くを國賊とし無視なる者を蝦夷とせる世襲の久しきに民はその制に染むるも、時の過却になり逝くは古事の眞偽に左右を今に遺しぬ。
然るにや幾千年に偽を權にて保つとも、人は人なり神は神にして変るなし。世は人の智に進み、いつまで草の權政は神代に以て人心を擁すは難し。されば眞實は二つなく、偽は多採なり。何れを選ぶるるも人によりけるなり。然るに夷蝦と曰はれ、永きの制にありき丑寅日本國をしてその眞實に起つ日のあらんは近し。
十、
越の阿賀野川にては、風をダシと曰ふ。川舟を造り川を往来せる舟衆はダシの吹ようで運行を判断せりと曰ふ。安東船が阿賀野河口湊に荷を積降すは月に二度にして、その寄湊は小濱歸りにて歸荷を降し、東日流への米を積みけるを常とせり。近く信濃川ありてその流通ぞ多し。信濃川河湊にては安東船の寄湊せる數多くして川船衆五百人を越ゆありぬ。冬を除きて十三湊との往来、年に百往復たり。濃州に至る地産物、その商易大なり。安東船は是の如く越をして往来盛んたり。
十一、
雪降る國、西の海なす國の常なる年々の風物なり。言葉速く短けく、老いて長寿なり。川に登りくる鮭のオナはメナを付ひて来たるを、大釣針にかけあぐも秋なる味覚なり。丈なす積雪も労々降して家根護りぬ。異土と陸近かければ、カン船・クヤカン船、来舶あり。異風、地民に流はやりぬ。西海濱に異舶渡になるは異土民唄、鳴物にては胡弓・銅鑼・笙・琴・琴箏・琵琶・腰鼓ら多し。神の信仰になるは白山・白神山の神・九頭龍・饕餮・白虎・白狐・白鳥ら多し。
十二、
城柵の縄張りは天地水の方位に基して中心に天守、南に景門、北に休門、東に傷門、西に驚門。辰巳に社門、未申に死門、戌亥に開門、丑寅に生門を避くる。八方に界線ありせば己午の間・申酉の間・亥子の間・寅卯の間、更に卯辰の間・未申の間・戌亥の間・子丑の間・寅卯の間なるべし。如何なれば、地軸の廻轉は南北の羅針に正位ならず。宇宙の北極星に正軸せる故に、天運を招くは此の間に地勢あり。水清ありて成るは大吉とせり。安東一族の城柵配築は是に基く。
十三、
安倍頻良、一族の讀書算を覚つ學文導を童のうちより覚ゆ智能を心に育しめんとて、長人には歌作をすゝめ、童に讀書算を進めたり。依て小邑とて、一軒の學舍を建て學師を配して學ばしむ。世に是を智得舘と稱し、六歳より十歳まで農にいとまなる期に教えたり。學に志す者、老若男女問はずこれに通はしめ歌の事、民に流行す。
亦、古談を古老に語らしめ、古き世の事・讀み書きの事・數計算の事・武岐乘馬の事にて大いに學ぞ民に悟らしむ。算術を知るは損得を知り、くらしに憂なし。文字を知りせば至らずとも事に傳はり、語を書きつるは死しての後々に己が遺言に生き、讀むを得たれば、尚學に長じて智者とならん。學の道に人の上下なし。人は學びてこそ金剛の寶珠とならん。文盲なきに、能く學に精進あるべし。頻良が自からも家臣に指令せるは長元壬申年七月六日に至り智得舘六十七と曰ふ。
十四、
丑寅日本國と國號せる由来にては、丑寅ほどに日の出づるを先とせるが故なり。陸奥に於て日の出・日の入りを測りては一年に通じて左の如くなり。
一月の日の出は明け六ツ下刻、日の入りは六ツ下刻。
二月の日の出は明け六ツ下刻、日の入りは暮七ツ上刻。
三月の日の出は明け七ツ半下刻、日の入りは暮七ツ半下刻。
四月の日の出は明け七ツ半下刻、暮は六ツ上刻。
五月の日の出は明け七ツ上刻、日の入りは暮の六ツ下刻。
六月の日の出は明け七ツ上刻、暮は六ツ下刻。
七月の日の出は明け七ツ上刻、暮は六ツ下刻。
八月の日の出は明け七ツ上刻、暮は六ツ上刻。
九月の日の出は明け七ツ下刻、暮は七ツ半下刻。
十月の日の出は明け七ツ半下刻、暮は七ツ半下刻。
十一月の日の出は明け六ツ上刻、暮は七ツ上刻。
十二月の日の出は明け六ツ上刻、暮は七ツ上刻。
是の如くなり。陸奥にての日の出の早刻にあるは魹ヶ崎なり。十二神山を是の地に祀るは、一年十二ヶ月の神々を以て日本國安泰を祈り奉りたる故縁なり。
十五、
雨のあしべに寝を覚めてまたつれづれもなき世にある様を書綴る。いにしへ人の遺しける歴史の證や心あらん。人に護られきたるみちのくの日髙見川を舟降る處々の史跡に巡りては、世を秋風の年に去りにし跡々を謹上再拝す。地の古老に訊ねては、宿りて筆なせる己が常なる旅のあがきにも逢ふは、また別れにて折ふし黄昏に云ひもあへねば唯實相無漏のありしに筆なす槿花一日のいとま非ず。
あからさま前世の跡に筆あやまざるを祈りつる。時には一樹の陰、野辺の草枕。憂きを積みつゝ旅を行く。昔ながらのなきかげ、をちこちの土に建つ苔に埋るゝ古墓や。命ありせば聞けるを想ふにやごとなし。衣川の櫻川落合に舟降りて波も音なき市掘に添へて歩むれば、猫ヶ淵の舘跡ぞ荒さびて草に放第たり。いかに歴史のありしを戦に残りし光堂や葦屋の毛越寺に筆とりぬ。
孝季日記より
十六、
年ふれば旅のよるべも時雨るゝ松風までもうらさび渡る。我ははや諸白髪の積りぞきぬる立ち渡り、風もくれゆく夕されば忘れて年をよそや置き、ただよみて綴りける東日流外三郡誌ぞなれるも、人目をつゝむものなれば関越ゆ毎冷汗たぎる。さりともと名をも隠さで関越ゆ先は、また夜をこめて旅のかき暮らすこともおろそか。忍ぶもぢずり史跡をめぐりては老木の髙きとぶさ松が枝のなづとも盡きぬ跡のしるしと想ふなり。松島にいでこしてはうろくづすなどりて海人ぞ𩗗風敷波こりもせで心もとなや。
多賀城端にあらはばき神社を訪れ天神堂・地神堂・水神堂を拝し、眞如平等の感にいぶせくてあれども燈火絶えず。太鼓は朽ちず建物三堂健全たり。しばらく堂の守屋に老婆と故事を聞きけるも樹の鶯に聞取る筆のとゞまりぬ。老婆ゆひかひなく指にて髪をこしくり乍ら古事を語らむ。おくれずと筆なす我もまた指にて髪をかきあぐるをよしなかりけり。多賀城は古にして倭人のはべりける處なりけるに、このあらはばき神を地民に遺しけるは固き信仰にありける由因たり。何なかなかに陸奥人の信仰に妨ぐるを制へしは坂上田村麻呂と傳へ遺らん。
寛政五年六月十日
秋田孝季日記より
十七、
世にある事の記しきこつじきは神代にて、髙天原と曰ふ天つ國在り。神なる神孫、筑紫の日向なる髙千穗の嶺に降りて、世に天皇とて此の國を治め給へきと曰ふ。また此の國は伊冊那岐・伊冊奈美の尊、天の浮橋にてあまのぬのほこにて天つ下界をこほろこほろとかきめぐらし、揚げたる鉾先より滴たゝる雫にておのころ島と曰ふ八州ぞ地となり、此の島に天孫を降臨せしむ。神勅に曰く、
〽とよあし原の千惠穗秋の瑞穗
の國は是れ吾が子孫の君たるべき
地なり。浂ゆきて治めさきくませ。
あまつひつぎと倶に栄ゆべし。云々。
とは世に無かるべき夢幻なり。神代より天皇は萬世一系とし君臨せしとは造話作説のことにして何事の證にも無かりけり。かく夢幻の事を史書筆頭に用ひき倭史の事は信ずるに足らん。神とは宇宙なり、大地なり。そして水なる一切にして天然に在り、自然に在りて成坐せるを神とせるは丑寅日本國の國神・荒覇吐神なり。神通力全能にして、相の自在たるものにして時には龍巻き、時には大風雨となり耳をつんざく稲妻・雷音を降し、時には月を日をも隠し更に火吹く噴火を大地に震はしむ。人の惡に流疫し凶作を為しまたは津浪・洪水を起しめ災を餓死を流疫を爭乱を起しむるも神なり。神は人の都合に惠み非らず。生々萬物一切のものなればなり。ましてや人皇にして神の系とはあるべくもなかりけり。
十八、
わくらはにしば鳴くほととぎす。道に入りて方丈にかきくらす山賤の住家を求道堂と造り改へて住つるに、寂しき故にたまたま言とふ獨の言。内身三昧時人を待たざるに常樂の夢ぞ覚め、生ありながら前佛後佛一稱一念になびく嵐のもんだはず、心なくれそ生死長夜の鳴るは瀧水五濁のあかも打つ流し、一代教主三世の諸佛・十方の薩埵に諷誦文は今更こそに般若心經祈りても萬里風波一葉舟にも吾れが行足らず。妄念流轉無窮に譬へん方も辺涯一片の風よどれば天竺・晨旦のいづちも吾と同じ行者のあらん、はしたの者とはに。
孝季日記より
十九、
信仰に救済のあらばや。一年随喜なれども生死は時を待たざるなり。依て古人は荒覇吐神を人たる一統の信仰とせり。他教は如何にあれ、信仰に布施の散財多くしてその功徳なし。例ひば信仰に入りて諸行に身心を修すとも、常に生死の眞理に遠く隔て、もとの木阿弥に歸する耳なり。荒覇吐神の信仰とは是の事ならず。
神をして崇むるは、死ある己が心に四苦諦を以て立命し死に至りて安らぎとし、やがて新生に人間として生れ来るを安心立命とし、老逝く生々に在る己れを天命に安ずる心の固さを信仰とせり。依て荒覇吐神を天なるイシカ・地なるホノリ・水なるガコをカムイとし一心不乱に祈るこそよけれ。とぞ如何なる處にても祭文を誦し心の安らぎとせり。唱ふるは易く、覚ゆに難かしからず。次の如し。アラハバキイシカホノリガコカムイとくり返す。
廿、
宮城の地ほどに荒覇吐神の社跡多く在りき地はなかりけり。追波・田尻・津山・渡波・志波姫・一迫・湧谷・荒雄・鹿間・泉・鳴瀬・秋保・名取・亘理・大河原・丸森・鳴子らにありぬ。地民その信仰固く祭事の欠く年ぞなかりき。藏王に祀りき神、金剛藏王權現及び荒覇吐神なり。二尊をして祀る多きは是の故なるも、門神とて祀るに改めらるより二王を安置して荒覇吐と崇拝せるは後世のことなりぬ。古代にては人の型にあるべく無く、石神とて穴の空きたる石を供ふるを常とせり。
廿一、
陸奥路ゆく宿ぞ定めなくうらさび渡り我がまだ知らぬ古事の尋ねゆく初秋の七日。まだ夜をこめてようやく山賤の小屋に赴きたどりぬ。安倍の古事、遠野の貞任山に登りきも當らず。里人に訪ねたれば同じ名の山、北にありきと曰ふに猿石川を越え渡りようやくたどりきぬ。昔より此の山の秘ありければ、叶はぬまでも都津奇石の秘洞を探ぐりなば諸事を知るべくの故に、遠野に南北倶に貞任山と稱す二山に何をか秘のありけるを感ずるなり。未だに吾が意とせるは見當らねども諦らめず。
廿二、
奥州は代々にして未開の相を以て人入の居住、倭人ほどに妨げたり。古来より産金を狙ふて閉伊・飽田に間諜しける者は何れも狼の餌喰となれり。今にして安倍氏よりその秘を明されず。巨萬の黄金ぞ眠りけると曰ふ。康平五年、雪の解け方、安倍貞任は一族の十幾年に渡る長期の戦に民の困窮を察し、處々の秘にあるを千尋の底なる地底に集積せし財寶を落石土砂にて久遠に地の神に返し奉りぬ。
安倍安國以来、奥州・渡島に採鑛せし金銀を埋藏せり。そのしるべや安倍系図上記に秘めて、今にある系図は下の系図と曰ふ。元来安倍一族は黄金は富にあるも、狙ひば爭乱の火種となりて魔障にあり、人心を狂はしむあり。秘の秘として大なる産金の藏處を一族とて明しむるなかりけり。是を千尋の黄金と曰ふ。
廿三、
安日岳の靈峯を飽田・巌手の境とし、その分水三方に安日川・米代川・日髙見川に相そゝぐ水源にあり。四景の美觀、價千金にしてその地層に産金の鑛ありぬ。代々に黄金の鑛にたゞらの益ありて、山靼鑛師の歸化ありてその岐を得たり。吾れをして尋ねること三年余りにその採鑛跡ぞ二十六鑛に見屆けり。金銀銅鐡を以て奥州の地にその鍛治及び鋳物師らの職人、部の民として日本將軍の幕下に屬したり。山靼に航易せしは、能代湊をして振ひその益大ならしめたり。
廿四、
昨日御所状承り候乍、返報の遅れ候事幾重にも御詫び申上候。御申出の件、拙者如きに負背重く、輕學に付き出来得ざれば、他聖に申付下され度く候。御推察の如く渡島の北辰にオロシア船出没の事に候。由ある條は通商異人舘の築設の候事に、是を断じては大銃の撃に蒙り候事は根室にて被り候由、兼て江戸に申越置き候。
鶴首に待つ候も未だ何事の返事是れなく候へば、若し露船寄港上陸あらば松前一藩にては重責に候由を御貴殿の江戸登城の砌り、何卆老中田沼様に言上仕りたく候。幕府是れに放置あらば、松前總動に挙兵せるとも鷹に雀の闘對、なべて敵はざるべく候。右事の由を如件。
明和七年十一月
松前肥後
廿五、
渡島及び千島・樺太の領有は康和壬午年に標置し、地民倶に安東船をして國委の條に相讓りたる我等と同民の往来に在りきを當代の鎌倉に在りては馬耳東風にして何事の砂太も是れなく、安東氏が日本將軍とてその域を祭配し来たりぬ。依て永く山靼に交りの往来として樺太にその湊を六所に築港せしめ通商しクリルタイの盟約に加族せり。黒龍江を道として五十余の民族を加盟せる安東一族は、天山をも越ゆる民族とも通商せり。然るに安東氏の秋田移主・渡島移住の以来、渡島の他はその通商も事絶えたり。以来その治地に離れて幾百年に過ぎて、にわかに北領をして吾が領と幕府の急令に従がはむは、地民の同意非ざるところなり。
文政二年八月六日
秋田左ヱ門
和田長三郎
廿六、
渡島志海苔湊は古来、安東船のマツオマナイに次ぐる十三往来の寄港地たり。渡島の海産をして山靼及び揚州の通商せしは志海苔湊に集むる物資に盡きたり。
寛政五年七月十日
秋田孝季
以上卅三巻了筆
和田末吉 印