北鑑 第卅五巻


(明治写本)

書意

此の書は丑寅日本の失なはれたる歴史の實相を求めて諸國を巡脚し、諸々に集めたる傳説・諸話を綴りたるもの也。依て玉石混合なれど、百の一にも實相ありや。努めて記逑せしは唯一つなる眞實に迫當の念に他ならざるなり。世浴に信ぜらる道は遠けれど本意趣、老婆心乍如件。

寛政二年八月一日
和田長三郎

怪奇地藏傳

奥州及び羽州の各村に數多き地藏傳ありぬ。地藏信仰に於ては東日流の西院信仰あり、宇曽利の恐山信仰ありて、靈媒師イタコの口寄ありて地民の信心を今に遺しぬ。地藏信仰の厚拝は幼くして兒を失ひたる母、亦若くして夫を失ひける妻の信仰を深くせり。西院堂に献ぜる地藏尊を石刻してその菩提を念ぜる數、一千躯にも安置を拝しける。祭日に於ては境内人、山蟻の如し。人はこぞりてイタコに集ひて亡き者の告を聞きて涙しつるさま、妖景そのものなり。さあれ、地藏に不可思儀なる傳多し。夜泣地藏及び吉運地藏、泥足地藏、亦童代地藏、母代地藏及び父代地藏、御告地藏、亦身代地藏、惡魔退治地藏及び棘抜地藏、救溺地藏、亦火難救済地藏、引導地藏及び延命地藏、化僧地藏、亦背負地藏らの古語になる十六物語を此の一巻に綴る。

先づ夜泣地藏傳に曰く、

羽後山本郷相川邑に渡り人あり。洪水に死せるを哀み、村人こぞりて地藏尊を邑外れに建立し菩提供養を施したり。此の鷹巣盆地に流るる阿仁川・米代川、相こぞりて川辺に洪水起る多し。依て、他邑より釋迦内・花岡・大巻の鑛掘人夫とて来たる渡り人、洪水起りき前兆を知らず、この川辺道に溢ふる洪水に溺死せる者多し。大雨亦雪解の鐡砲水にて溺死せる數多く、是を救ふる術なく、流着せる屍を無縁に葬むるを都度なればの地藏なり。されば此の地藏建立ありて後、夜丑の刻にて大聲に泣き叫ぶを聞くに邑村こぞりて外にいでたれば、川に水の遠鳴を聞きて洪水を餘知し、家財を髙丘に運び了りて後、泥流流木ぞ邑を呑むる災害起りぬ。然るに村人一人の死者なかりければ、この地藏を誰ぞなく夜泣地藏とぞ稱しける。以来、隣村またこぞりて村々に地藏尊を建立せりと曰ふ也。

文政二年五月三日
二ツ井之住人
百姓そめ談

次には、吉運地藏之由来なり。

由利郷大内に吉運地藏と稱せる石像あり。貧しき人々能く參詣しきりたり。由来に依りければ摩訶不可思儀たる奇蹟ありぬ。此の地は田畑多く豊穣の地なれども、田畑ほぼ大地主にありて耕作總て小作人多し。出来秋に至りては小作米・年貢米、一年の諸費ぞ勘定了りては飯米も残るなく常に芋を餌とし、依て流るる川に秋ともなりて芋洗、又芋葛を採るる人々に岸を一面に人だかりぬ。依て此の川を芋川とぞ稱せるに通稱す。

〽芋喰いて
  おばこ年頃
   き利ようよし
 明日はお發か
  嫁ご利よう

かかる貧さにありても何故か、此の地の女性ぞ能く稼ぎ心温和にして背髙く妖艶、他郷に睦ぶるなき粒揃多し。嫁ぐる前日、娘子は村の掟とて地藏詣を為し、己が用いし化粧料にて地藏尊に白粉及紅を以て化粧を施せり。娘等、村別れに涙ぐみて、仕上たる地藏に頬寄せて一雫の涙、地藏尊の顔に濡しぬる。是れを稱して涙止めとぞ曰ひけるも、誰とてつくり涙をせる者なかりき。依て石地藏詣をせし娘の嫁ぎし處、皆良縁に惠まれ早くも子寶を得ると曰ふなり。

文政二年五月五日
由利郷老方之住
百姓きぬ談

次には泥足地藏由来なり。

飽海郷三川邑に泥足地藏ありて、その由来に曰す。此の地は庄内大里とて太古より稻田拓けし米處なり。近く最上川の水戸に砂泻湊あり。羽州三湊卽ち能代・土崎・砂泻の名湊なり。余目邑・三川邑との境に田の道に建立せる泥足地藏とは、昔羽黒山行者賢覚坊にて自作されたるものにて賢覚坊、或夜の夢に羽黒權現告げて曰く、近く赤川・最上川洪水し、吾が告をおこたりなば邑ことごとく溺死せん。依て浂に申付くるは浂が自からの手工にて二村の境に地藏を建るべし。夢々忘却ぞする勿れ、とて覚めぬ。賢覚坊、狩川山より石を得て一心不乱にて刻り造り、その境なる田林に建立せり。然るにこの二邑の邑人知る由もなければ、田林地の持主作太郎と曰す者、地藏を忌みて畦道の端に移し寝棄置きぬ。野良歸りになる三川の百姓佐吉なる者、これを不愍と想いて己が野良小屋に運び入れて祀り、近隣の衆を集いて供養せり。

佐吉、働き者なれど妻の永病、亦子幼ければ、野良仕事のおくれ田草取りもままならず。稻田は𦰫の如く草々に生えまかれたり。時に佐吉、小屋に立寄りて地藏を拝したるに此の地藏足辺に泥まみれ、誰ぞのわるがきと思込むまま水汲みて洗いやりぬ。かくして田にいでみるや驚けり。𦰫地の如く草を取おくれたる稻田、草もなく緑り豊けく育つる吾が稻田。されば彼の地藏の手傳なるかとぞ三礼伏拝をなしける後、家にたどりては又も驚きぬ。病床にありき妻、病癒ひて健全たるに悦びぬ。是うわさ近郷に聞こえたれば、人大いに集いて小屋を除き、地藏堂を建立して安置せり。されば先なる羽黒權現の夢告を賢覚坊に告げたる如く、赤川・最上川の長雨に依る洪水起るも、是の地藏講にある者の稻田耳冠水を免がれたるも、地藏を棄たる作太郎なる稻田ことごとく冠水し一本たりと残らず腐り果たり。亦、己れも病に苦しみたれば、心からなる悔を以て是の地藏に伏拝して涙を垂るる也。されば不可思儀や腐れ稻かぶより新芽出づ並田に追へ付きぬ。人々此の地藏を稱して泥足地藏とて今に信仰を受くなり。

文政二年五月十五日
庄内三川住
百姓さだ談

次に童代地藏由来に曰く、

羽州米澤郷髙畠邑に傳ふる童代地藏の縁起に曰さく、此の地位なるは藏王山・吾妻山・飯豊山・朝日岳の大四峯に楯なせる郷に在野す。なかんずく、朝日岳麓なる荒覇吐邑ぞ大古なる古邑にして、今に白鷹邑と改む。近村に加志山邑・米澤邑・長井邑、在野し髙畠邑ありき。童代地藏、此の邑に存在す。童代とは此の邑に哀話とて今に遺りける古話なり。戦あり。地主藤原氏・清原氏の命にて一家主また十六才を過ぎたる男子ことごとく金山峠を越にして七ケ宿に召いだされぬ。時は康平五年八月にして源氏の軍にぞ加勢しべく、前九年の役なる戦にて髙畠在の農民召されたり。將にありき藤原季俊・清原武貞に従ふ米澤郷の農兵八千百五十人なり。髙畠邑なる百姓作造、その一人とて長男多作と倶にその先陣に赴きぬ。出来秋なる稻田の稔を前に、あとを女房らに心遺しての出陣たり。

此の家の門前に露座の地藏あり。人呼んで是を童代地藏と曰ふなり。その由は獨子の子息他子無き家の童を身代りて護りたるの靈験ありと曰ふ。多作十六才とは曰ひど、未だ童顔去りやらぬ歳十六の少年なれば作造、清原季俊將士に請願し家事に遺るを幾度び申請なせども聞入るなく、子を案ずる餘り地藏の頭巾にて多作の守りとし、その身に与へたり。父より戴けるその守りを地藏頭巾とも知らず多作、戦にいでぬれば飛びくる敵矢に當るなく進軍の武運に果したり。然るに衣川にて肩深く箭を受けて傷を負ひければ、誰ぞ助くるなく荒野の野末に置ざりとなりける。秋冷の雨に死の境に苦しみたる多作。父より聞きたる延命地藏への誦經を唱へしに、いつしか深き眠りに更けたり。

此の戦にては多作の父作造も太田川原に重傷し、同じく置去られたり。父子倶戦の殉死とならん心にぞ、往生極樂を唯一心に願ひて唱へければ父の聲唱子に聞こえ、子なる聲唱父に聞こえけむ。太刀を杖とし互に相寄り添ふるを得たり。あたりを見つるに屍の餘多にありて、さながら地獄繪図たり。父子の傷深く歩くも得ざるに唯死期を待てる耳なれども、父子の稱名念佛の功徳か一人の童来たりて竹筒なる水を与へぬ。食を三日に空腹を隔つれば、その水も甘露の味に満しける。さればその童子、言はざるままに指差しぬる處に藁屋あり。父子は腹ばえにてたどり雨をしのぐるに童は火を焚き、父子の衣を干さしむ。まさに地獄に佛たるの心地にて、童に禮をなせり。童は父子の傷に外より草藥を採し治療を施、何處より得るか餌を持来りて父子をもとなる健を復さしむ。

然るにやこの長期の間一言とて言葉なく、多作が身にせる彼の父が持たせし地藏頭巾の守りを手にせるや、ふと見ざるに童は消失せたり。父子は米澤をさして歸りければ住家は壊れ、老女が藁打つ居りぬ。はて何人ぞと能く見つればこれぞ多作の母にて、作造の妻たるに驚きぬ。されば戦に疵負いて家にたどる間、十五年の歳月たりと老母の曰ふに、父子は尚驚けり。彼の童に手當を受くの間十日の期にぞ覚ひしに、十五年の間老いずして家にたどりぬを知る。己なる過却の事實ぞ、二人は互に亞然たり。はてさて彼の童ぞ何者ぞと門前の露座なる地藏を見ゆければ、摩訶不可思儀や戦場にて童の持却りにける地藏頭巾たり。父子はこれぞ彼の童に代りて救済いただきたる主ぞ此の地藏尊たるを覚りたるも、片寄りに老いたる妻に憂いたり。一家佛道に志して入道し、此の地藏をともなへて天童に移り住み、山寺を結びて今に遺る地稱と相成りぬ。

文政二年五月廿日
米澤郷山寺住
湯宿主 甚九郎

次には母代地藏の由来也。

岩代國檜枝岐邑ありて山村なり。駒ケ岳・朝日岳・燧ケ岳・帝釋山・黒岩山を望むる奥境の地にて、越州・下野・上野の三國境をまのあたりせし處なり。古来、檜枝岐邑に六道地藏ありて知れり。亦、伊南川の分水嶺地にして黒岩山より白根山・皇海山をたどり降神山へとたどる、荒覇吐神信仰になる斎き道をなせる山宿の邑にして、今に遺りける地傳に曰く、母代地藏とはもと足尾連峯なる地藏岳に祀りしものなれど、坂東の人これを妖像とて丑寅の國・尾瀬沼に棄てたるものにして、杣の檜枝岐たる者の手に拾はれたる地藏なり。檜枝岐と曰す杣の業は藥草・鑛探・狩人の三業に以て営む暮しなり。依て檜枝岐の事、坂東・越後の仲間多くその暮しは富めり。

檜枝岐、尾瀬沼に拾いし地藏を地藏とは知らずして、石刻の小像なればかわゆしと思いとりて家の奥床に祀りてより、旅の来客多く檜枝岐が採りし藥草を求め来たりぬ。妻あり六人の子をなせるに、檜枝岐の休むいとま非ず。山に幸を求むる日頃たり。或日に岩茸を採りにし崖に綱をして千尋の谷に降りけるや、風荒れ身體自在ならざれば、永らく宙にゆれさがり気を失ひり。ときに崖つるに多くの猿ぞ来りて檜枝岐をたすけたり。気を甦したる檜枝岐、夢中にて覚つるは彼の拾ひし地藏尊、猿となりて助くる夢幻たり。山より歸りきて家の奥床に安置せし地藏尊を見ゆれば異様たり。是れなる地藏尊や、もとなるは天なる神イシカ・地なるホノリ・水なるガコのカムイにして古き世の丑寅日本國の國神たりと解りぬ。依て捨られたるものなり。倭朝の禁じたる蝦夷神に何事の神靈やなかりとて今に傳はるゝ古話なりき。

寛政甲寅年
閉伊宮古之住
坂田貢任

奥陸諸傳

一、

古代にサクカムイの祭事・マタカムイの祭事ありて、角陽國のイヌイト族より傳はるものなり。山靼のオンゴン族もこの祭を行ふありて是はアラハバキ神と異にせるものなり。丑寅日本國は語部に曰はしむれば、人祖の代より六十萬年と定説ありぬ。六十萬年とは歴史に遡る事久しく、アソベ族・ツボケ族より尚遠き歴史の彼方なり。語部録にては人となれるもの世に顯るは百萬年の先代なりと曰ふ。人は智能の故に寒きに火を用ひ衣を着るを覚へてより、住分を分布し世界の至らざる國はなかりきとも曰ふ。とかく世に萬有の生命に先端せる生物とて人間こそ地界の征者たりとも曰ふなり。

寛政甲寅年
秋田孝季

二、

丑寅日本國の防人が用ゆる鎧をハヨクペと曰ふ。鐡を用ゆなく皮を以て造られたるも、矢を通さず輕きなり。倭人とのウイマムより倭人是れを大鎧とて造りきも、重く戦に適當せざるも、大いに流りぬ。語部録に曰く、坂東の上毛野君氏、倭臣となりて河内大王より命ぜられ丑寅日本國に侵攻せるも、伊峙水門にて戦ふや一兵残らず敗死せり。田道に次ぐ形名も相次ひで討死し、倭の大王は丑寅の大王とウイマムし和睦せり。倭人の丑寅移住あり。和銅七年より二百人。靈亀元年より養老元年まで三千人。天平寶字三年より神護景雲元年に至りては更に四千五百四十人。更にして延暦十五年・同二十一年に渡りては四千人にして、勢をなしてより出羽の地・陸奥の地に柵ポロチャシを築き、防人をして丑寅の地領を掠むに依りて、大野東人及び田辺難破らを討伐せん兵を挙したり。依て倭人ことごとくして坂東に遂電しては再度侵領せるも、日本將軍伊治王呰麻呂にその敵將・紀廣純ら討死しけるも、倭軍都度にして丑寅を侵さんとす。

寛政甲寅年
秋田孝季

三、

安倍天皇の卽位に依りて丑寅日本の泰平を祝し、倭國に黄金を献じたるも水嶋一族の奸計ありて、その主將なる大楯は呰麻呂に攻められ討死せり。倭朝は是を怒りて藤原継縄・阿部家麻呂・藤原小黒麻呂・春宮大夫・大伴家持・多治比字美・紀古佐美ら、倭軍を大挙して奥陸に侵略せども何れも丑寅軍に敗れたり。倭史にては呈よく記逑せども、丑寅日本國にては日本國大王健全にして倭軍の征討史や偽傳ならん。倭史にても此の損亡に記あり。完膚なき敗亡はその將をして斬刑に當らんとありぬ。延暦十三年、大伴弟麻呂及び坂上田村麻呂とて阿弖流為及び母禮らの八年間に勝因なく和睦して茲に奸計を以て官位を賜ふとて、倭都に招じて謀殺に及び日本將軍は遂にして全勢をして坂東までも反攻して倭軍を征伐し、旧領を復せり。茲に安倍氏自から政務と執りて奥州を鎭め、丑寅日本國の威勢を建治せり。

寛政甲寅年
秋田孝季

四、

世界に謎なる奇跡あり。クリルタイに集ふ砂漠商人各々語り傳ふる怪奇なる話に曰ふ、トルコなるアラト山頂に舟形の峯ありて神の起せし洪水にノアなる者、神の告に護りて舟を造りて救はれたりと曰ふ。コプトにては神殿及び金字塔を建立し宇宙の靈気を集め世に甦りの道を造りたりと曰ふ。古代人は巨石を神として崇むあり。ギリシアにてはアテナを祀る神殿を造り、神々の集ふ聖地とせしはアテネの石神殿なりと曰ふ。亦、オーデンの神を祀る民は己が墓を舟形に造りて常世に征くと曰ふなり。巨石を圓に建立しまた四辺正方に築くもの。段に築塔せるもの。總ては古代人の神を祀る聖地なり。

五、

丑寅日本國は康平五年をして歴史をも消滅されたるも、古来にして消滅ならざるは民心の柱核たる荒覇吐神信仰なり。此の崇拝にて成れる語部文字ありて民族に過却せる語部録ぞ世に遺り、倭史の作説に惑ふことなかりき。丑寅民族六十萬年の人跡、世にある事の實相を遺したるは山靼諸民族交流に救はれたるなり。倭人の渡来は三千年に未足らず。支那南蠻より築紫に渡来せし侵入民たり。能く鬼道の妖教を用ひて人を惑はし、麻及び罌粟を用ひ神懸りとて衆を誘ひて、意のまゝに掌握して従がはしむなり。倭神をして今に名残れる麻糸を神事に用ふはその故なり。

六、

丑寅日本國の史に遡りては東日流七里長濱添・外濱添・糠部・仙北・庄内・伊津・石巻・磐城に分布せし遺跡に史要ありき。海濱・河辺をして古代人の住家多く集ふるは、山靼をして同じ國造りなり。北はサガリイより丑寅日本國は陸に大河辺を要としてポロコタンあり、ポロチャシありき。渡島にては天塩川・石狩川・北見川・十勝川。東日流にては岩木川。糠部にては馬渕川。飽田にては米代川・雄物川。陸州にては日髙見川あり。羽州にては最上川。越にては信濃川。吹島にては阿武隈川ありて、山海の流通とせしは古代住分の邑造りたり。

亦、古代人は山岳をして信仰あり。渡島にては天塩岳・大雪山・十勝岳・石狩岳・雄阿寒岳・羊蹄山・駒ケ岳を以てカムイの岳とし、東日流にては岩木山・八甲田山。宇曽利にては恐山。飽田にては太平山。閉伊にては岩手山・姫神山・早池峯山・五葉山。羽州にては鳥海山及び羽黒三山。陸州にては藏王山・栗駒山・磐梯山。坂東にては富士山を以て神山とせり。古代人は國の印として山海に聖地を定め、その往来を通したりと曰ふ。

寛政甲寅年
伊具之住人
相馬次郎定成

七、

世に罪を造らざる者ぞなかりき。一日の生命を保つが為に餌食とせる他生の生命體を殺生せずして、己が生命を保つこと難きなり。世に善生を志すは、先づ以て己が身を保つための餌食となりし一膳にも數々の生命體ありて日毎に生ある罪に生涯を悔拝せる心なくして、善道は得る事難きなし。荒覇吐神を崇むるは此の心を以て信仰せるを旨とすべし。重ぬる歳月日にはそれだけの罪を重ぬる事なりき。神像を造りそれを神とせるは、眞の神を冒瀆せる行為なりせば浂、偶像を神と崇むるべからずと戒め置くものなり。抑々は天なる一切・宇宙の相を神とし、山川草木みなながら神と崇め、一滴の水・大海の水涛とて神なりとて崇む心こそ、吾が神との信仰なりと覚つべきなり。

吾らの祖先に當る山靼の民祖はカルデア民にして、宇宙を神として大地をも神とせり。水の一切は天地を交差せる化成にして萬有生命の因にして、生死の轉生を以て代々を継生す。依て、是を荒覇吐神と稱しけるなり。この神は世を造りき神にして、宇宙を創造し地界を日輪と倶に誕生せしめ、萬有の生命をも造化せしめたり。荒覇吐神とは因と果になる全能神にして、人の心理・哲理論理に非ざる神なりと覚つべし。依て、言々須く眞理に非ざるはなかりき。眞如實相の神たるを心に納得しべき悟りに覚つべし。無にして因起らば化科の果ぞ成りつるは萬有の成れる實相なり。萬有の生體は命の衣にして、命とは魂の生ある體に事をなさしめる時限なりき。依て魂とは不死なるものにして、生命體に宿る生死への萬有魂魄たるを知るべし。世に人の造れる信仰・神像多くして、人の人師論師の哲理に造られたるものなり。人は信仰祖を聖りとして救世主とせども、是ら神々に依りて成道せるは何事もなかりきなり。その要は、眞を抜け幻に惑ふ故になる人心の惑の故なり。

寛政甲寅年
木下貞助

八、

倭國にも古代より住みにける民ありぬ。國栖族・土蜘蛛族・八掬脛族・山之佐伯族。筑紫にては猿田族・熊襲族・隼人族・侏儒族・髙砂族・石城族・髙加茂族、住居ありけるなり。倭を掌中にせしは耶靡堆族・春日族・巨勢族・葛城族・平群族・物部族・蘇我族・和咡族・大伴族・崇神族らなりと曰ふ。崇神族、大王となりて倭國は大王の位を爭ふて乱れ土族これにまみえて勢をなし、大王となりては敗れ、その攻防不断たり。千代八千代に栄ふる大王、是なく、三韓のクヤカン・支那のアヤの土族を相招きては常に爭乱ありて泰平のなかりける多し。耶靡堆阿毎氏、大王となりては築紫の連合・倭の連合に孤立せる安毎氏。いたく討敗れて方處を絶し、東國丑寅に遁す。

その併合軍より立君、大王となりき日向王の佐怒王なり。酉の年、倭國大王とて明日香の地に王居をなして、是を倭の大王とて阿毎氏に替る大王卽ち天皇一世とて君臨す。此の日を以て倭の紀元とし、諸族連併せるは日本天皇たり。然、都度に爭乱あり。權謀誕生の立君を術數なして、世は常に暗國たり。安毎氏耳は丑寅に在りて日本國大王として再興しけるより、一系の存續たり。日本國とは坂東より丑寅にして、荒覇吐族とて民を併合して成ませる王國たり。當代支那晋之群公子一族、上磯濱に漂着しその群公子一族の媛を后とし、安日彦大王は日本國初代大王と相成けるなり。爾来、日本國は渡島王・千島王・流鬼王・東日流王・坂東王を副王とし、地治能く治領せりと曰ふ。

寛政甲寅年
語部 卜部太郎

九、

語部録に曰く、荒覇吐神を祀りき要行は先づ以て心を無我としその境地に以て事に進行しべきなり。天に仰ぎ、北斗の星・極軸星をして祈るべきなり。その天空の位星あるを心に極むれば雨天と雖ども星在に見ゆむなり。稱文聲をいだして唱ふれば神通し、浂が願望を叶ふるなりと古人は曰ふなり。ホーアラハバキイシカホノリガコヌササンカムイホーオホホー。是の如く、くり返して唱ひよ。必ず浂は救済を蒙るなりと曰ふ。次には大地に伏して祈るべきなり。

ホーイシヤホーオロロシンバラアラハバキカムイイシカカムイホノリカムイガコカムイヌササンチセカムイホーオホホーシンバラシンバラカムイノミホーオホホータンネカムイチップカムイタンネカフノシテカムイタンネハカムイホーオホーヤンナシリカムイアリカカムイツエプカムイホーオホホー。

右をくり返しこと三辺におろがみ祀るべし。イナウを三本を刻りてヌササンに供じ、次には人の住まざる山湲の聖水を捧施し、神の仰送なして禮を盡すべし。浂れは如何なる難にも祓い清むらること夢疑ふべからずと曰ふなり。是ぞ古き世になる神事祭文たり。荒覇吐神をして祀りきヌササンカムイノミに献火しけるは、先づ以て是の如きを神事とすべきなり。語部に曰くは、永代に神を継ぐるオシラ・イタコ・ゴミソのものに代拝していたゞくこそ無難なりと曰ふ。イタコに亡き人の靈媒を、ゴミソには降魔祓を、オシラには家族の安全を。

この土版を造りて川に流し、また海遠き處にぞ捨つべきなり。是を心にして信仰に入らばや憂なし。

寛政甲寅年
大光院道契

十、

吾が國の古代は支那の神話・朝鮮の神話を入れたる多しと曰ふは築紫・山陰・山陽、倭の人の語れるところなり。對して丑寅の國は未知なる藩國とて押通せり。されば語部録に曰ふ丑寅之國は、人の渡り六十萬年の昔に遡りての史談に富み、山靼より更に波斯に越え紅毛人國まで流通史ありて古代オリエント諸國の傳に基く多しと曰ふ。流通の道は黒龍江を往来せる船運たり。アルタイ・モンゴル・興安嶺を經て沿海に達し、クリルタイの盟約ありて古代は人の往来都度たりぬ。丑寅に流布せるアラハバキ神なる信仰とてその故地とせるはシュメールなり。故國にては一人の信者是なきも、未だに此の國はアラハバキ神を祀れること絶ゆなかりき信仰の厚き民族風土たり。

抑々アラハバキ神の渡りてより、倭國までもその信仰に定着して今に尚遺れるなり。東の日辺の國・丑寅の國は、倭人をして鬼門の國とて忌み住民の睦みを犯し都度の征夷ありぬはその先進なる開化に怖れたるものなり。永き民族の歴史。神代と語る倭史より文明開化の國たるも侵領掠奪にて住民を貧窮に落し、此の國をほしいまゝにせんとする皇化の策も破れて永く果すことを得られず。康平の代に厨川を落城せしめたるも、長期に渡り東日流まで及ぶことなかりき。丑寅の覇王安倍一族を亡したりと曰ふも、その子孫は安東一族とて海を道として商易をなせしは、倭史の知られざる歴史の實相たりぬ。安東一族をして交る元の國は倭人にして怖るゝも、丑寅の民とては朋友たり。揚州のマルコポーロ・元王フビライハンなどを寺社に祀るは奥州のみなりと曰ふ。亦、その像に遺るなり。

寛政甲寅年
小野寺賴母

十一、

征夷の將軍には都度に任名を異にせる事多し。その知る限りには、
陸奥鎭東將軍、
征越後蝦夷將軍、
征狄大將軍、
持節大將軍、
持節鎭狄將軍、
征夷持節大使、
持節鎭狄將軍、
征東大使、
陸奥持節征東副使、
持節征東大使、
持節征東將軍、
征東大將軍、
征夷使、
征夷大將軍。
右の如く天皇より節刀を下賜される他、その防人の官位は下級より少主事・大主典・判官・副官・大長官とあり軍役とては録事・軍曹・軍監ありき。丑寅日本國をかくも軍律をなし皇化に従はせむとせるは、北の民族に怖れまた朝税貢献に應ぜざる威風に怖れての故なり。

古来より丑寅に怖れたるは鐡製の武具に用ふる産鐡。更には金銀銅の鑛山に多きが故なり。採鑛は山靼に習ふる鍛治やただら師の多く住むる他、海に船の造る工の多きにその人岐を引抜くが故の侵領たり。刀剣にては陸奥の舞草鍛治・鐡鑛たゞら師などの岐は倭人をはるかに越ゆ智識のありける處なり。東の鐡・西の金とて羽州・奥州はその資山多く工師の多きは倭人の及ぶところに非ざるひだたりなり。是等、山靼に両替ては商易なりと曰ふ。閉伊の産鐡・産馬、羽州の産金・稻作は民を富ましめたり。依てその大王たる日本將軍の威勢は坂東までも及び、平將門如き武強ありて倭人は怖れたり。みよし掘り・たぬき掘りと曰ふ鑛山採鑛に、倭人をして是を征夷の因を造りては奥州を討たんとす。然るに都度に敗北して敵はず。前九年の役をして安倍氏を討伐せしも、旣にして積畜の隠さる後たりと曰ふなり。

寛政甲寅年
堀田源三郎

十二、

和賀金山・安日金山・鹿角金山・牡鹿金山の他に、宇曽利・東日流・渡島の産金は安倍一族の倭に狙はる兆となりぬ。然るに安倍一族は掟に固くその藏處は秘中の秘たり。倭朝にては忍びを草入しその極秘を探りきも生きて上聞に達するなく、康平五年安倍氏を討敗るとも、尚また貝の口を閉ざしたり。安倍一族にしての掟には蓄積せる金藏は身近に置くなく、富むほどに金の浪費をせず。藏處八轉として臣臣の知ることなかりき。北國の事とて飢餓の起りき凶作にてはこれを役立せしもの、萬両にも救費とて用ひたりと曰ふなり。

依て一族をして私にせるものなかりきなり。安倍氏の金藏にては何事にも知り得ざる秘にありて、前九年の役に源氏が挙げてその寶藏を探りきも、一片の金塊も得ること無けり。今にしてその秘をして世に知れるなきは、日本將軍子孫をして山靼に渡りきものゝ費にせりとも曰ふ。今にして尾去澤の金鑛・和賀金山の如きは知られども、本命なる金藏の知る人ぞなかりきなり。渡島にては諸邑のエカシら安倍氏に砂金を献上せるも、その一袋だにも源氏の手になる戦利とは得ることなかりきなり。安東氏・秋田氏と移りきに、その金藏なるしるべは三春城の天明年間に焼失せりと今に傳はりぬ。

寛政甲寅年
由利玄馬

十三、

秋田氏にかゝはるゝ史の編纂に當りては多様なる人との出会ありて、筆の數々もまた一紙毎に毎々重冊と相成き。幸にして幕許にてオロシア探巡の任をたまはりて、紅毛人國までも渡りて誠なる荒覇吐神なる古史の一切を記すを得たれり。丑寅の國こそ歴史に遡ることはるかに、古代オリエントの世界に連らなる縁りありき。オロシア・モンゴル・シキタイ・トルコ・ギリシア・エスライル・コプト・シュメールの聖地に荒覇吐神の發祥地を知れり。古代シュメールにアラとハバキの神、カルデア民にて信仰に創り諸國に渡りけるものと知れり。まさに尋史の奇遇たり。

祖より受継たる役目も完了に近く、筆なしき一日もたのしきや。是を子孫に遺し置くも晴れて世に出づるはいつぞ日にか。世襲の障りはつのるばかりなり。明治もあと幾年に續くやも、軍閥や学閥にや認識に未だ遠き存在なり。和田三郎義秀より現に至りて我が家の家系も絶えずして今上に至るを悦びとし、貧しき乍ら心苦しからず。今日はこの一巻を綴り了り、残れる山なせる蟲喰の書を写しけるも使命たり。

末吉

和田末吉 印