北鑑 第四十巻
(明治写本)
書意
此の書は古事を求めて諸國に得たる記行なり。依て、史實の眞疑ぞ玉石混合たり。依て是を選抜の要ありて、後世の者にその労を賴み置きなん。歴史をして記行に巡脚中を以て加除を赦されず集むる程に、今は懸命たるを申添へ置きぬ。
寛政五年九月二日
孝季
日本將軍多稱
康平五年、前九年の役を以て日本將軍安倍貞任厨川太夫逝きてより、源氏・平氏の武家政据の世とぞなりせば、日本將軍とて奥州に縁な倭武士及び坂東武士の自稱にして山城判官記、相馬氏記、平氏異系譜、千葉氏記。及び足利氏・曽我氏らを以て日本將軍とぞ威稱せる多し。ましてや安東宗家に外つ庶家の安藤氏中に在りきも、日本將軍とて自からを日本の千島王とて異土に流布せし千島王こと安藤師季如きありぬ。
是の如き多稱にありきさま、世に日本將軍とて私利に主唱せるに依りて益あるが故なりきも、近衛天皇の天養甲子年。東日流十三湊に安東船起り、帆布に日本國とて卍印を國象とし山靼に赴くあり。卍ぞ日輪を顯はし安東宗家の初紋たり。延元丙子元年、東日流上系図秋久禄にぞ明細たり。厨川戦を以て安倍氏の滅亡より、こぞりて日本將軍とて自稱亦仮稱ありきは信ずるに足らん。
文明十二年庚子
皇孫天眞名井譜代
義仁王
丑寅日本國誌考
古来より蝦夷とは丑寅を指して曰ふ倭人の通稱たり。亦その史書に於て記せるは夷狄・毛人・蝦夷・亞夷奴とぞ表記す。亦國土をもまつろわぬ化外地とて、未開なる野蛮國とて意趣を先とせり。倭史に依りて丑寅日本國を史に綴るさまにては、丑寅に至らざる征夷の史傳とその讃美になる倭史構造に盡きる作為をこらしたる多し。かかる丑寅に吾等祖来をして制えらる非理趣にありては、ただ忿怒ある耳なり。倭史を以て丑寅日本史を實相の如く造る第一義の手段たるは古史古傳の不動たる證しの粉砕・史書焚灰・史跡破壊らにして排斥せるを以て為す。次なるは住民智覚を妨げ、奪富落貧の作為に出芽を欠く通常の弾圧以てぞ丑寅の民を制裁せる執制に以て長久し、反きを權勢なしたるが故に倭侵の一切を以て奥州に古事有史の空白を現在に至たしめたり。
然るにや實ある歴史の絶ゆるなく、泥中幾千年に埋る草種は甦る如く、人に異教を以て洗脳せしとも民族意識の潜在ぞ不滅に長久し世襲は長圧の永續を破るなり。反きとてこれを制圧また誅滅せんとするも、破られては反きとて正道と相成れるこそ世襲なり。人は生々を私に第一義とせるが故に慾望を生じ、それを保つが故に欲する作為にて自放自棄に堕いなむ。丑寅日本史ぞかくありて陽光の陰たるなり。此の國は古来にいやさの歴史栄ある國なり。太古にして西海洋の彼岸大國の流通を經にしその進歩たるは、荒覇吐神渡れるその擴域にぞ残景を今に遺しきを見よ。權据なる世襲世にはびこりて、門神・客大明神とやに主社をいだされしきも、神祀る心不動なれば古今に荒覇吐神の信仰ぞ絶ゆこともなし。亦、丑寅日本國の世に創むる歴史の絶ゆむなきは住むる人の心奥に累代する故なりき。代々以て丑寅日本國ぞ久遠に丑寅の國なればなり。
文政元年五月一日
孝季
艮陸奥物語
第一巻
陸奥國古くは日本國と曰ふ六箇郡の司に安倍賴良なる者あり。是、安倍頻良の子也。父祖・安倍忠賴亦の名を國東と曰すは丑寅日本將軍にして威風堂々たり。能く地領を治め、民また能く服す。子孫五十六郡に分布し、坂東に出でんとす。倭國常に此の國を犯し、防人を以て祖来地産の金鑛・産馬を倭朝の賦貢と請誘せるも、國もとより倭に非らざれば賦貢を輪ばず。侵入の倭人を封じて入れず。倭朝にして是れを征する事能はざるなり。
永承丁亥年。倭の太守藤原登任と曰す者二千騎の兵を挙して衣川太田の御舘を攻む。亦、出羽秋田城之介平重成を以て先鋒と為し、登任夫子を卆いて後に相成りければ、安倍氏急ぎ羽州の左京權太夫清原基光の嫡子・兵部大輔清原光方に使者を遣し、是れに攻討たむを令ぜり。依てその子息ら長子光賴・次子武則・三男武道ら、眞武呂より小國川を鬼首峠越ゆ。挙兵八百騎・七百の徒兵にて宮澤・鬼切部・鳴子に三陣を楯垣せる登任軍に、安倍軍一迫より鳴子邑に五百八十六騎にて攻むれば、清原軍宮澤に時を合せて突襲す。登任是れに敗績し死者一千二百人をいだせりも、先𨦟にありき平重成が卆ゆる二千の兵至らず。鳴子にて苦戦し陣を保たれず。江合川を敗走して遁げ失せし、生存の者少かに三百十一人なり。時に平重成、及位にて戦の敗報を聞きて軍を退き秋田に歸遁せり。世に是を鬼首の乱と傳ふなり。
此の年、倭朝に於は議あり。追討軍を擇ぶるに衆議相歸する處、獨り源賴義在り。茲に賴義ぞ河内守源賴信の嫡男たれば、性は沈毅にして武略に長じ最も將帥の器たり。長元の間、平忠常坂東の姦雄と相成り、暴逆を成す。賴信追討使となりて、平忠常併せて嫡子を討つ軍旅に在るも、勇決羣を抜き才気世を被い坂東武士の屬を樂しむ者多し。素は小にして一條院判官代たり。院、畋猟を好む。野中に赴く處、鹿・狐・兎を皆殺す。常に賴義の護る處と為る。好んで弱弓を持つ。而して發する處の矢は羽を飲まざるは莫し。從って猛獸と雖も、弦に應じ必ず斃るなり。其の射藝の巧人に軼するや斯の如し。上野守の平直方は其騎射に感じ、竊かに相語して曰く、
余は不肖と雖も苟も名將の後胤と為り偏に武藝を貴ぶ。而して控弦の巧の卿の如く能き者未だ曽つて見ること無し。請ふ、一女を以て箕箒の妾と為せ。
則ちに彼の女を納れ妻と為す。三男二女を生ま令む。長子は義家。次男義綱なり。判官代の労に因りて相模守と為る。俗は武勇を好み、民歸服せる多し。賴義威風は大行す。拒悍の類も皆奴僕の如し。而して士を愛し施こしを好む。會坂以東の弓馬の士、大半は門客と為る。任を終りて上洛し數年間を經ぬ。忽ち朝選に應ず。征伐の任を專らとす。拝して陸奥守兼鎭守府將軍と為し賴良を討た令む。天下素より才能を知る。其採擇に服す。境に入り任に着くの始め、俄に天下騒々。倭軍を畿内に募り集む數六萬三千。源氏が常勢五千にて、茲に征夷の大號令天勅を奉じて倭境に發せり。
時ぞ永承戊子四月七日にして、その報ただちに丑寅日本國に達す。時を急應にして日本將軍安倍賴良、使者を以て坂東にぞ走らしむ。先づは坂東八平氏・榬氏・江戸氏・豊島氏・鹿嶋氏ら、皆是れに應じ兵を併せし總勢六萬騎。長蛇の如く遠江國大天龍河に先陣を廻らしその後陣を駿河國安倍河にかまひたり。依て賴良、白河をいでざるをして軍策萬端に相應せり。倭軍都を發して三河に至るるや坂東の兵豪士起り、皆日本將軍に屬し、國府の郷藏破られ死せる防人皆滅にして残るなしと急報相次ぐる。依て賴良、物見を走らしめ遠江大井川に對岸せる島田及び川越えの牧の原一帯になる千兵萬馬の矢楯・茂木備へ進みては、蟻地獄に入るが如しとぞ告げぬれば、賴義兵馬の加勢五萬騎を倭朝に急請しければ、朝議是に決済叶はず。茲に日本將軍安倍賴良及び坂東への不可侵、勅を以て倭軍を退けたり。世に是を戊子の和睦と稱せしも、倭朝にては東夷之大赦令と稱したり。其の報ありて賴良大喜す。急ぎ坂東の諸豪士に駿馬・金寶を授与せり。
此の年事無かりけむも、翌己丑年五月七日。安倍賴良、衣川鷹巣突猪澤に十二舘を築き大田川関・衣川関を柵建せむ砌り、使者ありて、源賴義自ら倭朝特使とて多賀に幽閉ある藤原説貞救済に和睦の條申請仕りたり。時に、和交の對面處を阿久利河なる名見ヶ湲に宴の場を設け、賴良は賴義を迎ひしかたはら子息の貞任及び舍弟なる赤村介為元に圍ませける多賀城包圍の駐兵を解けり。時に説貞その息子光貞及び元貞ら、安倍賴良及び勅使源賴義に會し伏して落涙し、鬼首挙兵を謝りぬ。時に賴義、倭朝の賜品とて唐絹織百反、文官束帯十二衣、武官束帯十二衣、女房装束十二重、張袴・相扇・平簪等身具一式そろひしもの三十着、倭殿中禮刀十二腰を献ぜれば、賴良も亦駿馬百匹・黄金延六本重總三十貫を献ぜり。亦賴義への贈品とて山靼渡来なる白馬、栗毛二匹を与へたり。賴義亦己が帯刀及び緋縅の鎧・紺縅の鎧・倭鞍を贈りて大いに宴せり。賴義重ねて曰す、安倍日本將軍たらしむ倭朝との睦久遠ならしむ為め、とて倭朝への上洛を勧誘せども、賴良曰く、
去る程に故因あり。巣伏の阿弖流伊・鬼耶奈岐の母禮の例是あり。久しく石橋打きて信度是あるまで御免を蒙り奉る
とぞ笑って辭したり。賴義暫時多賀に留りてありし日に、賴良より山吹の宴とて阿久里河に招じ、藤原時貞倶に勧招せり。賴義悦びて應宴せり。時に、説貞の子息等謀りて宵陣を密かにして阿久里河擬岩に兵を伏し、宴の終りて歸路にありき貞任を狙ひて他裂に刻期を遅く罷り来し貞任の衆列に前途を閉ぎて曰す、
吾は是れ陸奥鎭守府將軍太守藤原朝臣説貞の一子光貞なり。浂れさる程に吾が妹・阿栗前を娉と欲するも、吾等弟元貞倶に浂如き猪侍にぞ縁るは汚らはしむれば諦め候へ
と激笑せり。貞任能く耐えて通り過しに、貞光の中より石礫を貞任が乘馬に投打者ありて貞任が馬前起つ𨄌りけるを、貞任一喝かかれとぞ聲激したれば從ふ安倍のつわもの應と答ふや、貞光を先んじて首を斬り次に間を置かず元貞を箭に射たり。主を失ひし敵輩。蜘蛛子の散乱る如く遂電せるを追討て三人の生残り多賀にせき切りて告ぐれば説貞、狂気の如く忿怒す。急挙にして源賴義がもとに參上仕りて議す。先づ以てその故因を説貞に嫌疑人を問ふ。答へて曰く、
賴良長男貞任以て先年、吾が娘亞栗前を欲しけるも而して其の家族賤しとて是を許さざれば、貞任深く恥と為すを以て是を推すに、貞任の為す處なり。此の外他に仇とする無し。
爰に賴義、一方詮議に謀れずとて貞任を召して事の情を審せり。貞任曰く、
天地神明に誓って説貞の言上ぞ眞に當らず。作日なる兆起の因は皆光貞に在り。
とて坐を退きぬれば賴良、説貞その姪に語りて曰く、
作宵の爭事にそこもとの嫡子二人までも討死を為せる事の眞因は明白に光貞・元貞らの挑戦なり。亦貴公の訴言通りとて、人倫の在世は皆々妻子の為なり。吾子貞任愚と雖も、父子の愛棄忘する能はず。一旦誅に伏すとも吾何を以って忍ぶや。事吾子にぞ耳理非蒙らば、日本の各関を閉じて浂れら来攻を聞かざるに如かずや。いはんや吾衆亦戦を拒むに足る以て憂いと為すに未らず。例戦利非らず吾等斉しく死も亦然らざるなりければ詮無哉と。
其の左右のもの皆曰く、公言是なりと。賴良退きて、説貞の謝非らずば日本國挙げて倭人の領住ことごとく追放せんとて、出羽兵部大輔光方及び勿来白河兵部少補良照に使を發し各関を閉たり。依て多賀柵、孤窮す。請ふ一丸の泥を以て賴良自ら衣川関表太田川関を封ぜば誰か敢えて破る者有るらん。遂にして安倍一族處々道を閉じて通さざる。依て賴義、倭朝に至戦に状を發し勅許を奏上せり。朝廷に於ては事の審議相謀りたるも、公議の賛否甚々しく對し、その決定之砂太不問に伏したれば、賴義是を諦め、使を坂東相模に馳す。茲に坂東源氏ら船を用し安房千倉より塩釜に着し、地の民家を襲いて馬及び兵糧を得る。その坂東猛士六萬にして、尚復た船入り續きぬ。その報賴良、聟散位平永衡より密使ありて知る。賴良、日髙川を岸居とせる河船師總挙し、渡波に降し塩釜なる船を奇襲。留船ことごとく焼沈めたり。依て東坂輪船西倉沖にて百艘捕はれてより海航絶したれば、多賀城糧に算少したれば、内に間謀ありとて散位藤原經清及び平永衡ら賴良と相通ぜるを人ありて賴義に目安を挙ぐ。賴義、さこそあれかしと耳をかたむけ聞屆けむれば、訴人の者、藤原太郎貞勝と曰す金為時が家来なり。召されて曰す、
永衡は前司登任の郎從となり當國に下向し厚く養頣を被る勢は一部郡を領し、而して賴良の娘娉とし以て後とす。干りて太守を戒とす。合戦の時、是に依りて旧主に屬せざるは不忠不義の者なり。今外に歸服を示すと雖も而して内には奸謀を挾む。恐るべし。陰にては使を通じ軍使をたばかり軍動静謀略の出所を告示せんか。又着る所の冑は群と同じからず。是ぞ必ず合戦の時、軍兵の己を射たざるを欲する者なり。黄巾赤眉も豈軍を別くる故なるべし。早く之を斬りて其内應を断つにしかず。
將軍、以て然れりとなし則ち兵を勤めて永衡及随兵の中に腹心と委ねる者四人を収めたり。責の其罪を以て立たば之を斬るべし。是に於て經清ら自ら安んぜず。密かに其の客に語りて曰く、
前車覆かえりては後車を戒めとす。韓彭は誅を被むり黥布も心寒し。今十郎は旣に没す。永衡の子伊具十郎、吾も又知らず何日死すや如何を。
客曰く、
公赤心を露はし賴義の事に欲るべし。賴義必ず公に意うべし。若し讒口の開かざるの前ならば叛走して是を安じて大夫に從がはん。獨り忠功を成さんとせる時𦜝をなで何ぞ逮まるべきや。
經清曰く、よき哉。則ち流言を構えて軍中に警して曰く、時に賴良は輕騎を遣し間道に出て國府を攻め賴義の妻子を取らんとす云々と。賴義の麾下内客は皆妻子を國府におく多く、賴義に勧むるは國府に歸らしめんことを。賴義衆勧に因りて自ら驍騎數千を卆ひて築舘を却る日の夕に馳せ還る。而して気仙郡司金為時等を將とし賴良軍を攻め遣す。賴良、舍弟僧良照等を以て將と為し、之を拒ま令む。為時、頗る利有りと雖も、後援の無きに依りて一戦にも叶はず退く。是に於て經清等大軍擾乱の間に属って私兵八百余人を將し于に安倍陣営に走る。依て、安倍方にては國府軍なる軍営密事皆知る所と相成り、日髙見川を舟にて降り國府包圍を固む。鳴瀬・鹿嶋臺・吉丘・泉・名取の國府軍を奇襲に全滅せしめ、その軍馬兵糧をことごとく奪取し、天喜癸巳の元年を心ゆくまま敵を封じて宴せり。一方、多賀城内にては一日三食に一食を抜き、苦しかる籠城に安倍賴良、馬百駄荷の糧を與へたり。國府軍是に悦べど、賴義何事の禮言の無きに賴良怒りて軍陣を詰め寄せければ、使を以て書状至りぬ。
武運の儀國府に利非らず。以て戦はずして將士を苦しむ敵方に年明けの糧を施されきは想い断腸なれど降に伏されず。目下の處、朝令の砂太如何に命運あり。復戦に相まみゆとも弓馬の家に生じたる栓も無き生ざまなり。されば日本將軍に今度びの禮とて浂が國神、吾が國府に荒覇吐神社とて古より遺りきを永代改神仕らず禮深く祀り置くもの也。是今余に叶ふる日本將軍への至誠なり、
とて記ありぬ。依て賴良、正月十五日酒百樽を多賀に屆けたり。以来、天喜丙申年に至る間、國府及び倭軍の援兵白河及びに海運なければ、和睦無けむも両軍越えて起らずば、賴良近く和睦の叶ふを想ひて清原勢を歸郷せしめ亦、宇曽利富忠等をも歸郷せしめたり。然るにや此の年、國中東西を問はず飢饉たり。依て賴良、國府の圍を解き兵馬を在住に歸して家業に當らしむ。兵皆悦びて家族に走る。此の年に於て倭朝にては、賴義國司の任その在期解任たれば賴義上洛す。卆する兵五千余騎。報、安倍方に屆くるも賴良あえて兵馬を挙動せざれば難なく賴義上洛を果したり。倭朝に於ては新司を輔すと雖も未だ合戦期の和睦無き告を聞き、有志の辭退相継ぎたれば、更に賴義を重任して赴むかしめんとす。依て賴義軍を募りしも、天下而して飢饉にして粮食もままならざれば、大衆一に散り忽ち再會を逮ふ。
謀りて出ずる間漸くにして、年序まる天喜五年四月二日賴義參朝し、奥州に安倍一族を討つは只兵を以て討は術中秘策と雖も是叶ふる勝因なし。依て彼の一族を支ふる出羽の清原氏、北の背後にある宇曽利富忠らに當て仮なる勅旨及び賜品の贈りあらば安倍氏への反忠あらんは必如なり。是れぞ挙兵百萬騎に価せんとて奏上しかば、天皇悦びて上聞に達せり。依てその旨委さる賴義、密事にて出羽に赴き清原氏に對面仕り、勅書とて安倍氏に反忠あらば奥全土の鎭守府將軍と補する旨の意趣になる一状と倭朝賜授なる品々を与へければ、清原一族挙げて賴義に忠誠を誓いり。亦賴義はしかさず金為時を使者とし、蝦夷は蝦夷を以て討つべくの田村麿が用いゆ策とて、秋九月為時その令に従ひて宇曽利に赴き、安倍氏に反忠せば安倍氏が所領の内奥六郡の司たる勅状及び朝与の品々を与へければ、何事の質疑なく安倍氏への反忠を誓ひたり。速坐に立って宇曽利富忠、己が處領の鉋屋・仁土呂志・宇曽利三郡の衆四千騎を卆ひて金為時に従がふ。
時に是を知りたる東日流十三湊なる白鳥八郎則任、しかさず父賴良に報ぜり。依て賴良その計を聞き、近臣の川辺左衛門を従へ近護衛の者二千人を卆し往きて利害を陳ぶとせり。富忠こと父頻良の末弟なれば、幼少より賴良と同じゆう舘に育つる仲なれば、よも反忠あるべからずとて子息貞任及び宗任の戒言を背聞にして、気仙物見山麓姥石峠を降り来て人首を經て巣伏に陳営せる富忠に對面せんとす。時に江刺門岩柵に為元居城せしも、賴良使を達せず巣伏に向ひける。後續なき賴良の軍列を見告に知る富忠は後續の為時が軍を待たで、伏兵にある𡸴岨に囮で誘い一挙に箭をかまふるに、川辺左衛門大音聲にて叫ぶ、
宇曽殿、御聞き候へ。是れにおはすは日本國の君、自からの御越に御坐候ぞ、浂が為時に奸計を承り候事吾が君の旣に推察に候へども、浂れは血累に在りて縁の深きに候へば、解きて談合仕るべし。
と問へしに何事の應答是無く、遂にして富忠陣より弓箭飛べり。詮なく賴良、急使を江刺及び膽澤更に鳥海に走らせむ。日暮れなば夜営に寝もやらず早朝にして援軍またで交戦と相成り、富忠弓の狙手をして賴良を射さしむ。一矢を拂ひ、二の矢を胴に受けにし賴良。馬を落つなんを、川辺左衛門身を楯に護りきに、先づ赤村之介為元及び宗任・家任ら五千騎、是れに援軍たどりぬ。急挙傷深き賴良を家任が付添ふて鳥海の舘に楯乘せて介護しける。茲に川辺左衛門狂人ならく、退く富忠を追へ人首に詰寄せ降る富忠を赦さず斬首し、更に援兵の為時が構ふる姥石峠を攻めて、為時九死に一生を得て気仙に遁ぐる。
鳥海にて、賴良危篤を脱せず。九月十九日、一族見護る涙に賴良逝けり。賴良遺骸ひとまず和賀なる極樂寺に仮葬し、康平元年九月是を掘りて衣川にて洗骨し月山佛頂寺にて葬儀し、同年九月更に淨法寺に安置して井殿が長時の供養を奉り、翌三年九月東日流中山聖地石塔山荒覇吐神社清水澤湲に埋葬仕れり。されば賴良討死の報ぞ源賴義、軍謀然る處と許せしも尋常ならざるに憂つたるも武運の開きたるを心に悦びたり。依て機運一変し、官軍募らずして能く集りぬ。天喜五年十一月。賴良討死の報相渡り、源軍は討夷の志気髙まり賴義、兵千八百余人を卆いて貞任等討たんと欲す。時、厨川太夫貞任、衣川柵に於て一族が集ふなか茲に亡父賴良の継君の儀式を了り、精兵四千余人を卆ひて金為行を河崎柵の舘主と為し戦を黄海に拒む。
天運やこの日に風雪甚しく、源軍風下より攻め来たる。安倍軍鎧を身に着せず、毛皮仕立に身を輕からしめて箭の射程に到れる源軍を、吹く風に乘せて射たれば當的よりなほ百中たり。たちまつにして屍の血走り雪を紅く染血し、道に馬蹄外れ溝にぬかずく。励めど艱難、官軍亦食無く人馬共に疲る。地位知る安倍軍新羈の馬を馳て、疲足の官軍屍相重て山となす。或は以て遂電し、或は以て傷に動けず。賴義も亦馬を箭殉して、従ふ者少かに六騎。何處あてなく遁げ、太刀を杖にし鎧脱ぎ捨て残るところの名にあるは、己が長男義家・修理少進藤原景通・大宅光任・清原貞廣・藤原範季及び則明らなり。此の戦に於て安倍軍一人の殉者もいださず。どっと鬨の喚聲を挙げたり。落ゆくはあはれなり。民家を犯して着衣を盗り、糧をむさぼり、身装ぞ地民のまたぎに扮す。更に地民手飼ひの駒を奪いて敗走す。
康平元年四月七日、安倍一族衣川大舘に集ふ。敵襲に備へて、先づ北浦六郎重任を傷病及老人・女人・童らを各々戦となり得る地領より安住地・仙北生保内城に移しめ、生保内十二舍衛に八萬人を寄宿せしむる舘主と任ぜり。次には、良安を故亡の賴良遺骸を極樂寺より淨法寺へ更に東日流中山への埋葬に至る法事役目萬端を任ぜり。次には、黄海磐井柵を修験道行者・安倍良照に舘主を任じ、蒲衣柵に金為行を任ぜり。赤村介こと安倍為元を岩出山柵及び鳴子柵に兼任仕り、石坂柵・志波姫柵に藤原經清を任じて兼任仕り、小松柵・琵琶柵に藤原業近を配任せり。衣川関大舘に安倍日本將軍貞任在居し、厨川柵を千代童丸に任じ、妪戸柵を安倍宮照またの名を道照に任じ、鶴脛矢巾柵に安倍道盛を任じ、比与鳥柵には金友寿を任じ、黒澤尻柵に安倍五郎正任を配任。膽澤四丑柵に安倍三郎宗任を任じ、鳥海柵に安倍弥三郎家任を任じ、白鳥柵に欠居の前澤方七郎行任を任ぜり。亦、八郎則任ありしも、賴良生前の砌り東日流十三湊福島城の主たらしむに依りて此度に幼童故に未置たり。
是如く配軍了りければ、康平庚子の年七月末、安倍陣営各處の築工了り、此の郷に在る領民ことごとく安住地に移しめたり。その遠くにあるは糠部・安代・火内・鹿角・仙北。近くは遠野・宮古に移しむ。康平辛丑の年、来年に至らば安倍對源の雌雄を決せんとなる故以て田畑の耕農は今年を以て作耕を赦せども来年に備ふるべからずとて、此の年の収益ことごとく移住地に運藏せしめたり。亦、民家を焼拂ひて官軍の留営に便を欠きけるを旨とし、所々河橋を破し道の崖をも閉ぎぬ。依て、領民の安住地ぞ犯される事なけむ。耕作了りて収を納め、安倍の各城柵辺に領民の人影なく民家亦一棟も残らず焼失せしめ、安倍一族の軍資は幽湲密處に久遠の秘藏了りぬ。種馬、糠部に移しめたるも策の安全たり。時に安倍古来の鑛金千六百萬貫と曰ふ。兼て源氏は此の財を狙ひたる執念に在りきも、かくの如き秘策の知る由もなかりき。亦金鑛の知れる處の他全山閉掘し、舞草鍛治も仙境にて遁造す。以て戦備たるを了りければ、赤村介為元の報あり。羽州清原一族他平國妙ら併せる數六萬餘騎、皆源氏の勢に集まれりと曰ふ。依て貞任是れに怒りて出羽の要道を破害し、いざ来たれかしと四萬二千騎全軍に下知せり。年の晩秋に主將を衣川大舘に集め宴す。貞任曰く、
清原一族の反忠は、亡き父も憂たり。彼の猿面冠者と曰へども、六萬騎を吾ら敵となりにしは此の戦勝算なかりき。然るに、安日彦王・長髄彦王以来祖血に累代しき子孫を絶ゆまし事尋常ならず。戦に以て利あらば戦い、利非らざれば退くべし。北丑寅に大陸ぞ果なく、亦日本國は極北までも擴む。依て戦殉は裂け奉るべし。生命あらば子孫ぞ久遠なり。能く努めよ。
とて軍策相謀りに謀りたり。
原漢文書
文正丙戌五月七日
千葉民部介
陸奥物語
第二巻
康平五年春、源賴義國司の任了りぬ。依て後任髙階經重、陸奥國司と相成り勇みて境に入り任に着きたれど、一歩磐井を巡見せるに安倍の軍陣かしこに在りければ怖れおののきて歸洛せり。朝議紛々の後、賴義拝して再任を承はれり。しかさず賴義境に入りて軍策す。先づ以て出羽の光賴並に舍弟武則らに全兵挙を請ふれば、是於て秋七月、子弟と萬騎余の兵を卆いて天童より関山峠を越え廣瀬川添に多賀城に入る。七月二十六日京師より發したる官軍、八月九日に栗原営岡に兵を併せ、是於て軍師を律し営塹と曰く。互に心懐を陳べ各々以て戦征の割を定むれば、
第一陣清原武貞、
第二陣逆志方太郎、
第三陣芒川太郎、
第四陣字新方次郎、
第五陣源賴義。
亦五陣中三陣に分け源義家、次に清原武則・眞人、次に清原光賴。
第六陣字斑目四郎、
第七陣宇貝澤三郎
ら何れも清原一族に依りて占らる。惣勢併せて六萬三千也。全軍挙げて松山に至りて磐井中山大風澤に赴き、翌日荻馬場に到る。件の柵は小松柵なり。是を向い討つは安倍良照にして城旣に空け、鳴子及び岩出山の赤村之介を捨城なさしめて兵を併す。戦はずして手火に燃ゆ両柵に出て志波姫柵にて藤原經清と軍を併せ、更には安倍宗任が馳着きたるに両者宗任に従へて手火に志波姫柵を灰とし、小松柵を圍む官軍の背後に迫り、茲に攻め討たれし官軍は平眞平・菅原行基・源眞清・安倍師方・丸子宿祢弘政・紀季武・平經貞・藤原光貞・佐伯元方・藤原時經・大原信介・源親季・刑部千富・橘孝忠・藤原兼成・清原貞廣ら卆兵一千人。宗任指揮のもと是等を討果したり。更にして官軍の輜重を奪ひて仲邑に仮陣すところに小松柵を燃し、道照・宗任と軍を併せたり。道照これまで兵凡そ三百を殉せむ。
官軍また糧軍中に盡き、大軍とは雖も進退に窮せり。而して清原武則、出羽より新米を七百石を得たりき俵も長雨に湿りて、きのこ生ゆ如く中なる米は醱酵しけるに、火を焚き十八箇日に干して保てるも、官軍磐井川に多殉せり。髙梨にての合戦にては両軍互に鉾を構ふるだけにて雌雄何れにも決せず。ただ長雨を過ぬ。官軍此の雨を利して業近柵を攻むれば難なく手薄たるを灾けり。茲に官軍志気を髙なめて一の関を破り、鳥海弥三郎の軍と激戦し両軍多くの戦殉をいだしたるは、金為行が川崎柵に不落とせしに官軍痛く不意を突かれたり。さては衣川大舘を保たんとて束稲山太田川柵関琵琶柵に妨ぎぬ。然るに四所に兵を配して併戦より弱く早脆くも各柵は官軍に抜かれり。
貞任意を決し、雌雄を決するは厨川ぞと退きぬ。宗任鳥海に残り大麻生野及び瀬より落来たるを授け、更に白鳥邑を落来る兵を併せしかば鳥海柵とて護りを固からず亦一萬の兵馬を保つ難しとて、城を棄て黒澤尻に退きぬ。時に九月七日にして退闘を戦謀とし傷負ひたる兵を鶴脛柵に徒兵をその護りとせしも、傷兵ら自から比与鳥柵に赴けり。九月十日官軍こぞりて黒澤尻を落し、十二日にして鶴脛柵を抜きたり。戦殉をいださず退きにけるは断腸の想いなれど、先づ傷兵を遠く生保内に渡し為に添兵六百人を費し、十三日比与鳥柵に灾けり。依て全安倍軍は十四日に厨川柵・妪戸柵に入りて、茲に日本將軍累代の命運を賭けたる雌雄戦に構へたり。九月十五日、蟻の如く官軍寄せ来り。時、貞任曰く、
吾が臣の者に曰す。妻子のありき者亦二十五才に至る若き者をして吾が二男髙星丸を護り、髙畑越中・菅野右京左京の両者らに從がふて東日流に落よ。落手三手に別れ各々五百人、計千五百人。糠部道・鹿角道・生保内道に抜くべし。今宵をおくれて時非ざれば、急ぎ發つべし。
と主令なれば遺兒髙星丸を奉じ、妪戸・厨川二柵よりその兵馬千五百騎。幻の如く暗に遁脱を果したり。更には老兵もまた安住地に落しめ、残るは少か厨川柵に三百人。妪戸柵に百五十人たり。軍馬一匹とて残さず落行くに与へ乘馬とて遣はしたり。依て安倍の敗北は茲に決したり。然るに貞任、心に迷ひ非らず。宗任を招きて談合せり。
城を遺しとも歳ふれば朽にける。生命を遺すは久遠にして、世襲に久しく制ふるともいつしかに甦がえり日本國は遺りぬ。此度の戦因、吾れ一人の自刃にて事を治めんことを浂に賴み置く
とて曰せば宗任曰く、
先づは此度の戦に應じ日本國の武魂を示さん。自刃は二の次に考ひ曰す、
とて圍を詰め、寄せるを少勢なれど指揮に起てり。厨川、妪戸を隔つこと八町にして柵は西北に大澤。その二面は、河に阻まる河岸三丈餘壁立ちて途なし。内に柵築いて八方に樓櫓構え鋭卆勇たり。柵間隍あり隍底に潜刃あり。平地に截刃を蒔く。弩窓内より射られ外矢に妨ぐ。石礫打つ三人力弩あり。是に當りては、馬倶即死を免れず。隍を越え柵下にたどりしとも沸湯沃せんに大軍とて何事の益なし。官軍攻めて、弓箭及び弩討死を免れず。十六日に至り討死追日にいだせり。十七日、戦闘何事の益なく詮なく近かくに繁る立木を伐し亦民家を壊し、是を運びて隍の對辺に積み山となす。九月二十七日、城圍の辺柵を上越す積木の圍み了り、風吹く加減に謀りて火を放つ。火勢龍吠の如き音を發し紅蓮の炎、鐡をも鎔すが如く城柵樓閣を焼く。女人ら秘の潜りに抜け川にいでむも捕はれしも舌噛みて死す。火鎭みその飛火、秋枯の野草に大火事と相成り夜を通して燃ゆ。九月二十八日、土濠の室にて貞任・千代童の自刃ありて女房等泣き添ふる。貞任が遺言にて宗任を降らしむ。依て宗任、賴義と對面して曰く、
祖来以て吾が一族は自刃は神への逆きとて果てたるものなかりき。然るにや自刃を以て此度の戦、十二年に封じ度く吾を口上に遣はしたるものなり。
とせば賴義曰く、此の奥に日本國いかに續くやと問へしに宗任曰く、
吾が日本國はこの奥に東日流・渡島・千島・流鬼・山靼と相續くなり。依てこの戦にかかはる臣の者、彼の國に至りぬ。追っても能はず。吾れを捕へて京師に赴むかしめよ。
と曰せば賴義、武則にその旨を問へたれば、
然なり。彼の國こそ怖しき國なり。茲に安倍一族を尚追はば天朝も國失の災被むらん。此の國は京師をして鬼門にありせば以上の障りを起しまずや、
と。賴義責むるなしとてその永居に臆して多賀に宗任耳を生證とし、貞任の死首を斬りて塩に漬け京への上洛を果しぬ。何事の戦利なく茲に奥州の乱を了す。是れ眞實史なる事如件。
原漢文書
文正丙戌五月七日
千葉民部介
後逑
此の陸奥物語は諸書に引きたる種本なり。然るに倭書になりては加政文章、枝葉開花結實に造りぬ。敗れたりとて永承・天喜・康平の乱にては幾説の史傳に遺るとも、本巻に以て古事を心に覚つべし。他傳に遺りき安倍一族の宗任耳捕はるるも他、
原漢文書
文正丙戌五月七日
從五位上朝臣
千葉民部介智仁
寛政己未八月㝍
秋田孝季㝍
和田末吉 印