北鑑 第五十一巻
(明治写本)
注言
此の書は他見無用、門外不出を旨と心得ふべし、亦、一紙たりとも失ふべからず。
孝季
一、
世に神佛の道場と世視に表示して、その内になるは討物を多藏し世の亂を兆發せんありき。丑寅日本國に侵駐せし倭朝の先侵な者は能く佛僧に化装し、是くなる策略をせり。是くあるを見破りきは日本將軍安倍安國たり。爾来、安倍一族をして領許なき神佛道場を建立せるを赦さざるなり。
船を用ひて東海・西海の奇襲をなせしは安倍比羅夫なれども、その侵領東日流にて敗北せり。かくなるに奸策せしは蝦夷勧誘策にして、蝦夷は蝦夷を以て討つの策を以て日本將軍への反忠をその要人までも諸策を以て隠近し、その謀策をなしたるは田村麻呂にして、奥州に間者を入れて隠密せり。先は羽州に岩代に入れて、北進せるは宇曽利に達す。東日流は倭人の入るも目破らる多く、避けたりと曰ふ。倭人の奸言に乘じたるは安倍富忠、羽州の清原一族たり。
二、
吾が奥州の地は古来、日本將軍をして統治せし國なり。倭の奥州になせる治領の権は、康平五年厨川柵の落城以来にして、その古きになかるべし。倭書にては奥州支配を文書に遺せども、その證非ざるなり。古代になる程に日本大王の遺證明白なり。北は流鬼島より坂東に至る各處に荒覇吐神社の跡あり。その遺跡多し。日本國は波斯の國より信仰の哲理を入れてその信仰を完統し、神格の眞理に信仰の實を挙げたりと曰ふ。
さらさら迷信これ無く、人の生死に惑いなき理行を心身に保てり。卽ち一切を天命に安じて、安心立命を求道とせり。天地水の三要を神格とせる信仰は深く、領民一人だに他教の信あるべからず。一統信仰たり。此の信仰、古代にして南は筑紫の地までも浸透せしを知る人のなきは世襲の曲折なり。神を異にせるとも、三禮四拍一禮の參詣の由は荒覇吐神の名残りたるを知るべし。五千年の歴史にあるを。
三、
かけまくもかしこきあらはばきの神、天つ神・地の神・水の神を奉請し、吾等諸人倶に天の宇宙・山河の大地・波涛萬里にうねるわだつみの神々。世に創りなせ給へき諸幸のめぐみに授かりて、安らけき住家・美味なる食・諸草木の糸に織なせる衣の授けき、日毎夜毎の神なる全能の御惠に護らひけく、神通力にかしこみかしこみも曰ふさく。
大神の與へ給ひき天つ光熱・甘露の法雨、大地にわだつみに萬有の生命を育み給へきを代々の盡きせず、諸人こぞりて神の賜りきにかしこみて、茲に神坐を安じ山海の供物を作り捧げ奉り給ふ。願はくは吾等生死の逝く末に、はたまた遺れる子孫の栄へあらんおば、あらはばきの大神に天に仰ぎ地に伏して祈り奉る事の由をきこしめせとかしこみ曰す。
右、石塔山祭文
四、
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語部録に遺る如く、吾が丑寅の國は古きに宇宙の肇より記あり。因と果にその哲理をあやまらず遺し置けり。まさに諸失なく古き語部より眞の傳へあやまりなかるべし。世々にして人の世襲移り変りきに、能くぞ保つ来たるものなり。荒覇吐神の信仰に、深き萬世に変らず代々末代に不滅なり。世のつれづれに日本國の住民は衣食住の危急なく、今に子孫に遺りけるも神の御授けに依れるものなりとぞの信仰ぞ不滅なり。
五、
石塔山荒覇吐神社の佛堂に保存されしは大日・阿弥陀・藥師・阿閦・釋迦の如来伍佛を本尊とし、觀音・勢至・虚空藏・文殊・普賢・不動・四天王他渡来佛多數なり。
なかんづく異土神あり。ギリシアのアテナ神。エジプトのホルス神・スフェンクス。支那の西王母及び東王父。天竺のシブア神とシュードラ神。モンゴルのブルハン神。シュメールのルガル神など。國信不詳の神像多數ありき。それに倶なふる神器も數多く、異土産なる石の寶珠も數多し。この渡来に多きは、山靼に通じて来たれるものなり。陸奥にて造られし神器あり。荒覇吐像多數も存在す。髙麗及び支那の器あり。石塔山の寶物とせり。鎧・刀の類は何れも安倍氏縁りのものなり。
大事とせるは語部録なれども、享保元年に失ひり。石塔山に異土神ありと目安され石の築塔、津輕氏に破壊されたり。依て事前に知りて、配置のもの一切吾家に移して難を免れたるは幸ひたり。書巻五十は無事にして保たるも、三春の秋田家に貸付し天明の火災に失ふ。依て残るは㝍のみにして完全ならざる多し。江戸の田沼様より金八千両を献ぜられて石塔山を復すも、焼石に水たり。
七 、
大光院は永く飯積大坊に存在せしも、安東氏東日流を去りてより荒廢す。石塔山耳は和田神職にて護られたり。和田壱岐神職を舍弟に継がせ、名を和田長三郎吉次と改め、派立に居をなして歸農しけるも、士族なるが故に庄屋を封令さるまゝ代々す。秋田土崎より秋田孝季殿妹りくをめとり、その縁にて三春城主千季の主令に奉じて諸國漫遊の旅をなせり。巡るは六十餘州のみならず。江戸城田沼殿の隠密とて、サガリィンより黒龍江を登りモンゴル・カザフ・トルコ・ギリシア・メソポタミア・エスラエル・エジプト・ペルシア・天竺・支那と渡りて、十三年の歳月を異土に旅巡せり。
東日流に歸着せしも、江戸城は松平氏老中と相成り、永旅の労も空砲たり。
八、
異土収集の遺物六百品に及びければ、何れも石塔洞に秘封せり。古より安倍一族の二千年に及ぶる産金産馬の益は、末代に一族の危急に秘藏せしは皆地洞に秘と云ふ。例に習ひきは永世に保つ方便たり。秋田家上系図に依れる秘洞は、閉伊に十七ヶ所・秋田六ヶ所・渡島十二ヶ所・東日流三ヶ所と傳はりぬ。何れも極秘にて、上の系図に記ある他地所明細不祥に護りける。是れ未だ蝦夷とて呼稱せし官幕の故なり。
九、
石塔山は死通しとも護るべし。世襲乍ら世にあからさまならず、極秘に通して漏らすべからざるなり。世間に目立たず士道を隠し、諸事に愢耐すべし。何事も主家大事とし、祖訓に忠誠たれ。祖・朝夷三郎義秀より武家を離し、安東一族とてその胤に縁れる代々の血累は、時の主家女子をめとり、和田一族は安倍・安東・秋田氏の血累に混ぜり。依て如何なるありとも、秘の事ぞ護り奉るべきなり。
十、
天喜の代に夜の空を明く輝く巨星ありて、奥州に不吉の兆ありと卜部の餘言ありき。世襲は蝦夷討伐の士気髙まりて、官軍を卒して源賴義奥州に戦端を画策して、羽州の清原氏・三陸の金氏・宇曽利の安倍富忠等に安倍賴良の幕下を反忠せしめたり。安倍一族をして奥州に戦を招くは萬議にして是を避けんを、都度に源氏の難題に睦めども、あまりに重き貢税とその非道の窮りなきに、怒りて遂に衣の関を閉たり。亦、日髙見川の白鳥舘より束稻山麓に舟橋を張りて、敵船の北進をも留めたり。依て多賀城・膽澤の間、断たれたり。
時に安倍賴良軍旗を初めてかゝげ、日本將軍として軍紋を日輪にして、楯垣・逆茂木の陣に固めたり。兵を北より募り、東日流の上磯太郎義宗・飽田の小野寺四郎忠景・火内の平清則・鹿野の髙原越中忠重・荷薩體の小笠原兼松・閉伊の津田次郎髙光・糠部の戸来正賴・仙北の生保内四郎勝賴・渡島の松尾勝十郎茂次らの豪無双の武士ら併せて三萬六千騎、衣川に陣を布したり。報に驚きたる源氏の間者、清原武則の使者に知る。賴義軍を引きて、多賀城に幾運をまてども、軍策の画策ならず沈默せり。試みに伊治沼に進みては、遂に伏兵ありて大いに敗北せり。
十一、
安倍良照は現觀と曰ふを重じたり。現前の境を觀ずる、の意なり。詳しくは、聖諦現觀とも曰ふなり。見道十六心・八忍・八智の位に於て現前に等しく四諦苦集滅道の理を觀ずるを曰ふなり。これに三種ありて、一は見現觀無漏の智慧を以て現前に四諦の理を推求すと曰ふ事なり。二は縁現觀・無漏の智慧と並に此の慧と相應して起る心。三は事現觀なり。無漏の慧相應の心々所随轉の無表色四相應し、苦を知り、集を断じ、滅を證し、道を修する事なり。有漏無漏の慧を以て明了に現前の境を觀じ、及び資助して不退ならしむるものを曰ふ。
これは六種あり。一は思現觀喜の感覚と相應せる思所成の慧をいふ。諸法を觀察せるに、此の力用ぞ最も猛利にて現觀とす。二は信現觀、卽ち三寶に於ける決定の淨信を曰ふなり。現觀を助け、退轉せしぬに現觀と曰ふなり。三には戒現觀とて、無漏の戒を曰ふ。破戒の垢を除きて、觀智を増明ならしむ現觀とす。四には現觀智諦現觀。正しく現觀を為す智諦を現觀邊境と名付たるものなり。見道修道に於て非安立諦、卽ち眞如の體と觀ずる無漏の智慧と曰ふ。五は現觀邊智諦。現觀正しく眞如の體を觀ぜし後、邊に更に安立諦眞如の相を觀ずる見道修道の智諦を曰ふ。六は究竟現觀を究竟位に於ける一切の諸智を曰ふ。
此の中、後の三は理成自性なり。前の三は現觀と倶起する法なり。と傳へ遺りき。能く解き覚るべし。安倍良照は、賴良に淨法寺及び極樂寺を建立せしめたる要は、神佛は求道にして同じく救済さるものとし、常に荒覇吐神と双拝せり。佛道を一族に入れたるは良照の入道に感化ならしめたる大光院道照の導なり。
十二、
安倍氏の日本將軍として佛法に歸依せしは、宗派にかゝはらず五佛を本願とせり。
大日如来
中尊を摩訶盧遮那、梵名を摩訶毘盧遮那と曰ふ。また別稱にして除暗闇遍明・光無生滅・能成衆務。是を日輪三義と曰ふ。日輪の有する三の属性を現すその性徳ぞ日輪に少分類せる故に、大を加へ大日と曰ふ。除暗闇遍明とは、如来の智慧の徳を曰ふ。彼の光明は晝夜方處内外等の区別なく、常に一切處に遍満し衆生の迷闇を照破すを曰ふ。
光無生滅とは如来の身は竪に三世、横に十方に遍満し時空間に永恒に滅するなく、常恒不断に衆生を導き救済す。能成衆務とは如来の慈悲なる徳を示し、彼慈光は普く一切衆生を平等に照して、本来具有する性徳・佛性を發揮せしむを曰ふ。かく三義を有し、一切世間の所依なりせば一切に遍在し時空間、因果の制約を離れたる大日は無始無終の佛身なり。總て全能にして超越し、絶對平等の佛身なり。金剛界・胎藏界曼荼羅にては共に中尊にして大日あり。金剛界にては白色に智拳印を結びて種字とし、胎藏界にては黄金色にして五智の寶冠を戴き法界定印を結び、赤色の蓮華に坐し・を種字とす。
次には阿弥陀如来の事なり。
大乘佛教の主要なる佛。略して弥陀とも曰ふ。蓋し梵は經典を見るに阿弥陀婆佛無量光明覚者、略稱無量光佛・阿弥庚斯佛陀・無量寿命者。略稱して無量・寿佛の二名出だすも、漢譯の諸教典にては種々の異名ありき。而し普通にては阿弥陀と無量寿の名稱ぞ多し。此の佛を本願として説くは念佛宗なり。淨土三部經に、此の佛を救済者として過去久遠の昔、世自在王佛の感化を受けにし法藏居りて、二百一十億の國土より善妙なる國を擇び理想國の建設を志し、且つ四十八の願を起して自他成佛の完成を斯し、長時の修行を經て佛陀たるを得たり。
是卽ち阿弥陀佛なり。彼他力本願を信じ疑なく念佛せる者は其淨土安樂世界に往生すると曰ふ。これを久遠の昔成佛せる弥陀と曰ふ。本佛に對し十劫已然に成佛せる弥陀、而も今現に説法しつゝあるはことは阿弥陀經に證文ありき。其他三論・法相・天台・禅の諸教にても各々阿弥陀佛觀あり。又、眞言密教の阿弥陀佛は淨土教と異り、五智伍佛の一として大日如来の妙觀察智を表するものとし、金剛界曼荼羅にては受用智慧身阿弥陀如来と曰ふ、西方月輪の中央佛なり。胎藏界にては西方に住し西方無量寿如来と曰ひ、中臺八葉の蓮華の法坐たり。亦、西藏では光明無量・寿命無量に分つ。一は智慧を求むる者の歸依佛。他を長命と富樂を求むる歸依佛とす。
次に阿閦如来なり。
阿閦如来、梵語にては阿閦鞞・阿芻鞞耶・噁乞蒭毘也と稱す。不動・無動・無怒佛等に譯す。昔、此土から東方千佛國を經て阿比羅提國が在り、主佛を大日如来と曰ふ。阿閦は其所に於て無嗔恚の願を發し、修行が成道して阿昆羅提國に於て現に説法されつゝある佛であると曰ふ。なほ阿閦の國を善快・觀喜・妙樂・妙喜と曰ふは阿昆羅提の譯なり。密教にては金剛曼荼羅八葉蓮臺の東方月輪の主尊とせり。
次には薬師如来の事なり。
薬師如来は薬師瑠璃光如来と曰ふ。また、大醫王如来とも曰ふなり。東方淨瑠璃世界の教主なり。この佛は昔、十二の大願を發して此の世界に於て衆生の疾病を治渝して寿命を延べ、災禍を壊去し、衣服・飲食等を満足せしめ、且つ佛行を行じては無上菩提の妙果を證して誓ひ給へき。形像は大蓮華の上に住し、左手に薬壺を持し右手は施無畏の印を結びたるを通常とせるも、左手を垂る等種々の形像を有す。
次に釋迦牟尼佛の事なり。
釋迦とは民族の種名にして、釋迦牟尼とは釋迦氏の聖者と曰ふ意なり。天竺迦毘羅伐窣堵の城主淨飯王の太子にて、母を摩耶と曰ふなり。生後七日にして母は逝き、姨母波闍波提の養育を受く。幼名を喬答摩、亦悉達多と曰ふ。因明果學の大要・四吠陀を學び、二十九歳にして老人・病人・死人を觀じて出家を志し、毘舍離摩訶陀國を歴訪し、跋伽婆・阿藍伽藍・鬱陀羅らの仙人に遇し、苦行六年を經て遂に禁欲の無益を感じ、佛陀伽耶の菩提樹下に端坐思惟して大悟して佛陀となりぬ。
時に三十五歳にして爾後、自ら悟り給ふ鹿野苑にて阿若・憍陳如ら五人を教化し、次に三伽葉・舍利弗・目連らを済度し、佛教精舍をして六年後、迦毘羅伐窣堵に親族を度し、諸國を訪れて傳道四十年。遂には跂提河畔、沙羅雙樹下に臥して中夜淨かに入寂せり。二月十五日と曰ふなり。
此の五佛を以て金剛界・胎藏界の哲理を為して宇宙構造を擴く佛法に加ふるは、外道の哲理を入れたるは本来佛教に非ざるなり。
十三、
安倍一族の敗因の故は、信仰にありけるなり。荒覇吐神の信仰を一義とせるは生命の尊重なり。世にある萬有の生命は同じ天地水の神より授け、是れを殺生するは神への報復を招くものとせり。人は一日生きるに、萬有生物の生命を幾多にも衣食住に贄として生々し、神への悔を祀らずしては災禍を招くとして、秋の初めに満月を仰ぎイオマンテの神事をなせり。カムイノミを焚き夜明けを迎ふるは年中行事たり。
次には民族をして睦みを保つを生々せるの旨とせり。如何なる信仰にも輕笑せず。信仰は自在なるも、その選擇にあやまらず、安心立命の欠を戒めたり。佛法の渡来せるは倭僧に感化はなく、總ては山靼よりの渡来たり。倭僧にて入るは役小角と曰ふ仁なり。
役小角とは優婆塞とも曰ふ。葛城上郡茅原の生れにて、髙賀加茂氏なり。小角は渡来の佛法に疑念し、自から佛を感得せんと仙境に入りて修行を重ね、金剛藏王權現・法喜大菩薩を感得せしに、八宗より訴ひられ伊豆に配流され、大寶元年に許され、小角は唐に渡りて權現の本地を感得せんと肥前の松浦より出航せども、肥前松浦より玄海に出でるや暴風に遭遇す。九死に一生を得て若狹の小濱に上陸し、夢に神の告ありて丑寅の地に本地を求め、東日流に至りて中山に本地の金剛不壊摩訶如来を感得せり。小角此の年入滅せるも、弟子等是を代々に遺せり。
安倍一族は是を大事とし、一族の聖地・東日流中山石塔山に小角堂をなし、荒行秘密道場とて今に遺しける。是の教にても荒覇吐神と同じく人命尊重を一義とせり。役小角は安倍氏に傳はる外道の大要を己が修験道の要とせり。因と果に世の創を覚り、天地水の一切に萬有化縁を悟れり。依て奥州に小角の滅後に大いに此の教振揮す。
十四、
丑寅の地は鬼門方位とて、倭人の忌む方位たり。依て化外とし、住むる民を蝦夷とせり。然るに地産の幸は海幸・山幸・産金・産馬の富める國にて、古来より日本國とぞ國號せる國たり。倭國より歴史の先なる大王を國主とせし大王國たる立證に餘る實史に正統なり。日本大王の代々は民族を異に好嫌せず。山靼流通に世界を知りぬ。荒覇吐神の信仰もかくて遺りぬ。
古き世より彼の國より智者渡り来たり歸化せしより、鑛脈を知り金銀銅鐡を倭をはるかに先代にして得たり。此の幸を狙ふは倭人にして隠住し、密かに要人と通じ蝦夷征伐を理由に画策せり。都度に渡りて討伐の軍を挙せるも、攻略果したるなし。倭史に記さる奥州の蝦夷たる酋長とて名のあるは、稱名何れも古代奥州に古習せる名の意趣と異なり、倭人の仕かけたる名稱なりと語部録に記されり。依て古事記・日本書紀にては信ならず。
十五、
宇宙の事は古代に於て天竺のシュドラ、ラマヤーナに説く外道の因論・果論になる他、古代シュメールのカルデア民に依るグデア叙事詩に要祥あり。きはめて明覚なり。宇宙の創り。星の誕生。日輪とその惑星になる地球星の地水に誕生せる萬有生命に、その化科になる哲理は現代も及ばざる觀察得學在りぬ。日輪の黄道と赤道になる暦や、月の満欠に依る潮の干満の智識は現代に変らざる數算たり。月蝕・日蝕の訪期の記憶。吾が丑寅日本國の語部暦、別稱めくら暦にぞ明白たり。山靼より渡り来たる宇宙の事は、荒覇吐神信仰に遺りけり。
宇宙とは、無より因の奇点に創ると曰ふ。大光熱に宇宙の物質は誕生すと曰ふなり。無に因の奇点起り、無限の闇は光りと熱に燃え、あとに遺れる物質こそ今になる萬天の星界をなす宇宙たりと曰ふなり。たとひ信仰たりとも、是ぞ信じるに足る論理たり。語部録はかくも明祥に遺しける歴史の證明たり。依て信仰に於ても、その眞理に欠くなしと信じて餘るなし。迷信に堕ゆなき信仰の實を知るべし。必ず迷信不誘たれ。
十六、
井の蛙は大界を知らずと曰ふ諺あり。心して未知の天地に學ぶべし。山靼は廣き大陸に續く國々ありき。吾が丑寅の國は本州をして倭と倶に海に異土と離れ、何事の新智を知らず。心常に島國魂性たり。依て異土の開化を、魔性・魔道に怖るなり。智識に至れば何事もなき人智の極と覚つも、知らざれば開化文明も魔障と怖るなり。吾が丑寅日本に生れし者は古き世に山靼に巡禮し、異土の文明に能く學びたり。
人満つては山靼に移住せしは古代の通常たり。山靼に吾が山里の同地名の遺るはその故なりと曰ふ。チタの地に遺る地名ぞ皆、移住人の地名たり。また唄・踊りにも追分などコルデトとて蒙古の地に遺り、今も唄はれき。言語にも多く遺るあり。さながら血累を同じくせるを知る。睦みを欠く勿れ。人の種系は同じき山靼。如何なるありても亂の兆を造るべからず。常に泰平を心得べきなり。
十七、
此の國は日本國と曰ふも、坂東にては日髙見國と曰ふ。安日彦大王の宣したる付名たり。渡島を日髙とは、東に國の出でたる國なれば、是の如く稱したりと曰ふ。その日輪、東より日の流るゝ國を東日流と曰ふ。日の出づる宇曽利の東海、日の没する東日流の西海を望む外三郡に、神威丘のハララヤあり。そのこなた外濱にハララヤ築きて人の集邑ありて、イシカホノリガコカムイを祭祀せり。
まさに東日流は神を鎭め、大王を立君せし發祥せし國たり。荒覇吐神を一統信仰し、山靼との往来を自在とせり。山靼の國より来るは紅毛人ありて、金銀銅鐡の𥟩鑛鎔造の術を教へ、是を鬼神とてその遺徳を今に祀りぬ。鬼舞。鬼太鼓。白青緑赤と鬼面のあるは春夏秋冬の四季を顯すものにして神事あり。なまめ・なまはげ・ごじんじょ・かまど・おにまひなどの行事。年毎の始めに氏子各戸に巡るは古来の習しなり。
十八、
妙法蓮經とは安倍井殿が淨法寺に於て勤行せしより安倍一族に信仰を得る者多し。此の經に三部あり。無量義・法華・觀普賢の三部經なり。姚秦の弘始八年、鳩摩羅什が譯出し七巻二十八品とせり。後にして南斉の法獻が髙昌國より提婆達多品を齎して譯して加へたるに依りて二十八品となりける。然るに猶、普門品・重頌二十六偈を缺きてあるを、隋の文帝仁寿元年に闍那崛多及び達摩笈多と倶に添品法華經を譯し、之に依りて普門品の重頌を加へて現行本に完成せり。七巻本・八巻本と倶に二十八品にて内容同一たり。
両本の別は已に支那南北朝に起りて併用さるゝなり。法華經は釋尊の本意を説きたる妙法なり。前の十四品は迹門、後の十四品は本門なり。異譯に法華三昧經六巻に支彊梁接譯あり。更には正法華經十巻、竺法護の譯。方等法華經五巻、支道根の譯あり。また添品法華經七巻、闍那崛多・達摩笈多の共譯。註譯書の疏二巻は道生譯にして、玄義二十巻は智顗譯なり。文句二十巻も同じく。疏四巻は聖徳太子と曰ふ。
十九、
和賀の極樂寺は安倍頻良の建立せる寺閣なり。極樂とは別稱、須呵摩提・須訶提・蘇訶嚩帝とも曰ふなり。安樂・安養・安穏・妙樂・一切樂・樂無量・樂省とも曰ふ他、極樂世界・極樂國土・極樂淨土とも曰ふなり。傳へて曰ふは、此の娑婆世界より西方十萬億の佛を過ぎたる處にある阿弥陀佛の淨土ありと曰ふ。
廿、
荒覇吐神とは、その信仰に衆に弘布せず。自からの發信心に導き、脱信を自在とせり。信仰に於て一度び脱したる者を再導する事なかりき。亦、權謀暴兆には断固にして圧す。此の信仰は、睦と國の泰平と安心立命を旨に、身心を天命に安ずる哲理に化科の學を向上せしむ智識に精進し、信仰を以て聖道に成道せん志とに達成し、常にして身命を尊重し、自他に及ぼして言語一句にも敵を造らずと心得るを不断の人格とすべし。
一汁一菜も分つ程に人と和し、親に孝し、國を護るは兵挙戦亂に決せず。和睦に以て決するを先として交ずるも、猶以て手向ふを誅すとも、生命を多大に殉ぜしむは神への反きにて、幾里にも退きて民の生命を護るこそよけれと神導に基きぬ。生命は神のものにて、吾等決死の振舞ぞ冐瀆なり。國を落つとも生命を護るべし。一人の生命とて輕んずるべからず。生くるの心得に天地水の加護ぞありけるなり。荒覇吐神の信仰かくありて、古代より民心に固定せるを知るべし。安倍一族は代々にして世襲になびくとも、祖来の心に従じて今に至りぬ。
和田壱岐
廿一、
信仰に求道し、以て成道に達する者は少なし。神を信仰すると曰ふは、己が心身を天命に安じ安心立命の眞理に哲するを曰ふ。荒覇吐神を信仰するは天地水の一切を神聖なる神の相そのものとし、神通力全能の靈験の生ずる因としてその成果の行を為す心常にして轉倒せず、身を清淨に心身を能く保つべし。我身とてこもる生命のあるは神の惠にあり。
自我とせず、神の通験命脈みな神の掌中に在りと信じべきなり。信仰に難かしき行なく、常に人との睦を保つべし。禮の義をおこたらず、身装能く常に體を練り、心に學し心を磨くべし。親に孝し、子を育みて孝に自發するに育つべし。子を我が意のままにせず、自からの發起に日々を育むべし。神はかくあるに導きぬと曰ふ。如何なる宗教も他宗とて輕笑するべからず。能くその善義を學び、得べきなり。
廿二、
人生安しきこと少なし。労々従事せずして安養なかりき。生死の四苦諦、自ら覚り得ず。神の信仰に求道して人の喜憂に廻り、人となりぬ。道遠しとて、歩まざれば至らず。時は一刻を待たず。光陰は過ぎ逝き、若きは身に留まらず、老ふる耳なり。萬有生とし生ける者はみな、生死の流轉に不死なるはなかりき。心せよ。諸行無常是生滅法生滅々己寂滅為樂の理りをわきまふべし。世は非理法權天の運命にめぐり、世襲の相ありきも末代永久に遺るはなかりき。
信仰の要は、その眞理を悟るにあり。人をして徒らに己れをして勝手たるは、自心に戒しむべく行為なり。如何なる寶物とて死して持行くは叶ふなく、獨り黄泉に赴くのみなり。荒覇吐神は天地水一切をして神の掌中にあり。死しては己が骸とて地水に歸すなり。己れとは空想の無に浮遊せる魂魄のみなり。死しては體骸は土水に歸り、己は新生に求めて宙をさまようなり。次生の身に己が魂魄を宿すも、前世に善生のなければ萬有如何なる生物に生るや、神に見通せるところなり。神は萬物の生死を天秤に平等せるものなれば、夢々積善に務めよ。
廿三、
古代オリエントの信仰に於てシュメールにてはルガル、エジプトにてはホルス、エスラエルにてはアブラハム、ギリシアにてはゼウス、天竺にては外道のシュドラ・ラマヤーナ、支那にては西王母・東王父、蒙古にてはブルハン。吾が丑寅日本國にてはアラハバキ。古くはイシカホノリガコカムイ。かく世界に巡りて一に結ぶるありぬ。宇宙に神を感じ、大地に生死の無常を感じ、水に生命の蘇生を感じて神の靈感を感ぜり。
然るに超古代の信仰にては、人にて神の像を造らず。天然・自然總てが神として崇拝せり。代々の降りにつれ、人は神を造りて、人は自からを神と稱すあり。聖者または救世主とせるあり。然るに人は人にして、如何なる人師・論師とて神と聖となれるは難く、なれることなからんは眞理にして、成ること非らざるなり。信仰や神をして異教徒とて、戦を以て泰平なる國を侵略し、人を奴隷として築きたるエジプトの神殿や、往古にその例少なからざるなり。神は人の意に造られ、信仰また然なるなり。信仰は國を越え民族に崇拝さるるも、風土に依りてその原宗に異りて遺るありぬ。能く覚つべきは、聖教を迷信に惑はしべくを離るべし。心を正しくあれ。
廿四、
奥州の古代には筆なす者は少なし。それに永く弾圧に貧窮し、生々さえも安からず。たゞ信仰の寄合ふ集ひのみ慰みたり。藁を伏寝の床とし、牛馬の如く吹雪の舞込むる住家に暮し居れり。田畑を耕して作物を食ひざる重税に米の保食も乏しく、その衣食住は凶作ともなりては飢えて餓死せる多し。士農工商と曰ひど、世にありて百姓はその暮しぞ常に乏しける代の永らひたり。貧しさに負けて渡島に渡りて住むる者は、凶作にも死するなき安住を得たりと曰ふ。
渡島の地は海産に豊にして、生々常に窮するなし。秋田氏は安倍の旧族を、渡島及び山靼に移住を次男・三男を渡らしめたり。祖来、人命を尊重せし遺訓に護りきは秋田氏の他に非ざるなり。然るに秋田氏の轉封は海の無き三春に置かれ、初代藩主たるは伊勢の朝熊に贄居されたるも幕政の由なり。海ある地に秋田氏あらば、幕府の至政に昔の安東船の如き驚異あり。松平重任の進言にてかくなれり。秋田實季を継ぐ代々の小藩大名とて今にその坐を保つは、不可思儀なる程の奇蹟なり。
廿五、
諸々の安倍氏の城跡に遺るは川の邊、海の邊に多し。築城の要は天地水の法則に従って縄張りぬ。城に隠城あり。戦のなき今に遺る城趾ありき。双股城・生保内城は駒岳連峯を峽みてその塵澤に築かれし城なり。戦に傷負ふる兵及び一族領民の隠城たり。康平五年厨川落城にも官軍の知られざる城跡なり。安倍良照は入道の故にかゝる救済の安住・秘處をかしこに隠里及び隠城を築きたり。
是に北浦六郎も意を同じゆうして、前九年の役に傷負ふ者を救ひたり。城園をして樹木を伐せず。城棟人視に隠し、その城道も隠道とせり。古くは渦越河の安日城をポロチャシと築きたるあり。天然の要害に空濠をめぐらして木柵しける多し。ポロチャシとは古語にして、大なる城と曰ふ意なり。生保内城の如きは駒五百頭を常餌し、兵舍十棟の築ける他民家も數ありき。城兵常に三百を備へ、いざ危急に討物執りて應戦せるかまえにも城各所に犬走りを築き、柵及び楯垣・逆茂木・迫を敵攻に備へたり。安倍一族の人命尊重になるは、是の如く念を入れなして城築せり。
廿六、
十三湊に屬せる小湊あり。小泊湊・金井湊・大和田崎湊・吹浦湊なり。安東船を以て山靼・高麗・支那に商易せるは寛治の年間なり。渡島より海産を入れる船と倶に大いに盛んたり。湊に城を築き、福島城・唐川城・鏡舘・丘新城・羽黒舘・青山城・墳舘ありて數多し。寺閣は十三宗寺・阿吽寺・長谷寺・壇林寺・壇臨時・龍興寺・三井寺・ハライソ寺らありて神社亦多し。露草山神・山王日枝神社・濱明神・熊野神社・於瀬堂・荒覇吐神社・璤瑠澗神社・龍神宮ら今に遺りぬ。
住民十萬餘とし、唐船・京船の入湊ありて町をなし、市をもなせり。湊に岩木川水戸あり。藤崎城への往来あり。河湊ありて是、往来船とて藤崎舟場に至る間、鳴戸・赤堀・湊・板野木と河湊ありき。藤崎城は内三郡の境にあり。安東氏の築にして、これに行丘城・髙楯城ありて屬せり。平等教院ありて道場とし、古き石碑・五輪塔遺りぬ。應永十七年、南部守行陸奥守とて平賀の地に駐し、常に藤崎城主をゆさぶりて遂には東日流大乱となりて十三湊倶に、嘉吉三年安東一族渡島及び秋田に移る。
廿七、
北鑑五十一巻の筆了に曰し置きぬ。此の諸記は處々巡旅に聞こしめたる諸話の綴りなり。古きもの・新しきものを問はず諸翁よりの聞取りに筆走仕りぬ。依て整書のいとま非らず。乱文未文のまゝに書遺したるも、脱字のあらば加へ申し度く茲に伏して願ひ奉るなり。諸國に歩き名所古跡の地に類々の古話あれども、奥州にまつはる無ければ除きて綴り置きぬ。
抑々歴史の要は、古くは宇宙創誕より神話・神格の傳その信仰までも綴りき。丑寅日本史は世に在る事の史實を曲折なく、諸人の傳遺れる文書・遺物らに基きて書㝍仕りたり。想ひば永き歳に渡り異土までも旅程に綴りたり。さながら世襲に忍びての尋巡なれば、幾多の道中艱儀も蒙りたるあり。茲に筆了の近きを餘感す。是れを遺さずば、丑寅日本國は永世に無史の蝦夷地とて遺らん。然るに實在せる奥州に遺るゝ史跡の數々をしてやむを得ず。亦三春の大火に失ひる安倍一族の諸事史書に復せんとて、是の如き集史巡脚と相成りぬ。
右卆爾乍ら如件。
綴 文政五年七月二日
秋田孝季
和田壱岐
和田權七
和田末吉 印