北鑑 第五十九巻


(明治写本)

戒言之事

此之書は他見に無用、門外不出と心得よ。亦、一書なりとも失書あるべからず。

孝季

一、

久方に東日流に関越え来り、石川の羽黒神社に夏暑の涼を樹に坐して、はるか見ゆ岩木山の靈峯ぞ、此の社より見るこそ、

〽富士見ても
  富士とはいはん
   みちのくの
 岩木お山の
  雪のあけぼの

地の古歌に想ふがまゝの絶景たり。弘前城下を目のあたりにして、黒石・行丘下の切道に道をとり、飯詰の村に庄屋長三郎を訪ねて旅衣を脱ぎて宿居す。都度なりせば、客たるの感是れなく妹りく、長三郎に嫁して十二年。はや三人の子を産めり。妹りく、余を兄とは呼ぶなく父と呼ぶるに、我れまたためらはず返事をせるは、りく幼な頃よりの習ひなり。妹とは申せど、歳の三十二歳の差にあり。りくが乳兒にて父の他界にありせば、吾れを父と呼ばるは、あどけなき四つばへの頃と覚ひぬ。長じても父と呼ぶる、りくに合せてか長三郎もまた父上と口調を合はす。にくい二人の仲睦ましさ。余の室をして入ることなく鍵を閉し、錠を常にて余来たらずば開くなき一間にし十二畳半の間なり。

長三郎こと祖を桓武平氏の流れにて和田義盛が三男・朝夷三郎義秀の子孫なり。神職をも兼ねたる故に和田長三郎吉次の別稱・和田壱岐守吉次とも稱しぬ。長男權七、當歳にして初の男子なればその愛しさも倍なりき。山靼への旅行きは、りくが旣に承りて余の身支度くまでもそろふれば、ただただ頭垂る想ひなり。船待の間、四日あり。此の宵は大光院にて宴げぬ。折しも満月にて、冴えたる夜空ぞ青し。

孝季日記より

二、

蒼海の潮騒、濱巌に砕け散る。上磯の吹浦より、一路山靼に潮をけたてぬ。松前船に夜明くる前にぞ帆立張りつる。出船の法羅に湊を西北に舵を取り、進むる四辺の海にいさり火に漁なせる漁士の振り手に、朝明けの幽光水平に天と海との線を現はしぬ。四辺たゞ海潮の他に、陸影も無し。心は旣に山靼に。

海の安淨を祈りての船旅はなかなかに、日和を気に計れる船頭衆の水先をあと追うかもめの鳥山。波上の魚群を告ぐなり。水夫ら各々一釣にて、船尾にて釣りあぐる大はまちの漁ぞ、半刻にて百五十七尾なり。船食事まさに陸にて味はひざる超美味食なり。波枕三日二夜にして見えたりと騒ぐ水先の衆に山靼船の水向あり。倶に帆を山靼に落日を追ふ如し。

孝季日記

三、

後世に物事を傳ふ文書に綴なんは、凡そ人讀みて解き難き文行なりせば用をなさゞるなり。達筆名文にして遺せるも世襲の權に片そばしければ、史の眞實ならざるなり。素字・素文なりとも誰とてなく衆に解讀可なればよろしき哉。依て如何なる者の地衆の傳承由来とて、そのまゝに聞取りて方言のまゝに記し、書面たりとも己が改文加筆あるべからざるを旨とすべきなり。丑寅日本にては各地方言ありて、その方言とてまた歴史なり。

つとめて改書に及ぶべきに非ざるを戒しめ置くものなり。倭史の如く支那の漢諸もどき美文達筆に非ずとも、偽りなき史傳はそれに優るゝものなり。能く膽に銘じ、如何なる事をも記し置くこそ子孫に傳ふる大事なり。まして丑寅日本の歴史の事なれば、明細に遺さゞれば消ゆる耳なりき。

四、

本草學とは、山里に自生せる草木の葉・皮、根・花・種・實・樹液などより萬病を死の苦惱より救ふる醫法なり。東日流外濱なる深山になる他自生せざる節人參あり。これぞ韓人參と異ならざる藥功あり。是れに聞きて、白井秀雄と曰ふ仁ありてその人參を外濱中山に得たり。是の人參、津保化族の祖人ら故地より持ち来たるものなりとて宇鐡の山に種を蒔きて中山に自生繁殖せしものと傳ふなり。白井氏とは菅江眞澄翁の事なり。

天明の頃、髙山彦九郎と曰ふ浪人、杉田玄白の依賴にて菅江氏を宇鐡に訪ねたり。本草學麻藥の解痛法の一巻を㝍本に賜るたく旨を願望せり。時に、菅江氏心良く自から書写仕りて彦九郎に賜はりぬ。然るに菅江氏、是くあるより津輕藩より藩録を召上られ追放と相成りて秋田に赴きぬ。是れぞ秋田孝季の世話なりと曰ふ。菅江氏、渡島にて荒覇吐神社の記及び上磯の安東一族の史を記したる一人にして、歌を詠み見取画も記したるも、その多く召上られ今は遺るなかりき。

五、

奥州田村之郷三春。安倍日之本將軍流胤・秋田俊季五萬石之城下町なるも、是れ田村氏の旧領たり。山澤の貧土にて産物少なく、牛馬の産のみは活気たるのみなり。三春駒とて、デゴの土産物に遺るが如き、その名馬は諸藩への馬市は價をなしてにぎはひり。城に石垣なく、天然の岸石上に天守をなして要害たり。郷に名物なる瀧櫻・大竹林・三春織・三春紙・三春デゴの行商は藩益なれども、戦國の世には民大いに貧窮せり。秋田氏所領に相成りては、泰平にして復せり。

藩祖・安東秋田城之介實季、伊勢朝熊に蟄居以来、三春代々に若狹小濱羽賀寺に往来しけるは、祖東日流十三湊に日本將軍安東康季の羽賀寺再興以来、未だ京師の御用ありて牛車引きの牛・内裏の駒を貢馬に諸藩の買約ありて繁成せり。三春藩にては白馬を多産しければ、伊勢神宮の神馬及び諸藩の八幡宮よりの神馬を買約にありて、通常なる馬市より猶も収益大ならしめたり。名物・瀧櫻の咲く三春とは、桃に梅にあんずの収ありて三春とぞ曰ふ地稱ありと曰ふなり。

六、

冴え渡る夜空に北極星の不動なる宇宙位に、天文の觀測せしは支那城刑山に伯道仙人。感得せしは金烏玉兎集たりと曰ふなり。山靼にては日輪の赤道南北に地球星の軸轉に日輪の南黄道・北黄道の交はる秋分・春分を以て春夏秋冬の四季に分け、北極星に廻る北斗星大熊・仔熊座の廻轉せる卍卐の東西南北に天位せる正位を三百六十五日に割りて一年の暦とせり。何れが古きは山靼にして、是れぞ古代シュメールカルデア民の暦ぞ先とす。

七、

北鑑根本論と曰ふ古書ありて林子平、是を用ひて海國兵團諸談義と曰ふ丑寅日本三方海の護濱論を十七講義録を海國兵談として木版を完遂せんとするにその行為、反國政の科ありとて捕はれ、木版ことごとく焼却されたり。北にオロシア。東にメリケン。南にイギリス・フランス・ポルトガル・オランダの紅毛人、わが國を殖民の地と侵領せんと鐡船を航近せり。

是れに對せる挙國の海兵を興さんとせる兵法を海軍として奥州に挙げんと海濱にある藩の連合鐡船艦及び艦積大砲の鋳造を備ふる講義録は、髙山彦九郎も賛成なして諸國に巡脚しその賛同を傳へしに幕役、林氏を捕ひたりの報を博多にて風聞に及び、彦九郎大いに嘆きて死せりと曰ふ。世は田沼意次を失脚せしめ、松平忠信の老中と相成りてはオロシヤ船しきりに北海に侵海す。

八、

わが奥州は古来、大王を以て國を治め、土を耕作して穀類を保食し、海に貝藻草漁𢭐して干物保食し、冬に備ふる越冬に安住を保つたり。亦、馬犬を飼ひて狩猟にも民族挙げて冬の餌とせり。海に巨鯨を狩るも然なり。秋に河川に登り来る鮭の群。冬の湖や河岸入江に飛来せる鳥も、古人は是を狩り漁をして餌とせり。然るに若鳥及びくさるほどには狩漁せず。季節の他に狩漁せず。是れぞ掟とせり。若し掟を破る者は部落に追はれ、他所に移らせむなり。

春より冬に至る間、鳥は巣だき、獸物は与乳の期なる子育のときなれば、その親子を討つは禁ぜられたり。魚ホルツ・肉ホルツとは、干したる魚肉・獸肉を寒中干せるを打ちなして皮袋に詰めたるものにして、石鍋または土鍋に湯をたぎらせし中に、ホルツ一握りを入れなば肉の食となりぬる𩞯となりぬ。亦、春野草を摘み干たるを瓦の如く型入れ干たるを、同じく湯に入れ汁とて飲む味にては海水を焼きたる鹽を味付けとし亦獸魚の油にて焼き鍋とせるもありぬ。

古代人なる衣食住とは素雑なるものとて思いきや、想々に相違なり。ハッポチセとて葦の家に寝床は毛皮に依て豪華たるものなり。日本記の如く、巣にまたは穴居し獸物の生血を飲むほどに野蠻たるは一人だになかりける。衣食住には素なるも、貧なるはなし。信仰あり。文字をも以て互傳せし智にありて、大王をして國を治むる民の睦みありぬ。オテナとは大王にして、エカシとは長老なり。ポロコタンとは人の集住大なる村なり。

九、

渡島に荒覇吐神社の建立せるは安東氏なり。渡島地民は元来、神社は造らず。チセに神棚を造る耳なり。祭祀にては、ジャラ卽ち一本幹にして梢三股に四本の木芯のある老木を神降臨木として、その前にヌササン卽ち祭壇を造り神事を行ふが習ひなり。依て神社を造ることはなかりき。イオマンテは部族總出の祭りにて、神はそのヌササンのみに天降るものと、古来よりの三股の木は杣も伐せずと曰ふ。渡島にてはアラハバキとは稱ひず。イシカホノリガコカムイと唱ふなり。

十、

モンゴルの山神はブルカン岳にして、水の神はブルハン湖たり。倭國にては文永の役・弘安の役と曰ふ苦き元寇の驚怖にぞ、文永辛未年より弘安辛巳年に至る朝幕の膽を寒からしむ國難ありけるも、吾が丑寅日本國にては元國より通商に依りて大いに凶作の救済にありし。クリルタイ盟約・アンダの誓になれる國交ありせば、樺太島に上陸せしもこれぞ日本國領とて軍を退かしめたり。凶作と聞きて、兵糧そのまゝ安東船に賜りて奥州の餓死は救済され、是を請願せしマルコポーロ及びチンギスハーンを像にして祀りたり。

十一、

女貞國・髙麗國・キルギス國・オゴタ汗國・支那國・バカン國・安南島・チャガタイ汗國・カシミール國・イル汗國・キブチャク汗國・ハンガリー國・ブルガリア國・ギリシア國・マムルーク國・メソポタミア國。かくも擴大なる大亞細亞を征討せしは世にもなかりき元國王朝たり。如何に文明ある國にても、元軍の征くところ無敵の進軍たり。

かゝる元軍にも、わが丑寅日本國耳はその侵略を退かしめたるは、安東船の商易に盟約ありてこそなり。上都・大都に至る商の者を大事とせしはモンゴルのクリルタイ及びナアダムの盟約を重く、誓約を護りたり。是れぞ、テムヂンの頃より商隊を護り、大モンゴルをなしたる基たり。安東船耳は、倭船の元との通交を断ぜし折も、揚州に商易せるはマルコポーロの進言に依りて成れるものなり。倭軍交戦になくばマルコポーロのジパング渡来は叶ふたるものなり。

十二、

アルタイの大草原に駒のいななくを、シキタイの民ははるかモンゴルに至る馬追ふ牧民たり。世にこれをアルタイ騎馬民と曰ふ。吾が國の荒覇吐神古像に刻なせる紋様は、彼のシキタイ民の用ふる紋様なり。また土壺にも見ゆなり。さればその由を尋ぬれば、これぞはるかなる故事の歴史に溯りぬ。此の地の民族は古代オリエントの各地に戦乱を脱して集まりき民族の集團たり。戦の絶ゆなきに、シキタイの民もこぞりて是を防ぐ騎馬軍を決起し、その權領を擴め、北方騎馬軍團の征く處無敵たり。

彼の神はギリシア信仰のヘルクレスやグリフィンなど多信仰たり。主、死してはその馬も倶に埋葬され、棺は鯰を型造りて入棺せる多し。副葬品多きが故に盗掘多く、故に印のなき馬蹄に葬處を踏ましめその所在を隠したる多し。シキタイ民の多くはモンゴルにシベリアに少數民族に四散居住し、世襲のなかに消えたるも、その子孫になるはモンゴルに遺る馬術チャバンドウまたはクリルタイに遺りぬ。シキタイ人の丑寅日本國に渡来せしかは、語部録に不祥たり。

十三、

荒覇吐神祭文に曰く、
北天の宇宙に輝く不動不退轉の魁北極星。下界を三世に渡り陰陽に区なく見通せり。是れ荒覇吐神の三界に見落さざる法眼なり。吾れが神、無上に在り。生とし生けるものみなゝがら荒覇吐神の全能なる神通力に靈力無限なり。生々己が運命を天命に安ず安心立命を祈るべし。神の救済にぞ願ふは唯一向に神を稱名して叶うなり。
アラハバキイシカホノリガコカムイ
奉拝十六字なり。何事の罪障も降魔・物の化・恨靈にたゝらるとも、生々衣食住に窮すとも神を稱名せる者を救ひ給はざるなし。

荒覇吐神が相をして見ること叶はざりしもその相は宇宙にあり、大地にあり、大海にありぬ。依て過去・現在・未来に渡る不滅の神なれば、三界に渡る人の生死と善報・罪障の生死の魂魄をしていかなる甦りにせむや、その天秤に裁くこと平等にしてその業報を受くものなり。荒覇吐神の信仰に入る者は生々のうちに善導に人生のしるべを受けにして、必ずその甦る人としての新生を得るなり。人の運命は過却の罪障にて現世に會ふとも、各々前世の業に善にあれ惡にあれその命運を異に境遇す。依てかゝる因果の人生なれば、我昔所造の一切を神に委ね、一心不乱に神の稱名を唱ふこそ罪障消滅の行願なり。生々安しき事少なく苦労多し。神をして他に救はるなければ、荒覇吐神に三禮四拍一禮に拝し、唯一向に神を念じべく不退轉の心たるべし。

されば浂は神の神通力に救はれ、無上の求道にその果報を得ん。死を怖る勿れ。死は新生への古骸の脱皮なり。心に惑なく、疑なく、信を一義に覚り神の御靈に己れを委ねたる悟に達すれば、神の救済必ず浂を引導せしむなり。死して極樂・地獄のあるべからず。現世にこそありけるを心に能く覚つべし。他教に信仰のさまを見渡せば、人が造りし像を神佛として多くの化に造り、諸行法を作りて大殿造営して人心を惑はしむ。布施にて級位の階級なせるさま。救済の眞理に叶はざるものなり。能く心に銘じて、迷信の邪道に堕ゆべからざるを、茲に證したる眞理の導に求道して一心不乱たれ。人の骸は死すとも魂魄は不滅なりと覚つべく、信仰に達せるとき必ずや安心立命を得るなり。

合掌

十四、

古来より神がゝりとして神を司るゴミソ・イタコ・オシラの類多く人心を惑はしめ、業報罪障ありとて人の布施に依りて暮す者ありぬ。また自己流にして神を造りて、新興の宗教を世に布して論師・辨師をして巧議よろしく衆を惑はしめてなせる者ありて、ねずみ算式に信徒を誘致し、今に遺れるほどの邪道を衆に布せるありぬ。人心はかゝる正道になかりけるを好む者多く、その迷信に抜けるもならざるは多かりけるを知るべし。依て常に心、油断あるべからず。如何に悲運に遭遇せども、必ず外道の邪教に參ずるべからず。時にこそ古来の荒覇吐神に念ぜよ。必ず命運開き、福徳圓満を得るなり。唯稱名に唱へよ。
アラハバキイシカホノリガコカムイ
一念乃至多念に一心不乱に念じべし。

十五、

萩野臺の合戦・洪河の内訌とて、東日流に於ては藤原秀直そして庶家の安藤季久らの反乱ありきは、安東一族をしてかゝる内乱の恥べく對立ありて南朝方・北朝方に相對してより南部氏岩手に陸奥守にて駐領す。東日流に興國の津浪起りて水軍、諸國の津に四散せしあとにして、十三湊に一艘の船さえなかりけり。南部氏は糠部に根城を築きて、東日流一統せんとその兵備に着々たり。先づ平賀の得宗領に東日流侵攻の先陣を築きて、都度に藤崎城をゆさぶりぬ。藤崎城主、安東太郎教季なり。

十三湊廢湊以来、藤崎城方もその衰運を倶にせり。正長戊申年。遂にして藤崎城を攻め一日にして落舘せしも、一兵も不在なる空城たり。藤崎城領民もまた一人も遺らず渡島及び飽田に遂電せり。南部氏は守行に交りて義政に依り、十三湊の福島城を攻めたり。永亨甲寅年、青山城・福島城落つ。次な年、中島柵・羽黒舘落つて唐川城にこもる安東勢、城要害なれば、攻めては南部勢たゞ討死をいだし耳たり。十三湊とて住民なく、渡島・飽田に移りたるは十年も前たり。依て東日流外三郡になる民は、もぬけの空たり。嘉吉三年、安東氏遂に東日流を放棄せり。

和田末吉 印