北鑑 第六十巻
(明治写本)
戒言之事
此之書は他見無用、門外不出と心得ふべし。亦、一書たりとも失ふべからず。
秋田孝季
一、
千代八千代の大王、世にある事の累代は叶ひ給ふ事非らず。權政欲ひまゝに常据をする大王は、如何に神殿を造り、いかに己が大陵を造りても所詮は空しい願望なり。エジプト・ギリシア・トルコ・メソポタミアに遺る、歴史の砂に埋もる過年の廢處は物悲しく、墓さえも盗掘されて如何なる大王とても荒亡に保ち難し。依て丑寅日本の大王はモンゴルのハンの陵の如く、その埋葬陵を密として誰知る由もなく、過却を閉じ大地に永眠の妨ぐるものなく今に猶永く安んず奉るなり。抑々太古代に於て、心の持つどころに異なる聖導あり。大王をして民と倶にあるは、平等にして互に攝取不捨なり。依て人命を尊重し、富貧を造らず。相互に睦みを一義とし、信仰また一向にして惑はず。
茲に大成されたるは荒覇吐神なる崇拝なり。人生の生々に安心立命と、死に臨みては新生への老骸脱却なる門出なりと悟らしむは信仰の要とせり。その崇拝に於ては、唯一向に神を稱名して祈願せる耳の行にして得らると曰ふ易しき導理たり。依て神事に於ては老若男女心しこめて合唱せるはアラハバキイシカホノリガコカムイと天に仰ぎ地に伏し水を以て清むる六根清静こそ、神に行願達して生々に安心立命し、死して新たに人として甦えると曰ふ信仰たり。神は天なる一切の大宇宙・大地の一切・水の一切になる大自然こそ神の相とせり。依て、世に生々せる萬物一切の生死を天命に安じ、信仰に惑はず。己が信念を突ら抜きてこそ神の救済に遇はんと思ひ取り、唯一向に神を稱名しべきとは古来よりの一統信仰になる心たり。古来その法灯は絶ゆるなく、みちのくかしこに、坂東のかしこに、更には倭國のかしこに今も遺りけるはこの故あっての故縁なりと覚つべし。
二、
古代シュメールのカルデア民が宇宙の運行を日夜に日月に眺めて暦を知りぬ。日輪は三百六十五日を以て赤道を南北に、その黄道を交はる春分・秋分を暦一年の四季に覚り、月の満欠に海の干満を知り陰暦を知りぬ。この陽暦・陰暦をアラとハバキ、卽ち是を雌雄に神とせるはグデア大王にして、ギルガメシュ大王が是を天地水の神アラハバキ神と修成し、速やかに弘布され、ルガル神(メソポタミア)、カオス神(ギリシア)、オスリス神(エジプト)、アブラハム神(エスライル)、イホバ神(シナイ)、シブア神(インド)、アラア神(アラビア)、クローム神(北州)、オーデン神(北州)他多𥟩に近隣諸國に傳はり、古代オリエントの信仰の要を確立せしめたり。今にして遺るもの、遺らざるものありき。吾が丑寅日本國にては原語のまゝにアラハバキ神と唱ふるを常とせり。此の神の渡来せるは四千五百年前に渡来せるものと曰ふなり。
三、
吾が國は古来より黒龍江を道とせる山靼商人をして往来せり。凡そ四千年前に大挙して吾が國に漂着せしカルデア民ありて、是を秋田なる男鹿に住はしむも、彼の民ら大泻原の葦を束ねて一本の木材を用いずして家を建てなむ。彼の語にしてマデフーと稱す家なり。流ある處に好みて邑造り、大泻の漁は大漁にて湖岸に稗及び麦を蒔て稔らしめ、粉にチャパと曰ふ壺焼にて主食とし、味よければ地民是れを眞似て造りたるは、火あぶりにして串焼せるタンポなり。古代シュメールの酒造り農耕をなせるは東日流にてはその傳統多く遺りける。磯舟をハタといふも、その造舟はチグリス及びユウフラテス河になる造法と同型の作なり。依てカルデア民の東日流及び秋田の男鹿に居住せる民と同じたりと曰ふ。
漁法また然なりぬ。葦を大事として漁にも用ふありて、葦の生ゆ處にカルデア民の至らぬ郷はなかりけり。葦の棺に至るまで、笛なども造りぬ。冬雪を防ぐカッチョ及びシガキなども作られたり。古代シュメールの民は常に宇宙をながめて不動なる北極星を宇宙の軸とぞ思いとりぬ。海を航し、砂漠を旅する夜のしるべとせる星。亦、日輪の運行に眞昼のしるべとして己が位地方行を知りぬ。是の如く、五千年前にかくの如き知識にありきは驚くべく智才たり。カルデア人にて宇宙を知り、オリエント諸國に宇宙を神とせる星座の大いに振起し、ギリシアにては神々の神話に寄せて、今に名を遺す數々の星座ありき。
今は一人の信徒もなきギリシア・エジプトの古代神も、その神話を今に遺すなり。亦、世に新しく科化學さるゝ名稱にこの神々の名付らるありぬ。古代オリュンポスの神。主神はギリシア神話の根元たり。女神アテナを祀りしアテネのパルテノンの神殿も崩れ、大石柱のみが天を突く如く今に遺りけむ。また巨大なる金字塔を今に遺すエジプトのナイル河に添ふ大神殿も、是の如く飛砂に埋りたゞ崩れ逝く耳にして、更には古代シュメールの都の跡も然なり。ヅグラートと曰ふは砂に埋り古き太古の名残りも非らざるなり。富める國は襲はれ、敗れてはその大遺跡も崩壊ある耳也。古代オリエントの栄枯に、カルデア民の決断は一族挙げて安心立命の新天地に移住せるを實践せり。吾が丑寅日本國に落着せしはかくなればなり。
四、
夢を見つ、覚めて夢追ふうつろひに、夢喰ふまでに求めなば、為らざるものはなかりけり。人生はうつろひ速く、光陰暫くもとゞめがたし。無常は賴みがたく、幻しは悟りがたし。うたかたは消え易く、雲の流れは風に果を委す。されば人の生命もまた、己が命脈の盡きるを知らず。神を信仰し、その救済に安心立命を得んとす。然るに逝く年月は、世にあるものを逝きに伴ふて歸らず。生れし者は必ず果つ世の習なり。信仰は生命の長久を得るための者に非ず。富を得るにも非ざるなり。
諸行無常是生滅法
生滅滅己寂滅為樂
の悟りは佛法にして、神道にては
安天命立命以死甦新生達
是安心立命無上之信仰也
と曰ふなり。
五、
我家の家系は坂東八平氏の流。三浦氏之庶家・和田義盛三男、朝夷三郎義秀の子孫なり。建保元年五月、父義盛の討死。一族滅亡の砌り、父義盛の遺骸を背負ひて由比の濱より舟にて君津沖に漂ふ時に、東日流安東船に救はれ秋田土崎に至りて岩見澤に知行し、子孫を遺したり。常に安東氏と倶にあり。秋田かしこに子孫あり。
宗家は正平の年間に、北畠顯成の幕下に行丘城に代々せるも、天正年間に辭役し飯詰村に住す。爾来、神職にして子孫近郷に數を分家し、宗家は歸農して今上に至るなり。家門常に文武二道にして現に在り。子孫、是を継ぎける。
六、
和田長三郎權七、藩之令ありて弘前寺社奉行に召捕はれて、東日流古事記帳、永代に渡りて書綴られたる一切の史記あり。津輕藩浮沈にかかはる一切の古事記帳ありと責められたり。家探し、分家ことごとく吟味の由あり。何事の證是れなく解き放されしも、是れ訴人ありての事とて聞き及びたり。吹畑藤巻より飯詰下派立に移住し、壱岐守賜號を返上して、事問なき事件たり。とかく和田一族は三春藩と相通じ、その往来手型の老中特許のある家柄なれど、庄屋を辭し味僧澤に居住し、訪ねて留守は常なりとその不審なるを吟味に及ぶ事暫々なれど、その答は常にして諸國への巡脚と答ふのみなり。士族なれば代官の及ばざる家門にして、かく弘前藩自からの取調べと相成れり。
和田家はもとより武門にあり。帯刀御免の家柄なりせば、徒らに深念取調之儀はやぶ蛇にて、かゝる召捕の事件は幕府大番に津輕藩主は召出でに蒙りて評定あり。老中の責叱は雷の如くありけるより和田家への探りも解きけるなり。和田家孫々は上は桓武御門より出づる坂東八平氏の一族にて三浦を知行しけるも、和田にありけるより和田の姓を氏とせり。建保元年。和田一族、北條氏の惡政に怒り鎌倉の乱を起し、一族の多く討死せるも、和田義盛の三男義秀一人脱して唐に渡らんと欲し、君津沖にて安東船に救はるも、飽田に至り岩見澤知行を預りて累代を今に遺せしものなり。今に猶以て三春藩の寄録によりて暮しけるを、弘前藩とて是を制ふる權ぞ非らざるなり。ましてや江戸城大番目付の許状にありせば、常に帯刀御免たり。
慶應乙丑年
和田八郎
寺社方各位殿
追而
農兵の師たる指南依賴の儀は固く断りおくもの也。亦一族の徴兵も然也。
右の八郎とは、權七の八男にて北辰一刀流皆傳の腕なるも、會津にて傷負ふより武家を去り、童を集め飯詰代官所前邸にて餘世す。
七、
祖来、和田一族は義秀の代より安東氏の臣とて仕へ候也。和田一族の鎌倉在りき轉末の候事は公史にも遺り候事然也。由比ヶ濱より義盛が遺骸を漁船に乘せて漂ふを安東船に救はれ、小湊なる誕生寺にて火葬なし、奥羽飽田岩見澤に赴き候は一重に安東三郎土崎鷹季殿の慈愛に蒙り候者也。岩見澤知行に預候へば茲に和田邑を開拓致し候事、義秀自らに鍬振り候事の由に御座候と傳へ聞き候。建保乙亥年、京師鹿谷の源空法師なる門僧金光坊に伴ひ候者あり。
その衆六十三人、皆和田一族の残黨に御座候。涙會に候乍ら和田一族の再挙に一族の者、地の女子をめとり家を連ね候處に他衆も集りて、和田邑百十六戸に至り候。依て主君和田義秀改めて朝夷三郎義秀とぞ稱號仕り候。拓田、川辺郡一帯に及び候へば、承久庚辰年、安東鷹季殿の許を得て、岩見澤越内に朝夷城を築き候へて、茲に義秀居城仕候事大慶御坐候也。此の地に築城を企候由は、湊安東氏が發起せるものにて候由なり。和田一族、上野に兵を挙げたる新田義貞に勢を援軍仕り鎌倉に攻め入りて一族遺恨を晴らし候事は朝夷義秀が子孫への遺言たる故縁に御座候也。
八、
丸に三つ引きの紋は和田一族の馬印也。安東氏に仕へ、秋田川辺郡岩見澤に朝夷城を築きて和田邑を振興し、一族挙げて雄物大河に舟往来をなし、仙北に至る各邑に流通をもたらしめたるは、山靼往来船への商品物資の生産たり。その一つに金山あり。鹿角に和田邑を山中に開き𥟩鑛せるも和田一族にしてその實を挙げたり。金塊こそ世界通用の貨銭たり。
尾去澤百枚金山の産金はその實を挙げたり。物部氏との倶に掘りなせる金山の數は十六たゞらと稱し大いに振興せり。十六たゞらとは鳶内・鷹内・鷲内・火内・鹿内・生保内・駒内・安日内・大平内・湯内・岳内・越内・空内・浮内・岸内・多々羅内の山澤にして、その多くは秘中の秘たり。駒岳・安日岳・和賀岳・栗駒岳に密せる金山のたゞら跡ぞ今にして秘たるなり。
九、
上宮太子が蘇我氏と謀り物部氏を羽州に追放せしは、神佛崇拝に事寄せたる策謀たり。物部氏、常にして大王の坐に勢をこらし、春日氏を制へ、次に耶靡堆氏、阿毎氏をおとしめり。葛城氏はこれに對應し蘇我・巨勢・中臣・平群・和珥・大伴・土師七氏に報じ物部討伐の策を謀りぬ。對する物部氏は、羽束氏を山城に、住道氏を攝津に、明石氏を播磨に、酒人氏を河内に配して一挙に事を起さんとせるを上宮太子及び蘇我氏は何くわざる態にて宮中参坐の折を襲ふて物部氏を誅したり。しかさず諸國の物部一族を討伐し、天皇氏を大王と為し一統せば、是を暴とせる世論に蘇我氏曰く、
神道・佛道をして國論を起し、百済の聖明大王の信を失せば我が國の國益を失せん。依て佛道は厚く三寶に歸依し奉り、我が國の泰平を護らん為に、神道の他崇拝をならざるを民に扇動せしむる物部一族は討って取られたり。
と世評を制へ、自ら向原寺に百済聖明王の献ぜる一光三尊佛を佛事法要を挙げて衆の信を得たり。上宮太子の三寶歸依は十七條の誓文に弘布され、倭に佛寺のかしこに成れり。是、佛法の起りなりける。
十、
物部氏の多く羽州に落北し、神道を弘めんと欲するも、丑寅の地にては荒覇吐神の神を他に信仰を改む者なく、物部氏は密かに倭神を祀る他居住もまゝならざるに、鑛神として社をなせり。然るに心に倭神信仰廢せざるに、遂にしてその社を衆に打壊され、羽後に入りて忍住せりと曰ふ。固き心にして倭神崇むも、子孫に至りて郷に入らばや郷に習ひて、流石に物部氏も荒覇吐神に信仰をかたむけたりと曰ふ。
十一、
學に長じ世に名を為すに至れる者は、己れ自から己れを過信し、他の道理ある者を排斥せんとし、その書巻に執拗なまでも惡評して、己れ獨裁の主唱を通せんとす。その手段に於いて為せる行為や彼の祖先・本人のいはれなき惡評を木版にして四衆の心に己れを讃じ、彼の惡評をなせる耳ならず、その妻子・親友・親戚に至るまでその愚に突きて、己れは己れの造りし凶刃に死すありぬ。學閥は是くして他學を葬むり、独裁になる者の學書なれば、後世にやがて露見し、露も残るなく排斥さる憂あるを覚つべし。
學びの道は清く正しく不動なる信念に遺すは文學道なり。歴史の事は猶更に一字一行にもあやまらず私考を加へず。一説猶二説他異の説ありとも、己れに判断をして除くべからざるものなり。亦己れに餘る學の科を他書より得て自著とせるも、盗罪行為なり。己れ若し役人なる職權を楯に學者制圧し、その著書を奪取し己が名に於て世に出だす行為は詐欺の行為にして、無賴漢たる素質にして、學を論ずる資格に非ざるなり。語部録に能く學ぶべし。
十二、
新井白石の讀史論及び西洋紀聞。
石田梅岩の心學書。
青木昆陽の蕃薯考。
杉田玄白の解體新書。
平賀源内のエレキテル學。
林子平の海國兵談。
本居宣長の古事記傳。
間宮林藏の赤蝦夷記。
瀧澤馬琴の南總里見八犬傳。
塙保己一の群書類從。
伊能忠敬の大日本沿海輿地全。
賴山陽の日本外史。
渡辺華山の愼機論。
髙野長英の戊戌夢物語。
右は世に出でしもの、出でざるものありき。その作者中、獄に捕はるる者ありて、世襲の學問への法度たるや、是の如く圧せられたり。依て吾が丑寅日本史書一萬三千餘巻は永代に密とし、世襲に至れば歴史の眞實。日本國の大古代。大王の歴々。一萬年前乃至百萬年に溯りて覚り得ん。丑寅日本國こそ大王肇國之國たるを證す語部録あり。倭の大王、天皇記及び國記ありて、古事記・日本書紀と異なりぬ。
十三、
世に眞實を遺したる史書はなかりき。眞實は偽造の作者に障りあり。是く作りなさしむる權者にも障りあり。それを露見せる史實の證は抹消せんと謀手段を用ひて葬らんとす。系図・家傳・戦記になるは千に三つ、萬に一つの眞に無く美文達筆に遺せども、實に照してはまさに空なり。されば是く偽に造り、祖先を飾りて何事の徳ありや。眞に祖先の悦びあらんや。愚考なり。人間をして大王と相成りきも、その位に足らず猶神たるの宣にありきは、神を怖れざる冒瀆にして必ず神の報復あらんや。夢々疑ふ勿れ。
十四、
世に泰平程の安心立命はなかりけり。人對して和解ありければ、戦起らず。對して和睦あれば相互に進歩し、交易あれば國益す。人と曰ふ字の如く、獨断獨裁は平等を破る侵魔の行為にして、民族挙げ乱起りぬ。相寄り相集ふるこそ和睦ありぬべし。理想たるは平等に利權を重んじ相互の理解を崩さず、己が勝手たるはなけるこそよけれ。人類皆兄弟姉妹にして境を造らず、その往来に人の妨げなければ天なる神、地なる神、水の一切なる神は全能の力を以て衆を救済仕る也。
平等に導化せんは本来なる神への法則にして、成れる天地水の化に依りて、萬物は神の母胎に神の種を得て産れたるものなればなり。陰陽は生死なり。過却と未来なり。雌と雄なり。明と暗なり。苦惱と安養なり。悲しみと悦びなり。神を信仰し、信仰せざるも心なり。唯己れ耳を願ふるも信仰に非ず、我慾なり。信仰とは無我の境地に吾れを置き、無常のなかに眞理を得るが、信仰大要たるの求道なり。何事にも心を轉ぜず、唯一心不動にして神の稱名を唱へよ。
アラハバキイシカホノリガコカムイ
是れ一念乃至多念に、唯一向に唱へ神を稱名せよ。
十五、
地殻の表に戦無ければ、人の權謀また暗に画策す。世の乱の兆は、國を司どる大王の決断にあやまりては必ず兵挙あり。巻添ふ民また多く死す。戦長じては、盗み强奪常にして染血と屍に山川はなまぐさく、孤兒は屍にすがりて泣く。鳴々として死骸をついばむ鴉の群。まさに娑婆の生き地獄そのものなり。
馬の死肉を喰ひ、野草を噛み、泥水にて炊く戦陣飯もありてこそ事なきも、飢えては人心、畜生道・餓鬼道さながら民家に押入り女人を犯し保糧を奪ふなり。かゝる倭兵の常なれば、わが丑寅の安倍一族にして戦に會ふては、先づ以て老人・女・童らを安住地に移しめ、民家に一人の居住者残さゞるを一義とせり。死して護國の鬼などと曰ふは倭人なりて、その作説物語りぞ多し。吾が丑寅の兵は散兵にして、敵の急を突き、神出鬼没の奇襲を以て戦法と為せり。
十六、
抑々、家貧しゆうして世に生れ、學を欲せども叶はず。幼少より労々のみ心身にいとま非らず。家に盡しきは、たがための生涯ぞ。親は逝き、弟妹は外に離れ、吾れに遺るは朽にし古家。そして吾が身の老なり。若身に復せず、何事の望みも今吾れに叶はざるとぞ獨り荒覇吐神の祀れる社に心無く參拝し、家路に歸りき途中に白髪の老人と出合ふたり。もとより吾れ未だ知る由もなかりき老人にして通り過ぎ、肩に聲あり。
浂憂ふる勿れ、神は浂の身心に在り。
と聞くや、彼の老人その姿なかりけり。されば彼の老人ぞ、神の化身なるかや。獨り見し幻しか否やと心惑ひて、妻子にも告げず。日を越しければ、いつとなく吾が心に空なる事なく、憂は消ゆまゝいつしかまた社に詣で三禮四拍一禮の荒覇吐神社の通例なる參拝に了りて歸なんとき、虚空に聲ありて曰す、
浂は神に願なし、常にして願無く唯一向に神に祈りこそあれ、無心なり。多衆の中に願を心せざる、浂が一人なり。依て浂に是を授くなり。能く保つべし。
とぞ聞き、吾れあたりを問えども影も無く、足もとに紫に光れる石のあるを拾うて家中の神棚に安置せり。不可思儀なるは、此の日より創まりぬ。吾が身は旣に六十に過ぎ七十に迫りなんにも、日々の暮しに雨の降るが如く難題起るる多くも、衆の救ひあり。また、衆のいわれなき難にも蒙りぬ。更に、今の生涯に至れども病なき身に、病の起りき兆あり。遂にして病床に永らひたり。
誰れしも吾れを死に免がれざるとて想ひきに、吾れは夢にいでこし先の白髪なる老人と語らむを得たり。白髪の老人曰く、吾れは荒覇吐神なり。浂が病の治るはいと易し。かねて浂に遣したる紫石あり。彼の石を清水にて器に一刻漬けにして飲むべし。浂の病たつどころに全治せん。是の如く覚ひて夢去りぬ。吾れ速に彼の紫石を神棚より降し、器に入れ清水をそゝぎて一刻の後に是を飲みては、何事の味ぞなけれども、心持なるかや病の事は遂知らず立歩くに至りぬ。爾来、吾獨りに非ずと、村々の衆に病に床す者を救ひり。
多賀城
河原宗次郎日記より
十七、
津輕の中山に坪毛山あり。石塔山と連峯せり。古代より此の山に祀る神ありて、荒覇吐神社と曰ひり。山髙からねども、深山にして幽湲たり。あすなろ全山に繁り外濱の昇霧、此の山にかゝれり。太古よりひば林の適生にして、中山連峯の大森林を今に遺す。此の山にては、津輕三千坊の内、中山千坊・十三千坊と梵珠山より龍飛に續く靈場あり。太古にては奥内・孫内・鹿内・相内・横内・三内・乳内・尾別・今別などの古代邑跡あり。丑寅日本史の要を為せり。
荒覇吐神社、各處にありけるを藩政代多く倭神に改めて、上に犬尾の史と改めたる多し。寺跡また大寺あり。大光院・梵場寺・正覚堂・飛鳥寺・極星寺・法喜堂・西方院・阿吽寺・龍興寺・長谷寺・三井寺・春品寺・禅林寺・壇臨寺・ハライソ寺らありて、今に寺閣の遺るはなかりける。唯、神佛混合をして信者の信仰に絶えざるは石塔山荒覇吐神社・別閣堂たる小角堂たり。東院と西院あり。その境内今に護らるゝなり。修験道と曰はれる元祖役小角墓ありて貴重たり。
十八、
和田神職官の一は宗家・和田左馬之介五郎宗盛なり。秋田川辺郡の和田城柵之城主、朝三郎義秀之系なり。
二は、東日流中里城の五輪神社神職・和田采女之介宮澤太夫なり。
三は、東日流大里藤巻に稻荷神社をなり坐せる和田勝太夫なり。何れも祖を系ずる一族にして、天正二年に各處に住居せり。
宗家なるは、中山の石塔山荒覇吐神社を預りて、その秘を今に護りて今日に至りぬ。此の境内は一里四方にして、安東一族の根元たり。嘉吉の年、和田一族に預け、永代守護を命じたるは安倍太郎盛季なり。爾来古なる傳統のまゝにして現に至りぬ。現は、和田壱岐守吉次なり。
十九、
石塔山荒覇吐神社は西ノ宮、東ノ宮、中の廟とて石塔澤を挾みてなりませり。太古に習ひて掘建に建つる神社たり。廟に存在せる安東一族の墓。數ふは八十陵に及ぶなり。盗掘あり。墓崩さる多くも、秘洞は安全たり。常に深山靈谷の感神秘たり。ならびて役小角の墓あり。修験の密行道場たり。然るに、山瀧自然に崩逝きて今はその用をなさざるなりと曰ふ。
廿、
飯詰村は羽州と東日流の二邑ありぬ。天正十六年に移りき民の作りきは羽州飯詰邑なり。髙楯城ありて、天正十六年に大浦軍に攻め落されし安東氏以来の古築城たり。正平の頃、藤原朝臣萬里小路藤房、安東氏より賜りて子息景房以来十三代たり。
和田末吉 印