北鑑繪巻五
戒言
本封書巻爲天地水以図解爲文盲之覚、亦學文智覚者双方説因及果哲理、覚化科大要者也。依是遺末代丑寅日本國之歴史實相久遠者也。
抑々奥州史傳以公多僞以眞少穏。倭人依僞作圧眞實衆耳感化、非理法權天法則不怖不憚。今猶以丑寅日本國稱蝦夷爲化外、圧世襲僞傳尚以造正史。是断固粉砕、丑寅日本國五千年之實史、依語部録實證仕者也。
寛政甲寅年
三春住人 秋田孝季華押
丑寅日本國史
總修編
我が丑寅日本國の人祖は凡そ三十萬年前に山靼北方より此の國に渡り来たる祖先ありて、民は殖住し給ふ。古史に遡り語部録に記遺りぬ。
是ぞ語部文字にぞなる古代史書題目字なり。
人祖の創りは波斯に猿猴より人と分岐して成れりと曰ふなり。物質總ての創りは因と果に創りて天竺に遺る他、古代波斯國に諸傳遺りけり。荒覇吐神の神傳とて信仰の起りける地は古代シュメールなり。祖になる民カルデア民族が宇宙を日月星の運行に觀測して日輪の黄道及び赤道暦を計り記して、暦を造るより文字を遺し一年を四季に分かつ。その陰陽暦を以て暮しの常とせり。これをアラ暦とハバキ暦として土版に記し遺したるは五千年前の事なり。それなる開化文明ぞ波斯諸國に渉り、古代オリエントのかしこに王國誕生し、神信仰もまた起りぬ。
北方ゲルマンのオーデンクローム信仰及びギリシア・オリュンポスの神、エスラエルのアブラハム神、エジプトのホルスの神々、天竺のシブァ神、支那の西王母及び東王父神、モンゴルのブルハン神、何れも古代シュメールのカルデア民より端を發せる神信仰分岐なり。
丑寅日本國に遺れる荒覇吐神の信仰ぞ古代シュメールになるアラ・ハバキ・ルガル神より波斯の戦に脱かれしカルデア民にて渉りたるものなり。丑寅日本國とて古代なる天なるイシカ、地なるホノリ、水の一切なるガコの神ありきに此の神を併せてなれるは荒覇吐神なり。常にして世の泰平を祈りて人の生命尊重を願ふ信仰たり。神を天地水一切のものとして人の安心立命を神に信仰を以て天命に安ぜる信仰をして人の平等を説きける無上の信仰たり。丑寅日本國にては神を以て人との睦みを深く平等なる生々に依りて神の救済あらんとす。
然るにや、かく五千年の丑寅日本王國に波亂ありきは、その史實遺らず造話作説に倭史を以て傳ふるは古事記・日本書紀の如き神話古事の作傳なり。神話ぞさり乍ら彼の史傳に曰ふをその實に探りければ次の如くなり。筑紫にては磐井・熊襲・隼人・大元・宇佐・猿田の國主ありけるも、髙砂より海を渡り来たる渡民、地の民を謀りて住着きぬ。日向の髙千穂の地に猿田彦と曰ふ國主ありきに、高砂族の宇津女らに浪樂して遂には國權を謀略されきより、高砂族の族長たる佐怒に國を掌握されたり。他族をも侵略し、一統されたる築紫諸族は夢幻汁と曰ふ草煙に身心をば自在に犯されきぞ、麻の酔毒たりと曰ふなり。亦阿片と曰ふもありき。高砂の南藩にては是を用ふる神事ありて神がかる多し。古来、鬼道に女王を以て神事あり。日輪を神聖とする神々八百萬神と曰ふなり。
築紫日向の地に勢を爲し、國東の大元・豊の宇佐に至りてその勢を挙し速船を造りて岡田に至り、東征航は吉備高嶋に至り、内海の海人を降に伏し、出雲の八重垣を圍みて降し、その國を併せたり。征東の軍、赴く處は耶靡堆の國にて、舳艫をそろひて浪波に攻むれど、此の地の王たる三輪の安日彦大王、膽駒の長髄彦大王等勢をそろひて是れに應戦しけり。時に日向族の先陣になる日子稻飯と曰ふ海將は耶靡堆の應戦に敗れて誅され、次將三毛淳麻も討死し日向族敗退せり。
かくして日向族の残將日子五瀬及び佐奴ら髙嶋に退ぞきて二年の兵備を經て、再度浪波に攻めて上陸しその先陣なる日子五瀬は耶靡堆軍に孔舍衛坂にて激戦せるも、討死す。依て残る一將たる佐奴は退きて草香の津に上陸し、耶靡堆軍の急を突きその地の將・戸畔を討て菟田の縣主・兄猾を討取り、吉野に進みて此の地なる八𣐩師討果しけり。更に此の地より國見丘の黑坂に越えたれば三輪の大王・安日彦王の軍に日向軍敗退し、吉野に野營せども策なく熊野及び尾崎の地民を兵に募りて勢を加へ、更に木の國より勢を加ひて一挙に安日彦大王の勢を避け膽駒の長髄彦大王の急を突く戦に勝利せり。かくぞ謀りたるは鴨縣主・八咫烏の反忠にて成りぬべし。
長髄彦大王、流箭に傷負ひて安日彦大王のもとに脱して急場を救はるも、日向軍勝に乗じて耶靡堆の地主らを味方に誘ひて是れに倶ふはまさに反忠の群と相成りぬ。葛城氏・平群氏・巨勢氏・大伴氏・物部氏・羽曳氏・春日氏らその勢十萬餘に達せり。依て茲に耶靡堆一族、意を決し一族ことごとく東落に決したり。波多岬、和珥坂、𦜝見岬、髙尾崎を經て坂東に敗北し、更に主筋の者は陸奥に落ちたり。深傷を負し長髄彦王を會津に湯治せしめ、年の冬を越して更に國末なる東日流大里に落着せり。
此の國に古来土住の民あり。東日流の阿蘇部族・宇曽利の津保化族・飽田の熟族・巌手の麁族ありて、安日彦王・長髄彦王を厚く迎へたり。折しも支那の晋民の漂着あり。是れぞ群公司一族なり。國治の智職・智識に更けて茲に各族長老集ひて安日彦大王を立て日本國を肇むる爲に東日流中山石塔山に於て立君の即位を挙したり。坂東より渡島・千島・樺太に渡る丑寅日本國領たるは古代日本國の肇めなり。
東日流より坂東の安倍川、越の糸魚川に横断せる以北を丑寅日本國と曰ふなり。領域隔つ處に副王を置き、大王のもとに四人の王ありて配したり。是を安東五王と稱したり。安東とは東日流大里の事にして後世の姓なり。
支那・頃王の己巳三年長髄彦大王逝き、匡王の辛亥三年安日彦大王葬ぜり。
簡王の丙子元年丑寅五王挙げて故地奪回を坂東より倭國に進軍し那古に布陣しければ、倭軍も亦片櫨浮穴に陣營して對けるも敬王の乙丑四十四年、閉伊十戸の丑寅軍、飽海より伊勢に兵を進むれば倭の國主空位三十三年に及べりと曰ふなり。
支那赧王の乙亥二十九年、掖上心に丑寅大王の五王を配し、富士山の噴火起りて武藏の地に移りき。此の年より西國に群盗しきりに出没すと曰ふ。
支那始皇帝の庚辰二十六年秦の人に徐福東日流に来たりて不老長寿の妙薬を求めて来舶し、玀猇・熊膽・鹿角・ホヤ及び龍魚・渡島の湯石・駒岳の北落石を求めて巡り、稻作を耕傳して歸國す。
支那文帝の甲申攺年七年東日流五王の根子彦倭に攻めて孝元天皇と號し、荒覇吐の掟に反きて倭の大王と即位し日本國五王を脱退せり。依て倭の和珥氏・大伴氏・物部氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏・春日氏・葛城氏・高加茂氏・天皇氏ら國を併せ國勢を成せり。
和帝の丁酉九年、竹内宿禰と曰す者密かに奥州を探策し蝦夷地の地理を巡りて奏上奉りその討伐をすゝめ、倭朝にてはその議を旨採し倭武を東征に赴かしむ。而るに武運是れ無く討敗れ、常陸・相模・足柄を越え、甲斐・美濃・尾張・近江と追手に遁れ、伊勢にて疫に葬ず。
延熙己未元年、築紫より磐井・隼人・熊襲らの首領来たりて荒覇吐王百六十代・伊具彦王との和交を契し、山靼往来の許をなせり。
大和丁卯二年上毛野田道、征夷に赴き伊治水門に討たれたり。
大建辛丑十三年倭人、大挙して丑寅の地に定住せんとせるも、追討さる。
貞觀丁酉十一年、倭の上毛野片名、荒覇吐王に皇化の議をすゝむれど追討されたり。
顯慶戊午三年、阿部比羅夫越に軍船百八十艘を造りて奥羽沿岸を掠む。依て東日流吹浦にて宇澗武、是れを奇襲し飽田に湧ける油を火箭に射て、百餘を燒𣲽めたり。かく敗因に諦めざる比羅夫、其の翌年秋田沖を夜航し、青蛭を避け吹浦をも通り越して東日流外に上陸せんと軍船二百艘を以て来襲せるを、宇曽利の波舵・都母波舵・大濱の波舵こぞりて此の軍船に應戦せり。波舵とは小舟の事にて、大弓を備ふる鯨捕舟なり。是れに軍揮せるは宇曽利の青荷・都母の刺子・大濱の毛津禰・渡島の舍因。六百艘長蛇の如く洋上に連ね火弾を軍船に射ければ比羅夫、軍船術なく炎上し二十艘遺して皆𣲽没せりと曰ふは實話にして、此の濱を討萬部と曰ふ。
大寶辛丑年、倭の仙人・役小角東日流に漂着し、本地金剛不壊摩訶如来を感得して入滅せり。
神亀丙寅三年、山靼の使船、出羽に漂着し急助を請ふ。
天平勝寶己丑元年、奥州小田郡主・丸子嶋足、倭に産金を献じ身分高位に賜りて倭臣となりて歸らざるなり。その故は安倍天皇に仕官とて丑寅日本國を抜けたり。
寳亀庚申十一年に紀廣純、丑寅日本を征夷に赴く。日本將軍安倍道治に追討さる。依て小黑丸、官軍を挙し天應辛酉元年来襲せども、逐電せり。
延暦辛未十年坂上田村麻呂、佛法弘布と稱し奥州に入りぬ。時に地の郡主・膽澤の阿弖流伊、江刺の母禮らこれを怪しみて挙兵し、田村麻呂退く。
延暦丁丑十六年、田村麻呂、征夷大將軍に任ぜられ挙兵せども、駿河にて軍を退きたり。ときに官位を贈るとて阿弖流伊及び母禮と和議と誘い稱し上洛し、河内社山に添兵五百人を倶に両者を壬午二十一年に誅滅せり。是れ田村麻呂の謀ならず、倭朝の奸策たり。
斉衡甲戌、陸奥より倭人を追放し、反くを誅せり。此の年和議なりて、征夷の兵役を解く。
元慶戊戌二年、飽田の地族、保則・春風らを追討す。
天慶戊戌元年、安倍日本將軍致東、坂東石井の平將門に産金・産馬を授ず。
長元康午三年安倍一族、荒覇吐大王の呼稱を廢し國主を日本將軍と稱號す。
永承丁亥二年、安日彦大王より二百二十九代安倍頻良葬じ、長子・賴良君位し、居を衣川に舘を築く。此の年、丑寅五十六郡の郡主等、衣川に集ひて安堵の誓をなして丑寅日本國の天下泰平を荒覇吐神に祈念せり。
永承辛卯六年藤原登任、倭皇勅使とて賦貢を安倍氏に請求して賴良の怒聲に退却す。依て登任は兵を挙し、陸前に風雲急を告ぐ。
安倍賴良是れに應じて軍を一族に號令して、三萬五千騎を以て陸前多賀城へと軍を挙動し、伊津沼に陣をなして一挙に攻めんとせるに、倭朝にては和を以て賴良の挙兵を鎭謝して戦亂を起さゞるなり。